第24話 あの子のもの
「それは、あの子のものです」
庭の空気が、そこで止まった。
ノラ・ヴェイルはすぐには答えなかった。マルヤに背を支えられたニカが、小さな靴を差し出した。ノラはそれを受け取り、片手で抱えた。ニカはまだ布を口元に当てていた。噛んではいない。けれど、外していいか分からない顔で、両手だけが布を握りしめている。
「喋らなくていい。先に水」
ノラが言うと、ニカは小さくうなずいた。マルヤ・センドは灯口の者を呼んだ。
「奥の声を聞いていた子よ。問い詰めないで。喉と息を見て、座らせておいて」
「物置は」
「後。今はこの子」
灯口の男がニカを支えた。ニカは歩けたが、膝に力が入っていない。庭石につまずきかけ、マルヤが背中を押さえた。ノラの手元には、小さな靴が残っていた。
何度も直された靴には、外を歩いた跡がない。内側だけが、部屋の同じ場所を往復したようにすり減っていた。サイラスは門の方から、小さな靴だけを見ていた。
その横には、さっき物置を止めていた管理人の男もいた。肩で息をしており、誰かを呼びに走ったらしい。ノラは小さな靴を握り直した。
「配達の子を、奥へ入れた」
サイラスはすぐには答えなかった。
物置の戸は半分壊れている。内側から湿った白いものが板の隙間に残り、庭の乾いた空気の中で少しずつ縮んでいた。奥からは、もう子どもの声はしない。けれど、静かになったから安全になったわけではない。
「届け物を頼んだだけです」
サイラスはそう言ったが、怒りも慌ても見せなかった。言葉だけなら、ただの手配だった。
ノラは門の方へ近づき、サイラスが靴だけを見て、ニカには目を向けないことを確かめた。
「声を出したら、あの奥がその声を覚える。次は、その声で呼ぶ。知っていた?」
サイラスは靴を見たままだった。答えなかった。管理人の男が何か言いかけたが、マルヤが視線だけで止める。ヨルはノラの足元から離れず、低く喉を鳴らしていた。
サイラスはようやく顔を上げた。
「戻してください。あの子は、その靴を覚えている」
「あの子って誰」とノラは聞いた。
サイラスは薄く笑った。
「名前を聞けば、あなたは扱いを変えるんですか」
「変えない」とノラは低く答えた。「ニカを危ない場所に入れたことは変わらない」
サイラスの笑みが、少しだけ薄くなった。靴を奪われたことより、その靴がただの証拠として扱われることの方が、サイラスにはこたえている。マルヤが、ノラの横へ並んだ。
「サイラス。古い相談記録に、あなたの家の子どもの名前を見たことがあるわ」
マルヤは記録帳を開かず、覚えている処置欄をそのまま口にした。
「神殿照会の担当はエルマン・オーリス。応答なし、祈り継続、部屋と遺品を動かすな。当時は、遺族を急かさないための言葉だと思ったわ」
彼女は履かれていない靴を見た。
「今は、返事のない相手を呼び続けさせる手順に見える」
サイラスはマルヤを見た。否定はしなかった。肯定もしなかった。
「灯口の紙は、人を残すより、減らす方が得意ですね」
マルヤは記録帳の留め紐をほどいた。
「減らしたくないから、今ここにいるのよ。あの子も、ニカも、紙の外へ落とさない」
「その言い方は、立派ですね」
「立派な言い方で済ませる気はないわ」
マルヤの声は冷えていた。サイラスは何も言わなかった。視線がまた、靴へ戻る。
ヨルがノラの手元へ鼻を近づけた。小さな靴を嗅ぐと、庭と物置へ鼻を巡らせ、最後に耳を伏せた。靴へは戻らない。
ノラは、その意味をサイラスに言わなかった。ここで言えば、サイラスは別の言葉で包む。死んでいるとも、生きているとも、戻るとも、待っているとも言える顔をしている。
サイラスが静かに言った。
「奥で子どもが寒いと泣いているのを、あなたなら何もせずに閉じられますか」
分かりやすい言葉だった。だからこそ、嫌だった。
寒い。ひとり。泣いている。そこだけ聞けば、誰でも戸を開けたくなる。ニカもそうした。靴を届け、薬を置き、ありがとうと言おうとした。
ノラがニカの方を見ると、ニカは灯口の男に支えられ、庭の端の石へ座らされていた。布は口元から外していたが、まだ膝の上で握っている。目はサイラスではなく、物置の戸を見ていた。あの子を置いてきた。
そう思っている顔だった。ノラはサイラスへ向き直った。
「助けたい子がいるなら、別の子を奥へ入れるな」
サイラスの目が、ほんの少し細くなる。
「それしか残っていない子もいます」
「ここにいない子のために、生きている子を使うな」
庭の外を荷車が通った。車輪の音が石畳を叩き、すぐに遠ざかる。町はまだ動いている。夕方の支度も、明日の仕事も、帰る家も、戻らない子のことも、全部同じ道を通っていく。
サイラスは言い返さず、咳き込むニカではなく靴の縫い目を見続けていた。マルヤが前へ出る。
「この家の奥は封鎖する。けれど、安全とは書かないわ。声が残っていること、配達の子が危なかったこと、小さな靴を回収したこと、全部残す」
管理人の男が顔を上げた。
「そこまで記録に残す必要は――」
「あるわ」
「都合の悪いところから残すの」
マルヤは男を見た。
「記録に残す必要があるの。あの子は戻っていないのに、『手前で帰したはず』で済まされかけた。今度は、はず、では済ませない」
男が口を閉じると、サイラスは穏やかに言った。
「紙に書ける形で残っていれば、どうぞ」
マルヤの顔が冷えた。ノラも「紙に書ける形」という逃げ道を覚えた。ニカが奥へ入り、声を奪われかけた事実を、曖昧の一語で紙の外へ落とさせる気はなかった。
ノラは小さな靴をマルヤへ渡した。
「灯口で預かって」
ニカが顔を上げた。
「奥へ、戻さないんですか」
声は小さかった。かすれていたが、ちゃんとニカの声だった。ノラはニカの方へ歩いた。
「戻さない」
「あの子、まだ奥にいます」
「子どもみたいに聞こえる声は、まだ奥にある」
「助けないんですか」
ニカは膝の上の布を、噛み跡が隠れる向きへ折った。ノラは膝を折り、ニカと目の高さを合わせた。
「助けるなら、君を奥に向けて喋らせない。喋ったら、あれに覚えられる」
ニカはマルヤの手の靴を見た。膝の布を、自分の胸へ引き寄せた。
「私、ありがとうって言いそうでした」
「最後までは言わなかった」
「少し言いました。最初の方で」
「覚えられた分は消せない。今ここで喋っている声を、自分のものとして覚えて」
ニカは自分の喉に触れた。
「あの声、私の声を真似しました」
「同じ声でも、奥から来たら君じゃない」
「……はい」
ニカは自分の声を守った布を握り直し、噛み跡の皺をさらに深くした。それを確認してから、マルヤは灯口の者へ指示を出した。
「戸口に封鎖縄を。物置の奥には誰も入れない。靴は相談所で預かる。靴屋へは私から話すわ」
「サイラス側へは」
「私が対応する」
物置だけでなく荷の流れも止める意思を示し、マルヤはサイラスを正面から見た。
「受け取らないなら、そのことも残す」
記録に残すという警告を受けても、サイラスは反論せず、軽く頭を下げただけだった。
「灯口の仕事を邪魔する気はありません」
「もうしたわ」
マルヤが言葉を切ると、サイラスは笑みを消したまま門へ向かったが、去り際にノラの前だけで足を止めた。
「あなたも、何でも灰鷹へ預ける人ではないのでしょう」
ノラは答えなかった。脳裏には、煤釘の耳飾りや灰喉、赤錆の核を、名だけ記して小屋の棚下へ隠した箱が浮かんでいた。売ることも手放すこともできず、自分で持ち続けているものだ。
他人を使って品を集めるサイラスの奥の部屋と、ノラが一人で抱える箱は、違うはずなのに近い形をしていた。
ノラの指が、腰袋の縫い目を探った。「違う」と言うには、小屋の箱が近すぎた。
サイラスが全部を知っているわけではない。けれど、近づいている。
ノラが誰かを助ければサイラスは観察し、その流れを止めれば覚え、迷宮を閉じれば隠した核を探る。追われる側になったことを悟り、ノラはサイラスを見返した。
「次の子は使わせない」
サイラスは少しだけ首を傾けた。
「では、また」
次も同じ薄さで現れる、という確認だった。サイラスは門を出ていった。管理人の男も後に続く。門の外で人影が細くなり、角を曲がって消えるまで、ヨルは低く唸っていた。
マルヤは小さな靴を布で包んだ。
「軽いわね」
「軽いものほど、運ばせやすい」
「嫌な言い方。でも、そうね」
マルヤは布の結び目をきつくした。
「ニカは灯口で休ませる。靴屋へも人を送るわ。あなたは?」
「小屋へ戻る。ヨルがそろそろ怒る」
ヨルが顔を上げ、戸口へ鼻先を向けた。
「その子の判断は、だいたい正しいわ」
ヨルは顔を背け、ニカの方へ鼻先を戻した。ノラは物置を見た。
壊れた戸口には、灯口の者が縄を張り始めている。奥は見えない。けれど、見えない場所に、まだ何かがいる。泣く声を覚え、優しい子を待ち、届け物を口実に次を呼ぶものがいる。
小さな靴はマルヤの腕にあり、ニカの足は庭の土を踏んでいた。
物置の内側で、白いものが戸板を一度擦った。ニカは振り返らなかった。ノラは庭を出た。
夜の色が石畳に落ちるころ、小屋へ着くとミミが戸を開けた。
「遅いです。ヨルも顔が怖いです」
「ヨルは元からこういう顔」
「違います。今日は、怒っている時の丸さです」
ヨルはミミの足元へ行き、袖口を鼻で押した。
「ほら。文句がありますって言っています」
ミミは水桶を寄せた。ノラが腰の布をほどく前に、濡れ布と乾いた布を机へ並べる。手順が少し早くなっていた。
「怪我は」
「大きいのはない」
「小さいのはありますね。手を出してください」
ノラが右手を出すと、指の節に小さな擦り傷があり、爪の間には白い綿のようなものが残っていた。ミミはそれを見て、すぐには聞かなかった。濡れ布で拭き、取れないものだけを細い木片で落とす。
「これ、布じゃないです」
「物置の奥についていたもの」
ミミの手が一瞬止まった。
「また、声を待つものですか」
「うん。今度は、可哀想だから声をかけたくなるもの」
眉間に皺が寄った。
「それ、怖い声より嫌です」
「私も嫌い」
それ以上は聞かず、ヨルの口元に水皿を寄せる。ヨルは水を飲み、途中で顔を上げて戸口を見た。誰かが来る前の顔だった。戸を叩く音がした。
ヨルは戸の前へ行ったが、吠えなかった。灰鷹の紙と、外套に染みついた夜露の匂いに耳を立てても、尾は上がらない。
戸を開けると、外套の襟に夜露をつけたエリオ・カーンが立っていた。手には封をした紙があり、目の下には疲れがある。
「夜にすみません」
「救助?」
「名目は、所在確認です」
挨拶より先に用件を伝えるべきだと判断し、エリオは封じた紙を差し出した。
「呼び石の迷宮。神殿関係者が一名、戻っていません」
ノラが紙を受け取り、そこに記された「呼び石」の名を認めた瞬間、足元のヨルが低く鳴いた。
「神殿側は、あまり騒ぎにしたくないようです。灰鷹だけでは大きく動けません」
「いつ入った」
「今日の昼前です。検分だと聞いています」
「検分」
検分という名目と戻らない一人を同じ紙で扱うことに、エリオは苦い顔をした。
「表には、そう書いてあります」
ノラは紙を腰袋に入れた。戻らない人間がいる。それなら、名目が何であっても、ただの確認では終わらない。
小さな靴は、もう手元にない。それでも、指先にはまだ残っていた。
「支度するよ、ヨル」
ヨルは戸口で待っていた。エリオは戸口を離れず、支度が整うのを待った。




