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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第6章 呼び石の迷宮
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第27話 ここで返すな

挿絵(By みてみん)

石壁の向こうに立った男は、灯りの輪へすぐには入ってこなかった。


薄い外套の裾だけが、石の影から見える。神殿の白も、灰鷹の色もない。旅人のものに似ているが、濡れた石床に置く足の重さが違った。


呼び石の穴を見すぎない。名を呼ぶ風が通るたび、男はわずかに間を置いて、音の端だけを避けるように立っていた。


レドは口元の布を強く噛み直し、頬の筋をこわばらせた。視線はノラから男へ移り、迷宮への恐怖が、人間を知る警戒へ変わった。


男はレドを見た。


「そいつを置いていけ」


声は低かった。大きくはない。けれど、石に無駄に触れない出し方だった。


ノラ・ヴェイルは返さず、レドの腕を自分の肩へ回して石棚の影から少しだけ体をずらした。脇腹の傷は浅いが、血は止まりきっていない。歩かせれば、すぐに倒れる。


男は石の影から距離を詰めた。


「殺す気なら、もう殺している。聞くことがあるだけだ」


ノラはレドの傷を見た。


傷は腕の外側と脇腹、膝の横に散っていた。どれも深くはない代わり、逃げようと体を動かすたびに痛む位置ばかりだった。


「聞く相手の足を切っておいて、親切な顔はしない方がいい」


男が初めてノラへ向けた暗い色の目には、怒りよりも、長く一つの方角を見続けてきた狭さがあった。


「神殿の人間は、立っているうちに嘘をつく」


「倒れたら、もっと言わない」


レドは弱い指でノラの袖をつかんだが、止めるためではなかった。行くなとも、置いていけとも声にできない代わりに、その手だけが離れずにいた。


壁の穴から、細い風が抜けた。


「レド」


男もノラも動かなかった。


レドだけが、ほんのわずかに揺れた。


布を噛んで口を閉じても、呼ばれた名は体の奥まで入り込んでくる。忘れられない音が、自分を探していた。


呼び石は、そこを突いてくる。


「レド」


今度は別の穴から。


「レド・カラム」


姓まで呼んだ。


レドの目が大きく開いた。


歯が布へ食い込む。だが、喉の奥だけが、自分の名を確かめる短い反応を見せた。ここにいる、と言いそうになる体の癖だった。


ノラはすぐに手を伸ばし、レドの口元を布ごと押さえた。


「返すな」


レドの肩が跳ねる。


壁の奥が、待っていたように鳴った。声にはならない。だが、石の穴が一斉に口を開けた気配だけがある。出なかった音を、まだ諦めていない。


男が低く言った。


「そいつに聞くことがある」


ノラはレドを抱え直した。片腕で腰を支え、もう片方で短剣を抜く。刃は男へ向かず、崩れた石棚と床の間に入り、足場を確かめた。


「聞きたいなら外で聞け」


「外へ出せば、神殿が隠す」


「ここで返事をさせたら、この穴が先に覚える」


男の顔が変わった。


眉や口元より先に、視線の置き方が変わった。男の目に映るノラが、邪魔な女から迷宮の仕組みを知る人間へ変わった。そこで初めて、男はノラを確かめる相手として見た。


「お前、神殿の者じゃないな」


ノラは濡れた石穴へ視線を移した。答えれば、男に聞かれ、石にも覚えられる。


レドの足が崩れかけた。ノラは肩で受ける。体重が来た瞬間、脇腹の傷から熱が漏れるように血がにじんだ。


ヨルが石棚の下から出た。


「クル……」


低い声が、近い道を避けろと告げた。


ヨルの向いた先を確かめると、正面の道は広く、来た時にはそちらが入口への近道だった。だが今は壁穴が増え、ひとつ、ふたつと並ぶ暗い口がレドの名を待っている。


ヨルが示したのは、崩れた石材の横にできた細い隙間だった。


声は遠い。床は悪い。レドを運ぶには向かない。けれど、呼び石の口が少ない。


ノラはそちらへ体を向けた。


男はノラがレドを支える側へ、一息で回り込んだ。塞がれた片腕の向こうから、レドを生かしたまま奪う気だ。


ノラは短剣を振る代わりに、足元の平たい石を蹴った。石片が踏み出した靴の前へ滑り、男は転ぶまいと半歩だけ止まる。その遅れを奪い、ノラはレドの靴を石に擦らせながら、細い隙間へ体を滑り込ませた。


レドの靴が床を擦る。痛みで体が跳ねた。声が漏れかける。


ノラは肩で支え直す。痛みを消すより、声を出させない位置へ体を寄せた。


「痛いなら布を噛んで。名前は声にしない」


レドは歯を立てた。


布を噛む力が戻った。


壁が笑った。


「レド」


今度は、レドの声に似ていた。


「ここだ」


レドの体が反射で動く。


ノラは止まらない。止まれば、足元から石が寄ってくる。進めば、壁が追ってくる。呼び石は迷わせる穴ではない。答えを引き出すために、道を少しずつ人の方へ曲げる穴だった。


細い隙間の先で、床が斜めに落ちていた。


ヨルが先に飛び、反対側で振り返る。


「クルッ」


いける、という合図。


ノラがレドの腕を自分の首へ回させると、水袋の紐が指に絡み、手をうまく締められなかった。逃げる間も飲まずに持っていた袋を、まだ放せずにいる。


「捨てて」


レドは首を横に振った。


水ではない。


声を出さずに耐えた時間を、手放せないのだと分かった。ノラはそれ以上言わなかった。


「なら、握って。落とすな」


レドは水袋を胸へ押しつけた。


背後から男の足音が来る。


近い。けれど、男は声を荒げなかった。レドの名も呼ばない。呼べば、迷宮がその呼び方を拾うと分かっている動きだった。


ただの乱暴者ではない。


だから余計に厄介だった。


「神殿でも灰鷹でもない顔で、よくそこまで知ってるな」


男の声が石に低く落ちる。


ノラは振り返らなかった。


「知ってるなら、ここで邪魔をするな」


「俺が欲しいのは、そいつの命じゃない」


「命以外なら削っていいと思ってるの」


男は返さなかった。


その間に、呼び石がまた鳴る。


「助けて」


レドの声ではなかった。


もっと古い。もっと薄い。何度も使われて、誰のものか分からなくなった声だった。それでも、助けを求める形だけは残っている。ここで昔、誰かが本当にそう言ったのかもしれない。あるいは、そう言わせるために穴が覚えた形なのかもしれない。


声へ引かれたレドの顔に、自分もああなるという恐れが浮かんだ。ノラは視線まで奪われる前に、その肩を押さえた。


「見るな。歩く方だけ見て」


レドは苦しそうに目を閉じかけたが、すぐに開けた。閉じれば、自分の名だけが残る。そう分かっている目だった。


細い道の途中で、石壁が寄った。


大きな音はない。肩の横にあった隙間が、少しずつ狭くなる。レドを抱えたままでは通れない幅になりかけていた。


ノラは短剣の柄で壁の穴を叩いた。


乾いた音が響く。


呼び石の口が、一瞬そちらへ反応した。名ではない。ただの音。それでも、待っていた穴は拾おうとする。


その隙に、ノラはレドの体を斜めに押し込んだ。


レドの脇腹が石へ触れる。血が薄く伸びる。喉が動いた。


ノラがすぐ口元の布を押さえると、レドも自分で噛み、内側に息だけが詰まった。声を奪い損ねた壁の奥で何かが舌打ちのように鳴り、その音へ重なる足取りで男が追いつきかけた。


ノラは石壁のくぼみを踏み、まずレドを隙間の先へ押し出した。後から抜けようとした外套の端を男の手がかすめ、布が裂ける。それでも体までは届かない。ヨルがその進路へ飛び込んで石粉を跳ね上げると、男は小さな体を踏まぬよう、わずかに足を置き直した。


その一瞬、ノラは見た。


男は迷宮と同時に、レドとヨルの生死も測っている。


レドを生かしておく理由がある。ヨルも無駄には潰さない。けれど、その線の内側なら、どれだけ傷つけても迷わない。乱暴さより、線引きの冷たさが際立つ相手だった。


ノラはレドを引き寄せ、先へ行けという合図の二本指をヨルへ向けた。走り出したヨルの先、通路の奥には薄い光があった。


外の光ではない。入口までの石の折れ目から漏れる、灰鷹の灯りかもしれない。まだ遠い。けれど、石の穴が少ない。風の鳴り方も浅くなっている。


レドの膝が落ちた。


ノラは支えきれず、片膝をつく。レドは水袋を抱えたまま、口元の布を押さえていた。血のついた布が、歯の形にへこんでいる。


壁が、やさしい声を出した。


「レド・カラム」


レドの顔が光の方から外れた。


「帰れるよ」


それは、レド自身の声に近かった。


自分で自分へ言いたかった言葉。口に出せば、本当に外へ出られる気がする言葉だった。


レドの喉が震える。


ノラはレドの前にしゃがんだ。


「ここで言わない」


レドがノラを見た。


「外で、自分の声で言えばいい」


布の奥で、レドの歯が音を立てた。


レドは言葉を布の奥へ噛み戻した。


代わりに、水袋を握る手が震えながら、ノラの袖をつかんだ。


ノラは立ち上がる。


男は、少し離れたところで止まっていた。


壁の穴がまだレドを呼んでいる。ここで男が踏み込めば、レドは痛みで何かを漏らすかもしれない。そうなれば、男が聞きたい答えより先に、呼び石がレドの声を覚える。


男にも、それは分かっていた。


「そいつを外へ出しても、神殿は喋らせない」


「あなたがここで奪うよりはまし」


「俺を知らないくせに、よく言う」


「知ってたら、助け方を変えるの?」


男の口元がそこで少しだけ動いたものの、笑いではなかった。ノラがレドを支えて光の方へ進むあいだも、探るような視線が背中に刺さっていた。


敵意に、探る色が混じっていた。ノラが何を知っているのか。なぜ呼び石の癖を読めるのか。なぜ神殿にも灰鷹にも属さず、核に近い場所へ入ってくるのか。


男は、その問いを声にしなかった。


ただ、目だけがノラを追っていた。


壁の穴が、最後にもう一度鳴る。


「レド」


呼び声は弱くなっていた。


取れなかった名を、まだ諦めきれずに舐めている音だった。


レドは布を噛んだまま、光だけを見た。


ノラは短く言った。


「いい。その言葉を持って帰れ」


レドの足が、外の光へ向かって出た。


背後で、男の足音が止まる。


石壁の影に立ったまま、男は呼び石とレドから目を外し、ノラだけを追っていた。


ノラは、レドの重さを肩に受け直した。


光は、まだ遠い。


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