第26話 返事のない道
声のしない方の道は、狭かった。
石切り場の外から見えた白い壁は、内側では灰色に沈んでいる。削られた石の面に、小さな穴がいくつも開き、灯りを向けると、その奥だけが濡れたように光った。
風は少ないのに、壁の穴はときどき鳴った。誰かが遠くで息を吸い、喉を鳴らす直前で思いとどまったような浅い音が、声になれないまま石の中へ溜まっている。
ヨルはノラ・ヴェイルの少し前を歩き、何度も足を止めて床を嗅ぎ、壁から離れたり寄ったりした。声の強い方を避け、名を呼ぶ音が近づくほど耳を伏せて別の道を選んだ。
奥から、また聞こえた。
「レド」
ノラは足を止めなかった。
少し遅れて、前方の角が遠くなった。
大きな音はしない。壁が崩れたわけでもない。けれど、灯りの輪の端にあった曲がり角が、一歩ぶん奥へずれた。床の砂も、さっきまでノラの足元へ流れていたはずなのに、今は向こうへ引かれている。
呼ばれた名に返事がない。
だから、道を遠くした。
声を出させるために。進むほど近づくのではなく、黙るほど遠くなる道だった。
ノラは灯りを少し下げた。
声の近さは、レドまでの距離を示さない。返事を待つ場所だけが近づいてくる。
ヨルは声のした道から半歩離れ、別の角へ鼻先を向けた。
「分かってる」とノラは低く返した。
自分の声が石に触れた気がして、そこで口を閉じる。
壁の穴から、細い風が抜けた。
名を呼ぶほどはっきりしていない。けれど、喉の奥を撫でるように鳴る。ノラの口の中が乾いた。咳でも、短い返事でも、何かを漏らせば、それで十分だと言われているようだった。
ノラは自分のためではなく、見つけた相手に使う清潔布へ手をかけた。そのとき壁際で止まったヨルの鼻先に、白い布の切れ端が落ちているのを見つけ、ノラはしゃがみ込んだ。
神殿の印がある布は唾液で湿り、端には血がついていた。丸めて何度も歯を立てた跡に沿って、繊維がほつれている。
レドが声を出さないため、自分で噛みしめていた布だ。ノラは拾おうと手を伸ばしかけたが、その動きを途中で止めた。
布の端が、風もないのに石の穴へ寄ろうとしていた。壁の奥が、それを舌で探るように小さく震えている。
「触らない」とノラが言うと、ヨルは布から鼻を離した。
布を残し、先へ進む。
少し奥へ入ると、壁に細い印があった。
石針で削ったような線が三つ並び、そのうち一つだけ途中で潰れている。神殿の検分役が残した目印と見て、ノラは指を近づけながらも触れなかった。
戻るための印にも見えたが、入口より奥へ向かう線の方が多い。避難ではなく奥を探るための印なら、神殿の目的は迷った人間の救助だけでは済まないと判断し、ノラは壁から目を離した。
そのときヨルが床へ鼻を寄せ、低く喉を鳴らした。辿っていたのは、血の匂いだった。
ノラは膝をつき、石床を見た。灯りを近づけると、薄い赤がひと筋、砂に混じっている。血は新しく、壁で擦った筋とも、魔物の爪とも違った。
浅く、刃物で切られている。
何度も入っている。
逃げる相手を止めるように、何度か傷をつけられた者の血だった。
「魔物じゃない」とノラは短く言った。
ヨルは答えず、崩れた石棚の方へ向かった。石棚は、かつて切り出した石材を積んだ跡らしく、今は半分が沈んで壁と床の間に斜めの隙間を作っている。その奥に、人の足が見えた。
ノラは灯りを下げる。
名は呼ばない。
代わりに、石棚を軽く叩いた。乾いた音が一つだけ響く。
奥で布の擦れる音がしたため、まだ生きていると判断したノラは、石棚の隙間へ体を入れた。その先に男がいた。
三十前後。神殿の外套は裾が裂け、泥と石粉で色が分からなくなっている。腕に切り傷。脇腹にも浅い傷。膝のあたりには転んだ痕があり、額にも石で打ったらしい痣があった。
男はノラを見ても助けを呼ばず、先に口元の布を噛み直した。
血で赤くなった布だった。強く噛みすぎて、頬の筋がこわばっている。もう少しで布そのものを噛み切りそうだった。
ノラは近づきすぎずに言った。
「声を出さないで聞いて。助けに来た」
男は目だけでうなずいた。
レド・カラム。
神殿側の者が入口でそう呼んでいた。だが、ここでは名を確認せず、本人の口から返事も取らない。
ノラは腰袋から清潔布を出し、男の口元の布と並べて見せた。男はうなずけない。古い布を外す一瞬に声が漏れ、開いた喉へ石が入り込む。そう思っているのが、布に沈む歯の深さで分かった。
ノラは急がせず、ヨルも石棚の外へ回って逃げ道だけを見張った。やがて男の目が、古い布からノラの持つ布へ動き、小さくうなずく。汚れた布を抜いた呼吸の間に清潔布を押し当てると、男はすぐに自分の歯で捕まえた。声は出ない。張りつめていた肩が、それでようやく一息ぶん下がった。
「よく黙ってた」
男の目が揺れた。
石に聞かれるため、礼は言えない。それでも、噛んだ布の上で頬の硬さがわずかに崩れ、助けを呼ばずに待った時間がそこで少しだけ報われた。
ノラは傷を見る。
腕の浅い切り傷は、何度も同じ向きに入っている。脇腹の傷も、動きを鈍らせる深さに抑えてあった。狙いは、レドを生かしたまま口を開かせることだ。足元には水袋が落ち、男の指がその紐に絡んでいた。
ノラが水袋を手に取ると、ほとんど中身が残ったままで、ずしりと重かった。
水袋は飲み尽くしたのではなく、飲めずに重いままだった。飲むには布を外さなければならない。口を濡らせば、声も出やすくなる。
男は、喉が乾いても飲まなかった。
ノラは水袋を戻す。
「外に出たら飲ませる。今は布を離さないで」
男がまた目だけでうなずいたとき、石棚の外でヨルが低く唸り、その警告に続いて壁の向こうから足音が聞こえた。
足音は軽く、石の沈み方を知っている者らしく、迷いがない。
男の顔色が変わり、恐怖の向きが迷宮から別のものへ移った。
ノラは灯りを少し伏せた。
足音が止まる。
石壁の向こうから、男の声がした。
「核を見に来たんだろう。誰の指示だ」
レドの指が、水袋の紐を強く握った。
レドは迷宮から逃げていただけではない。
誰かからも逃げていた。呼び石は名を待ち、その男は答えを待っている。二つの待ち方が、同じ場所でレドを挟んでいた。
布の下で、レドが何かを言おうとした。喉が動く。声になる前に、ノラは指を立てた。
「今は喋らない。返事じゃなくても、この穴は口から出た音を覚える」
レドは喉の動きを止めた。
壁の穴が、湿った音を立てる。
奥から、また声がした。
「レド」
さっきより近い。
そして、少しだけレドに似ていた。
まだ真似の途中で、声の高さも語尾の沈み方も少し違う。それでも本人には十分だったのだろう。レドの顔から、さらに色が引いた。
自分の声が目の前で作られていると、レドは気づいた。
ノラはレドの肩へ手を添える。
「立てる?」
レドは首を横に振った。
膝下の布は破れ、傷には石粉と血が混じっていた。この足で立てば痛みに息が乱れ、声が漏れる。呼び石はまさにそれを待っている。
ノラは縄を抜き、レドの体を自分の肩へ引き寄せた。背負えば石棚の隙間を抜けられず、引きずれば傷が石を擦って声を引き出す。それなら片肩で重さを受け、胴を縄で繋いだまま一緒に歩くしかない。追ってくる誰かの答えより、先にレドを外へ出す。ノラはその順番を、レドの重みとともに肩へ載せた。
ヨルが石棚の外で、さらに低く鳴いた。
足音が近づいている。
今度は隠す気がなかった。
ノラは短剣の柄に触れたものの、抜かなかった。ここで刃を見せれば相手も足を速めるため、まずはレドを動かす。
壁の向こうで、石が小さく鳴った。
灯りの端に、男の影が立った。
顔はまだ見えない。外套の裾と、石粉のついた靴だけが、光の縁に入っている。
レドの唇が、布の下でかすかに動いた。
声にはならない。
それでも、その名を飲み込んだだけで、レドの顔色は変わった。




