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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第6章 呼び石の迷宮
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第28話 迷宮ではない声

挿絵(By みてみん)

光は、石の折れ目の向こうで揺れていた。


外の灯りだった。


入口に置かれた灰鷹の灯りか、神殿の記録台を照らす火かまでは分からない。ただ、呼び石の奥で見せられる薄いまやかしとは違った。風の匂いがある。夜露の湿りがある。人が立っている場所の、踏まれた土の匂いがあった。


レドの足が、また落ちかけた。


ノラ・ヴェイルが肩で受け止めると、脇腹の傷から血がにじみ、その痛みにレドの体が跳ねた。布を噛む歯へいっそう力が入り、声こそ出ないものの、喉の奥は震えていた。


壁の穴が鳴った。


「レド」


さっきより遠い。


だが、遠いからこそ、帰れそうな声に聞こえた。


「もう外だ」


それは、レド自身の声に似ていた。


レドの目が揺れる。


ノラはレドの口元へ手を添え、そこにある布の感触をもう一度思い出させた。


「境を越えてから」


レドは目だけでうなずいた。


ヨルが先へ走る。黒い体が石の影を抜け、入口の光の中へ消えた。すぐに短く鳴く。


「クルッ」


いける、という合図だった。


ノラはレドの腕を自分の首へかけ直した。


「あと少し」


レドは返事の代わりに、中身のほとんど残った水袋を胸元へ押しつけた。口を濡らせば声が漏れると恐れ、逃げる間も飲まず、それでも手放さなかった袋だった。


背後で鳴ったのは、石だった。


男は追ってこない。けれど、見ている気配は残っていた。迷宮でも、レドでもなく、ノラを見ている。


振り返ればその分だけ足が遅れると分かっていたため、ノラは前だけを見た。入口が近づくにつれ、外からエリオ・カーンの低い声が届いた。


「こっちです。声は出さずに」


エリオの抑えた声は、受け取る場所だけを示した。


神殿側の者が本人を確かめようと一歩出た途端、エリオは腕を横へ張り、入口から先へ出さなかった。


「まだ名を呼ばないでください」


「しかし、本人かどうかを」


「見れば分かります。今は口を開かせない」


焦りはエリオの声にも混じっていた。それでも、本人を確かめたいのをこらえ、まずレドの声を呼び石から切り離す。入口でノラから聞いた危険を、灰鷹の確認手順より先に置いたのだ。


ノラがレドを押し出すように進むと、ついに靴底が呼び石の石床を離れ、外の土を踏んだ。その瞬間、獲物を逃した奥の穴が細く鳴った。


「レ……」


名になりきらない音が、石の中で潰れた。


返事はなかった。


レドの体を、エリオと灰鷹の若い隊員が受けた。レドは膝をつきかけ、それでも口元の布だけは離さなかった。


ノラも片膝をついた。


呼び石の入口から流れ込む夜風が、外の冷たさを運んだ。


ヨルがノラの横へ戻り、低く鼻を鳴らす。血の匂いを確かめ、すぐにレドの方へ顔を向けた。


神殿側の一人が、ようやく近づいてきた。


「レド殿、状況を――」


「名を呼ばないで」


ノラが言うと、神殿側の男は不満を隠さないまま口を閉じ、助け出された人間より先に報告の形を気にしていた。


エリオがレドの肩を支えながら、神殿側へ向いた。


「治療が先です。話を聞くなら、入口から離してからにしてください」


「検分中の事故かどうか、こちらで確認する必要がある」


「戻らない人間が出ていました。事故かどうかより、生きているかが先です」


エリオの声は荒くなく、その分、神殿側の男は言い返しにくそうだった。


レドはまだ布を噛んでいた。


手が震えている。水袋を握ったまま、外の空気を吸っている。口を開いた瞬間、石がまた奥から拾いに来ると恐れていた。


ノラは立ち上がり、レドの前にしゃがんだ。


「ここは外」


レドは目を上げた。


「まだ話さなくていい。分かってからでいい」


レドの歯が布からわずかに浮いたものの、顎はそこでこわばり、口元から離れない。長く噛み続けた痛みだけでなく、布をなくした途端に自分の声が石へ戻る恐怖が、まだ歯を引き留めていた。エリオが清潔な布を差し出しかけると、ノラは手で止めた。


「急がないで」


レドは自分の指で布をつまみ、自分の喉を取り戻すように、時間をかけて口元から外した。血と歯形を見た瞬間、何かを言いかけた唇が動く。それでも声になる前に息を止められたのは、もう石に強いられた沈黙ではなく、レド自身が選んだからだった。


ノラは待った。


レドは何度か唇を動かし、ようやくかすれた声を出した。


「……外、ですか」


「外」


レドの顔から、張りつめていたものがほどけた。泣きも笑いもせず、外の空気だけを深く吸った。


彼は水袋を胸に押しつけた。


「声を、出さなかった」


ノラはうなずいた。


「呼び石には、最後まで覚えられなかった」


レドは水袋を見た。


中身のほとんどが残った袋だった。だが、レドはそれを捨てなかった。布を噛み、水を飲まず、声を出さずに外まで来た時間が、その袋に残っているように見えた。


エリオが低く息を吐いた。


「よかった」


その言葉はレドとノラの両方へ届いた。灰鷹の報告を離れ、目の前で人が一人戻ったことに安堵する声だった。


神殿側の記録係がレドの外套へ手を伸ばしたが、その指が狙っているのは腰に下がった紙筒だとノラは見た。


記録係は視線に気づいて手を止める。それから、落ちた物を拾うだけという顔で紙筒を取った。


蓋が少し外れ、内側の紙が見えた。


地図だった。


戻る道を示す線は細いうえ途中で途切れ、その一方で濃い線だけが、石の穴の集まる呼び石の中心部へ延びていた。何かを見に行くための線に見える。


記録係はすぐに筒を閉じた。


「検分の記録です」


ノラは奪わなかった。


覚えただけだ。


エリオもその一瞬を見ていたが、問い詰めるには材料が足りず、ここは灰鷹が正式に動ける場でもない。口を開きかけた彼は、その二つを量るようにやめた。


神殿側の男が、レドへ近づく。


「歩けるなら、こちらで預かります」


「歩けません」


ノラが先に言った。


「脇腹と腕。刃物傷。転んだ傷もある。今動かせば、途中で倒れる」


「刃物傷?」


神殿側の男の目が、一瞬だけ変わった。


神殿側の男は、知っている事実を知らないままにしたがっていた。


レドはその顔を見て、また布を探そうとした。もう口には当てていないのに、指だけが血のついた布を探す。


ノラはその手を軽く止めた。


「今は喋らなくていい」


レドの指が止まると、エリオは灰鷹の隊員に合図した。


「担架。入口から離して、石の声が届かないところまで運ぶ。質問はその後です」


若い隊員が動き、神殿側の者は何か言いたげだったが、レドの顔色を見て黙った。あるいは、外で言えることと言えないことを選んだだけかもしれない。


呼び石の入口から、また風が抜けた。


今度は名にはならなかった。


ただ、石の奥に残った口が、空のまま閉じきれずにいる音だった。


ノラは入口を見た。


閉じたい、と思った。


あの奥には、まだ声を待つ石がある。レドの声は最後まで覚えられなかった。けれど、次に誰かが入れば、別の名を呼ぶ。痛みや恐怖や帰りたい気持ちを使って、声を拾おうとする。


だが、レドは目の前にいる。


血を流し、声を出さず、ようやく外へ出た人間がいる。紙筒は神殿の手に戻った。入口には灰鷹と神殿の目があり、奥にはあの男の視線も残っている。


ここでノラが奥へ戻れば、救助したばかりの一人を置くことになる。


核を抜けたとしても、その間にレドの処置は遅れる。神殿は紙筒の中身を隠し、灰鷹は正式には動けない。ノラの動きだけが、余計な証拠として残る。


今、守るものを間違えるわけにはいかなかった。閉じるために戻れば、救助した声をまた危険の前へ置くことになる。


エリオが低く聞いた。


「このまま入口を封じますか」


ノラはすぐには答えなかった。


エリオが言っているのは、板と縄と見張りで入口から人を遠ざける処置だった。


それでもノラの中には、奥へ行って核を抜けば、この穴も閉じられるかもしれないという別の答えが浮かんでいた。だが、その選択の前にレドを見た。


レドは水袋を両手で握っている。まだ声は細い。けれど、外の空気を吸っていた。


ノラの踵が一度、入口へ向いた。


石粉を踏んだまま、元の向きへ戻した。


「今日は出す方が先」


エリオは、その言い方に少しだけ目を向けた。


けれど、踏み込まなかった。


「分かりました。入口は封じます。神殿側にも、灰鷹の立ち会いなしで入らないよう申し入れます」


神殿側の男が眉を寄せた。


「灰鷹にその権限は」


「戻らない人間が出ました。所在確認で済ませたのは、そちらです」


エリオの声は静かだった。


「次に誰かが名を取られたら、確認では済みません」


神殿側の男は言葉を飲んだ。


記録係が板へ何かを書きつける。レドの名、搬出時刻、灰鷹立ち会い。そういう欄が埋められていく。


エリオは若い隊員へ指示を出した。


「ノラさん、下がってください。ここから先は灰鷹で受けます」


エリオの声は低く抑えられていたが、それでも入口の石まで届いた。ノラは反応を確かめるため一瞬だけ呼び石の奥を見たものの、石の影は動かなかった。


けれど、奥にいる男が聞いたことは分かった。呼び石も壁の穴も介さず、人間が人間の声から名を拾った。


エリオも言ったあとで気づいたのだろう。顔がわずかに硬くなった。


「……すみません」


ノラは返さなかった。エリオの目が一度だけ入口へ逃げ、置いたばかりの名を追った。


「必要な声だったんでしょ」


「必要でも、危ない声でした」


「次から言い方を考えて」


エリオは口元を引き締めた。


「考えます。次は、言う前に」


その返事には、何かを失敗として持ち帰る人間の重さがあった。


担架が来た。


レドを乗せる時、彼はまた水袋を落としかけた。ノラが拾って、胸元へ戻す。


レドは紙筒を抱えた記録係へ顔を向けた。


「大司祭へ……核は、残っていたと」


記録係の顔から色が引いた。


「今は話さなくていい」


レドを止めたのはノラではなく記録係だったが、もう遅い。「大司祭」と「核」の二つは、エリオの耳にも残っていた。


レドはかすれた声で言った。


「これは、もう……要りません」


「要らないなら、自分で捨てて」


レドの目が、意外そうに開いた。


「ここに置いていかない方がいい」


ノラは呼び石の入口を見ずに言った。


「声を出さずに持っていたものまで、この穴に残さないで」


レドは水袋を抱え直し、目だけでうなずいた。


担架が石切り場の外、声の届かない方へ動き始めると、灰鷹の灯りが二つ、レドを挟むように並んだ。神殿側の者も後へ続いたが、紙筒を抱えた記録係だけは、核という言葉を入口へ置き忘れたかのように、何度も暗がりを振り返っていた。


ノラは入口の前に残った。


ヨルは入口の石粉を前足で一度掻いた。


「閉じない」


ヨルは鼻を鳴らした。それは分かっているとも嫌だとも告げず、ただ残る穴の匂いを覚えている声だったため、ノラはもう一度呼び石を見た。


石の口は、夜の中で黒く並んでいる。奥にはまだ、返事を待つものがいる。レドの声は最後まで覚えられなかった。けれど、諦めたわけではない。


エリオが近くへ来ていた。


「入口には灰鷹を置きます。名前で確認しない手順も、こちらで作ります」


ノラは少しだけエリオを見た。


「嫌な仕事になるよ」


「嫌だと思えるうちに、変えます」


エリオは笑わず、ノラもそれ以上言わなかった。


その時、ヨルが急に耳を立てた。入口の暗がり、石の影の奥に、まだ人の気配があった。ノラは顔を上げたが、姿は見えなかった。


灯りは外へ向いている。入口の内側は暗い。石の穴だけが並び、その奥の一つに、ほんのわずかに濃い影が残っている。


灰鷹と神殿の目がある場所へ踏み込む気はないのだろう。レドを取るには遅すぎる。ここで無理に動けば、男自身の跡が残る。


だが、見ていた。


レドを。紙筒を。入口の前に残るノラを。


風が吹き、呼び石の奥が名にならない音を漏らしたが、ノラはそちらへ顔を向けなかった。


レドの担架はもう遠い。神殿の記録係も、紙筒を抱えて後を追っている。灰鷹の灯りが入口を塞ぐ位置へ動き始めた。


ノラはヨルへ言った。


「帰るよ」


ヨルはすぐには動かず、暗がりを見ていた。ノラも一度だけ入口の奥へ視線をやったが、そこにはもう、ただの石影しかないように見えた。


けれど、石壁の奥で男の声が低く落ちた。


「ノラ」


石の穴からではない。返事を待つ湿った声でもない。人間の喉から出た、低い声だった。


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