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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第5章 小さな靴の奥
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第23話 綿の小口

挿絵(By みてみん)

ノラは戸板の継ぎ目に刃を入れた。


木の割れる音はしなかった。


代わりに、濡れた布を裂くような音がした。古い板の内側に、木とは違うものが入り込んでいる。刃を押し込むたび、ぬるい抵抗が柄まで伝わってきた。


「ニカ。声を出さないで聞いて」


戸の向こうで、衣擦れがした。


声は聞こえない。


口を開かなかったことを、ノラはまず確認した。


「いい。そのまま」


甘い子どもの声が、戸板の奥で笑った。


「ありがとうって、言って」


ニカの息が揺れる。


それだけで、戸の内側にあるものが少し膨らんだ。隙間から白い綿のようなものがのぞく。布の中身に似ている。けれど、綿ならこんなふうに息を吸わない。


ヨルが足元から跳ねた。


戸の右下ではない。鍵穴でもない。ヨルは左上の板目へ鼻先を向け、短く鳴く。


「クルッ」


ノラは刃の角度を変えた。


左上の板目へ短剣を入れる。今度は抵抗が浅かった。押すのではなく、薄い膜を剥がすように刃を滑らせる。戸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。


背後では、マルヤが男を止めている声がした。


「聞こえたでしょう。戻っていない子が中にいる」


「だからといって、壊していい場所ではありません」


「壊した戸の話は後で聞くわ。今は中の子よ」


男の声は、そこから小さくなった。


ノラは戸板の隙間へ指をかけた。


黒い熱は使わない。ここで力任せに割れば、内側の何かがニカへ絡むかもしれない。ノラは板目を一つずつ剥がし、湿った白いものを刃先で外した。


戸が内側へ少し開いた。


甘い薬の匂いが流れ出した。


その奥に、古い水の匂いがあった。


「ニカ」


ノラは隙間から中を見た。


物置ではなかった。


いや、物置の形は残っている。棚もある。壊れた箱もある。乾いた箒も壁に立てかけられている。けれど、その奥だけが、子ども部屋のように整えられていた。


小さな椅子。欠けた食器。柔らかい布。修繕した髪飾り。甘い薬の包み。綿を詰め直された人形。


そして、床の中央に、小さな靴が片方置かれていた。


どれも大事に扱われているように見えた。埃は払われ、布は畳まれ、食器は椅子の横にそろえてある。


けれど、食べた匂いがない。


薬を飲んだ匂いもない。


靴は何度も直されているのに、外の土を一度も踏んでいない。


ノラは中へ入った。


ヨルはすぐには続かなかった。入口で鼻を低くし、床の匂いを確かめる。それから部屋の中央を避けて、壁沿いに回った。


ニカは奥の壁際に座っていた。


膝を抱え、片手で口元を押さえている。靴屋で走り回る子の足には、細い擦り傷がいくつもある。大きな怪我はない。けれど、頬の色が悪かった。


「立てる?」


ニカは小さく首を動かした。


声を出さなかった。


それでいい。


ノラは近づきすぎず、床を見る。ニカの足元から奥の割れ目へ、薄い白い筋が伸びていた。糸ではない。綿を細く引いたようなものが、床板の隙間に入り、ところどころで小さく震えている。


壁の奥に、口があった。


大きな穴ではない。


子どもの手なら入る程度の割れ目だった。板壁の後ろに石があり、その石の切れ目が、白い綿に縁取られている。柔らかそうに見える。指を入れれば沈みそうに見える。


だから余計に嫌だった。


ニカが、口元を押さえたままノラを見た。


涙は出ていない。


泣くより先に、言い訳を探している顔だった。


「喋るなら、私の方を見て。奥へ向けないで」


ニカは一度うなずいた。


それから、押さえていた手をほんの少し下げる。


「靴を……届けただけなんです」


声がかすれていた。


ニカは自分の声に驚いたように、喉を押さえた。


割れ目の白い縁が、小さく息をした。


「届けただけなんです」


今の声は、ニカの口から出ていない。


ニカの顔が白くなる。


ノラはすぐに手を上げた。


「今の声を覚えられた。次は出さない」


「私、何回か喋りました」


「全部は覚えられてない」


「でも、あの子が」


白い綿の奥から、子どもの声がした。


「ニカ」


ニカの肩が跳ねる。


声は怖くなかった。


寒気のするほど、優しかった。


「靴、そこに置いて」


ニカの視線が床の小さな靴へ落ちた。


「置いたんです。ちゃんと。なのに、まだ寒いって言ってて。薬もいるって。靴屋のおばさんが、病気の子なら急ぎなさいって言ったから、私、早く渡さなきゃって思って」


「靴屋の人は、中に入れとは言ってない」


「でも、声がしたら見るでしょう。誰もいないところで子どもが呼んでたら、普通、声くらいかけますよ」


ニカの指が、小さな靴へ向いたまま下りなかった。


「ずっと一人なら、誰かの声があるだけで違うじゃないですか。ありがとうって言ってほしいだけなら、それくらい」


「可哀想でも、ここで声を出すな」


ニカの口が止まった。


割れ目の縁が、ゆっくり膨らむ。


「さみしいの」


ニカの目が揺れる。


「あんな声、無視できないです」


「できない子を呼んでる」


「そんな言い方」


「君みたいな子を、待っていた」


ニカは唇を結んだ。


「助けに来たんじゃないんですか」


「君を助けに来た」


ニカは何かを言い返しかけた。代わりに、膝の布をきつく畳んだ。


割れ目が湿った音を立てた。


今度の声は、靴屋の女に似ていた。


「ニカ、急いであげて。病気の子なら、待たせちゃだめだよ」


ニカが息を吸う。


ノラはニカと割れ目の間へ身を入れた。


「それは靴屋の人じゃない」


「でも」


「ここにはいない人の声を、ここで信じるな」


次に、低い女の声がした。


どこか、家で聞く声に似ていた。


けれど、ほんの少し甘すぎた。


ニカの顔が崩れかける。


割れ目の奥が、優しく続ける。


「いい子だから、声を聞かせて」


ニカの喉が動いた。


声が出る。


出てしまう。


ノラは腰袋から畳んだ布を取り出し、ニカへ差し出した。


「噛んで」


ニカは布を見た。


「何で」


「声を止めるため」


「そんなの」


「今声を出したら、君の声で次の子を呼ばれる」


ニカの目に、ようやく涙が浮いた。


それでも泣き声は出さなかった。布を受け取り、口に当てる。歯で噛むまで、少し時間がかかった。噛んだ瞬間、ニカの肩が震えた。


割れ目の白い綿が、幼い泣き声をふくらませた。


「置いていかないで」


ニカの目から涙が落ちる。


布を噛んでいるから、声は出ない。


ノラはその横へ回り、床の白い筋を短剣で切った。切ったところで、綿はすぐに戻ろうとする。完全には断てない。けれど、ニカの足元から奥へ伸びる筋が、少し緩んだ。


ヨルが床の継ぎ目で低く鳴いた。


ノラはそこへ灯りを寄せる。


床板の間に、小さな歯のようなものが並んでいた。


木片ではなかった。


誰かの「はい」。誰かの「いるよ」。誰かの「ありがとう」。短い声ばかりが、床の継ぎ目に留められている。


その端に、ニカの声がまだ薄く絡んでいた。


ノラは割れ目を見た。


閉じたい。


けれど、今ここで床を壊して奥へ進めば、ニカを抱えたまま時間を失う。完全な迷宮ではない。枝口だ。根は残っている。核がどこにあるかも分からない。


今、外へ出すべきものは決まっている。


生きているニカ。


それと、奥へ置いてはいけない靴。


ノラはニカの腕を取った。


「立つよ」


ニカは布を噛んだまま、ぎこちなく立ち上がった。膝が抜けかける。ノラが支える。細い体は軽いはずなのに、部屋の空気が足元を引いていた。


床の中央に置かれた小さな靴が、かすかに動いた。


白い綿が、靴の方へ伸びる。


「それ、わたしの」


ニカの目が靴へ向いた。


ノラは先に言う。


「見るだけ」


ニカは首を横に振った。


布を外そうとする。


ノラはその手を押さえた。


「声にするな。目で言って」


ニカは泣きながら、靴を指差した。


置いていけない。


そういう目だった。


ノラは靴を拾った。


小さかった。片手に乗る。直した跡が多い。底の外側はきれいなのに、内側だけがすり減っている。靴の中には、足の温度が残っていない。


ニカが手を伸ばす。


ノラは靴を渡した。


「抱えて。奥へ置かない」


ニカは布を噛んだまま、靴を胸に抱いた。


割れ目の泣き声が強くなった。


「こっちに置いて」


「寒いの」


ニカの足が止まる。


ノラはニカの肩を押した。


「本当にその子のものなら、他の子に運ばせない」


ニカの目がノラを見る。


「ここへ置いたら、次の子がまた運ばされる」


ニカは靴を抱く腕に力を込めた。


床の白い筋が、ニカの足首へ伸びる。ヨルが飛び込み、筋の手前に爪を立てた。白いものが震え、細くほどける。


ノラはニカを入口へ向かわせた。


物置の戸口までは短い。


それなのに、部屋が遠くなる。


小さな椅子が横目に入る。欠けた食器が鳴る。薬包の甘い匂いが強くなる。人形の縫い目から、白い綿が少しはみ出していた。その綿が、奥の割れ目の白さと同じに見えた。


ニカの足がまた止まりかける。


奥から、低い声がした。


「置いていくな」


子どもの声ではなかった。


靴屋でもない。家で聞く声でもない。さっきまでの甘さを捨てた、湿った口そのものの声だった。


ニカの体が固まる。


ノラは振り返らなかった。


「ニカ。外の光を見る」


ニカは布を噛んだまま、戸口を見た。


外から夕方の光が差している。マルヤの声も聞こえる。男が何か言おうとして、マルヤに遮られている。人のいる場所の音だった。


「出たら、好きなだけ泣いていい。今は歩け」


ニカは足を前へ出した。


膝が震える。けれど、靴を抱く腕はほどけなかった。


ヨルが先に戸口を抜ける。ノラがニカの背を支える。白い綿が床を這い、靴の先へ伸びた。


ノラは短剣を逆手に持ち、床板へ突き立てた。


黒い熱は、指の骨の内側で一瞬だけ灯った。


床板が焦げたのではない。白い筋だけが、熱を嫌うように縮んだ。


割れ目の奥が低く鳴る。


ノラはそこで初めて、横目を向けた。


「優しい子の声で、次の子を呼ぶな」


割れ目の白い縁が、細かく震えた。


反応は待たなかった。


ノラはニカを外へ押し出した。


庭の空気が、急に広くなった。


ニカは外へ出た途端、膝をついた。布を口から外し、咳き込む。声は出た。かすれているが、ニカ自身の声だった。


マルヤがすぐに駆け寄った。


「水。布も」


灯口の者が動く。男が近づこうとしたが、マルヤが帳簿を抱えたまま視線だけで止めた。


「あなたはそこにいて。今から聞くことは、全部記録に残す」


男は口を閉じた。


ニカは小さな靴を胸に抱いたまま、泣き出した。


大きな声ではなかった。布を噛んで飲み込んだ言葉が、あとから涙になって出てきたような泣き方だった。


ノラは物置の戸を見た。


中から声はまだする。


けれど、消えてはいない。


「ありがとうって、言って」


誰にも向けていないような声で、奥がまだ待っていた。


ノラは戸を閉めた。


完全には閉まらない。壊した継ぎ目から、白いものが少しだけのぞいている。ヨルがその前に立ち、低く喉を鳴らした。


「ここは封じる。灯口だけじゃ足りない。灰鷹にも知らせて」


マルヤはニカの背を支えながらうなずいた。


「分かった。けれど、先にこの子を靴屋へ戻す」


「その靴は」


ニカが腕を強くした。


マルヤは靴を見て、すぐには取り上げなかった。


「灯口で預かるわ。奥へは置かない。あなたのせいにもしない」


ニカは何度も息を吸った。


「私、声を出しそうになりました」


「最後までは出さなかった」


ノラは言った。


ニカは首を振る。


「少し、出しました。置いたよって。届けただけって。たぶん、覚えられました」


「少しは覚えられた」


ニカは靴を抱いたまま、顔を上げた。


ノラは続けた。


「次に同じ声で呼ばれても、返事をしないで」


ニカの顔がまた崩れた。


その時、庭の外から拍手ではない音がした。


革手袋の指先を、軽く合わせるような音だった。


ノラは振り向いた。


通りへ続く細い路地に、サイラスが立っていた。


よく払われた上着。泥の少ない靴。夕方の薄い光の中でも、そこだけ埃が避けているように見える男だった。


サイラスはニカを見なかった。


泣いている子どもにも、壊された戸にも、押し黙った管理人にも、最初は目を向けなかった。


ただ、ニカの腕の中の小さな靴を見ていた。


それから、穏やかに言った。


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