第29話 噛み跡の布
呼び石の入口から少し離れた石切り場の脇に、灰鷹の仮処置所が作られていた。
布幕を張っただけの場所だ。風が抜けるたび、端が低く鳴る。石切り場の白い壁は夜の中で冷え、遠くの入口には灰鷹の灯りが二つ置かれている。呼び石の穴は、そこからでも見えた。暗い口を並べたまま、まだ誰かの名を待っているように黒かった。
担架の上に横たえられたレド・カラムの腕と脇腹には、灰鷹の布が当てられていた。傷は深くない。だが、走り、転び、布を噛んで返事をこらえ続けた体は、傷の数よりずっと疲れていた。
口元の布は外してあるのに、顎のこわばりが残っているのか、レドは何度も唇を開きかけては閉じた。水袋を渡されても指で握るだけで、口をつけようとはしない。
ノラ・ヴェイルは、担架の横に膝をついた。
「急がなくていい」
レドの目だけが、こちらを向いた。
返事はない。けれど、その沈黙は迷宮の中とは違っていた。声を奪われないために閉じているのではない。自分の喉が、まだ外に戻ってきていないのを確かめているようだった。
エリオ・カーンは若い隊員に指示を出しながら、神殿側の者たちを視界の端に入れていた。
神殿側は、入口で見た外套の者が二人と、記録板を抱えた男が一人。その記録係の腕には、レドが持ち出した紙筒がすでに収まっていた。
レドが迷宮から持ち出した検分記録。
救助用の地図ではない。ノラは、入口で蓋の外れた紙の中身を見ている。中心部だけが細かく描かれた地図だった。
エリオも見たはずだが、今ここでそれを問い詰めれば、レドの処置が止まる。神殿側も、灰鷹も、言い訳のために喋り始める。
ノラは口を挟まず、レドの横へ置かれた血付きの布を見た。呼び石の中で、声をこらえるため彼が噛んでいたものだ。
唾液と血で重くなり、歯形が深く残っている。布の端は何度も噛み直されたせいでほつれ、赤黒く固まった部分がいくつも盛り上がっていた。
あれを噛んで、レドは返事をしなかった。
呼び石が名を呼んでも、自分の声に似た声で誘っても、布を噛んで耐えていた。
記録係が、その布へ手を伸ばした。
布そのものを欲しがる手ではなかった。
検分記録、紙筒、持ち出した道具、汚れた布。迷宮の中から出たものを、同じ手順でまとめようとする手だった。
ノラはその手首を見て、記録係が布に触れる前に声を出した。
「それは置いて」
記録係の手が止まり、男はノラを見ずに布を見ていた。汚れ物を見る目ではない。処理欄に入れる品を確認する目だった。
「検分中の汚染物です。こちらで保管します」
「保管するものじゃない」
ノラは立ち上がらなかった。レドの横に膝をついたまま、布と記録係の間に手を置く。
記録係は少しだけ眉を動かした。
「本人の希望で処分できるものではありません。検分中に発生した異常物です」
言い方は丁寧だった。
汚染物。異常物。検分中に発生したもの。そう呼べば、レドがその布を噛んで耐えた時間は、紙の欄に入る。
ノラは言った。
「異常物じゃない。返事をしないために、噛んでいたものだ。紙に戻すものじゃない」
記録係はそこで初めて、ノラを見た。
「だからこそ、記録が要ります」
神殿側の一人が近づきかけると、エリオは半歩だけ前へ出た。進路を完全に塞ぐほどではないが、処置所の内側へ勝手には入らせない位置だった。
レドの指が動いて担架の布をつかんだ。力は弱い。けれど、逃げるための動きではなかった。
かすれた声が出た。
「それは……持っていかないでください」
神殿側の者たちが、一斉にレドを見た。
レドは外の灯りを見ない。神殿側の顔も見ない。ただ、自分が噛んでいた布へ視線を落としている。血が乾き、唾液が冷え、もう役目を終えたはずのものを、まだ手放せずにいた。担架の縁をつかむ指が、白くなるまで曲がっていた。
「あれを噛んでいた間だけ、俺は返事をしないでいられた」
声が途切れ、エリオが水袋の口へ手をかけたが、レドは小さく首を横に振った。まだ飲めない。まだ言わなければならないと思っている顔だった。
「返事をしていたら、あの穴に俺の声を覚えられていた」
レドが息を吸うと、喉が痛んだのか眉間に浅い皺が寄った。
「次は、俺の声で誰かが呼ばれる。そう思ったから、噛んでいました」
夜風が布幕を揺らした。
呼び石の入口からは、もう名を呼ぶ声は届かない。だが、誰もすぐには喋らなかった。石切り場の冷えた空気の中で、レドのかすれた声だけが、しばらく残っていた。
レドはもう一度、布を見た。
「これは検分の品じゃない。俺が返事をしなかった跡です」
少し間を置いて、続ける。
「紙のために、もう一度あの中へ戻されたくない」
記録係は表情を崩さなかった。
「検分役が持ち帰ったものを、灰鷹側だけで処分されるのは困ります」
エリオが答えた。
「治療に使った汚染布です。本人の同意があり、灰鷹側で処分します」
「こちらにも確認権があります」
「確認するなら、処分の場に立ち会ってください。持ち帰りはさせません」
エリオの声は荒くなく、神殿側も荒く返せなかった。
記録係は少し黙り、抱えている紙筒を持ち直した。
「では、処分記録に署名を」
「後で出します」
「後で、では困ります」
エリオの目が細くなった。
「今、ここで困っているのは負傷者です。紙は待てます」
神殿側の一人が不満そうに息を吐いたが、それ以上は出なかった。
レド本人が拒んだ。灰鷹が処置として受けた。ここで奪うように持っていけば、神殿は汚染物を管理する者ではなく、助け出された検分役の言葉を押しつぶす者になる。
ノラは布の乾いた端をつかんだ。湿った噛み跡に指をかけない。ヨルが足元へ来て、鼻を近づける。
「クル……」
低い声だった。
布は嫌がっていたが、呼び石から離れたことで残ったものも薄れ、迷宮の中で聞いた時ほど強くはない。それでもノラには、火へ投げれば済むものとは思えなかった。
ノラが灰鷹の湯桶を借りると、若い隊員は傷を洗う湯を使うことに戸惑いながらも手渡した。乾いた薬草を落として布を沈めるあいだ、レドは自分の声を守ったものが奪われないか確かめるように、一度も目をそらさなかった。
湯が赤く濁るなか、ノラは深い噛み跡を指でゆるめていった。歯形の溝から赤黒い塊が崩れるたび、記録係の手は紙の上で止まり、ヨルの喉から続いていた低い音も薄れていく。布が記録の品ではなく、レドの沈黙へ戻っていくのを、誰も手順の言葉では遮れなかった。
引き上げた布は、血の色も呼び石に引かれる気配も失い、ただの濡れた布に近づいていた。ノラが火鉢へかざすと、端はすぐ燃えずに黒く縮み、薬と血と焦げた繊維の匂いを細い煙に変える。レドはその煙が消えるまで顔を背けず、すべてが灰へ崩れてから、今度は自分の手で水袋を口へ運んだ。
最初の一口は飲めなかった。唇を濡らしただけだった。二度目で、少しだけ喉が動く。
エリオが小さく息を吐いた。
「よかった」
その言葉にレドは目を閉じた。礼を言おうとしたのかもしれないが、ノラが先に言った。
「喋らなくていい」
レドの目が開く。
「言うことがあるなら、短く。今はそれだけでいい」
レドは水袋を胸に置いた。
まだ指が震えている。布を噛んでいた時の力が、指の方へ移ったように、水袋の口を押さえていた。
少しして、レドが言った。
「追ってきた男は、ラウルと呼ばれていました」
ノラは聞き返さなかった。
エリオの顔が動く。
神殿側の記録係は、紙筒の紐を直すふりをした。外套の一人は布幕の外へ視線を移す。聞こえなかったことにするには、どちらも動きが遅かった。
レドは続けた。
「神殿の人間ではありません」
そこで声が細くなり、レドは水袋を持ち上げかけてやめた。飲めば痛みは楽になるのに、喉を動かした拍子に言葉まで引き出される気がするのだろう。迷いが水袋の口を押さえる指へ伝わり、震えだけが大きくなった。
「けれど、検分を知っていた。俺が核を見に来たのか、と」
エリオが神殿側へ視線を向けた。
「核?」
神殿側の一人が答える前に、記録係が口を開いた。
「負傷直後の証言です。混乱している可能性があります」
レドは、弱ってはいても混乱のない目を記録係へ向けた。
エリオもそれを見たのだろう。記録係へ向ける声が、少しだけ冷えた。
「混乱している人間から、さっきまで記録を回収していましたね」
記録係が口を閉じたところで、ノラは神殿側の言い訳を追わなかった。
今ここで紙筒を奪う気はない。問い詰めれば、神殿は紙を守る。レドの喉も、また使われる。
レドがもう一度、息を吸った。
「あの男は……もう一つ、名を」
声が喉に引っかかり、レドは小さく咳き込んだ。
エリオが水を差し出しかけた手を、ノラは止めた。ここで飲ませれば、楽になった喉から次の言葉まで得たくなる。その期待をレドへ背負わせず、自分で息を選び直す時間を残した。
レドは自分で息を整えた。
「テオという名を」
そこで声が切れ、咳が続いた。
今度はエリオが背を支え、その間に若い隊員が新しい布を運んできた。レドはそれを口元に当てたものの、もう噛まず、咳を受けるためだけに押さえた。
ノラは言った。
「もういい。今日は、ここまで」
レドはまだ何かを言おうとした。
だが、言葉にはしなかった。自分の声が、もう限界だと分かったのだろう。水袋を抱え直し、担架の上で小さく息を吐いた。
神殿側の者たちが動かなかったことが、かえって目についた。
テオ。
その名を聞き、エリオは眉を寄せた。灰鷹の若い隊員も、知らない名に戸惑うだけだった。
外套の一人は顔を変えず、もう一人は目を伏せた。
ただ、記録板を持つ男の指だけが、その名のところで止まった。
ほんの一拍。
すぐに紐を結び直し、何もなかったように紙筒を抱える。だが、その一拍はノラの目に残った。
ヨルも同じ方へ鼻を向け、記録係はそれに気づいて身を引いた。
「処分記録は、明朝いただきます」
エリオが答える。
「灰鷹へ出します」
「神殿にも写しを」
「必要な範囲で」
その言い方に、記録係の口元が少し固くなった。けれど、彼はそれ以上言わず、紙筒を抱えたまま神殿側の者たちと布幕を出ていった。
布幕の外で夜露を踏む音が遠ざかるなか、レドは目を閉じていた。眠ったわけではない。眠れるほど体は緩んでいない。ただ、もう声を出さなくていいと分かって閉じたように見えた。
火鉢には、黒い灰が少しだけ残っている。
噛み跡も、血も、唾液も、呼び石が覚えかけた声の気配も、そこにはもうなかった。風が吹けば散るほど軽い。
レドの顎はまだ強張っていた。それでも、もう何かを噛み直そうとはしなかった。
エリオが低く言った。
「レドさんは、灰鷹で預かります。今夜は、もう誰にも話させません」
「それでいい」
担架の上で、レドは水袋を抱えていた。手はまだ震えている。だが、噛むものを探してはいない。
ヨルが布幕の出口へ鼻を向けた先は、神殿側が去った方ではなく、町へ続く暗い道だった。
ヨルの耳が伏せた。帰路を急かすのでも、石切り場へ戻るのでもなく、その鼻だけが町の暗がりを追っていた。
ノラは火鉢の灰から目を離した。浮かんだのはラウル、そしてテオ。どちらもノラのものではない名だが、一つは呼び石の奥で彼女を見ていた男のものだった。
もう一つは、その男の口に出た名。神殿側の指が止まった名でもある。
ノラはその二つを、声にはしなかった。
布幕の外では、石切り場の白い壁が夜の中で冷えている。呼び石の穴は、遠くで暗い口を並べたまま動かない。
もうレドの名は呼ばない。
だが、別の名が、灰の匂いの中に残っていた。




