第27話 ここで返すな
石壁の向こうに立った男は、灯りの輪へすぐには入ってこなかった。
薄い外套の裾だけが、石の影から見える。神殿の白も、灰鷹の色もない。旅人のものに似ているが、濡れた石床に置く足の重さが違った。
呼び石の穴を見すぎない。名を呼ぶ風が通るたび、男はわずかに間を置いて、音の端だけを避けるように立っていた。
レドは口元の布を強く噛み直し、頬の筋をこわばらせた。視線はノラから男へ移り、迷宮への恐怖が、人間を知る警戒へ変わった。
男はレドを見た。
「そいつを置いていけ」
声は低かった。大きくはない。けれど、石に無駄に触れない出し方だった。
ノラ・ヴェイルは返さず、レドの腕を自分の肩へ回して石棚の影から少しだけ体をずらした。脇腹の傷は浅いが、血は止まりきっていない。歩かせれば、すぐに倒れる。
男は石の影から距離を詰めた。
「殺す気なら、もう殺している。聞くことがあるだけだ」
ノラはレドの傷を見た。
傷は腕の外側と脇腹、膝の横に散っていた。どれも深くはない代わり、逃げようと体を動かすたびに痛む位置ばかりだった。
「聞く相手の足を切っておいて、親切な顔はしない方がいい」
男が初めてノラへ向けた暗い色の目には、怒りよりも、長く一つの方角を見続けてきた狭さがあった。
「神殿の人間は、立っているうちに嘘をつく」
「倒れたら、もっと言わない」
レドは弱い指でノラの袖をつかんだが、止めるためではなかった。行くなとも、置いていけとも声にできない代わりに、その手だけが離れずにいた。
壁の穴から、細い風が抜けた。
「レド」
男もノラも動かなかった。
レドだけが、ほんのわずかに揺れた。
布を噛んで口を閉じても、呼ばれた名は体の奥まで入り込んでくる。忘れられない音が、自分を探していた。
呼び石は、そこを突いてくる。
「レド」
今度は別の穴から。
「レド・カラム」
姓まで呼んだ。
レドの目が大きく開いた。
歯が布へ食い込む。だが、喉の奥だけが、自分の名を確かめる短い反応を見せた。ここにいる、と言いそうになる体の癖だった。
ノラはすぐに手を伸ばし、レドの口元を布ごと押さえた。
「返すな」
レドの肩が跳ねる。
壁の奥が、待っていたように鳴った。声にはならない。だが、石の穴が一斉に口を開けた気配だけがある。出なかった音を、まだ諦めていない。
男が低く言った。
「そいつに聞くことがある」
ノラはレドを抱え直した。片腕で腰を支え、もう片方で短剣を抜く。刃は男へ向かず、崩れた石棚と床の間に入り、足場を確かめた。
「聞きたいなら外で聞け」
「外へ出せば、神殿が隠す」
「ここで返事をさせたら、この穴が先に覚える」
男の顔が変わった。
眉や口元より先に、視線の置き方が変わった。男の目に映るノラが、邪魔な女から迷宮の仕組みを知る人間へ変わった。そこで初めて、男はノラを確かめる相手として見た。
「お前、神殿の者じゃないな」
ノラは濡れた石穴へ視線を移した。答えれば、男に聞かれ、石にも覚えられる。
レドの足が崩れかけた。ノラは肩で受ける。体重が来た瞬間、脇腹の傷から熱が漏れるように血がにじんだ。
ヨルが石棚の下から出た。
「クル……」
低い声が、近い道を避けろと告げた。
ヨルの向いた先を確かめると、正面の道は広く、来た時にはそちらが入口への近道だった。だが今は壁穴が増え、ひとつ、ふたつと並ぶ暗い口がレドの名を待っている。
ヨルが示したのは、崩れた石材の横にできた細い隙間だった。
声は遠い。床は悪い。レドを運ぶには向かない。けれど、呼び石の口が少ない。
ノラはそちらへ体を向けた。
男はノラがレドを支える側へ、一息で回り込んだ。塞がれた片腕の向こうから、レドを生かしたまま奪う気だ。
ノラは短剣を振る代わりに、足元の平たい石を蹴った。石片が踏み出した靴の前へ滑り、男は転ぶまいと半歩だけ止まる。その遅れを奪い、ノラはレドの靴を石に擦らせながら、細い隙間へ体を滑り込ませた。
レドの靴が床を擦る。痛みで体が跳ねた。声が漏れかける。
ノラは肩で支え直す。痛みを消すより、声を出させない位置へ体を寄せた。
「痛いなら布を噛んで。名前は声にしない」
レドは歯を立てた。
布を噛む力が戻った。
壁が笑った。
「レド」
今度は、レドの声に似ていた。
「ここだ」
レドの体が反射で動く。
ノラは止まらない。止まれば、足元から石が寄ってくる。進めば、壁が追ってくる。呼び石は迷わせる穴ではない。答えを引き出すために、道を少しずつ人の方へ曲げる穴だった。
細い隙間の先で、床が斜めに落ちていた。
ヨルが先に飛び、反対側で振り返る。
「クルッ」
いける、という合図。
ノラがレドの腕を自分の首へ回させると、水袋の紐が指に絡み、手をうまく締められなかった。逃げる間も飲まずに持っていた袋を、まだ放せずにいる。
「捨てて」
レドは首を横に振った。
水ではない。
声を出さずに耐えた時間を、手放せないのだと分かった。ノラはそれ以上言わなかった。
「なら、握って。落とすな」
レドは水袋を胸へ押しつけた。
背後から男の足音が来る。
近い。けれど、男は声を荒げなかった。レドの名も呼ばない。呼べば、迷宮がその呼び方を拾うと分かっている動きだった。
ただの乱暴者ではない。
だから余計に厄介だった。
「神殿でも灰鷹でもない顔で、よくそこまで知ってるな」
男の声が石に低く落ちる。
ノラは振り返らなかった。
「知ってるなら、ここで邪魔をするな」
「俺が欲しいのは、そいつの命じゃない」
「命以外なら削っていいと思ってるの」
男は返さなかった。
その間に、呼び石がまた鳴る。
「助けて」
レドの声ではなかった。
もっと古い。もっと薄い。何度も使われて、誰のものか分からなくなった声だった。それでも、助けを求める形だけは残っている。ここで昔、誰かが本当にそう言ったのかもしれない。あるいは、そう言わせるために穴が覚えた形なのかもしれない。
声へ引かれたレドの顔に、自分もああなるという恐れが浮かんだ。ノラは視線まで奪われる前に、その肩を押さえた。
「見るな。歩く方だけ見て」
レドは苦しそうに目を閉じかけたが、すぐに開けた。閉じれば、自分の名だけが残る。そう分かっている目だった。
細い道の途中で、石壁が寄った。
大きな音はない。肩の横にあった隙間が、少しずつ狭くなる。レドを抱えたままでは通れない幅になりかけていた。
ノラは短剣の柄で壁の穴を叩いた。
乾いた音が響く。
呼び石の口が、一瞬そちらへ反応した。名ではない。ただの音。それでも、待っていた穴は拾おうとする。
その隙に、ノラはレドの体を斜めに押し込んだ。
レドの脇腹が石へ触れる。血が薄く伸びる。喉が動いた。
ノラがすぐ口元の布を押さえると、レドも自分で噛み、内側に息だけが詰まった。声を奪い損ねた壁の奥で何かが舌打ちのように鳴り、その音へ重なる足取りで男が追いつきかけた。
ノラは石壁のくぼみを踏み、まずレドを隙間の先へ押し出した。後から抜けようとした外套の端を男の手がかすめ、布が裂ける。それでも体までは届かない。ヨルがその進路へ飛び込んで石粉を跳ね上げると、男は小さな体を踏まぬよう、わずかに足を置き直した。
その一瞬、ノラは見た。
男は迷宮と同時に、レドとヨルの生死も測っている。
レドを生かしておく理由がある。ヨルも無駄には潰さない。けれど、その線の内側なら、どれだけ傷つけても迷わない。乱暴さより、線引きの冷たさが際立つ相手だった。
ノラはレドを引き寄せ、先へ行けという合図の二本指をヨルへ向けた。走り出したヨルの先、通路の奥には薄い光があった。
外の光ではない。入口までの石の折れ目から漏れる、灰鷹の灯りかもしれない。まだ遠い。けれど、石の穴が少ない。風の鳴り方も浅くなっている。
レドの膝が落ちた。
ノラは支えきれず、片膝をつく。レドは水袋を抱えたまま、口元の布を押さえていた。血のついた布が、歯の形にへこんでいる。
壁が、やさしい声を出した。
「レド・カラム」
レドの顔が光の方から外れた。
「帰れるよ」
それは、レド自身の声に近かった。
自分で自分へ言いたかった言葉。口に出せば、本当に外へ出られる気がする言葉だった。
レドの喉が震える。
ノラはレドの前にしゃがんだ。
「ここで言わない」
レドがノラを見た。
「外で、自分の声で言えばいい」
布の奥で、レドの歯が音を立てた。
レドは言葉を布の奥へ噛み戻した。
代わりに、水袋を握る手が震えながら、ノラの袖をつかんだ。
ノラは立ち上がる。
男は、少し離れたところで止まっていた。
壁の穴がまだレドを呼んでいる。ここで男が踏み込めば、レドは痛みで何かを漏らすかもしれない。そうなれば、男が聞きたい答えより先に、呼び石がレドの声を覚える。
男にも、それは分かっていた。
「そいつを外へ出しても、神殿は喋らせない」
「あなたがここで奪うよりはまし」
「俺を知らないくせに、よく言う」
「知ってたら、助け方を変えるの?」
男の口元がそこで少しだけ動いたものの、笑いではなかった。ノラがレドを支えて光の方へ進むあいだも、探るような視線が背中に刺さっていた。
敵意に、探る色が混じっていた。ノラが何を知っているのか。なぜ呼び石の癖を読めるのか。なぜ神殿にも灰鷹にも属さず、核に近い場所へ入ってくるのか。
男は、その問いを声にしなかった。
ただ、目だけがノラを追っていた。
壁の穴が、最後にもう一度鳴る。
「レド」
呼び声は弱くなっていた。
取れなかった名を、まだ諦めきれずに舐めている音だった。
レドは布を噛んだまま、光だけを見た。
ノラは短く言った。
「いい。その言葉を持って帰れ」
レドの足が、外の光へ向かって出た。
背後で、男の足音が止まる。
石壁の影に立ったまま、男は呼び石とレドから目を外し、ノラだけを追っていた。
ノラは、レドの重さを肩に受け直した。
光は、まだ遠い。




