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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第6章 呼び石の迷宮
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第25話 名目は所在確認

挿絵(By みてみん)

呼び石の紙は、腰袋から出し直され、机の上に開かれていた。


夜風が戸の隙間から入り、灯りの火と紙の端を細く揺らしている。神殿の印は灰鷹の委託印より大きい。それでも、そこにあるのは「所在確認」という、一人が戻らない夜にはあまりに軽い名目だった。


ノラ・ヴェイルはその名目から目を離し、清潔布を四枚、腰袋へ入れた。傷を巻くためではない。呼び石が名を使うなら、救いに入った者の口を、傷より先に守らなければならない。


ノラは人を連れ出す縄と灯りを先に収め、外まで命をつなぐ水袋と傷止めを重ねた。短剣、小さな火薬袋、湿りにくい紙包みへと、指はいつもの順に動く。恐れの中でも誰を連れ帰るのかを見失わないために、何度も体へ覚えさせてきた動きだった。


最後に呼び石の紙を折り直し、腰袋の内側へ戻した。


戸口では、エリオ・カーンが待っていた。


灰鷹の外套に残る夜露と少し乱れた髪が、急いで来たことを物語っていた。それでも息だけは整え、焦りをそのまま相手へ向けまいとする顔を保っている。


「戻る予定は」


「日没前です。もう、とっくに過ぎています」


「持って入ったものは」


エリオは唇を横へ引いた。


「検分灯と記録板だけです。神殿側は、短時間で戻るつもりだったようです」


エリオは外套の袖を握り直した。


「入口までは案内します。そこから先は、俺が勝手に立ち会ったことにしてください」


「灰鷹じゃなくて、エリオとして?」


「そうしないと、神殿の手続きに灰鷹が踏み込んだことになります。俺一人で背負える紙じゃありません。けれど、入口で待つことはできます」


「分かった」


「分かってもらう話じゃないんですけどね」


「納得できないなら、出した後で怒ればいい」


エリオは一拍、口をつぐんだ。


「怒る相手が多すぎます」


「なら、順番に」


苦く笑いかけた顔が途中で止まった。中にいる人間の重さに比べ、紙の名目が軽すぎて笑えなかったのだろう。


ミミが、寝支度の途中で椅子の横に立っていた。髪を結び直しかけたまま、ノラの手元を見ている。


「今日は、包帯より布が多いです」


「口を塞ぐ用」


「呼ばれたら、返事しちゃだめな迷宮ですか」


「自分の名前なら、特にね」


ミミの眉間に、嫌そうな皺が寄った。


「それ、知らない声より嫌です」


「嫌な方を選んで呼ぶ穴だから」


ノラは視線を戸口のヨルへ移した。


ヨルはいつもより低い位置で立っている。小さな黒い体は動かないのに、耳だけが外の音を拾っていた。


「ヨルの声でも、すぐ返事しないでください。かわいい声でも危ないです」


ヨルが不服そうに短く鳴いた。


「クル」


ノラは目を細めた。


「今のは抗議」


ミミは布を畳み直す。


「なら大丈夫です。抗議なら、間違えません」


それ以上、ミミは引き止めず、怖い顔もしなかった。けれど、送り出すために口を閉じたのが分かった。


ノラは戸口で一度だけ振り返って言った。


「戸は掛けて。誰か来ても、エリオの声だけで開けないで」


ミミはすぐにうなずいた。


「ヨルがいない時は、声だけで開けません」


「それでいい」


エリオは肩を落としたが、何も言わなかった。言えば、ミミが本気で理由を説明する。それを分かっている顔だった。自分の声も危ないものとして扱われたことを、冗談にしないで受け取っている。


ヨルが鼻を鳴らした。


夜の道は、昼とは別の町に見えた。


広場の掲示板には、もう人はいない。昼間に太い字で人を集める札も、今は夜露を吸って少し波打っている。呼び石の紙は、ノラの腰袋の中にあった。


軽い紙だ。


けれど、その名目で人が動く。


小さな靴の重さは、もう手元にない。それでも、軽いものを誰かへ運ばせる手の形だけは、まだ指先に残っていた。


エリオは道を選び、大通りや灰鷹の灯りが届きすぎる場所を避けて進んだ。隠れるためではなく、大きく動いていると周囲に悟らせないための選択だった。


「神殿側は、どこまで人を出しているの」


「入口に数人です。見張りというより、紙を守る人たちに見えました」


「紙」


「検分の記録と、立ち入りの印です。担架は、こちらが持っていくまで出ていませんでした」


エリオの声が硬くなる。


「戻っていない人間がいるのに」


「だから行く」


「はい」


町外れを抜けると、石の匂いが強くなった。


古い石切り場は、夜の中で白く浮いていた。切り出された壁が段になり、雨水の跡が黒い筋になって落ちている。削られた面には、小さな穴がいくつも並んでいた。


遠くから見ると、石に口があるようだった。


風が通る。


ひゅう、と細い音がして、次にそれが誰かの名を呼びかけたように歪んだ。


ノラが立ち止まらずに進むなか、ヨルは先に石切り場の奥へ走って途中で止まった。鼻先を低くし、一つの石穴を見上げた。


「クル……」


低いが、嫌がっているのではない。見つけた時の声だった。


入口の手前には、神殿側の者が三人いた。


二人は外套の前を合わせ、少し離れた場所で声を落として話している。もう一人は小さな記録板を抱え、印章の入った箱のそばに立っていた。入口のそばだけは不自然に空き、担架も、水や布の備えも見える場所にはなかった。


ただ、紙と印章だけには、濡れないように覆いが掛けられている。


エリオが近づくと、神殿側の一人が顔を上げた。


「灰鷹の方ですね。大きな救助隊を動かす必要はありません。まだ、事故と決まったわけではないので」


エリオは一瞬だけ黙った。


「戻っていないんでしょう」


「検分役が道を誤っただけかもしれません。呼び石は反響も多い。慌てて騒ぎにすると、余計な混乱を招きます」


ノラは入口を見たまま聞いた。


「中で声は」


神殿側の男は、聞かれたくない部分に触れられたように目を細め、視線を一瞬だけ逃がした。


「……名を呼ぶような音は、ありました」


「誰の名」


「レド。レド・カラム。検分役の名です」


エリオの肩がわずかに動いた。


名を知る人間がいるなら、その名を呼ぶ声を聞いた者もいるはずだ。それでも神殿側が「所在確認」と言い続ける食い違いは、もう隠しようがなかった。


ノラが石切り場の入口へ歩くと、エリオが横に並ぼうとして止まった。


「ここから先は、俺が入ったことにできません」


「入らなくていい」


「いいわけじゃありません」


エリオは声を低くした。


「でも、俺が入れば、灰鷹が神殿の検分に踏み込んだことになります。今の人数では、命令違反で終わらせられる」


ノラは入口の暗がりを見た。


「なら、ここで待って。出したら受け取って」


「出せなかったら」


「その時は、別の言葉を考える」


「縁起でもないことを言わないでください」


「縁起で人は出ない」


エリオは言い返さず、代わりに持っていた灯りを一つ、入口の石のくぼみに置いた。倒れにくい場所を選んでいる。彼も現場を知らない人間ではない。


「ここを空けておきます」


「うん」


神殿側の者が、口を挟もうとした。


「中へ入るなら、先に記録を――」


風が止むと、石切り場の奥で誰かが息を吸ったような音がし、それが石の穴を順に渡って、最後に声となった。


「レド」


誰も動かなかった。


大声で助けを求めるのではなく、耳元で名を試し、返す気配を測るような声だった。


ヨルがノラの足元へ戻って低く喉を鳴らすと、神殿側の一人が反射的に息を吸った。そのわずかな反応を拾うように、入口の石穴が濡れた。


雨ではない。水が染み出したわけでもない。石の内側だけが、喉の奥のように薄く光った。


ノラは手を上げた。


「答えないで」


ノラの警告を受けて神殿側の男は息を止め、エリオも口を結んだ。全員が黙った隙へ、声がもう一度落ちた。


「レド。返事をして」


入口の奥で、石が鈍く鳴った。


細い砂が穴の縁からこぼれる。まっすぐ続いていたはずの暗がりが、ほんの少しだけ横へずれたように見えた。誰かが応じれば、道は今すぐ形を変える。そう思わせる動きだった。


ノラは入口の石に手を触れた。


冷たい。


けれど、冷たいだけではない。石の奥で、何かが耳を澄ましている。人の言葉を待っている。名前を呼び、相手が自分だと認める瞬間だけを待っている。


ノラはエリオを振り返らなかった。


「受け取る場所を空けておいて」


「ノラさん」


「名前を呼ばれても、答えないで。私の声でも」


エリオは、言いかけた言葉を飲み込んだ。


さっきまで神殿へ言い返そうとしていた口が、呼び石の前では動かない。ここでは、気持ちで声を出すことが、そのまま危険になる。


ヨルが入口の暗がりへ鼻先を向け、前足を一歩だけ踏み入れた。その黒い背へ灯りの輪を滑らせ、ノラも足を進める。


「行くよ、ヨル」


神殿側の一人が、そこで反射的に口を開いた。


その形が、レドの名になる前に、エリオが腕で遮った。


「呼ぶな。今は、呼ぶ方が危ない」


神殿側の男は、戸惑った顔でエリオを見た。


「しかし、中にいるなら」


「だからです」


エリオの声は低かった。


「呼んで出る穴なら、もう出ています。出ていないから、呼び返させようとしているんです」


その言葉で、入口のざわめきがすっと引いた。


ノラは石の暗がりへ足を入れた。


中は、外よりも風が少ない。けれど、壁の穴だけが、こちらを見ているように並んでいる。


ヨルはまっすぐではなく、声のした方を避け、石の乾いた匂いが薄く残る道を選んで先へ進んだ。


背後で、石切り場の風がまた細く鳴った。


「レド」


ノラは振り返らなかった。


ヨルだけが低く喉を鳴らし、二人は声のしない方の道へ入った。


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