第31話 守る場所
ヨルは、夜が深くなっても場所を変えなかった。
小屋の奥と戸口のあいだ。外から何かが来れば最初に気づけて、奥へ行くには必ずそこを通る場所に、小さな黒い体を置いている。
ミミは寝台の上で毛布を抱えたまま眠れず、戸板が風で鳴るたびに肩を揺らした。それでも何かを聞かずに済ませようと、目だけは固く閉じていた。
ノラ・ヴェイルは、棚の下へ目を向けた。
箱は見えないように置いてある。売らず、渡さず、名だけを蓋に書いてしまってきたものだ。
ヨルの耳が動いた。
戸は鳴っていない。足音もない。それでもヨルは座った場所から、外の闇だけを測っていた。
ミミが目を開けた。
「来ていますか」
声は小さかった。怯えてはいる。けれど、泣く声ではなかった。
ノラは立ち上がった。
「まだ入ってない」
「戸は、開けません」
ミミは毛布から手を出し、寝台の脇に置いた布切れを握った。武器にはならない。それでも、何かを持たずにいるよりは、自分の場所に立てるのだろう。
ノラはうなずいた。
「ヨルが鳴くまで、そのまま」
ヨルが低く喉を鳴らした。
了承ではない。外へ出ろ、と言っているようでもない。ただ、このまま戸を開けるなという音だった。
ノラは短剣の位置を確かめ、灯りを手に取らなかった。
光を持てば、こちらの位置を知らせる。暗さに目は慣れている。小屋の中に残した細い火だけで、戸口までは歩ける。
戸板へ手をかけた時、ミミが言った。
「ノラさん」
ノラが振り返ると、ミミは寝台から降りず、言われた通り奥にいた。
「声がしても、ヨルがいなければ開けません。ノラさんの声でも」
「それでいい」
「でも、怪我をしていたら」
ノラは返事を急がなかった。
「今夜は、声だけでは開けない」とノラは言った。「私の声でも、ヨルがいなければ開けない。怪我をした時の決まりは、戸を閉めてから作る」
「分かりました。今夜は、声だけでは開けません」
「それでいい」
ノラは戸を細く開けた。
冷たい夜気が入ってくる。呼び石の湿った石の匂いではない。けれど、水の底に長く沈めた布のような、薄い冷えが混じっていた。
ヨルはノラの足元を離れず、外へ出ても先には走らなかった。匂いを追って鼻を地面へ近づけるのではなく、ただ闇へ顔を向ける様子は、石橋の下で見せた反応と同じだった。
ノラが戸を閉めると、内側からミミが掛け金を落とす音がした。
ヨルが短く鳴く。
「クル」
内側へ知らせるための声だった。
ノラは小屋の横へ回り、薪置き場の影を抜けて、薬草を干す棚の前で足を止めた。ミミの声が届く範囲からは離れず、それでも戸の前で話すより中身を聞かれにくい場所だった。
月は雲に隠れている。
古い桶の中に、夜露が溜まっていた。その水面が、風もないのに一度だけ揺れる。
「出てきたら」
ノラは暗がりへ言った。
「ここで話す」
返事はすぐにはなかった。
薪置き場の奥に、人の形が立っていた。
古い外套の裾が湿った土に触れている。灰鷹のものでも、今の神殿のものでもない。色は闇に溶け、袖口だけがかすかに白い。
ヨルは唸らなかった。ノラの足の外側に体を寄せ、ただ相手へ鼻を向けている。
ノラは男を見た。
「テオ?」
男は否定しなかった。
「その名で呼ばれていた」
「今は」
「今の名前を、人に呼ばせる気はない」
声は橋の下で聞いたものと同じだった。
近いのに、遠い。低いのに、石の奥から反ってくるように聞こえる。夜番たちには聞こえなかった声が、今はノラだけへ向いている。
ノラは踏み込まずに言った。
「名前を出すなと言った」
「場所が悪かった」
「ここはいいの」
男は小屋の方を見なかったが、それがかえって嫌だった。意識して避けている。見ればノラがどう反応するかを、もう知っているような避け方だった。
「よくはない」
「なら、なぜ来た」
「ラウルに見られたからだ」
その名で、ヨルの耳が少し倒れた。
「呼び石にいた男」
「レドから聞いたな」
「あなたもいた?」
テオは答えず、ノラはその話し方を信用しなかった。
「用件」
「核を持って歩くな」
ノラは腰袋に手をやらなかった。触れれば、持っていなくても持っているように見える。
「持っているとは言ってない」
「持っているかどうかじゃない。抜ける人間だと思われた時点で、同じだ」
テオは灯りへ入ってこない。けれど、こちらの腰でも手でもなく、顔を見ている。
「同じ道を使うな、とも言った」
「足りない警告だった」
「小屋へ戻るまでに、お前は考えた。誰を入れないか。どこを閉めるか。何を見せないか」
ノラの視線はほんの一瞬だけ小屋へ動き、その反応を見逃さなかったテオが言った。
「今、小屋を見た」
ノラの指が短剣の柄から離れた。握るためではない。握れば、それも読まれる。手の動きが、守るものを教える。
テオは続ける。
「あいつは、守る場所を覚える」
夜の小屋は静かだった。戸の内側にいるミミ、棚の下の箱、いま足元にいるヨル。その三つを庇う順番まで一瞬で頭に並べた自分に気づき、ノラは息を浅くした。テオはその無意識の地図を見たのだ。ラウルなら、さらにそこから守る場所を辿るのだという。
「腰をかばう手。戸を気にする目。誰かを先に逃がす足。守っているものは、隠しても出る」
ノラは小さく顎を引いた。
「ラウルは何を探してる」
「聞くな。聞けば、お前は助ける理由を探す」
「助ける相手なら探す」
影の中で、テオの顔が沈んだ。
「だから危ない。お前だけで済むなら、ここへは来ない」
ノラは奥歯を噛みしめた。
「名前のある場所へ置くな。紙に残る場所は辿られる」
「灰鷹も、灯口も」
「記録と名前がある」
「小屋は」
テオは一拍置いた。
「お前が戻る場所だ」
ノラは戸のある方へ一瞬だけ目をやった。言い返せば認めることになり、黙っていてもテオの言葉は消えない。小屋はただの隠し場所ではなく、ミミが布を畳み、ヨルが水を飲み、ノラが傷を縫う場所だった。
戻る場所だから、守ってしまう。
守れば、見える。
「じゃあ、どこへ置く」
「正解を持ってきたわけじゃない」
「警告だけ?」
「警告だけだ」
ノラは一歩横へずれ、小屋へ通じる角度を塞いだ。テオが小屋を見ていないとしても、こちらからはそうしたかった。ヨルも同じだけ横へ移る。小さな足音が、夜の土にほとんど沈んだ。
テオはその動きを見ても、言葉を足さなかった。
「戻したいものがある人間は、戻らないものを見ないふりする」とテオは言った。「あいつは、そのままここまで来た」
ノラは、テオの外套の裾を見た。
雨もないのに濡れている。橋の下の石と同じ湿り方だった。
「あなたは、戻らないものなの」
テオは答えなかった。
答えないことが、答えの代わりになりかけた。けれど、ノラはそれを受け取らなかった。ここで決めれば、相手の置いた形に入る。
「助けに来たわけじゃないと言った」とノラは言う。「なら、どうして警告する」
テオはすぐには返さなかった。
影の中で、男の手が外套の袖へ滑り込む。何かを握ったのか、何かを離したのかまでは見えない。
「声を使われるのを、見たくない」
それ以上は続かない。
その声には救いを語る響きがなく、止められなかった場所の重さが残っていた。
ノラはそれ以上を促さなかった。聞けば、答えの代わりに別の穴が開く気がした。テオは、知っていることをすべて言いに来たわけではない。こちらを助けたいのか、別の何かを止めたいのか、それもまだ分からない。
短剣の柄からは、指を外さなかった。
「ラウルは、ここへ来る?」
「守るものを見つければ」
「見つけさせなければ」
「お前は救助屋だろ」
テオの声が少し低くなる。
「誰かが落ちれば行く。誰かが呼ばれれば止める。そういう人間の道は、隠しにくい」
短剣が鞘から指一本ぶん浮いた。ノラは音を立てて押し戻した。テオの目がその手へ落ちた。
ヨルが低く鳴いた。
薪置き場の影が薄く揺れた。テオの輪郭が、夜の木と重なり始める。
「もう行くの」
「長くいれば、お前がここを気にする」
「もう気にしてる」
「なら、遅い」
テオは後ろへ退き、土を踏む足音と、外套の裾が草を擦る音を残した。幻ではないと耳には分かるのに、ヨルは追わない。鼻を上げた先で匂いが途切れ、追えば小屋から離されると知っているように、ノラの横を守ったままだった。
ノラは短く言った。
「テオ」
男は止まらなかった。
「その名を、ここで呼ぶな」
前と同じ言葉でも、今度は理由の輪郭が見えた気がして、ノラは口を閉じた。
薪置き場の奥で影が薄くなったのは、月が雲から出たからではない。そこにいたものが夜へ戻るにつれ、足音も遠のき、やがて途切れた。
ノラはそれ以上、聞かなかった。
「戻るよ」
ヨルは少し遅れてついてきた。
小屋の戸は閉まり、内側の掛け金も落ちていた。ノラはすぐ叩かず、まず戸脇へ寄って外から見える隙間を確かめる。どこも開いていないことが、ミミが恐怖のなかでも決まりを守った返事になった。
「ミミ」
中で、すぐに動く音がした。
けれど、戸は開かなかった。
「ヨルはいますか」
ノラは自分の声を重ねず、戸脇へ一歩退いて道を空けた。ヨルが戸の前へ出て、ミミが確かめていた短い声で鳴く。
「クル」
それを聞いて、内側の掛け金が上がった。
ミミは顔をのぞかせるだけ細く戸を開け、声ではなく、まずヨルの姿を確かめてからノラを見た。寝間着の上に上着を羽織り、手にはさっきの布切れを持ったままだった。
「開けてよかったですか」
「よかった」
ミミはほっとした顔をせず、外を見ようとしてすぐにやめた。見ない方がいい時があると、もう分かっている顔だった。
ノラは中へ入った。
ヨルまで入ったのを見届けてミミが戸を閉め、掛け金を落とす。その音でようやく、小屋の薄い灯りが外の冷えを少しだけ押し返した。
ミミは聞いた。
「誰か、いましたか」
「いた」
「入ってきますか」
「まだ」
その答えで、ミミは顔を上げた。
まだ、という言葉を聞き逃さなかったのだろう。
ノラは棚の方へ目をやりかけて途中で止めたが、それだけで十分だった。見なかったのではない。見ないようにした。守ろうとした瞬間に、手や目へ出る。外の男が言った通りだった。
ミミは何も聞かなかった。
「知らない方がいいことですか」
ノラは一拍考えた。
「今は」
ミミはうなずく。
「じゃあ、聞きません」
ノラは棚へ近づいた。
箱は見えない。けれど、そこにある。蓋に書いた迷宮名は、灯りの届かないところで重なっている。
呼び石の核は抜いていない。
それでも、レドを助け、レドの声を奪わせなかった。その結果、ノラが核に近い人間だと知られた。
ノラは棚の下へ手を伸ばしかけて途中で止めた。その手も、誰かに見られれば、何を守っているかを教える。
小屋の中にはミミがいる。ヨルがいる。薬草の匂いと、包帯の白さがある。
ここは隠し場所ではない。
戻る場所だ。
ノラが手を下ろすと、ミミは布切れを畳み直していた。指は少し震えていたが、畳み目は曲がらなかった。ヨルは戸口ではなく、小屋の奥と外へ向かう戸のあいだへ戻った。
ノラは灯りを消さなかった。
「さっきの決まりに、怪我をしていた時の確かめ方も足す」
ミミは寝台へ戻らず、畳みかけた布を持って机の横に立った。
今夜は、声だけでは戸を開けない。箱をどう移すかは、ミミを判断の責任へ巻き込まない場所で決める。ノラは先の見えない警告を広げる代わりに、今夜守れる二つだけを選んだ。
外では、風がまた鳴った。
隠していたものが、今夜から、守るだけでは済まないものに変わっていた。




