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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第7章 死んだはずの男
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第31話 守る場所

挿絵(By みてみん)

ヨルは、夜が深くなっても場所を変えなかった。


小屋の奥と戸口のあいだ。外から何かが来れば最初に気づけて、奥へ行くには必ずそこを通る場所に、小さな黒い体を置いている。


ミミは寝台の上で毛布を抱えたまま眠れず、戸板が風で鳴るたびに肩を揺らした。それでも何かを聞かずに済ませようと、目だけは固く閉じていた。


ノラ・ヴェイルは、棚の下へ目を向けた。


箱は見えないように置いてある。売らず、渡さず、名だけを蓋に書いてしまってきたものだ。


ヨルの耳が動いた。


戸は鳴っていない。足音もない。それでもヨルは座った場所から、外の闇だけを測っていた。


ミミが目を開けた。


「来ていますか」


声は小さかった。怯えてはいる。けれど、泣く声ではなかった。


ノラは立ち上がった。


「まだ入ってない」


「戸は、開けません」


ミミは毛布から手を出し、寝台の脇に置いた布切れを握った。武器にはならない。それでも、何かを持たずにいるよりは、自分の場所に立てるのだろう。


ノラはうなずいた。


「ヨルが鳴くまで、そのまま」


ヨルが低く喉を鳴らした。


了承ではない。外へ出ろ、と言っているようでもない。ただ、このまま戸を開けるなという音だった。


ノラは短剣の位置を確かめ、灯りを手に取らなかった。


光を持てば、こちらの位置を知らせる。暗さに目は慣れている。小屋の中に残した細い火だけで、戸口までは歩ける。


戸板へ手をかけた時、ミミが言った。


「ノラさん」


ノラが振り返ると、ミミは寝台から降りず、言われた通り奥にいた。


「声がしても、ヨルがいなければ開けません。ノラさんの声でも」


「それでいい」


「でも、怪我をしていたら」


ノラは返事を急がなかった。


「今夜は、声だけでは開けない」とノラは言った。「私の声でも、ヨルがいなければ開けない。怪我をした時の決まりは、戸を閉めてから作る」


「分かりました。今夜は、声だけでは開けません」


「それでいい」


ノラは戸を細く開けた。


冷たい夜気が入ってくる。呼び石の湿った石の匂いではない。けれど、水の底に長く沈めた布のような、薄い冷えが混じっていた。


ヨルはノラの足元を離れず、外へ出ても先には走らなかった。匂いを追って鼻を地面へ近づけるのではなく、ただ闇へ顔を向ける様子は、石橋の下で見せた反応と同じだった。


ノラが戸を閉めると、内側からミミが掛け金を落とす音がした。


ヨルが短く鳴く。


「クル」


内側へ知らせるための声だった。


ノラは小屋の横へ回り、薪置き場の影を抜けて、薬草を干す棚の前で足を止めた。ミミの声が届く範囲からは離れず、それでも戸の前で話すより中身を聞かれにくい場所だった。


月は雲に隠れている。


古い桶の中に、夜露が溜まっていた。その水面が、風もないのに一度だけ揺れる。


「出てきたら」


ノラは暗がりへ言った。


「ここで話す」


返事はすぐにはなかった。


薪置き場の奥に、人の形が立っていた。


古い外套の裾が湿った土に触れている。灰鷹のものでも、今の神殿のものでもない。色は闇に溶け、袖口だけがかすかに白い。


ヨルは唸らなかった。ノラの足の外側に体を寄せ、ただ相手へ鼻を向けている。


ノラは男を見た。


「テオ?」


男は否定しなかった。


「その名で呼ばれていた」


「今は」


「今の名前を、人に呼ばせる気はない」


声は橋の下で聞いたものと同じだった。


近いのに、遠い。低いのに、石の奥から反ってくるように聞こえる。夜番たちには聞こえなかった声が、今はノラだけへ向いている。


ノラは踏み込まずに言った。


「名前を出すなと言った」


「場所が悪かった」


「ここはいいの」


男は小屋の方を見なかったが、それがかえって嫌だった。意識して避けている。見ればノラがどう反応するかを、もう知っているような避け方だった。


「よくはない」


「なら、なぜ来た」


「ラウルに見られたからだ」


その名で、ヨルの耳が少し倒れた。


「呼び石にいた男」


「レドから聞いたな」


「あなたもいた?」


テオは答えず、ノラはその話し方を信用しなかった。


「用件」


「核を持って歩くな」


ノラは腰袋に手をやらなかった。触れれば、持っていなくても持っているように見える。


「持っているとは言ってない」


「持っているかどうかじゃない。抜ける人間だと思われた時点で、同じだ」


テオは灯りへ入ってこない。けれど、こちらの腰でも手でもなく、顔を見ている。


「同じ道を使うな、とも言った」


「足りない警告だった」


「小屋へ戻るまでに、お前は考えた。誰を入れないか。どこを閉めるか。何を見せないか」


ノラの視線はほんの一瞬だけ小屋へ動き、その反応を見逃さなかったテオが言った。


「今、小屋を見た」


ノラの指が短剣の柄から離れた。握るためではない。握れば、それも読まれる。手の動きが、守るものを教える。


テオは続ける。


「あいつは、守る場所を覚える」


夜の小屋は静かだった。戸の内側にいるミミ、棚の下の箱、いま足元にいるヨル。その三つを庇う順番まで一瞬で頭に並べた自分に気づき、ノラは息を浅くした。テオはその無意識の地図を見たのだ。ラウルなら、さらにそこから守る場所を辿るのだという。


「腰をかばう手。戸を気にする目。誰かを先に逃がす足。守っているものは、隠しても出る」


ノラは小さく顎を引いた。


「ラウルは何を探してる」


「聞くな。聞けば、お前は助ける理由を探す」


「助ける相手なら探す」


影の中で、テオの顔が沈んだ。


「だから危ない。お前だけで済むなら、ここへは来ない」


ノラは奥歯を噛みしめた。


「名前のある場所へ置くな。紙に残る場所は辿られる」


「灰鷹も、灯口も」


「記録と名前がある」


「小屋は」


テオは一拍置いた。


「お前が戻る場所だ」


ノラは戸のある方へ一瞬だけ目をやった。言い返せば認めることになり、黙っていてもテオの言葉は消えない。小屋はただの隠し場所ではなく、ミミが布を畳み、ヨルが水を飲み、ノラが傷を縫う場所だった。


戻る場所だから、守ってしまう。


守れば、見える。


「じゃあ、どこへ置く」


「正解を持ってきたわけじゃない」


「警告だけ?」


「警告だけだ」


ノラは一歩横へずれ、小屋へ通じる角度を塞いだ。テオが小屋を見ていないとしても、こちらからはそうしたかった。ヨルも同じだけ横へ移る。小さな足音が、夜の土にほとんど沈んだ。


テオはその動きを見ても、言葉を足さなかった。


「戻したいものがある人間は、戻らないものを見ないふりする」とテオは言った。「あいつは、そのままここまで来た」


ノラは、テオの外套の裾を見た。


雨もないのに濡れている。橋の下の石と同じ湿り方だった。


「あなたは、戻らないものなの」


テオは答えなかった。


答えないことが、答えの代わりになりかけた。けれど、ノラはそれを受け取らなかった。ここで決めれば、相手の置いた形に入る。


「助けに来たわけじゃないと言った」とノラは言う。「なら、どうして警告する」


テオはすぐには返さなかった。


影の中で、男の手が外套の袖へ滑り込む。何かを握ったのか、何かを離したのかまでは見えない。


「声を使われるのを、見たくない」


それ以上は続かない。


その声には救いを語る響きがなく、止められなかった場所の重さが残っていた。


ノラはそれ以上を促さなかった。聞けば、答えの代わりに別の穴が開く気がした。テオは、知っていることをすべて言いに来たわけではない。こちらを助けたいのか、別の何かを止めたいのか、それもまだ分からない。


短剣の柄からは、指を外さなかった。


「ラウルは、ここへ来る?」


「守るものを見つければ」


「見つけさせなければ」


「お前は救助屋だろ」


テオの声が少し低くなる。


「誰かが落ちれば行く。誰かが呼ばれれば止める。そういう人間の道は、隠しにくい」


短剣が鞘から指一本ぶん浮いた。ノラは音を立てて押し戻した。テオの目がその手へ落ちた。


ヨルが低く鳴いた。


薪置き場の影が薄く揺れた。テオの輪郭が、夜の木と重なり始める。


「もう行くの」


「長くいれば、お前がここを気にする」


「もう気にしてる」


「なら、遅い」


テオは後ろへ退き、土を踏む足音と、外套の裾が草を擦る音を残した。幻ではないと耳には分かるのに、ヨルは追わない。鼻を上げた先で匂いが途切れ、追えば小屋から離されると知っているように、ノラの横を守ったままだった。


ノラは短く言った。


「テオ」


男は止まらなかった。


「その名を、ここで呼ぶな」


前と同じ言葉でも、今度は理由の輪郭が見えた気がして、ノラは口を閉じた。


薪置き場の奥で影が薄くなったのは、月が雲から出たからではない。そこにいたものが夜へ戻るにつれ、足音も遠のき、やがて途切れた。


ノラはそれ以上、聞かなかった。


「戻るよ」


ヨルは少し遅れてついてきた。


小屋の戸は閉まり、内側の掛け金も落ちていた。ノラはすぐ叩かず、まず戸脇へ寄って外から見える隙間を確かめる。どこも開いていないことが、ミミが恐怖のなかでも決まりを守った返事になった。


「ミミ」


中で、すぐに動く音がした。


けれど、戸は開かなかった。


「ヨルはいますか」


ノラは自分の声を重ねず、戸脇へ一歩退いて道を空けた。ヨルが戸の前へ出て、ミミが確かめていた短い声で鳴く。


「クル」


それを聞いて、内側の掛け金が上がった。


ミミは顔をのぞかせるだけ細く戸を開け、声ではなく、まずヨルの姿を確かめてからノラを見た。寝間着の上に上着を羽織り、手にはさっきの布切れを持ったままだった。


「開けてよかったですか」


「よかった」


ミミはほっとした顔をせず、外を見ようとしてすぐにやめた。見ない方がいい時があると、もう分かっている顔だった。


ノラは中へ入った。


ヨルまで入ったのを見届けてミミが戸を閉め、掛け金を落とす。その音でようやく、小屋の薄い灯りが外の冷えを少しだけ押し返した。


ミミは聞いた。


「誰か、いましたか」


「いた」


「入ってきますか」


「まだ」


その答えで、ミミは顔を上げた。


まだ、という言葉を聞き逃さなかったのだろう。


ノラは棚の方へ目をやりかけて途中で止めたが、それだけで十分だった。見なかったのではない。見ないようにした。守ろうとした瞬間に、手や目へ出る。外の男が言った通りだった。


ミミは何も聞かなかった。


「知らない方がいいことですか」


ノラは一拍考えた。


「今は」


ミミはうなずく。


「じゃあ、聞きません」


ノラは棚へ近づいた。


箱は見えない。けれど、そこにある。蓋に書いた迷宮名は、灯りの届かないところで重なっている。


呼び石の核は抜いていない。


それでも、レドを助け、レドの声を奪わせなかった。その結果、ノラが核に近い人間だと知られた。


ノラは棚の下へ手を伸ばしかけて途中で止めた。その手も、誰かに見られれば、何を守っているかを教える。


小屋の中にはミミがいる。ヨルがいる。薬草の匂いと、包帯の白さがある。


ここは隠し場所ではない。


戻る場所だ。


ノラが手を下ろすと、ミミは布切れを畳み直していた。指は少し震えていたが、畳み目は曲がらなかった。ヨルは戸口ではなく、小屋の奥と外へ向かう戸のあいだへ戻った。


ノラは灯りを消さなかった。


「さっきの決まりに、怪我をしていた時の確かめ方も足す」


ミミは寝台へ戻らず、畳みかけた布を持って机の横に立った。


今夜は、声だけでは戸を開けない。箱をどう移すかは、ミミを判断の責任へ巻き込まない場所で決める。ノラは先の見えない警告を広げる代わりに、今夜守れる二つだけを選んだ。


外では、風がまた鳴った。


隠していたものが、今夜から、守るだけでは済まないものに変わっていた。


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