第23話 綿の小口
ノラは戸板の継ぎ目に刃を入れた。
木の割れる音はしなかった。
代わりに、濡れた布を裂くような音がした。古い板の内側に、木とは違うものが入り込んでいる。刃を押し込むたび、ぬるい抵抗が柄まで伝わってきた。
「ニカ。声を出さないで聞いて」
戸の向こうで、衣擦れがした。
声は聞こえない。
口を開かなかったことを、ノラはまず確認した。
「いい。そのまま」
甘い子どもの声が、戸板の奥で笑った。
「ありがとうって、言って」
ニカの息が揺れる。
それだけで、戸の内側にあるものが少し膨らんだ。隙間から白い綿のようなものがのぞく。布の中身に似ている。けれど、綿ならこんなふうに息を吸わない。
ヨルが足元から跳ねた。
戸の右下ではない。鍵穴でもない。ヨルは左上の板目へ鼻先を向け、短く鳴く。
「クルッ」
ノラは刃の角度を変えた。
左上の板目へ短剣を入れる。今度は抵抗が浅かった。押すのではなく、薄い膜を剥がすように刃を滑らせる。戸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
背後では、マルヤが男を止めている声がした。
「聞こえたでしょう。戻っていない子が中にいる」
「だからといって、壊していい場所ではありません」
「壊した戸の話は後で聞くわ。今は中の子よ」
男の声は、そこから小さくなった。
ノラは戸板の隙間へ指をかけた。
黒い熱は使わない。ここで力任せに割れば、内側の何かがニカへ絡むかもしれない。ノラは板目を一つずつ剥がし、湿った白いものを刃先で外した。
戸が内側へ少し開いた。
甘い薬の匂いが流れ出した。
その奥に、古い水の匂いがあった。
「ニカ」
ノラは隙間から中を見た。
物置ではなかった。
いや、物置の形は残っている。棚もある。壊れた箱もある。乾いた箒も壁に立てかけられている。けれど、その奥だけが、子ども部屋のように整えられていた。
小さな椅子。欠けた食器。柔らかい布。修繕した髪飾り。甘い薬の包み。綿を詰め直された人形。
そして、床の中央に、小さな靴が片方置かれていた。
どれも大事に扱われているように見えた。埃は払われ、布は畳まれ、食器は椅子の横にそろえてある。
けれど、食べた匂いがない。
薬を飲んだ匂いもない。
靴は何度も直されているのに、外の土を一度も踏んでいない。
ノラは中へ入った。
ヨルはすぐには続かなかった。入口で鼻を低くし、床の匂いを確かめる。それから部屋の中央を避けて、壁沿いに回った。
ニカは奥の壁際に座っていた。
膝を抱え、片手で口元を押さえている。靴屋で走り回る子の足には、細い擦り傷がいくつもある。大きな怪我はない。けれど、頬の色が悪かった。
「立てる?」
ニカは小さく首を動かした。
声を出さなかった。
それでいい。
ノラは近づきすぎず、床を見る。ニカの足元から奥の割れ目へ、薄い白い筋が伸びていた。糸ではない。綿を細く引いたようなものが、床板の隙間に入り、ところどころで小さく震えている。
壁の奥に、口があった。
大きな穴ではない。
子どもの手なら入る程度の割れ目だった。板壁の後ろに石があり、その石の切れ目が、白い綿に縁取られている。柔らかそうに見える。指を入れれば沈みそうに見える。
だから余計に嫌だった。
ニカが、口元を押さえたままノラを見た。
涙は出ていない。
泣くより先に、言い訳を探している顔だった。
「喋るなら、私の方を見て。奥へ向けないで」
ニカは一度うなずいた。
それから、押さえていた手をほんの少し下げる。
「靴を……届けただけなんです」
声がかすれていた。
ニカは自分の声に驚いたように、喉を押さえた。
割れ目の白い縁が、小さく息をした。
「届けただけなんです」
今の声は、ニカの口から出ていない。
ニカの顔が白くなる。
ノラはすぐに手を上げた。
「今の声を覚えられた。次は出さない」
「私、何回か喋りました」
「全部は覚えられてない」
「でも、あの子が」
白い綿の奥から、子どもの声がした。
「ニカ」
ニカの肩が跳ねる。
声は怖くなかった。
寒気のするほど、優しかった。
「靴、そこに置いて」
ニカの視線が床の小さな靴へ落ちた。
「置いたんです。ちゃんと。なのに、まだ寒いって言ってて。薬もいるって。靴屋のおばさんが、病気の子なら急ぎなさいって言ったから、私、早く渡さなきゃって思って」
「靴屋の人は、中に入れとは言ってない」
「でも、声がしたら見るでしょう。誰もいないところで子どもが呼んでたら、普通、声くらいかけますよ」
ニカの指が、小さな靴へ向いたまま下りなかった。
「ずっと一人なら、誰かの声があるだけで違うじゃないですか。ありがとうって言ってほしいだけなら、それくらい」
「可哀想でも、ここで声を出すな」
ニカの口が止まった。
割れ目の縁が、ゆっくり膨らむ。
「さみしいの」
ニカの目が揺れる。
「あんな声、無視できないです」
「できない子を呼んでる」
「そんな言い方」
「君みたいな子を、待っていた」
ニカは唇を結んだ。
「助けに来たんじゃないんですか」
「君を助けに来た」
ニカは何かを言い返しかけた。代わりに、膝の布をきつく畳んだ。
割れ目が湿った音を立てた。
今度の声は、靴屋の女に似ていた。
「ニカ、急いであげて。病気の子なら、待たせちゃだめだよ」
ニカが息を吸う。
ノラはニカと割れ目の間へ身を入れた。
「それは靴屋の人じゃない」
「でも」
「ここにはいない人の声を、ここで信じるな」
次に、低い女の声がした。
どこか、家で聞く声に似ていた。
けれど、ほんの少し甘すぎた。
ニカの顔が崩れかける。
割れ目の奥が、優しく続ける。
「いい子だから、声を聞かせて」
ニカの喉が動いた。
声が出る。
出てしまう。
ノラは腰袋から畳んだ布を取り出し、ニカへ差し出した。
「噛んで」
ニカは布を見た。
「何で」
「声を止めるため」
「そんなの」
「今声を出したら、君の声で次の子を呼ばれる」
ニカの目に、ようやく涙が浮いた。
それでも泣き声は出さなかった。布を受け取り、口に当てる。歯で噛むまで、少し時間がかかった。噛んだ瞬間、ニカの肩が震えた。
割れ目の白い綿が、幼い泣き声をふくらませた。
「置いていかないで」
ニカの目から涙が落ちる。
布を噛んでいるから、声は出ない。
ノラはその横へ回り、床の白い筋を短剣で切った。切ったところで、綿はすぐに戻ろうとする。完全には断てない。けれど、ニカの足元から奥へ伸びる筋が、少し緩んだ。
ヨルが床の継ぎ目で低く鳴いた。
ノラはそこへ灯りを寄せる。
床板の間に、小さな歯のようなものが並んでいた。
木片ではなかった。
誰かの「はい」。誰かの「いるよ」。誰かの「ありがとう」。短い声ばかりが、床の継ぎ目に留められている。
その端に、ニカの声がまだ薄く絡んでいた。
ノラは割れ目を見た。
閉じたい。
けれど、今ここで床を壊して奥へ進めば、ニカを抱えたまま時間を失う。完全な迷宮ではない。枝口だ。根は残っている。核がどこにあるかも分からない。
今、外へ出すべきものは決まっている。
生きているニカ。
それと、奥へ置いてはいけない靴。
ノラはニカの腕を取った。
「立つよ」
ニカは布を噛んだまま、ぎこちなく立ち上がった。膝が抜けかける。ノラが支える。細い体は軽いはずなのに、部屋の空気が足元を引いていた。
床の中央に置かれた小さな靴が、かすかに動いた。
白い綿が、靴の方へ伸びる。
「それ、わたしの」
ニカの目が靴へ向いた。
ノラは先に言う。
「見るだけ」
ニカは首を横に振った。
布を外そうとする。
ノラはその手を押さえた。
「声にするな。目で言って」
ニカは泣きながら、靴を指差した。
置いていけない。
そういう目だった。
ノラは靴を拾った。
小さかった。片手に乗る。直した跡が多い。底の外側はきれいなのに、内側だけがすり減っている。靴の中には、足の温度が残っていない。
ニカが手を伸ばす。
ノラは靴を渡した。
「抱えて。奥へ置かない」
ニカは布を噛んだまま、靴を胸に抱いた。
割れ目の泣き声が強くなった。
「こっちに置いて」
「寒いの」
ニカの足が止まる。
ノラはニカの肩を押した。
「本当にその子のものなら、他の子に運ばせない」
ニカの目がノラを見る。
「ここへ置いたら、次の子がまた運ばされる」
ニカは靴を抱く腕に力を込めた。
床の白い筋が、ニカの足首へ伸びる。ヨルが飛び込み、筋の手前に爪を立てた。白いものが震え、細くほどける。
ノラはニカを入口へ向かわせた。
物置の戸口までは短い。
それなのに、部屋が遠くなる。
小さな椅子が横目に入る。欠けた食器が鳴る。薬包の甘い匂いが強くなる。人形の縫い目から、白い綿が少しはみ出していた。その綿が、奥の割れ目の白さと同じに見えた。
ニカの足がまた止まりかける。
奥から、低い声がした。
「置いていくな」
子どもの声ではなかった。
靴屋でもない。家で聞く声でもない。さっきまでの甘さを捨てた、湿った口そのものの声だった。
ニカの体が固まる。
ノラは振り返らなかった。
「ニカ。外の光を見る」
ニカは布を噛んだまま、戸口を見た。
外から夕方の光が差している。マルヤの声も聞こえる。男が何か言おうとして、マルヤに遮られている。人のいる場所の音だった。
「出たら、好きなだけ泣いていい。今は歩け」
ニカは足を前へ出した。
膝が震える。けれど、靴を抱く腕はほどけなかった。
ヨルが先に戸口を抜ける。ノラがニカの背を支える。白い綿が床を這い、靴の先へ伸びた。
ノラは短剣を逆手に持ち、床板へ突き立てた。
黒い熱は、指の骨の内側で一瞬だけ灯った。
床板が焦げたのではない。白い筋だけが、熱を嫌うように縮んだ。
割れ目の奥が低く鳴る。
ノラはそこで初めて、横目を向けた。
「優しい子の声で、次の子を呼ぶな」
割れ目の白い縁が、細かく震えた。
反応は待たなかった。
ノラはニカを外へ押し出した。
庭の空気が、急に広くなった。
ニカは外へ出た途端、膝をついた。布を口から外し、咳き込む。声は出た。かすれているが、ニカ自身の声だった。
マルヤがすぐに駆け寄った。
「水。布も」
灯口の者が動く。男が近づこうとしたが、マルヤが帳簿を抱えたまま視線だけで止めた。
「あなたはそこにいて。今から聞くことは、全部記録に残す」
男は口を閉じた。
ニカは小さな靴を胸に抱いたまま、泣き出した。
大きな声ではなかった。布を噛んで飲み込んだ言葉が、あとから涙になって出てきたような泣き方だった。
ノラは物置の戸を見た。
中から声はまだする。
けれど、消えてはいない。
「ありがとうって、言って」
誰にも向けていないような声で、奥がまだ待っていた。
ノラは戸を閉めた。
完全には閉まらない。壊した継ぎ目から、白いものが少しだけのぞいている。ヨルがその前に立ち、低く喉を鳴らした。
「ここは封じる。灯口だけじゃ足りない。灰鷹にも知らせて」
マルヤはニカの背を支えながらうなずいた。
「分かった。けれど、先にこの子を靴屋へ戻す」
「その靴は」
ニカが腕を強くした。
マルヤは靴を見て、すぐには取り上げなかった。
「灯口で預かるわ。奥へは置かない。あなたのせいにもしない」
ニカは何度も息を吸った。
「私、声を出しそうになりました」
「最後までは出さなかった」
ノラは言った。
ニカは首を振る。
「少し、出しました。置いたよって。届けただけって。たぶん、覚えられました」
「少しは覚えられた」
ニカは靴を抱いたまま、顔を上げた。
ノラは続けた。
「次に同じ声で呼ばれても、返事をしないで」
ニカの顔がまた崩れた。
その時、庭の外から拍手ではない音がした。
革手袋の指先を、軽く合わせるような音だった。
ノラは振り向いた。
通りへ続く細い路地に、サイラスが立っていた。
よく払われた上着。泥の少ない靴。夕方の薄い光の中でも、そこだけ埃が避けているように見える男だった。
サイラスはニカを見なかった。
泣いている子どもにも、壊された戸にも、押し黙った管理人にも、最初は目を向けなかった。
ただ、ニカの腕の中の小さな靴を見ていた。
それから、穏やかに言った。




