第21話 小さな靴の清算
翌朝、ノラ・ヴェイルは灯口へ行く前に、北の石段の下へ寄った。
トマは昨日と同じ段に座り、傷めた足を伸ばしていた。ノラの顔より先に、両手を見た。
「持ってきたか」
「仕事は、見つけられなかった。今朝、荷を出す前の倉を二つ回った。どっちも、運べる人しか取らないって」
トマは胸元から木片を出した。欠けた端を膝へ押し当て、ノラには見せずに握る。
「来ないより、ましだと思った?」
「怒られると思った」
「怒ったら仕事が出てくるのかよ」
木片を石へ投げようと腕が上がったが、トマは途中で止めた。それを捨てた後に残るものを確かめるように、空いた方の掌を見た。
ノラは石段の一つ下へしゃがんだ。足の布は端がめくれ、朝の冷えの中でも足の指先だけが赤く腫れている。
「足を診てもいい?」
「仕事の代わりにするな」
伸ばしかけた手を、ノラは自分の膝へ戻した。
「別に聞いてる。痛む?」
トマは答えず、木片を上着へ押し込んだ。布の端を自分でほどこうとして、足へ指が触れると顔をしかめる。ノラが待っているうちに、結び目だけをこちらへ向けた。
「昨日より。立とうとすると、ここが」
ノラは示されたところへ触れる前に、ずれた布を外した。トマは手当ての間も礼を言わず、布が足を一周するたび、木片をしまった胸元を押さえていた。
「仕事の話、これで済んだと思うなよ」
「思ってない」
巻き終えた足を、トマは自分で段の上へ戻した。立とうとはしなかった。ノラが立ち上がっても木片を出さず、行き交う荷車の車輪を、口を曲げたまま見ていた。
灯口の相談所には、まだ横穴の泥の匂いが残っていた。戸口の長椅子では、ネイが腫れた手を膝へ載せている。ノラを見つけると、足を引いて通り道を空けたが、目はそらさなかった。
「朝だぞ」
「うん。考えてきた。でも、今ここで紹介できる仕事はない」
ネイは椅子から立った。昨日は担架に載せられた体でも、今日は自分の足で立てる。それを見せつけるように、ノラの横へ並んだ。
「じゃあ、俺が探す。あんたが持ってくるのを、ずっと座って待てない」
「その手で荷を持つ仕事は、まだ無理だ」
「また駄目かよ」
ネイは腫れた指を開いた。握ろうとして、途中でやめる。ノラはその手を取らなかった。
「足は動く。探しに行くのまで、止めないでくれ」
「どんな仕事か、一緒に確かめたい」
「また札を取り上げるんだろ」
「読む。細い字まで」
ネイは戸の外を見た。朝の荷車が通り過ぎると、車輪に隠れていた広場への道が見えた。
「なら、日払いの額も読めよ。危ないって書いてあるところだけじゃなくて」
「読む」
ネイは傷めた手を腹へ寄せ、戸口の柱へ肩を預けた。まだ出ていかなかった。ノラが並んで外を見ると、あっちだ、と顎で広場を指す。ノラはその向きを見届けた。誰が何を募集するのかも、ネイができる仕事なのかも、まだ分からなかった。
奥の机では、ユアンが前日の返却記録を書いていた。字は少しだけ硬い。筆先が紙に触れるたび、迷って、それでも次の欄へ進んでいる。
マルヤ・センドは一度だけそれを見た。
「昨日の分は、あとで私が見るわ。勝手に動かさず、紙に残して」
ユアンは顔を上げた。
「はい」
声は小さかった。けれど、逃げる声ではなかった。
マルヤはそれ以上言わず、昨夜伏せた清算紙を机の中央へ戻した。品目とサイラス側の印には触れず、空白の受取人欄を指で押さえる。ノラは戸口から机へ寄り、マルヤが押さえている空白を見た。
「今朝は、この先を確かめる」
「靴屋」
「ええ。一番、物が残っている」
マルヤは紙を畳んだ。ユアンがこちらを見かけて、すぐに自分の記録へ視線を戻す。マルヤはそれを確認してから、帳簿を取った。
「行きましょう」
靴屋は、広場から二筋外れた通りにあった。店先には、修繕待ちの靴が吊られている。大人用の厚い靴、荷運びの革靴、子どもの柔らかい靴。油を染み込ませた革の匂いと、乾いた土と、古い糸の匂いが混じっていた。
女主人は作業台の前で、靴底に針を通していた。指は太く、爪の際に黒い油が残っている。マルヤが名乗ると、女主人はすぐに手を止めた。
「灯口の方ですか。清算なら、昨日の分はもう出しましたよ」
「今日は清算ではなく確認よ」
マルヤは紙を広げた。女主人は品目を見た途端、針を台の上に置いた。音は小さかったのに、店の奥まで聞こえた気がした。
「その靴なら、まだ一足あります。昨日、受け取りに来るはずだった分です」
女主人は奥の棚へ行き、布に包まれた小さな靴を持って戻った。ノラは手に取らなかった。まず、台の上へ置かれたまま見る。
小さい。
けれど、真新しい靴ではない。何度も縫い直され、底の革だけが新しく足されている。柔らかい布を中に詰め、形が崩れないようにしてあった。女主人は靴の甲を指で撫でた。
「大事にしているんでしょうね。小さくなっても捨てないで、まだ使うから直してくれって。そう言われると、断りにくくて」
ノラが靴の爪先を見ると、外を歩いたなら残るはずの擦れがなかった。土道の砂も雨の日の泥も縫い目に入っておらず、革の端まで不自然にきれいなままだった。
なのに、内側だけが妙に擦り減っている。指の付け根が当たる部分と、踵の内側。広い道を歩いた減り方ではない。狭い場所で、同じ向きに何度も足を動かしたような傷み方だった。
ヨルが台の下から鼻を出したが、靴の外側には寄らない。内側の擦れた部分だけを嗅ぎ、すぐに顔を背けた。
「クル……」
ヨルが靴の内側だけを嫌ったのを見て、女主人の顔が曇った。
「その子、靴が嫌いなんですか」
「内側に残った匂いへ反応してる」
ノラは擦り減った靴の内側へもう一度目を落とした。
「履いている子を、店で見たことは」
誰が履いたのか思い出そうとしてから、女主人は首を振った。
「ありません。持ってくる人も、受け取りに来る人も毎回違います。サイラスさん本人も来ません。代金は遅れないし、頼み方も荒くないんです。だから、こちらから変だとは言いにくくて」
マルヤは責めなかった。清算紙の印を見て、静かに言う。
「印だけは同じ」
「はい。そこだけは、いつも同じです」
ノラは小さな靴を見た。大事にしている。
その言い方自体は、悪いものではない。古いものを直して使う家はいくらでもある。新しい靴を買えない家もある。小さな靴を捨てられない人もいる。
「この靴、外を歩いた靴じゃない」
女主人は靴を見下ろした。ノラは続けた。
「何をして内側だけ擦り減ったのかは、まだ分からない」
女主人は反論しなかった。作業台に置かれた小さな靴を、自分でも見直した。靴を直す人間の顔で見れば、気づくことがあるのだろう。女主人の目が、爪先から内側へ移った。
踵の擦れで目が止まる。女主人は指を靴の内側へ入れ、外からは見えない窪みを確かめた。針だこのできた指先が、左右で違う場所に沈む。
「立って歩いた減り方じゃない。踵を浮かせたまま、狭いところで足を擦ってる」
自分の口から出た答えに驚き、女主人は片方を作業台へ落とした。木へ当たる音が大きく、すぐに抱え直す。
「……たしかに、変な減り方ですね。私は、大事に履いているんだとばかり思っていました」
マルヤは紙をめくった。
「昨日、これとは別の一足と薬を、同じ受け取り先へ運んだ子がいるわね」
女主人の手が、靴の上で止まった。
「ニカです。うちの子というほどではありませんけど、靴屋と薬屋の間で小さな配達をしている子で。足が速くて、道もよく覚えるんです。駄賃を受け取ると、買えない日でも靴紐の箱だけはのぞいて帰る子でした」
そこで女主人は、今にも戻ってくる子を待つような目で入口の方を見た。
「昨日の昼過ぎに出しました。いつもなら、駄賃をもらいに戻るんです。忘れない子だから。夕方になっても顔を見せなくて、薬屋に回されたのかと思っていました」
「薬屋は」
ノラが短く聞く。女主人はすぐに答えず、薬屋の方角へ視線を逃がした。戻らない理由を、まだ別に探していた。
「今朝、薬屋の方から聞きに来ました。ニカはそっちへ戻ったかって。私は、薬屋にいると思っていたんです」
マルヤが清算紙を机へ置き、欄を指で追った。
「靴の受け取り印はある。薬の受け取り印もある。でも、配達完了の印がない」
女主人は紙へ顔を寄せた。
「受け取り印があるなら、ニカは着いたんでしょう」
そうであってほしい気持ちが、確認ではなく反論の形で出た。マルヤは印を隠さなかった。
「靴と薬が着いたことしか、この印は言わない。ニカが帰ったとは、どこにもない」
女主人は唇を結んだ。紙の印を見て安心しかけた自分へ腹を立てたように、作業台の針を一本、布へ深く刺す。
「届けたなら、戻って報告する子です。駄賃をもらって、余った時間で市場をのぞいて、それからまた次の使いを探す。そういう子です」
声がそこで細くなった。
「昨日は戻っていません」
店の奥で、革紐が風に小さく揺れた。マルヤは店先にいた若い職人を呼び、薬屋と灯口へ人を走らせた。
「ニカの名前だけを確認して。探していることを広めないで。聞いた声を追わせたくない」
若い職人は青い顔でうなずき、すぐに外へ出た。ノラは靴を見たまま言う。
「道を間違えた?」
「いいえ」
女主人の否定は早かった。
「それはありません。あの子は、知らない道でも二度通れば覚える。だから使いに出していたんです。ただ……」
女主人は言いかけて、針の置かれた作業台を見ながら続けた。
「困っている声を聞くと、先に走ってしまうところがあって」
ノラは何も言わなかった。
「前にも一度、門のところまで届けたことがあるんです。その時、奥から子どもの声がしたって言っていました」
マルヤの顔が変わった。女主人は、言ってしまってから怖くなったように、靴の甲へ指を置いた。
「泣いているみたいだったって。病気なら、早く届けた方がいいって。あの子、そういうところだけは聞かないんです。止めても、先に足が出る」
小さな靴は作業台に置かれたまま、泥も爪先の擦れもない外側を見せていた。その一方で、内側だけが同じ場所を歩き続けたように減っている。
甘い薬。柔らかい布。小さな髪飾り。毎回違う使い。子どもを見た者はいない。届けに行った配達役は、戻っていない。
戻らないニカと靴の減り方が結びつき、女主人は不安を隠せない手つきで靴を持ち上げた。
「これ、持って行きますか。もし、あの子が本当に待っているなら」
「靴はここに置いて」
置いておけと言われ、女主人の手が靴を抱えた位置で止まった。
「でも、病気の子がいるなら」
「待っている子がいるなら、靴じゃなく人を出す」
女主人は靴を作業台へ戻したが、指はすぐには離れなかった。小さな靴の甲を押さえたまま、店の奥を見た。そこにニカが走って戻ってくる気配でも探しているようだった。マルヤは清算紙を畳んだ。
「今日は、サイラス側の使いが来ても渡さないで。灯口の確認が入ったと言って。代金の話をされたら、私の名前を出していい」
代金を受け取る店の立場と、戻らない子への心配がせめぎ合い、女主人の顔に迷いが出た。
女主人は作業台の算盤へ手を伸ばした。一番下の段に、ニカへまだ渡していない駄賃の三枚分が残っている。銅の玉を払えば昨日の勘定は閉じる。それができず、引き出しから本物の銅貨を三枚出した。
「これ、探す人に渡した方がいいですか」
「ニカの駄賃でしょう」
マルヤが受け取らないと、女主人は銅貨を握ったままうつむいた。
「昨日、帰ってからでいいって言ったんです。三枚くらい逃げないって。あの子は、私の方が忘れるって笑ってた」
銅貨を包み紙へ置き、ニカの名を書く。紙を畳む手だけは、もう迷わなかった。
「これは本人に渡します。戻らなくても勘定が済んだみたいになるのは嫌です」
女主人は包みを握ったまま、店先を見た。いつも代金を遅らせない相手と揉めれば、修繕の口が一つ減るかもしれない。それでも、もう算盤へ手は戻さなかった。
「揉めるのは困ります。でも……ニカが戻っていないのに、次の包みを渡す方がもっと嫌です。向こうの使いが来ても、出しません。使いが来たら、本当にあなたの名前を出しますよ」
マルヤは女主人を見たまま、清算紙を懐へしまった。
「ええ、私の名前を出して。大丈夫とは言えないけど、私もニカを放っておけないわ」
女主人は小さく息を吸い、靴を包み直した。
女主人は包みを棚の奥へ、少しでも深く押し込んだ。その上には預かり札の代わりに、自分の字で「渡さない」と書いた紙を置いた。
ノラは戸口へ向かった。ヨルが先に外へ出る。店先で一度だけ振り返り、靴屋の中へ鼻先を向けた。靴にも紙にも鼻を留めず、もっと奥へ引いた匂いを追っていた。
通りへ出ると、昼の音が戻ってきた。
荷車。呼び売り。遠くの鍛冶場。小さな影が道を横切るたび、ノラの目がそちらへ動いた。籠を抱えた子、母親を追う子、靴紐を引きずる子。ニカも、ここを一人で急いだのだろうか。誰かが一人帰っていない通りで、ほかの足音だけが急いでいた。
「その清算先の家、この前の保管庫の古い地図で見たことがある」
「何の地図」
「今は閉じたことになっている場所よ」
マルヤが歩きながら古い地図を広げようとすると、風が紙の端を鳴らした。ノラは受け取らず、先を行くヨルを見た。
「使われていない?」
「そう記録にはある」
「じゃあ、紙か匂いのどちらかが嘘だね」
「私は紙の方に賭けたくないわ」
ヨルが通りの途中で止まり、鼻を低くして石畳の継ぎ目を嗅いだ。靴屋の革と薬屋の甘さが風に薄れるなか、湿った布を長く閉じ込めたような匂いだけが、古い土の奥から漂っていた。
ヨルの喉が声にならない低さで震え、ノラはしゃがまずにその鼻先が向いた方を見た。
通りの先に、古い塀が続いている。表の戸はきれいに払われているのに、その奥だけ、昼の光が少し薄く見えた。
「あの塀の奥だね」
ヨルが答えないまま、ノラは足を速めた。
「なら、遅れてる。ニカを探す」




