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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第7章 死んだはずの男
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第30話 死んだはずの男

挿絵(By みてみん)

神殿側の足音が夜露の向こうへ消えても、レドが言い残した名は仮処置所に残った。


テオ。


エリオ・カーンは、まだその名に眉を寄せていた。


「さっきの名前ですが。俺は知りません。灰鷹の記録にある、すぐ思い出せる名でもありません」


「今夜は、それでいい」


名を追えば、神殿側はすぐ紙筒を閉じる。レドの喉も、また開かせることになる。今夜守るべきものは、知らない名ではなく、返事をしなかった喉だった。


ノラ・ヴェイルは担架の両脇についた若い隊員を見た。


「今夜は、これ以上あの人に証言させない」


エリオがうなずき、隊員へ同じ指示を手で送った。


「分かりました」


ヨルが仮処置所の出口へ回り、ノラを待って振り返った。


ノラは腰袋を確かめ、灯りを持ち直した。


「行くよ」


エリオが少しだけ頭を下げた。


「小屋まで送りますか」


「レドを見て」


「……はい」


エリオはそれ以上ついてくるとは言わず、ノラはヨルと石切り場を離れた。


町へ戻る道は、夜露で湿っていた。


昼間は荷車の音が絶えない通りも、今は足音がよく聞こえる。自分の靴が石を踏む音。ヨルの小さな爪が、ときどき砂を掻く音。遠くで扉が閉まる音。


広場の掲示板には人影がなかった。


朝になれば、また太い字の札へ手が伸びる。日払い、未経験可、搬出補助、所在確認。紙は夜露を吸って波打ち、釘のまわりだけが黒く湿っていた。


ノラは通り過ぎた。


呼び石の石粉が、まだ袖に残っている。払えば落ちる。けれど、払ったところで、今夜聞いた名が消えるわけではない。


ヨルが少し先で足を止めた。町の端には夜番の男たちが二人いて、片方は槍を肩にかけ、もう片方は古い角灯を持っている。呼び石から人が運び出されたせいか、普段より道を見ていた。


「だから、見間違いだろ」


槍を持つ男が低く言った。


「夜に橋の下なんか見るから、死んだ顔に見える」


「俺が見たんじゃない。西番のロウジが言ってたんだよ」


角灯の男が声を潜める。


「古い神殿の外套みたいな服で、石橋の下に立ってたって。足音はしたのに、犬が吠えなかったそうだ」


「犬も寝てたんだろ」


「じゃあ、ロウジが腰を抜かしたのはどう説明する」


「酒だ」


「見回り中に飲むほど馬鹿じゃない」


「馬鹿じゃないなら、死んだはずの男なんか見るな」


死んだはずの男。


その言葉だけが、夜露の降りた道に落ちた。


ノラは足を止めた。


拾いに来た噂ではない。確かめた証言でもない。誰が見たのか、いつ死んだ男なのか、本当に死んだのか。何もはっきりしていない。


噂は、噂のままなら放っておける。


だが、ヨルが動かなかった。


石橋の方へ鼻を向けている。


広場から少し外れたところにある古い橋だ。今は水路も細くなり、昼は子どもが石の上を跳んで遊ぶ場所になっている。夜は灯りが届かず、橋の下だけが黒く沈む。


ヨルはそこを見ていた。


生きている人間の匂いを追う時の姿勢ではない。


死体を見つけた時とも違う。


迷宮の残りに触れた時の嫌がり方でもなかった。


尾が下がっている。けれど、逃げない。耳は伏せている。けれど、後ろへ下がらない。喉の奥で、細く、低く音を立てている。


ノラは立ったまま聞いた。


「生きてる匂い?」


ヨルは鳴かなかった。


「死んでる?」


それにも答えない。


ノラはそれ以上聞かず、ただ橋の下を見た。


夜番の男たちは、まだ噂の続きを言い合っている。ノラとヨルが止まったことには気づいていない。気づいても、ただの通りすがりに見えるだろう。


古い石橋の下に、影があった。


最初は、濡れた壁かと思った。


橋の柱と、水路の暗がりと、夜露を吸った石。その重なりが、人の形に見えただけかもしれない。そう思える距離だった。


だが、影は少しだけ顔を上げた。


顔は見えない。


服は古い外套に似ていた。今の神殿の白ではない。灰鷹の外套でもない。旅人のものにも見える。だが、旅人なら夜番に見える場所へ出る。橋の下で、あれほど静かには立たない。


雨は降っていない。


それなのに、橋の下だけが湿っている。


石の継ぎ目から水がにじむ。水路の底が、風もないのに薄く揺れた。


男の声が届いた。


「見られたな」


低い声だった。


大きくはない。けれど、橋の下からまっすぐノラへ来た。夜番の男たちは振り向かない。聞こえていないのか、聞こえない場所を選んでいるのか、どちらとも分からなかった。


ノラは返さなかった。


誰に、とも聞かない。


男は、橋の影から出てこない。


「あの男は、一度見たものを忘れない」


ノラは腰袋に手をやらなかった。


そこを守る動きは、見せない方がいい。


「誰」と短く聞いた。


男は答えなかった。


橋の下の水が、わずかに揺れる。


ヨルがノラの足元へ寄った。足先の前に体を入れる。進むな、と言う位置だった。


男はもう一度だけ口を開いた。


「同じ道を使うな」


それだけだった。


警告にしては足りない。


助言にしては冷たい。


脅しにしては、近づいてこない。


ノラが橋の方へ足を出しかけると、ヨルが袖を噛んだ。


布を破らない程度に、けれど確かに止めるための強さで噛んでいた。


ノラは出しかけた足を引いた。


追えないのではない。


追わないと決める。


橋の下の男が、少しだけ顔を上げた。


灯りは届かない。輪郭もはっきりしない。けれど、そこで声だけが落ちる。


「その名は、ここで出すな」


ノラは、まだ何も言っていなかった。


呼んでいない。


聞いてもいない。


けれど、レドが口にした名は、ノラの中に残っていた。


テオ。


その名が、橋の下の暗がりで形を持った。


男は名乗らない。


自分がその名だとも、違うとも言わない。


ただ、ここで出すなと言った。


名を口にすれば、相手を確かめられる。だが、同時に、この湿った場所へその名を落とすことになる。


ノラは、喉の奥でその名を止めた。


夜番の男たちが、向こうで笑った。


「死人が歩くなら、俺の親父にも借金を返しに来てほしいもんだ」


「来たら、お前が逃げる」


乾いた笑いが、すぐに夜へ落ちる。


橋の下の影は、そこで後ろへ下がった。


消えたのではない。


足音があった。


水も揺れた。


石の下を歩く気配が、ほんの数歩ぶんだけ残った。


けれど、ヨルは追わなかった。


追えないというより、追う道が匂いの中にないようだった。鼻先を橋へ向けたまま、低く鳴く。苛立ちではない。怖がりでもない。嫌なものを、嫌だと決める前に、名前を探している声だった。


ノラが橋の下へ降りると、足元の石は濡れていた。


雨は降っていない。水路の水位も高くない。だが、橋の下だけ、古い布を長く水に浸したような湿りがあった。


男はいなかった。


濡れた石の上に、糸くずのようなものが一つ残っている。


古い外套の端からほつれた糸に見えた。白ではない。黒でもない。灰色に近いが、神殿の外套の灰ではなかった。


ヨルが近づき、鼻を寄せる。


すぐに顔を引いた。


ヨルは前足を引き、糸くずとの間を空けた。


ノラは拾わなかった。


呼び石の布と同じだ。


声や名に触れたものを、分からないまま持ち帰らない。


橋の下の石に、水が薄く広がる。糸くずはその中で動かない。流れていくでもなく、石に貼りつくでもなく、ただそこにあった。


ノラが踵を返すころ、夜番の男たちはもう別の話をしていた。明日の見回りの交代と、石切り場に出た神殿の記録係への愚痴だった。


ノラがその横を通り過ぎると、ヨルは少し遅れてついてきた。


いつもなら、危険なものを見た後は先に立つ。帰り道を確認するように、ノラより少し前を歩く。けれど今は、半歩後ろだった。


背中側を見ている。


ヨルは小屋へ着くまで一度も鳴かず、ノラは戸の前で足を止めた。


小屋の中に灯りはある。


細い明かりが、戸の隙間から漏れていた。ミミはまだ起きているのだろう。今夜は、最初から戸の向こうで待っていた気配があった。


ノラは戸を叩いた。


一度。


すぐには開かない。


中で、小さな足音がした。


それから、ミミの声がする。


「ノラさんですか」


ノラは答えた。


「ノラ。ヨルもいる」


少し間があった。


戸の向こうで、ミミが息を止める気配がする。


それから、床板が小さく鳴った。戸へ近づいたのではない。低い位置へ身を寄せ、外の音を聞いている。


ヨルが戸の前で、爪を一度だけ立てた。


かり、と木が鳴る。


中で、ミミが掛け金に手をかけた。


戸が開いた。


ミミは寝間着の上に、古い上着を羽織っていた。髪は少し乱れている。けれど、目は眠そうではなかった。片手には、小さな布を持っている。戸を開ける前に、口を塞ぐために用意したものだろう。


「遅くなった」


ノラが言うと、ミミは首を横へ振った。


「ヨルがいるかどうかを、音で聞きました」


ヨルが足元から顔を上げた。


「クル」


少し不満そうな声だった。


ミミは小さくうなずいた。


「その声は本物だと思いました。でも、声だけでは開けません」


それを聞いて、ノラは戸をくぐった。


「それでいい」


ミミの肩から少しだけ力が抜け、ノラは戸を閉めて掛け金をかけた。


一度かけてから、もう一度、指で確かめる。古い金具は少し浮く。強く押せば揺れる。それでも、ないよりはましだった。


ミミはノラの袖を見た。


「石の粉がついてます」


「呼び石」


「助けに行った人は」


「出した。呼び石に声は奪われなかった」


ミミは息を吐いたが、安心だけではない。まだ終わっていないものを感じているように、戸へ目を戻した。


「じゃあ、今日は終わりですか」


ノラは少しだけ間を置いた。


橋の下の湿り。


声。


その名は、ここで出すな。


ミミに話すには、まだ形がなさすぎる。怖がらせるための話なら、しない方がいい。危険を知らせるための話なら、もっと正確にしなければならない。


「今日は、戸を開けないことだけ覚えて」


ミミは、聞き返さなかった。


聞きたい顔はした。けれど、聞いてよい話かどうかを選んでいる顔でもあった。


「分かりました。明日の朝、掛け金をもう一つ見ます。内側からなら、私でも動かせるものがいいです」


ノラはミミを見た。


「お願い」


ミミはうなずき、寝床へ戻った。


ノラは灯りを落とさなかった。


小さく絞るだけにした。


夜の小屋に、薄い火が残る。


ヨルは戸口に座っていない。


いつもなら、帰った後は戸の横で丸くなる。外の音を聞きながら、片耳だけ動かす。眠っていても、誰かが近づけばすぐ目を開ける。


ヨルは小屋の奥へ行きかけ、途中で止まった。棚の下にも入らない。寝台の横にも行かない。戸口にも戻らない。


小屋の奥と、外へ向かう戸のあいだ。


そこへ座った。


ミミもそれに気づいたのだろう。何も言わず、毛布を引き寄せる。横になってからも、すぐには目を閉じなかった。


外では風が鳴っている。


どこか遠くで、水が石を打つ音がした。小屋の近くに水路はない。だから、ただの風の聞き違いかもしれない。


けれど、ノラはしばらく戸を見ていた。


テオ。


声に出さず、胸の中でもう一度だけ確かめる。


呼んではいけない名ではない。


ただ、呼ぶだけで相手に届く場所がある。


そして、今夜の橋の下は、その場所だった。


その夜、ヨルは戸口では眠らなかった。棚の下でも、寝台の横でもなく、小屋の奥と外の闇のあいだに座っていた。


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