第30話 死んだはずの男
神殿側の足音が夜露の向こうへ消えても、レドが言い残した名は仮処置所に残った。
テオ。
エリオ・カーンは、まだその名に眉を寄せていた。
「さっきの名前ですが。俺は知りません。灰鷹の記録にある、すぐ思い出せる名でもありません」
「今夜は、それでいい」
名を追えば、神殿側はすぐ紙筒を閉じる。レドの喉も、また開かせることになる。今夜守るべきものは、知らない名ではなく、返事をしなかった喉だった。
ノラ・ヴェイルは担架の両脇についた若い隊員を見た。
「今夜は、これ以上あの人に証言させない」
エリオがうなずき、隊員へ同じ指示を手で送った。
「分かりました」
ヨルが仮処置所の出口へ回り、ノラを待って振り返った。
ノラは腰袋を確かめ、灯りを持ち直した。
「行くよ」
エリオが少しだけ頭を下げた。
「小屋まで送りますか」
「レドを見て」
「……はい」
エリオはそれ以上ついてくるとは言わず、ノラはヨルと石切り場を離れた。
町へ戻る道は、夜露で湿っていた。
昼間は荷車の音が絶えない通りも、今は足音がよく聞こえる。自分の靴が石を踏む音。ヨルの小さな爪が、ときどき砂を掻く音。遠くで扉が閉まる音。
広場の掲示板には人影がなかった。
朝になれば、また太い字の札へ手が伸びる。日払い、未経験可、搬出補助、所在確認。紙は夜露を吸って波打ち、釘のまわりだけが黒く湿っていた。
ノラは通り過ぎた。
呼び石の石粉が、まだ袖に残っている。払えば落ちる。けれど、払ったところで、今夜聞いた名が消えるわけではない。
ヨルが少し先で足を止めた。町の端には夜番の男たちが二人いて、片方は槍を肩にかけ、もう片方は古い角灯を持っている。呼び石から人が運び出されたせいか、普段より道を見ていた。
「だから、見間違いだろ」
槍を持つ男が低く言った。
「夜に橋の下なんか見るから、死んだ顔に見える」
「俺が見たんじゃない。西番のロウジが言ってたんだよ」
角灯の男が声を潜める。
「古い神殿の外套みたいな服で、石橋の下に立ってたって。足音はしたのに、犬が吠えなかったそうだ」
「犬も寝てたんだろ」
「じゃあ、ロウジが腰を抜かしたのはどう説明する」
「酒だ」
「見回り中に飲むほど馬鹿じゃない」
「馬鹿じゃないなら、死んだはずの男なんか見るな」
死んだはずの男。
その言葉だけが、夜露の降りた道に落ちた。
ノラは足を止めた。
拾いに来た噂ではない。確かめた証言でもない。誰が見たのか、いつ死んだ男なのか、本当に死んだのか。何もはっきりしていない。
噂は、噂のままなら放っておける。
だが、ヨルが動かなかった。
石橋の方へ鼻を向けている。
広場から少し外れたところにある古い橋だ。今は水路も細くなり、昼は子どもが石の上を跳んで遊ぶ場所になっている。夜は灯りが届かず、橋の下だけが黒く沈む。
ヨルはそこを見ていた。
生きている人間の匂いを追う時の姿勢ではない。
死体を見つけた時とも違う。
迷宮の残りに触れた時の嫌がり方でもなかった。
尾が下がっている。けれど、逃げない。耳は伏せている。けれど、後ろへ下がらない。喉の奥で、細く、低く音を立てている。
ノラは立ったまま聞いた。
「生きてる匂い?」
ヨルは鳴かなかった。
「死んでる?」
それにも答えない。
ノラはそれ以上聞かず、ただ橋の下を見た。
夜番の男たちは、まだ噂の続きを言い合っている。ノラとヨルが止まったことには気づいていない。気づいても、ただの通りすがりに見えるだろう。
古い石橋の下に、影があった。
最初は、濡れた壁かと思った。
橋の柱と、水路の暗がりと、夜露を吸った石。その重なりが、人の形に見えただけかもしれない。そう思える距離だった。
だが、影は少しだけ顔を上げた。
顔は見えない。
服は古い外套に似ていた。今の神殿の白ではない。灰鷹の外套でもない。旅人のものにも見える。だが、旅人なら夜番に見える場所へ出る。橋の下で、あれほど静かには立たない。
雨は降っていない。
それなのに、橋の下だけが湿っている。
石の継ぎ目から水がにじむ。水路の底が、風もないのに薄く揺れた。
男の声が届いた。
「見られたな」
低い声だった。
大きくはない。けれど、橋の下からまっすぐノラへ来た。夜番の男たちは振り向かない。聞こえていないのか、聞こえない場所を選んでいるのか、どちらとも分からなかった。
ノラは返さなかった。
誰に、とも聞かない。
男は、橋の影から出てこない。
「あの男は、一度見たものを忘れない」
ノラは腰袋に手をやらなかった。
そこを守る動きは、見せない方がいい。
「誰」と短く聞いた。
男は答えなかった。
橋の下の水が、わずかに揺れる。
ヨルがノラの足元へ寄った。足先の前に体を入れる。進むな、と言う位置だった。
男はもう一度だけ口を開いた。
「同じ道を使うな」
それだけだった。
警告にしては足りない。
助言にしては冷たい。
脅しにしては、近づいてこない。
ノラが橋の方へ足を出しかけると、ヨルが袖を噛んだ。
布を破らない程度に、けれど確かに止めるための強さで噛んでいた。
ノラは出しかけた足を引いた。
追えないのではない。
追わないと決める。
橋の下の男が、少しだけ顔を上げた。
灯りは届かない。輪郭もはっきりしない。けれど、そこで声だけが落ちる。
「その名は、ここで出すな」
ノラは、まだ何も言っていなかった。
呼んでいない。
聞いてもいない。
けれど、レドが口にした名は、ノラの中に残っていた。
テオ。
その名が、橋の下の暗がりで形を持った。
男は名乗らない。
自分がその名だとも、違うとも言わない。
ただ、ここで出すなと言った。
名を口にすれば、相手を確かめられる。だが、同時に、この湿った場所へその名を落とすことになる。
ノラは、喉の奥でその名を止めた。
夜番の男たちが、向こうで笑った。
「死人が歩くなら、俺の親父にも借金を返しに来てほしいもんだ」
「来たら、お前が逃げる」
乾いた笑いが、すぐに夜へ落ちる。
橋の下の影は、そこで後ろへ下がった。
消えたのではない。
足音があった。
水も揺れた。
石の下を歩く気配が、ほんの数歩ぶんだけ残った。
けれど、ヨルは追わなかった。
追えないというより、追う道が匂いの中にないようだった。鼻先を橋へ向けたまま、低く鳴く。苛立ちではない。怖がりでもない。嫌なものを、嫌だと決める前に、名前を探している声だった。
ノラが橋の下へ降りると、足元の石は濡れていた。
雨は降っていない。水路の水位も高くない。だが、橋の下だけ、古い布を長く水に浸したような湿りがあった。
男はいなかった。
濡れた石の上に、糸くずのようなものが一つ残っている。
古い外套の端からほつれた糸に見えた。白ではない。黒でもない。灰色に近いが、神殿の外套の灰ではなかった。
ヨルが近づき、鼻を寄せる。
すぐに顔を引いた。
ヨルは前足を引き、糸くずとの間を空けた。
ノラは拾わなかった。
呼び石の布と同じだ。
声や名に触れたものを、分からないまま持ち帰らない。
橋の下の石に、水が薄く広がる。糸くずはその中で動かない。流れていくでもなく、石に貼りつくでもなく、ただそこにあった。
ノラが踵を返すころ、夜番の男たちはもう別の話をしていた。明日の見回りの交代と、石切り場に出た神殿の記録係への愚痴だった。
ノラがその横を通り過ぎると、ヨルは少し遅れてついてきた。
いつもなら、危険なものを見た後は先に立つ。帰り道を確認するように、ノラより少し前を歩く。けれど今は、半歩後ろだった。
背中側を見ている。
ヨルは小屋へ着くまで一度も鳴かず、ノラは戸の前で足を止めた。
小屋の中に灯りはある。
細い明かりが、戸の隙間から漏れていた。ミミはまだ起きているのだろう。今夜は、最初から戸の向こうで待っていた気配があった。
ノラは戸を叩いた。
一度。
すぐには開かない。
中で、小さな足音がした。
それから、ミミの声がする。
「ノラさんですか」
ノラは答えた。
「ノラ。ヨルもいる」
少し間があった。
戸の向こうで、ミミが息を止める気配がする。
それから、床板が小さく鳴った。戸へ近づいたのではない。低い位置へ身を寄せ、外の音を聞いている。
ヨルが戸の前で、爪を一度だけ立てた。
かり、と木が鳴る。
中で、ミミが掛け金に手をかけた。
戸が開いた。
ミミは寝間着の上に、古い上着を羽織っていた。髪は少し乱れている。けれど、目は眠そうではなかった。片手には、小さな布を持っている。戸を開ける前に、口を塞ぐために用意したものだろう。
「遅くなった」
ノラが言うと、ミミは首を横へ振った。
「ヨルがいるかどうかを、音で聞きました」
ヨルが足元から顔を上げた。
「クル」
少し不満そうな声だった。
ミミは小さくうなずいた。
「その声は本物だと思いました。でも、声だけでは開けません」
それを聞いて、ノラは戸をくぐった。
「それでいい」
ミミの肩から少しだけ力が抜け、ノラは戸を閉めて掛け金をかけた。
一度かけてから、もう一度、指で確かめる。古い金具は少し浮く。強く押せば揺れる。それでも、ないよりはましだった。
ミミはノラの袖を見た。
「石の粉がついてます」
「呼び石」
「助けに行った人は」
「出した。呼び石に声は奪われなかった」
ミミは息を吐いたが、安心だけではない。まだ終わっていないものを感じているように、戸へ目を戻した。
「じゃあ、今日は終わりですか」
ノラは少しだけ間を置いた。
橋の下の湿り。
声。
その名は、ここで出すな。
ミミに話すには、まだ形がなさすぎる。怖がらせるための話なら、しない方がいい。危険を知らせるための話なら、もっと正確にしなければならない。
「今日は、戸を開けないことだけ覚えて」
ミミは、聞き返さなかった。
聞きたい顔はした。けれど、聞いてよい話かどうかを選んでいる顔でもあった。
「分かりました。明日の朝、掛け金をもう一つ見ます。内側からなら、私でも動かせるものがいいです」
ノラはミミを見た。
「お願い」
ミミはうなずき、寝床へ戻った。
ノラは灯りを落とさなかった。
小さく絞るだけにした。
夜の小屋に、薄い火が残る。
ヨルは戸口に座っていない。
いつもなら、帰った後は戸の横で丸くなる。外の音を聞きながら、片耳だけ動かす。眠っていても、誰かが近づけばすぐ目を開ける。
ヨルは小屋の奥へ行きかけ、途中で止まった。棚の下にも入らない。寝台の横にも行かない。戸口にも戻らない。
小屋の奥と、外へ向かう戸のあいだ。
そこへ座った。
ミミもそれに気づいたのだろう。何も言わず、毛布を引き寄せる。横になってからも、すぐには目を閉じなかった。
外では風が鳴っている。
どこか遠くで、水が石を打つ音がした。小屋の近くに水路はない。だから、ただの風の聞き違いかもしれない。
けれど、ノラはしばらく戸を見ていた。
テオ。
声に出さず、胸の中でもう一度だけ確かめる。
呼んではいけない名ではない。
ただ、呼ぶだけで相手に届く場所がある。
そして、今夜の橋の下は、その場所だった。
その夜、ヨルは戸口では眠らなかった。棚の下でも、寝台の横でもなく、小屋の奥と外の闇のあいだに座っていた。




