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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第7章 死んだはずの男
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第29話 噛み跡の布

挿絵(By みてみん)

呼び石の入口から少し離れた石切り場の脇に、灰鷹の仮処置所が作られていた。


布幕を張っただけの場所だ。風が抜けるたび、端が低く鳴る。石切り場の白い壁は夜の中で冷え、遠くの入口には灰鷹の灯りが二つ置かれている。呼び石の穴は、そこからでも見えた。暗い口を並べたまま、まだ誰かの名を待っているように黒かった。


担架の上に横たえられたレド・カラムの腕と脇腹には、灰鷹の布が当てられていた。傷は深くない。だが、走り、転び、布を噛んで返事をこらえ続けた体は、傷の数よりずっと疲れていた。


口元の布は外してあるのに、顎のこわばりが残っているのか、レドは何度も唇を開きかけては閉じた。水袋を渡されても指で握るだけで、口をつけようとはしない。


ノラ・ヴェイルは、担架の横に膝をついた。


「急がなくていい」


レドの目だけが、こちらを向いた。


返事はない。けれど、その沈黙は迷宮の中とは違っていた。声を奪われないために閉じているのではない。自分の喉が、まだ外に戻ってきていないのを確かめているようだった。


エリオ・カーンは若い隊員に指示を出しながら、神殿側の者たちを視界の端に入れていた。


神殿側は、入口で見た外套の者が二人と、記録板を抱えた男が一人。その記録係の腕には、レドが持ち出した紙筒がすでに収まっていた。


レドが迷宮から持ち出した検分記録。


救助用の地図ではない。ノラは、入口で蓋の外れた紙の中身を見ている。中心部だけが細かく描かれた地図だった。


エリオも見たはずだが、今ここでそれを問い詰めれば、レドの処置が止まる。神殿側も、灰鷹も、言い訳のために喋り始める。


ノラは口を挟まず、レドの横へ置かれた血付きの布を見た。呼び石の中で、声をこらえるため彼が噛んでいたものだ。


唾液と血で重くなり、歯形が深く残っている。布の端は何度も噛み直されたせいでほつれ、赤黒く固まった部分がいくつも盛り上がっていた。


あれを噛んで、レドは返事をしなかった。


呼び石が名を呼んでも、自分の声に似た声で誘っても、布を噛んで耐えていた。


記録係が、その布へ手を伸ばした。


布そのものを欲しがる手ではなかった。


検分記録、紙筒、持ち出した道具、汚れた布。迷宮の中から出たものを、同じ手順でまとめようとする手だった。


ノラはその手首を見て、記録係が布に触れる前に声を出した。


「それは置いて」


記録係の手が止まり、男はノラを見ずに布を見ていた。汚れ物を見る目ではない。処理欄に入れる品を確認する目だった。


「検分中の汚染物です。こちらで保管します」


「保管するものじゃない」


ノラは立ち上がらなかった。レドの横に膝をついたまま、布と記録係の間に手を置く。


記録係は少しだけ眉を動かした。


「本人の希望で処分できるものではありません。検分中に発生した異常物です」


言い方は丁寧だった。


汚染物。異常物。検分中に発生したもの。そう呼べば、レドがその布を噛んで耐えた時間は、紙の欄に入る。


ノラは言った。


「異常物じゃない。返事をしないために、噛んでいたものだ。紙に戻すものじゃない」


記録係はそこで初めて、ノラを見た。


「だからこそ、記録が要ります」


神殿側の一人が近づきかけると、エリオは半歩だけ前へ出た。進路を完全に塞ぐほどではないが、処置所の内側へ勝手には入らせない位置だった。


レドの指が動いて担架の布をつかんだ。力は弱い。けれど、逃げるための動きではなかった。


かすれた声が出た。


「それは……持っていかないでください」


神殿側の者たちが、一斉にレドを見た。


レドは外の灯りを見ない。神殿側の顔も見ない。ただ、自分が噛んでいた布へ視線を落としている。血が乾き、唾液が冷え、もう役目を終えたはずのものを、まだ手放せずにいた。担架の縁をつかむ指が、白くなるまで曲がっていた。


「あれを噛んでいた間だけ、俺は返事をしないでいられた」


声が途切れ、エリオが水袋の口へ手をかけたが、レドは小さく首を横に振った。まだ飲めない。まだ言わなければならないと思っている顔だった。


「返事をしていたら、あの穴に俺の声を覚えられていた」


レドが息を吸うと、喉が痛んだのか眉間に浅い皺が寄った。


「次は、俺の声で誰かが呼ばれる。そう思ったから、噛んでいました」


夜風が布幕を揺らした。


呼び石の入口からは、もう名を呼ぶ声は届かない。だが、誰もすぐには喋らなかった。石切り場の冷えた空気の中で、レドのかすれた声だけが、しばらく残っていた。


レドはもう一度、布を見た。


「これは検分の品じゃない。俺が返事をしなかった跡です」


少し間を置いて、続ける。


「紙のために、もう一度あの中へ戻されたくない」


記録係は表情を崩さなかった。


「検分役が持ち帰ったものを、灰鷹側だけで処分されるのは困ります」


エリオが答えた。


「治療に使った汚染布です。本人の同意があり、灰鷹側で処分します」


「こちらにも確認権があります」


「確認するなら、処分の場に立ち会ってください。持ち帰りはさせません」


エリオの声は荒くなく、神殿側も荒く返せなかった。


記録係は少し黙り、抱えている紙筒を持ち直した。


「では、処分記録に署名を」


「後で出します」


「後で、では困ります」


エリオの目が細くなった。


「今、ここで困っているのは負傷者です。紙は待てます」


神殿側の一人が不満そうに息を吐いたが、それ以上は出なかった。


レド本人が拒んだ。灰鷹が処置として受けた。ここで奪うように持っていけば、神殿は汚染物を管理する者ではなく、助け出された検分役の言葉を押しつぶす者になる。


ノラは布の乾いた端をつかんだ。湿った噛み跡に指をかけない。ヨルが足元へ来て、鼻を近づける。


「クル……」


低い声だった。


布は嫌がっていたが、呼び石から離れたことで残ったものも薄れ、迷宮の中で聞いた時ほど強くはない。それでもノラには、火へ投げれば済むものとは思えなかった。


ノラが灰鷹の湯桶を借りると、若い隊員は傷を洗う湯を使うことに戸惑いながらも手渡した。乾いた薬草を落として布を沈めるあいだ、レドは自分の声を守ったものが奪われないか確かめるように、一度も目をそらさなかった。


湯が赤く濁るなか、ノラは深い噛み跡を指でゆるめていった。歯形の溝から赤黒い塊が崩れるたび、記録係の手は紙の上で止まり、ヨルの喉から続いていた低い音も薄れていく。布が記録の品ではなく、レドの沈黙へ戻っていくのを、誰も手順の言葉では遮れなかった。


引き上げた布は、血の色も呼び石に引かれる気配も失い、ただの濡れた布に近づいていた。ノラが火鉢へかざすと、端はすぐ燃えずに黒く縮み、薬と血と焦げた繊維の匂いを細い煙に変える。レドはその煙が消えるまで顔を背けず、すべてが灰へ崩れてから、今度は自分の手で水袋を口へ運んだ。


最初の一口は飲めなかった。唇を濡らしただけだった。二度目で、少しだけ喉が動く。


エリオが小さく息を吐いた。


「よかった」


その言葉にレドは目を閉じた。礼を言おうとしたのかもしれないが、ノラが先に言った。


「喋らなくていい」


レドの目が開く。


「言うことがあるなら、短く。今はそれだけでいい」


レドは水袋を胸に置いた。


まだ指が震えている。布を噛んでいた時の力が、指の方へ移ったように、水袋の口を押さえていた。


少しして、レドが言った。


「追ってきた男は、ラウルと呼ばれていました」


ノラは聞き返さなかった。


エリオの顔が動く。


神殿側の記録係は、紙筒の紐を直すふりをした。外套の一人は布幕の外へ視線を移す。聞こえなかったことにするには、どちらも動きが遅かった。


レドは続けた。


「神殿の人間ではありません」


そこで声が細くなり、レドは水袋を持ち上げかけてやめた。飲めば痛みは楽になるのに、喉を動かした拍子に言葉まで引き出される気がするのだろう。迷いが水袋の口を押さえる指へ伝わり、震えだけが大きくなった。


「けれど、検分を知っていた。俺が核を見に来たのか、と」


エリオが神殿側へ視線を向けた。


「核?」


神殿側の一人が答える前に、記録係が口を開いた。


「負傷直後の証言です。混乱している可能性があります」


レドは、弱ってはいても混乱のない目を記録係へ向けた。


エリオもそれを見たのだろう。記録係へ向ける声が、少しだけ冷えた。


「混乱している人間から、さっきまで記録を回収していましたね」


記録係が口を閉じたところで、ノラは神殿側の言い訳を追わなかった。


今ここで紙筒を奪う気はない。問い詰めれば、神殿は紙を守る。レドの喉も、また使われる。


レドがもう一度、息を吸った。


「あの男は……もう一つ、名を」


声が喉に引っかかり、レドは小さく咳き込んだ。


エリオが水を差し出しかけた手を、ノラは止めた。ここで飲ませれば、楽になった喉から次の言葉まで得たくなる。その期待をレドへ背負わせず、自分で息を選び直す時間を残した。


レドは自分で息を整えた。


「テオという名を」


そこで声が切れ、咳が続いた。


今度はエリオが背を支え、その間に若い隊員が新しい布を運んできた。レドはそれを口元に当てたものの、もう噛まず、咳を受けるためだけに押さえた。


ノラは言った。


「もういい。今日は、ここまで」


レドはまだ何かを言おうとした。


だが、言葉にはしなかった。自分の声が、もう限界だと分かったのだろう。水袋を抱え直し、担架の上で小さく息を吐いた。


神殿側の者たちが動かなかったことが、かえって目についた。


テオ。


その名を聞き、エリオは眉を寄せた。灰鷹の若い隊員も、知らない名に戸惑うだけだった。


外套の一人は顔を変えず、もう一人は目を伏せた。


ただ、記録板を持つ男の指だけが、その名のところで止まった。


ほんの一拍。


すぐに紐を結び直し、何もなかったように紙筒を抱える。だが、その一拍はノラの目に残った。


ヨルも同じ方へ鼻を向け、記録係はそれに気づいて身を引いた。


「処分記録は、明朝いただきます」


エリオが答える。


「灰鷹へ出します」


「神殿にも写しを」


「必要な範囲で」


その言い方に、記録係の口元が少し固くなった。けれど、彼はそれ以上言わず、紙筒を抱えたまま神殿側の者たちと布幕を出ていった。


布幕の外で夜露を踏む音が遠ざかるなか、レドは目を閉じていた。眠ったわけではない。眠れるほど体は緩んでいない。ただ、もう声を出さなくていいと分かって閉じたように見えた。


火鉢には、黒い灰が少しだけ残っている。


噛み跡も、血も、唾液も、呼び石が覚えかけた声の気配も、そこにはもうなかった。風が吹けば散るほど軽い。


レドの顎はまだ強張っていた。それでも、もう何かを噛み直そうとはしなかった。


エリオが低く言った。


「レドさんは、灰鷹で預かります。今夜は、もう誰にも話させません」


「それでいい」


担架の上で、レドは水袋を抱えていた。手はまだ震えている。だが、噛むものを探してはいない。


ヨルが布幕の出口へ鼻を向けた先は、神殿側が去った方ではなく、町へ続く暗い道だった。


ヨルの耳が伏せた。帰路を急かすのでも、石切り場へ戻るのでもなく、その鼻だけが町の暗がりを追っていた。


ノラは火鉢の灰から目を離した。浮かんだのはラウル、そしてテオ。どちらもノラのものではない名だが、一つは呼び石の奥で彼女を見ていた男のものだった。


もう一つは、その男の口に出た名。神殿側の指が止まった名でもある。


ノラはその二つを、声にはしなかった。


布幕の外では、石切り場の白い壁が夜の中で冷えている。呼び石の穴は、遠くで暗い口を並べたまま動かない。


もうレドの名は呼ばない。


だが、別の名が、灰の匂いの中に残っていた。


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