第22話 奥の物置
古い塀沿いへ着くころには、日は傾きかけていた。灯口の控えには戸が三つ描かれていたが、今も同じ形で残っているものはない。塞がれた戸、塗り直された戸、隣家の壁へ取り込まれた戸。紙を見ながら歩くマルヤより、ヨルの鼻が先へ出た。
通りの石畳に、店先の影が細く伸びている。夕飯の前に小銭を使う者、明日の仕事を探す者、届け物を抱えて走る子ども。誰もが足を止めず、それぞれの用だけを抱えていた。
ノラ・ヴェイルは古い塀沿いを急ぎながら、すれ違う子どもの包みと、出てきた路地へ目を配った。届け先から戻る途中の子を見落としたくなかった。通りにとってはいつもの夕方でも、ニカの帰りを待つ靴屋では、算盤の三枚だけが朝から動いていない。
ヨルは、いつもなら匂いを確かめては振り返るのに、塀沿いへ来てからは一度も振り返らず先を歩き続けていた。黒い鼻先を低くし、通りの匂いではなく、さらに奥から流れてくる湿った気配を追っている。
曲がり角では爪を石へ擦り、狭い道へ肩から入った。ノラが遅れると止まるが、顔は奥へ向けたままだ。追いついた靴音を聞いてから、また鼻先を下げる。
マルヤ・センドは、灯口の帳簿を脇に抱えていた。
「場所はこの先で間違いないわ。清算紙の届け先と、靴屋が言った家は同じ。表は倉庫代わりに借りていることになっている」
「表は」
「ええ。あの人の紙は、見えるところだけ整っているのよ」
マルヤの声には怒りがあった。古い塀に沿って路地を二つ曲がる間、地図の角が手の汗で何度も折れた。それでも歩幅は変えず、曲がるたびに家の裏口を見ていた。
古い家が並ぶ一角だった。外壁は白く塗り直されている家もあれば、石が黒ずんだままの家もある。人の声は少ない。夕飯の匂いも薄かった。
その中で、一軒だけ妙にきれいな家があった。
窓枠は拭かれている。入口前の石も掃かれている。扉の金具には油が差してあり、通りに面した壁には蜘蛛の巣もない。誰かが、見えるところだけを丁寧に整えている。
ノラが足を止めると、ヨルは入口ではなく家の脇へ鼻を向けていた。
「表は人の家ね」
マルヤが低く言う。
「奥は違う」
ノラが家の横手へ回ると、細い通路の先に小さな庭が見えた。庭と呼ぶには手入れが足りない。草は伸びていないのに、踏まれた形もない。井戸の縁には薄く埃が乗り、洗い桶は乾ききっている。
庭の突き当たりに、物置があった。
戸は古い。板の隙間が少し歪んでいる。けれど、取っ手の周りだけが新しい。最近、何度も触られた跡だった。
ヨルがそこで、低く鳴いた。
「クル……」
ヨルは物置から鼻を外さず、前足を一歩だけ踏み込んだ。マルヤはその先を見たまま、帳簿の頁を一枚戻した。
「この辺り、古い閉じ損ないの記録がある。今は使われていないはずだけど、奥に口が残っていてもおかしくない」
説明を聞くあいだにも、奥でニカの息が薄くなるかもしれない。ノラは物置へ意識を絞った。
「どちら様ですか」
家の入口から男が出てきた。
年は四十前後。地味な上着の袖口には汚れがなく、その身なりのまま庭へ通じる道を自然に塞いだ。人に見られる時の立ち方を知る男だった。
マルヤが先に名乗った。
「灯口の相談所です。靴屋の使い走りが、ここへ届け物に来たまま戻っていない。確認に来ました」
男は眉を少し動かし、戻らない子の話を聞いても、マルヤの帳簿へ目を落とした。面倒な紙を見せられた時の動きだった。
「届け物は受け取りました。配達の子は、手前で戻したはずです」
「戻っていないから来ているの。清算紙だけで済む話じゃないわ」
「こちらで預かるものは、もうありません」
声は穏やかで、怒鳴りもせず、追い払う顔もしなかった。だからこそ、扉の前に置かれた棒のように邪魔だった。ノラは男の後ろではなく、庭の突き当たりを見ていた。
物置の隙間から、湿った匂いが流れてくる。古い木や土の匂いに混じって、迷宮の底にある水の気配があった。薬の甘さも、柔らかい布の匂いもある。けれど、生きている子どもの匂いは薄い。
薄すぎた。
「奥を見せて」
男はノラへ視線を移した。
「奥は預かり物の保管場所です。灯口の方でも、勝手には入れません」
「私は灯口じゃない」
「なおさらです」
マルヤが男の前へ出て、庭へ続く細い通路を塞いだ。
「灯口として、戻らない子の確認はする。あなたが止めるなら、その名も一緒に残すわ」
マルヤは帳簿を開かなかった。男が気にしているのはニカより紙だと分かって、表紙を見える位置に抱え直しただけだった。男の顔がわずかに硬くなる。
「記録に残す必要はありません。配達は終わっています。子どもは、手前で帰したはずです」
「はず、では探せないの」
「靴と薬は着いた。ニカは帰っていない。終わっていないものを、終わったことにはさせない」
男が答えないのを拒絶と見て、ノラは庭へ踏み出した。行く手を塞ぐため、男もすぐ横へ動く。
「救助と言えば、どこへでも入れると思わないでください」
「言葉で入るんじゃない」
ノラは男ではなく、その肩越しに物置への距離を測ってから言った。
「戻らない子がいるから入る」
互いに道を譲らないまま立った時、物置の奥から、かすかな声が届いた。
「置いたよ。だから、開けて」
少し高い、子どもの声だった。言葉の間隔が短く、急いでいる。怖がっているというより、約束を守ったのに扉を開けてもらえない子の声だった。
男は口を閉じ、聞こえなかった顔を作ろうとしたが、少し遅れた。物置を避けた目がノラの手元へ落ち、ニカよりも、こちらが何をするかを追っている。マルヤがその顔を見た。
「聞いたわね。それでも手前で帰したと言う?」
男の喉が動いた。続いて、別の声が重なった。
「置いたよ」
同じ言葉だったが、今度は息継ぎも、急かす調子もない。声だけを薄く削り取って、湿った壁に貼りつけたような音だった。
まだ薄い。
全部を取られた声ではない。いま覚えたばかりの声を、壁の内側で試している音だった。
ヨルが低く唸った。ノラはもう男を見ていなかった。
「マルヤ」
「止めておくわ。あなたは奥へ」
マルヤが帳簿を抱えたまま男の前に立ち、庭へ続く細い通路を塞ぐと、男が手を伸ばしかけた。
「困ります。奥は――」
「困るのは、あの子が声を出したあとよ」
マルヤは遮った。
「あなたが本当に何も知らないなら、ここで動かない方が身のためね」
ノラはヨルと庭へ入った。
草は湿っていないのに、足元だけが少し沈む。物置へ近づくほど、空気が冷えた。戸の隙間から流れてくるのは風ではない。穴が息をする時の、あの濡れた気配だった。
物置の前に、小さな包みが落ちていた。
靴屋の紙紐。結び目はほどかれている。中身はない。ニカが届け物を開けたというより、置けと言われて、中身だけ抜かれたように見えた。
「ニカ」
奥のものは、もうニカの声を知っている。名まで渡す危険はある。それでも呼ばずに孤立させるより、こちらの声へ意識をつなぐ。ノラは戸に近づきすぎない場所から呼んだ。
声はすぐには返らず、中で何かが床を擦る音がした。軽いもの。革の底。小さな足音に似ているが、歩いている音ではない。
戸の下の隙間から、小さな靴が片方、ゆっくり滑って出てきた。ノラはそれを見た。
靴屋に残してきた一足と同じ傷み方の、別の靴だった。外側に泥がなく、内側だけがすり減っている。ヨルは靴へ鼻を近づけても追わず、戸の向こうのニカへ鼻先を戻した。革には外を歩いた匂いが残っていなかった。
戸の向こうで何かが擦れ、靴はノラの手が届く前に隙間へ引き戻された。戸の向こうで、ニカの声がした。
「置いたよ。だから、もういいでしょ」
さっきより近い声なのに、立って動く衣擦れは聞こえない。戸のすぐ向こうで座り込んでいるらしく、息はあっても体を動かす力が弱っていた。
別の子どもの声が、甘くささやいた。
「ありがとうって、言って」
ノラの背中に、冷たいものが走った。
胸の裏を指で押されるような声だった。戸を開けずにいるノラの方が、悪いことをしているように聞こえる。
ただ、礼をほしがっている。優しい子なら、声をかけたくなる声だった。小さな届け物を受け取り、閉じ込められた場所から礼を求める。そこにいる子が本当に寂しいのなら、無視する方が悪いことのように思える。
礼を返そうとしてニカが小さく息を吸ったため、ノラは声より先に意識をこちらへ向けさせようと戸へ手をかけた。
「可哀想でも、ここで声にするな」
制止が届いてニカの息は止まったが、代わりに戸板の奥で湿ったものがゆっくり動き、甘い声をもう一度押し出した。
「ありがとうって、言って」
ノラが短剣の先を戸の隙間へ入れると、ヨルが足元で体を低くした。
背後では、マルヤが男へ低く何かを言っていた。男の声は聞こえない。庭の空気が、物置だけを深くしていく。ノラは短剣の柄を握り直した。
「口を閉じろ」と怒鳴りかけ、ノラは舌を噛んだ。戸の向こうでニカは、約束どおり届けたと誰かに分かってもらおうとしている。命令をぶつければ、言い返すためにまた声を使う。口ににじんだ血を飲み込み、ノラは声を低くした。
「ニカ。私の声だけ聞いて」
戸板を指で二度叩くと、向こう側でかすかな衣擦れがした。
まだ、声を全部取られたわけではない。ヨルが短く鳴いた。
「クルッ」
ヨルの爪が、戸の左上で止まった。
次の瞬間には中央へ落ち、戸の下を掻いた。三か所から湿った白いものが細く膨らみ、ヨルはどれにも鼻を寄せられず、苛立ったように歯を鳴らした。
ノラは左上へ刃を上げたが、まだ突かなかった。戸の向こうから、指の腹で板を擦る音が二度した。さっきノラが叩いたのと同じ間だった。
三度目だけは、戸の上から返った。
ヨルがそちらへ飛びつき、傷めた右前足をついた途端に体を崩す。ノラはヨルを片腕で受け、もう片方の手で短剣を握り直した。正しい場所を嗅ぎ当てた顔ではない。三つの口のどれを噛めばいいか分からず、怒っている顔だった。




