第21話 小さな靴の清算
翌朝、灯口の相談所には、まだ横穴の泥の匂いが残っていた。
ユアンは奥の机で、前日の返却記録を書いている。字は少しだけ硬い。筆先が紙に触れるたび、迷って、それでも次の欄へ進んでいた。
マルヤ・センドは一度だけそれを見た。
「昨日の分は、あとで私が見るわ。勝手に動かさず、紙に残して」
ユアンは顔を上げた。
「はい」
声は小さかった。けれど、逃げる声ではなかった。
マルヤはそれ以上言わず、昨夜伏せた清算紙を机の中央へ戻した。品目とサイラス側の印には触れず、空白の受取人欄を指で押さえる。ノラ・ヴェイルは戸口近くから、それを見た。
「今朝は、この先を確かめる」
「靴屋」
「ええ。一番、物が残っている」
マルヤは紙を畳んだ。ユアンがこちらを見かけて、すぐに自分の記録へ視線を戻す。マルヤはそれを確認してから、帳簿を取った。
「行きましょう」
靴屋は、広場から二筋外れた通りにあった。
店先には、修繕待ちの靴が吊られている。大人用の厚い靴、荷運びの革靴、子どもの柔らかい靴。油を染み込ませた革の匂いと、乾いた土と、古い糸の匂いが混じっていた。
女主人は作業台の前で、靴底に針を通していた。指は太く、爪の際に黒い油が残っている。マルヤが名乗ると、女主人はすぐに手を止めた。
「灯口の方ですか。清算なら、昨日の分はもう出しましたよ」
「今日は清算ではなく確認よ」
マルヤは紙を広げた。
女主人は品目を見た途端、針を台の上に置いた。音は小さかったのに、店の奥まで聞こえた気がした。
「その靴なら、まだ一足あります。昨日、受け取りに来るはずだった分です」
女主人は奥の棚へ行き、布に包まれた小さな靴を持って戻った。
ノラは手に取らなかった。まず、台の上へ置かれたまま見る。
小さい。
けれど、真新しい靴ではない。何度も縫い直され、底の革だけが新しく足されている。柔らかい布を中に詰め、形が崩れないようにしてあった。
女主人は靴の甲を指で撫でた。
「大事にしているんでしょうね。小さくなっても捨てないで、まだ使うから直してくれって。そう言われると、断りにくくて」
ノラは靴の爪先を見た。
削れていない。
外を歩いた靴なら、石畳で先が擦れる。土道なら、縫い目の間に砂が入る。雨の日に履けば、革の端に泥が残る。
この靴には、それがなかった。
なのに、内側だけが妙に擦り減っている。指の付け根が当たる部分と、踵の内側。広い道を歩いた減り方ではない。狭い場所で、同じ向きに何度も足を動かしたような傷み方だった。
ヨルが台の下から鼻を出したが、靴の外側には寄らない。内側の擦れた部分だけを嗅ぎ、すぐに顔を背けた。
「クル……」
女主人の顔が曇る。
「その子、靴が嫌いなんですか」
「嫌いなものを見分けてる」
ノラは靴の中を見た。
「履いている子を、店で見たことは」
女主人は首を振った。
「ありません。持ってくる人も、受け取りに来る人も毎回違います。サイラスさん本人も来ません。代金は遅れないし、頼み方も荒くないんです。だから、こちらから変だとは言いにくくて」
マルヤは責めなかった。清算紙の印を見て、静かに言う。
「印だけは同じ」
「はい。そこだけは、いつも同じです」
ノラは小さな靴を見た。
大事にしている。
その言い方自体は、悪いものではない。古いものを直して使う家はいくらでもある。新しい靴を買えない家もある。小さな靴を捨てられない人もいる。
「この靴、外を歩いた靴じゃない」
女主人は靴を見下ろした。
ノラは続けた。
「まだ分からない。ただ、道の減り方じゃない」
女主人は反論しなかった。作業台に置かれた小さな靴を、自分でも見直した。靴を直す人間の顔で見れば、気づくことがあるのだろう。女主人の目が、爪先から内側へ移った。
「……たしかに、変な減り方ですね。私は、大事に履いているんだとばかり思っていました」
マルヤは紙をめくった。
「昨日、これとは別の一足と薬を、同じ受け取り先へ運んだ子がいるわね」
女主人の手が、靴の上で止まった。
「ニカです。うちの子というほどではありませんけど、靴屋と薬屋の間で小さな配達をしている子で。足が速くて、道もよく覚えるんです。駄賃を受け取ると、買えない日でも靴紐の箱だけはのぞいて帰る子でした」
そこで女主人は、今にも戻ってくる子を待つような目で入口の方を見た。
「昨日の昼過ぎに出しました。いつもなら、駄賃をもらいに戻るんです。忘れない子だから。夕方になっても顔を見せなくて、薬屋に回されたのかと思っていました」
「薬屋は」
ノラが短く聞く。
女主人は、すぐに答えなかった。答えが遅れたのは、情報を探しているからではない。自分の中で、まだ違う理由を探していたからだった。
「今朝、薬屋の方から聞きに来ました。ニカはそっちへ戻ったかって。私は、薬屋にいると思っていたんです」
マルヤが清算紙を机へ置き、欄を指で追った。
「靴の受け取り印はある。薬の受け取り印もある。でも、配達完了の印がない」
女主人は唇を結んだ。
「届けたなら、戻って報告する子です。駄賃をもらって、余った時間で市場をのぞいて、それからまた次の使いを探す。そういう子です」
声がそこで細くなった。
「昨日は戻っていません」
店の奥で、革紐が風に小さく揺れた。
マルヤは店先にいた若い職人を呼び、薬屋と灯口へ人を走らせた。
「ニカの名前だけを確認して。探していることを広めないで。聞いた声を追わせたくない」
若い職人は青い顔でうなずき、すぐに外へ出た。
ノラは靴を見たまま言う。
「道を間違えた?」
「いいえ」
女主人の否定は早かった。
「それはありません。あの子は、知らない道でも二度通れば覚える。だから使いに出していたんです。ただ……」
女主人は言いかけて、針の置かれた作業台を見ながら続けた。
「困っている声を聞くと、先に走ってしまうところがあって」
ノラは何も言わなかった。
「前にも一度、門のところまで届けたことがあるんです。その時、奥から子どもの声がしたって言っていました」
マルヤの顔が変わった。
女主人は、言ってしまってから怖くなったように、靴の甲へ指を置いた。
「泣いているみたいだったって。病気なら、早く届けた方がいいって。あの子、そういうところだけは聞かないんです。止めても、先に足が出る」
小さな靴は、作業台の上に置かれたままだった。
泥はない。
爪先も削れていない。
内側だけが、同じ場所で擦り減っている。
甘い薬。柔らかい布。小さな髪飾り。毎回違う使い。子どもを見た者はいない。届けに行った配達役は、戻っていない。
女主人が、不安そうに靴を持ち上げる。
「これ、持って行きますか。もし、あの子が本当に待っているなら」
「靴はここに置いて」
女主人の手が止まる。
「でも、病気の子がいるなら」
「待っている子がいるなら、靴じゃなく人を出す」
女主人は靴を作業台へ戻したが、指はすぐには離れなかった。小さな靴の甲を押さえたまま、店の奥を見た。そこにニカが走って戻ってくる気配でも探しているようだった。
マルヤは清算紙を畳んだ。
「今日は、サイラス側の使いが来ても渡さないで。灯口の確認が入ったと言って。代金の話をされたら、私の名前を出していい」
女主人の顔に迷いが出た。
「揉めるのは困ります。でも……ニカが戻っていないのに、次の包みを渡す方がもっと嫌です」
マルヤは畳んだ清算紙を懐へしまった。
「大丈夫とは言わないわ。でも、戻っていない子がいる。ここから先は清算紙じゃなく、人の話よ」
女主人は小さく息を吸い、靴を包み直した。
今度の手つきは、次の使いへ渡すためのものではなかった。棚の奥へ、少しでも深く入れる手だった。包みの上には、預かり札ではなく、女主人自身の字で「渡さない」と書いた紙が置かれた。
ノラは戸口へ向かった。
ヨルが先に外へ出る。店先で一度だけ振り返り、靴屋の中へ鼻先を向けた。靴にも紙にも鼻を留めず、もっと奥へ引いた匂いを追っていた。
通りへ出ると、昼の音が戻ってきた。
荷車。呼び売り。遠くの鍛冶場。誰かが笑い、すぐに別の声に紛れる。町はいつも通り動いている。小さな配達役が一人戻っていなくても、通りの足は止まらない。
「その清算先の家、この前の保管庫の古い地図で見たことがある」
「何の地図」
「今は閉じたことになっている場所よ」
ノラは足を止めなかった。
「使われていない?」
「そう記録にはある。記録が正しければ、だけど」
ヨルが通りの途中で止まり、鼻を低くして石畳の継ぎ目を嗅いだ。靴屋から来た匂いではない。薬屋の甘い匂いでもない。湿った布を長く閉じ込めたような、古い土の奥の匂い。
ヨルの喉が声にならない低さで震え、ノラはしゃがまずにその鼻先が向いた方を見た。
通りの先に、古い塀が続いている。表の戸はきれいに払われているのに、その奥だけ、昼の光が少し薄く見えた。
「あの塀の奥だね」
ヨルが答えないまま、ノラは足を速めた。
「なら、遅れてる。ニカを探す」




