第28話 迷宮ではない声
光は、石の折れ目の向こうで揺れていた。
外の灯りだった。
入口に置かれた灰鷹の灯りか、神殿の記録台を照らす火かまでは分からない。ただ、呼び石の奥で見せられる薄いまやかしとは違った。風の匂いがある。夜露の湿りがある。人が立っている場所の、踏まれた土の匂いがあった。
レドの足が、また落ちかけた。
ノラ・ヴェイルが肩で受け止めると、脇腹の傷から血がにじみ、その痛みにレドの体が跳ねた。布を噛む歯へいっそう力が入り、声こそ出ないものの、喉の奥は震えていた。
壁の穴が鳴った。
「レド」
さっきより遠い。
だが、遠いからこそ、帰れそうな声に聞こえた。
「もう外だ」
それは、レド自身の声に似ていた。
レドの目が揺れる。
ノラはレドの口元へ手を添え、そこにある布の感触をもう一度思い出させた。
「境を越えてから」
レドは目だけでうなずいた。
ヨルが先へ走る。黒い体が石の影を抜け、入口の光の中へ消えた。すぐに短く鳴く。
「クルッ」
いける、という合図だった。
ノラはレドの腕を自分の首へかけ直した。
「あと少し」
レドは返事の代わりに、中身のほとんど残った水袋を胸元へ押しつけた。口を濡らせば声が漏れると恐れ、逃げる間も飲まず、それでも手放さなかった袋だった。
背後で鳴ったのは、石だった。
男は追ってこない。けれど、見ている気配は残っていた。迷宮でも、レドでもなく、ノラを見ている。
振り返ればその分だけ足が遅れると分かっていたため、ノラは前だけを見た。入口が近づくにつれ、外からエリオ・カーンの低い声が届いた。
「こっちです。声は出さずに」
エリオの抑えた声は、受け取る場所だけを示した。
神殿側の者が本人を確かめようと一歩出た途端、エリオは腕を横へ張り、入口から先へ出さなかった。
「まだ名を呼ばないでください」
「しかし、本人かどうかを」
「見れば分かります。今は口を開かせない」
焦りはエリオの声にも混じっていた。それでも、本人を確かめたいのをこらえ、まずレドの声を呼び石から切り離す。入口でノラから聞いた危険を、灰鷹の確認手順より先に置いたのだ。
ノラがレドを押し出すように進むと、ついに靴底が呼び石の石床を離れ、外の土を踏んだ。その瞬間、獲物を逃した奥の穴が細く鳴った。
「レ……」
名になりきらない音が、石の中で潰れた。
返事はなかった。
レドの体を、エリオと灰鷹の若い隊員が受けた。レドは膝をつきかけ、それでも口元の布だけは離さなかった。
ノラも片膝をついた。
呼び石の入口から流れ込む夜風が、外の冷たさを運んだ。
ヨルがノラの横へ戻り、低く鼻を鳴らす。血の匂いを確かめ、すぐにレドの方へ顔を向けた。
神殿側の一人が、ようやく近づいてきた。
「レド殿、状況を――」
「名を呼ばないで」
ノラが言うと、神殿側の男は不満を隠さないまま口を閉じ、助け出された人間より先に報告の形を気にしていた。
エリオがレドの肩を支えながら、神殿側へ向いた。
「治療が先です。話を聞くなら、入口から離してからにしてください」
「検分中の事故かどうか、こちらで確認する必要がある」
「戻らない人間が出ていました。事故かどうかより、生きているかが先です」
エリオの声は荒くなく、その分、神殿側の男は言い返しにくそうだった。
レドはまだ布を噛んでいた。
手が震えている。水袋を握ったまま、外の空気を吸っている。口を開いた瞬間、石がまた奥から拾いに来ると恐れていた。
ノラは立ち上がり、レドの前にしゃがんだ。
「ここは外」
レドは目を上げた。
「まだ話さなくていい。分かってからでいい」
レドの歯が布からわずかに浮いたものの、顎はそこでこわばり、口元から離れない。長く噛み続けた痛みだけでなく、布をなくした途端に自分の声が石へ戻る恐怖が、まだ歯を引き留めていた。エリオが清潔な布を差し出しかけると、ノラは手で止めた。
「急がないで」
レドは自分の指で布をつまみ、自分の喉を取り戻すように、時間をかけて口元から外した。血と歯形を見た瞬間、何かを言いかけた唇が動く。それでも声になる前に息を止められたのは、もう石に強いられた沈黙ではなく、レド自身が選んだからだった。
ノラは待った。
レドは何度か唇を動かし、ようやくかすれた声を出した。
「……外、ですか」
「外」
レドの顔から、張りつめていたものがほどけた。泣きも笑いもせず、外の空気だけを深く吸った。
彼は水袋を胸に押しつけた。
「声を、出さなかった」
ノラはうなずいた。
「呼び石には、最後まで覚えられなかった」
レドは水袋を見た。
中身のほとんどが残った袋だった。だが、レドはそれを捨てなかった。布を噛み、水を飲まず、声を出さずに外まで来た時間が、その袋に残っているように見えた。
エリオが低く息を吐いた。
「よかった」
その言葉はレドとノラの両方へ届いた。灰鷹の報告を離れ、目の前で人が一人戻ったことに安堵する声だった。
神殿側の記録係がレドの外套へ手を伸ばしたが、その指が狙っているのは腰に下がった紙筒だとノラは見た。
記録係は視線に気づいて手を止める。それから、落ちた物を拾うだけという顔で紙筒を取った。
蓋が少し外れ、内側の紙が見えた。
地図だった。
戻る道を示す線は細いうえ途中で途切れ、その一方で濃い線だけが、石の穴の集まる呼び石の中心部へ延びていた。何かを見に行くための線に見える。
記録係はすぐに筒を閉じた。
「検分の記録です」
ノラは奪わなかった。
覚えただけだ。
エリオもその一瞬を見ていたが、問い詰めるには材料が足りず、ここは灰鷹が正式に動ける場でもない。口を開きかけた彼は、その二つを量るようにやめた。
神殿側の男が、レドへ近づく。
「歩けるなら、こちらで預かります」
「歩けません」
ノラが先に言った。
「脇腹と腕。刃物傷。転んだ傷もある。今動かせば、途中で倒れる」
「刃物傷?」
神殿側の男の目が、一瞬だけ変わった。
神殿側の男は、知っている事実を知らないままにしたがっていた。
レドはその顔を見て、また布を探そうとした。もう口には当てていないのに、指だけが血のついた布を探す。
ノラはその手を軽く止めた。
「今は喋らなくていい」
レドの指が止まると、エリオは灰鷹の隊員に合図した。
「担架。入口から離して、石の声が届かないところまで運ぶ。質問はその後です」
若い隊員が動き、神殿側の者は何か言いたげだったが、レドの顔色を見て黙った。あるいは、外で言えることと言えないことを選んだだけかもしれない。
呼び石の入口から、また風が抜けた。
今度は名にはならなかった。
ただ、石の奥に残った口が、空のまま閉じきれずにいる音だった。
ノラは入口を見た。
閉じたい、と思った。
あの奥には、まだ声を待つ石がある。レドの声は最後まで覚えられなかった。けれど、次に誰かが入れば、別の名を呼ぶ。痛みや恐怖や帰りたい気持ちを使って、声を拾おうとする。
だが、レドは目の前にいる。
血を流し、声を出さず、ようやく外へ出た人間がいる。紙筒は神殿の手に戻った。入口には灰鷹と神殿の目があり、奥にはあの男の視線も残っている。
ここでノラが奥へ戻れば、救助したばかりの一人を置くことになる。
核を抜けたとしても、その間にレドの処置は遅れる。神殿は紙筒の中身を隠し、灰鷹は正式には動けない。ノラの動きだけが、余計な証拠として残る。
今、守るものを間違えるわけにはいかなかった。閉じるために戻れば、救助した声をまた危険の前へ置くことになる。
エリオが低く聞いた。
「このまま入口を封じますか」
ノラはすぐには答えなかった。
エリオが言っているのは、板と縄と見張りで入口から人を遠ざける処置だった。
それでもノラの中には、奥へ行って核を抜けば、この穴も閉じられるかもしれないという別の答えが浮かんでいた。だが、その選択の前にレドを見た。
レドは水袋を両手で握っている。まだ声は細い。けれど、外の空気を吸っていた。
ノラの踵が一度、入口へ向いた。
石粉を踏んだまま、元の向きへ戻した。
「今日は出す方が先」
エリオは、その言い方に少しだけ目を向けた。
けれど、踏み込まなかった。
「分かりました。入口は封じます。神殿側にも、灰鷹の立ち会いなしで入らないよう申し入れます」
神殿側の男が眉を寄せた。
「灰鷹にその権限は」
「戻らない人間が出ました。所在確認で済ませたのは、そちらです」
エリオの声は静かだった。
「次に誰かが名を取られたら、確認では済みません」
神殿側の男は言葉を飲んだ。
記録係が板へ何かを書きつける。レドの名、搬出時刻、灰鷹立ち会い。そういう欄が埋められていく。
エリオは若い隊員へ指示を出した。
「ノラさん、下がってください。ここから先は灰鷹で受けます」
エリオの声は低く抑えられていたが、それでも入口の石まで届いた。ノラは反応を確かめるため一瞬だけ呼び石の奥を見たものの、石の影は動かなかった。
けれど、奥にいる男が聞いたことは分かった。呼び石も壁の穴も介さず、人間が人間の声から名を拾った。
エリオも言ったあとで気づいたのだろう。顔がわずかに硬くなった。
「……すみません」
ノラは返さなかった。エリオの目が一度だけ入口へ逃げ、置いたばかりの名を追った。
「必要な声だったんでしょ」
「必要でも、危ない声でした」
「次から言い方を考えて」
エリオは口元を引き締めた。
「考えます。次は、言う前に」
その返事には、何かを失敗として持ち帰る人間の重さがあった。
担架が来た。
レドを乗せる時、彼はまた水袋を落としかけた。ノラが拾って、胸元へ戻す。
レドは紙筒を抱えた記録係へ顔を向けた。
「大司祭へ……核は、残っていたと」
記録係の顔から色が引いた。
「今は話さなくていい」
レドを止めたのはノラではなく記録係だったが、もう遅い。「大司祭」と「核」の二つは、エリオの耳にも残っていた。
レドはかすれた声で言った。
「これは、もう……要りません」
「要らないなら、自分で捨てて」
レドの目が、意外そうに開いた。
「ここに置いていかない方がいい」
ノラは呼び石の入口を見ずに言った。
「声を出さずに持っていたものまで、この穴に残さないで」
レドは水袋を抱え直し、目だけでうなずいた。
担架が石切り場の外、声の届かない方へ動き始めると、灰鷹の灯りが二つ、レドを挟むように並んだ。神殿側の者も後へ続いたが、紙筒を抱えた記録係だけは、核という言葉を入口へ置き忘れたかのように、何度も暗がりを振り返っていた。
ノラは入口の前に残った。
ヨルは入口の石粉を前足で一度掻いた。
「閉じない」
ヨルは鼻を鳴らした。それは分かっているとも嫌だとも告げず、ただ残る穴の匂いを覚えている声だったため、ノラはもう一度呼び石を見た。
石の口は、夜の中で黒く並んでいる。奥にはまだ、返事を待つものがいる。レドの声は最後まで覚えられなかった。けれど、諦めたわけではない。
エリオが近くへ来ていた。
「入口には灰鷹を置きます。名前で確認しない手順も、こちらで作ります」
ノラは少しだけエリオを見た。
「嫌な仕事になるよ」
「嫌だと思えるうちに、変えます」
エリオは笑わず、ノラもそれ以上言わなかった。
その時、ヨルが急に耳を立てた。入口の暗がり、石の影の奥に、まだ人の気配があった。ノラは顔を上げたが、姿は見えなかった。
灯りは外へ向いている。入口の内側は暗い。石の穴だけが並び、その奥の一つに、ほんのわずかに濃い影が残っている。
灰鷹と神殿の目がある場所へ踏み込む気はないのだろう。レドを取るには遅すぎる。ここで無理に動けば、男自身の跡が残る。
だが、見ていた。
レドを。紙筒を。入口の前に残るノラを。
風が吹き、呼び石の奥が名にならない音を漏らしたが、ノラはそちらへ顔を向けなかった。
レドの担架はもう遠い。神殿の記録係も、紙筒を抱えて後を追っている。灰鷹の灯りが入口を塞ぐ位置へ動き始めた。
ノラはヨルへ言った。
「帰るよ」
ヨルはすぐには動かず、暗がりを見ていた。ノラも一度だけ入口の奥へ視線をやったが、そこにはもう、ただの石影しかないように見えた。
けれど、石壁の奥で男の声が低く落ちた。
「ノラ」
石の穴からではない。返事を待つ湿った声でもない。人間の喉から出た、低い声だった。




