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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第4章 二人分の空き
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第20話 穴ではなく家へ

挿絵(By みてみん)

灯口の相談所へ戻るまで、ユアンは一度も認識札を見なかった。


布で包んだまま、両手で抱えている。指先には横穴の泥が乾き、爪の間に黒い土が入り込んでいた。怪我は浅い。足も動く。けれど、椅子に座らされると、肩だけが遅れて落ちた。


ノラ・ヴェイルは戸口の横に立った。


ヨルは床板の匂いを確かめ、布包みへ鼻を向ける。横穴の匂いが、まだ残っているのだろう。低く鳴いてから、ノラの足元へ戻った。


マルヤ・センドは机の上に灯りを置いた。


怒鳴らなかった。


「布を開いて」


ユアンは顔を上げた。


「ここで、ですか」


「ここでよ。穴の中じゃない。灯りの前で、私が見ている」


ユアンは布の結び目をほどいた。


中には認識札が二つあった。


ひとつは、ユアンが相談所の机から持ち出した札だった。古いが、家印が残っている。端に小さな欠けがあり、紐を通す穴の片側だけが磨り減っていた。


もうひとつは、横穴の奥で布包みに紛れた札だった。


形が違う。研究班の古い形式に似ている。角の落とし方、文字の間隔、裏側の小さな刻み。けれど、名前はかすれ、決め手になる部分は欠けていた。


紐穴の横には、浅い傷が二本並んでいた。似た傷なら、小刀でいくらでも作れる。


照合欄には朱い印の欠けも残っていた。輪の中に細い門を立てたような、大司祭の印だった。


マルヤの指が、ほんの少し止まった。


「兄たちは札を取り違えないよう、兄が一本、弟がもう一本を刻んだの」


ユアンが息を吸う。


「さっき見えた傷、本当に……」


マルヤはその先を言わせなかった。


「決め手にはならない」


答えは早かった。


「さっき言った通りよ。傷が似ていても、兄さんのものとして扱わない。足りないものを、欲しい形に呼び直すだけになる」


ユアンは何も言えなかった。


マルヤは研究班形式の札を別の布に包み直した。


「これは保管庫へ戻す。もう一つは、確認する」


「僕が……」


ユアンの声がかすれた。


「僕が、横穴へ持って行きました」


「そうね」


マルヤは認識札から目を離さない。


「返したかったことは否定しない。でも、いいことをした顔で、名前の札を動かさない。名前は荷物じゃない」


ユアンの肩が震えた。


「棚に戻すだけじゃ、届かないと思いました」


マルヤは黙って聞いていた。


ユアンは、膝の上で自分の指を握る。


「でも、横穴に名前を覚えさせるところでした」


マルヤは細く息を吐いた。


「分かったなら、次は一人で運ばない。名前を返す時は、生きている人間が一緒に行く」


「……はい」


「はい、だけなら、横穴の声にも言えるわ」


ユアンの視線が、マルヤへ戻った。


マルヤは机の上の札を指で押さえた。


「来なさい。謝りに行くんじゃない。あなたが動かした名前が、どこへ戻るのかを見るの」


ユアンは今度、声を出さずにうなずいた。


マルヤは帳簿を二冊開いた。


古い控え。家印の写し。行方不明扱いの者の棚番号。認識札の欠け。紐穴の磨り減り。ひとつずつ照らしていく。


ノラは机の端からそれを見ていた。


「間違いないの」


マルヤはすぐには答えなかった。


「間違いない、と言えるところまでは見る。言えないなら返さない。返したい気持ちで、別の家へ名前を置くわけにはいかない」


その声には、横穴の入口で聞いた硬さが残っていた。


その名は、ここで呼ぶものじゃない。


マルヤは同じ硬さで、今度は帳簿を見ている。


やがて、二冊の帳簿で同じ家印が重なった。


「行くわ」


町の端に、その家はあった。


戸口の鉢には水が少しだけ残り、乾いた土の上に細い葉が倒れている。敷居は何度も削られ、椅子の脚には違う木が継がれていた。暮らしを捨ててはいない。けれど、どこも少しずつ足りない家だった。


戸を開けたのは、年老いた女だった。


マルヤが名を名乗り、灯口の者だと告げる。女はすぐに札へ目を落とさなかった。まず、マルヤの顔を見た。それからユアンを見て、最後にノラとヨルを見た。


「見つかったんですか」


マルヤは布包みを開いた。


「確認できるものが一つありました。間違っていたら、ここへは来ません」


女は両手を出した。


認識札が、その手のひらに置かれる。


女の指は、札の表面ではなく、欠けた端へ向かった。迷わなかった。そこを確かめるために、ずっと手だけが覚えていたようだった。


「この傷」


女は、少し笑った。


笑い切る前に、口元が細く震えた。


「あの子が自分でつけたんです。間違えられるのが嫌いで。兄の札と似ているからって、夕飯のあとに小刀で削って……叱ったら、これで間違えないって」


ユアンが息を止めた。


棚の上には、欠けた茶碗が一つ伏せてあった。誰かの分を片づけきれなかった家の匂いがした。


女は札を胸に抱かなかった。


ただ、欠けた端を親指で何度もなぞった。


「どこにありました」


マルヤは答える前に、ユアンを見た。


ユアンは伏せていた目を上げた。


「灯口の相談所の、古い記録棚です」


女の親指が止まった。


「では、どうして昨日まで棚に?」


ユアンは唇を噛みそうになり、やめた。


「僕が、手順を飛ばして持ち出しました。返せると思って。けれど、危ない場所へ運びました」


女はユアンを見た。


「持ってきた人の顔も、覚えておきます」


それだけ言って、女は札を包んでいた布を受け取った。


ユアンは深く頭を下げた。


「今は、下げないでください。私は、その札を持つので精一杯です」


ユアンは頭を半分だけ戻した。目は上げられなかった。


マルヤは女に短く手順を説明した。


記録の修正。保管番号の抹消ではなく、返却済みへの移し替え。灯口で写しを残すこと。必要なら、あとで相談所の者が来ること。


女はうなずきながら聞いた。


最後に、戸口まで見送った。


「帰ってきたと言っていいのか、まだ分かりません」


女は札を持つ手を見た。


「でも、どこに置けばいいかは、今日から分かります。棚でも、箱でも、私が決められる」


マルヤは頭を下げた。


「この家への返却として、記録します」


帰り道、ユアンは少し後ろを歩いた。


何度か口を開き、そのたびに閉じた。歩幅だけが、石畳の継ぎ目ごとに乱れた。


相談所へ戻る手前で、マルヤが足を止めた。


「ユアン」


「はい」


「先に戻って、返却記録を書いて。今日の分は、私が見る」


「僕が書いていいんですか」


「書きなさい。今度は、勝手に動かさずに」


ユアンは一度だけ、強くうなずいた。


走らなかった。手に何も持っていないことを確かめるように、自分の指を開いたまま歩いた。


その背中が角を曲がってから、マルヤはノラを見た。


「少しだけ、付き合って」


ノラは答えず、横に並んだ。


ヨルが二人の間を歩く。さっきまで認識札の布を気にしていた鼻先は、今は地面へ向いていた。人の名前を欲しがる横穴の匂いは、もう薄い。


マルヤはしばらく黙っていた。


通りの端で、壊れた看板を直す男が釘を打っている。金槌の音が三つ鳴り、ひとつ外れた。男が舌打ちをして、もう一度釘を立てる。


「兄たちは二人とも、迷宮で死んだと聞かされた」


マルヤは看板の方を見たまま言った。


「遺体は戻っていない。戻ったのは、紙の報告と、役に立たない写しだけ。弔ったと言われても、信じる場所がなかった」


ノラは相槌を打たなかった。


「今日の家みたいに、欠けた場所を指で確かめられるなら、まだよかったのかもしれない。そう思う自分が、少し嫌になる」


「嫌になる必要はない」


「慰めは下手ね」


「上手く言う場所じゃない」


「もし、どこかで兄たちのものを見つけたら」


そこで言葉が止まった。


名前は出なかった。


出しかけた気配だけが、夕方の空気に触れて消えた。


「持って帰らなくていい。無理に奪い返さなくてもいい。名前を横穴に読ませず、簡単でいいから弔って。誰かの口を使わせるくらいなら、石を一つ置くだけでいい」


ノラはすぐには返さなかった。


迷宮の中で何を見つけるかは分からない。見つけても、手を伸ばせないことがある。生きている者を先に出さなければならない時もある。


だから、言えることだけを言った。


「見つけたら、外へ戻って先に伝える。弔うかどうかを、私一人では決めない」


マルヤはうなずいた。


「それでいい。約束を飾られるより、そっちの方が信用できる」


ヨルは二人の間で尾を一度振った。


同意なのか、不満なのか分からない動きだった。


マルヤは目を伏せる。


「この子、分かっている顔をするわね」


「分かってる時もある」


「分かってない時も?」


「パンを隠す場所は、だいたい分かってない」


ヨルが顔を上げた。


抗議するように鼻を鳴らす。


マルヤはそこで、ほんの少し笑った。


相談所へ戻ると、机の上には新しい紙が置かれていた。


ユアンが返却記録を書き始めている。字は少し歪んでいたが、欄は飛ばしていない。マルヤは横目でそれを確認し、何も言わずに別の紙を取った。


「清算紙?」


ノラが聞くと、マルヤは紙の品目欄を爪で示した。


「灯口を通った分ね。赤錆でも浅縁でもない。生活用品の清算」


紙には、細かい品目が並んでいた。


靴底の張り替え。子ども用。


甘い薬。二包。


柔らかい布。


小さな髪飾りの修繕。


それだけなら、町のどこにでもある清算だった。


だが、下の端に押された印を見て、マルヤの眉がわずかに寄った。


「この印、こういう清算にも使うのね」


ノラは紙をのぞいた。


サイラス側の印だった。


赤錆の斡旋紙で見たもの。浅縁の控えに薄く混じっていたもの。名前を動かす紙の端に、何度か残っていた印。


今は、子どもの靴と薬の横にある。


ヨルが机の脚へ前足をかけ、紙に鼻を近づけた。


薬の甘い匂いを嗅いだあと、すぐに顔を背ける。


「クル……」


嫌なものを見つけた時の声ではない。


嫌なものが、やわらかい布に包まれている時の声だった。


ノラは紙から目を離さなかった。


ただ、子ども用の靴と、甘い薬と、同じ印だけが残っている。


マルヤは清算紙を伏せた。


「今日は、ここまでにしましょう」


ユアンの筆が止まる。


ノラは戸口へ向かった。


外はもう暗くなり始めていた。掲示板の方から、人の声が薄く流れてくる。明日の仕事を探す声。今日の賃を数える声。誰かの名を呼ぶ声。


ヨルがノラの横へ並んだ。


「帰るよ」


ヨルが短く鳴いた。


相談所の中では、マルヤが伏せた清算紙の上に手を置いていた。


紙の端から、サイラス側の印だけが少し見えていた。


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