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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第5章 小さな靴の奥
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第22話 奥の物置

挿絵(By みてみん)

古い塀沿いのどの戸へ匂いが続いているのか、灯口の控えと照らして絞り込むころには、日は傾きかけていた。


通りの石畳に、店先の影が細く伸びている。夕飯の前に小銭を使う者、明日の仕事を探す者、届け物を抱えて走る子ども。誰もが足を止めず、それぞれの用だけを抱えていた。


ノラ・ヴェイルたちが古い塀沿いを急ぐ間も、ニカの姿はなかった。小さな配達役一人の遅れを、町はまだ事故として数えていない。


そういう隙間に、穴は口を開ける。


ヨルは、いつもなら匂いを確かめては振り返るのに、今日は一度も振り返らず先を歩き続けていた。黒い鼻先を低くし、通りの匂いではなく、さらに奥から流れてくる湿った気配を追っている。


マルヤ・センドは、灯口の帳簿を脇に抱えていた。


「場所はこの先で間違いないわ。清算紙の届け先と、靴屋が言った家は同じ。表は倉庫代わりに借りていることになっている」


「表は」


「ええ。あの人の紙は、見えるところだけ整っているのよ」


マルヤの声には怒りがあった。けれど、足は乱れていない。怒る前に、紙と足で逃げ道を押さえる人間の動きだった。


古い塀に沿って路地を二つ曲がると、通りは細くなった。


古い家が並ぶ一角だった。外壁は白く塗り直されている家もあれば、石が黒ずんだままの家もある。人の声は少ない。夕飯の匂いも薄かった。


その中で、一軒だけ妙にきれいな家があった。


窓枠は拭かれている。入口前の石も掃かれている。扉の金具には油が差してあり、通りに面した壁には蜘蛛の巣もない。誰かが、見えるところだけを丁寧に整えている。


ノラが足を止めると、ヨルは入口ではなく家の脇へ鼻を向けていた。


「表は人の家ね」


マルヤが低く言う。


「奥は違う」


ノラが家の横手へ回ると、細い通路の先に小さな庭が見えた。庭と呼ぶには手入れが足りない。草は伸びていないのに、踏まれた形もない。井戸の縁には薄く埃が乗り、洗い桶は乾ききっている。


庭の突き当たりに、物置があった。


戸は古い。板の隙間が少し歪んでいる。けれど、取っ手の周りだけが新しい。最近、何度も触られた跡だった。


ヨルがそこで、低く鳴いた。


「クル……」


嫌がっている声ではない。見つけた時の声だった。


マルヤは物置を見たまま、帳簿の頁を一枚戻した。


「この辺り、古い閉じ損ないの記録がある。今は使われていないはずだけど、奥に口が残っていてもおかしくない」


それ以上は言わなかった。


ノラも聞かなかった。今ほしいのは、古い記録の説明ではない。そこに子どもがいるかどうかだった。


「どちら様ですか」


家の入口から男が出てきた。


年は四十前後。上着は地味で、袖口だけがやけにきれいだった。力仕事の男ではない。かといって、ただの留守番でもない。誰かに見られることを前提に、きちんと整えられた男だった。


マルヤが先に名乗った。


「灯口の相談所です。靴屋の使い走りが、ここへ届け物に来たまま戻っていない。確認に来ました」


男は眉を少し動かしたが、驚きではなかった。面倒な紙を見せられた時の動きだった。


「届け物は受け取りました。配達の子は、手前で戻したはずです」


「戻っていないから来ているの。清算紙だけで済む話じゃないわ」


「こちらで預かるものは、もうありません」


声は穏やかで、怒鳴りもせず、追い払う顔もしなかった。だからこそ、扉の前に置かれた棒のように邪魔だった。


ノラは男の後ろではなく、庭の突き当たりを見ていた。


物置の隙間から、湿った匂いが流れてくる。古い木や土の匂いに混じって、迷宮の底にある水の気配があった。薬の甘さも、柔らかい布の匂いもある。


けれど、生きている子どもの匂いは薄い。


薄すぎた。


「奥を見せて」


男はノラへ視線を移した。


「奥は預かり物の保管場所です。灯口の方でも、勝手には入れません」


「私は灯口じゃない」


「なおさらです」


マルヤが男の前へ出て、庭へ続く細い通路をふさいだ。


「灯口として、戻らない子の確認はする。あなたが止めるなら、止めたことも記録に残すわ」


男の顔が、そこで少しだけ硬くなった。


「記録」という言葉に、靴の裏へ小石が入ったような違和感を覚えたらしい。


「記録に残す必要はありません。配達は終わっています。子どもは、手前で帰したはずです」


「はず、では探せないの」


マルヤの声は冷えていた。


「名簿に戻せない子が一人いる。私は、その一人を紙の外へ落とす気はない」


男が答えないまま、ノラは庭へ踏み出した。


男がすぐに横へ動く。


「救助と言えば、どこへでも入れると思わないでください」


「言葉で入るんじゃない」


ノラは男を見た。


「戻らない子がいるから入る」


その時だった。


物置から、かすかな声がした。


「置いたよ。だから、開けて」


年頃からして、ニカだと分かる声だった。


少し高く、急いでいる。怖がっているというより、約束を守ったのに扉を開けてもらえない子の声だった。


男は口を閉じ、聞こえなかった顔を作ろうとしたが、少し遅れた。目だけが、物置の戸ではなくノラの手元を見ている。中の子を心配する目ではなかった。


マルヤがその顔を見た。


「今のも、記録に残すわ」


男の喉が動いた。


続いて、別の声が重なった。


「置いたよ」


同じ言葉だった。


ニカの喉ではない。声だけを薄く削り取って、湿った壁に貼りつけたような音だった。


まだ薄い。

全部を取られた声ではない。いま覚えたばかりの声を、壁の内側で試している音だった。


ヨルが低く唸った。


ノラはもう男を見ていなかった。


「マルヤ」


「止めておくわ。あなたは奥へ」


マルヤが帳簿を抱えたまま男の前に立ち、庭へ続く細い通路を塞ぐと、男が手を伸ばしかけた。


「困ります。奥は——」


「困るのは、あの子が声を出したあとよ」


マルヤは遮った。


「あなたが本当に何も知らないなら、ここで動かない方が身のためね」


ノラはヨルと庭へ入った。


草は湿っていないのに、足元だけが少し沈む。物置へ近づくほど、空気が冷えた。戸の隙間から流れてくるのは風ではない。穴が息をする時の、あの濡れた気配だった。


物置の前に、小さな包みが落ちていた。


靴屋の紙紐。結び目はほどかれている。中身はない。ニカが届け物を開けたというより、置けと言われて、中身だけ抜かれたように見えた。


「ニカ」


奥のものは、もうニカの声を知っている。名まで渡す危険はある。それでも呼ばずに孤立させるより、こちらの声へ意識をつなぐ。ノラは戸に近づきすぎない場所から呼んだ。


声はすぐには返らず、中で何かが床を擦る音がした。軽いもの。革の底。小さな足音に似ているが、歩いている音ではない。


戸の下の隙間から、小さな靴が片方、ゆっくり滑って出てきた。


ノラはそれを見た。


靴屋に残してきた一足と同じ傷み方の、別の靴だった。外側に泥がなく、内側だけがすり減っている。


ヨルが靴へ鼻を近づけ、すぐに顔を背けた。


生きている足の匂いがしない。


戸の向こうで何かが擦れ、靴はノラの手が届く前に隙間へ引き戻された。


戸の向こうで、ニカの声がした。


「置いたよ。だから、もういいでしょ」


声が少し近い。


戸の向こうで、座り込んでいるのかもしれない。立っているなら、もっと音がする。息はある。けれど、動く音が弱い。


別の子どもの声が、甘くささやいた。


「ありがとうって、言って」


ノラの背中に、冷たいものが走った。


ただ、礼をほしがっている。優しい子なら、声をかけたくなる声だった。小さな届け物を受け取り、閉じ込められた場所から礼を求める。そこにいる子が本当に寂しいのなら、無視する方が悪いことのように思える。


ニカが、小さく息を吸う音がした。


言おうとしている。


ノラは戸へ手をかけた。


「可哀想でも、ここで声にするな」


中の息が止まった。


戸板の奥で、湿ったものがゆっくり動く音がした。


甘い声が、もう一度ささやいた。


「ありがとうって、言って」


ノラが短剣の先を戸の隙間へ入れると、ヨルが足元で体を低くした。


背後では、マルヤが男へ低く何かを言っていた。男の声は聞こえない。庭の空気が、物置だけを深くしていく。


ノラは短剣の柄を握り直した。


「ニカ。私の声だけ聞いて」


叱れば、ニカは奥へ返してしまう。責めれば、言い訳を探して声を出す。だから、ノラは低く、短く言った。


向こう側で、かすかな衣擦れがした。


まだ、声は取られていない。


ヨルが短く鳴いた。


「クルッ」


合図だった。


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