第20話 穴ではなく家へ
灯口の相談所へ戻るまで、ユアンは一度も認識札を見なかった。
布で包んだまま、両手で抱えている。指先には横穴の泥が乾き、爪の間に黒い土が入り込んでいた。怪我は浅い。足も動く。けれど、椅子に座らされると、肩だけが遅れて落ちた。
ノラ・ヴェイルは戸口の横に立った。ヨルは床板の匂いを確かめ、布包みへ鼻を向ける。横穴の匂いが、まだ残っているのだろう。低く鳴いてから、ノラの足元へ戻った。
戻る途中で踏んだ泥が後ろ足に残り、ヨルは座るたび床へ小さな跡を増やした。ノラが一つ拭くと、その間にもう片方で新しい跡をつける。ユアンはそれを見て、張りつめていた口から一度だけ息を漏らした。
マルヤ・センドは机の上に灯りを置いた。怒鳴らなかった。
「布を開いて」
ユアンは顔を上げた。
「ここで、ですか」
「ここでよ。穴の中じゃない。灯りの前で、私が見ている」
ユアンが布の結び目をほどくと、中には認識札が二つあった。
一つは、ユアンが相談所の机から持ち出した札だった。古いが、家印が残っている。端に小さな欠けがあり、紐を通す穴の片側だけが磨り減っていた。
もう一つは、横穴の奥で布包みに紛れた、形の違う札だった。研究班の古い形式に似ている。角の落とし方、文字の間隔、裏側の小さな刻み。けれど、名前はかすれ、決め手になる部分は欠けていた。
紐穴の横には、浅い傷が二本並んでいた。似た傷なら、小刀でいくらでも作れる。
照合欄には朱い印の欠けも残っていた。輪の中に細い門を立てたような、大司祭の印だった。マルヤの指が、ほんの少し止まった。
「兄たちは札を取り違えないよう、兄が一本、弟がもう一本を刻んだの」
ユアンが息を吸う。
「さっき見えた傷、本当に……」
マルヤはその先を言わせなかった。
「決め手にはならない」
答えは早かった。
「さっき言った通りよ。傷が似ていても、兄さんのものとして扱わない。足りないものを、欲しい形に呼び直すだけになる」
ユアンが何も言えずにいると、マルヤは研究班形式の札を別の布に包み直した。
「これは保管庫へ戻す。もう一つは、確認する」
「僕が……」
ユアンの声がかすれた。
「僕が、横穴へ持って行きました」
「そうね」
マルヤは認識札から目を離さない。
「返したかったことは否定しない。でも、いいことをした顔で、名前の札を動かさない。名前は荷物じゃない」
ユアンの肩が震えた。
「棚に戻すだけじゃ、届かないと思いました」
マルヤが黙って聞くなか、ユアンは膝の上で自分の指を握った。
「でも、横穴に名前を覚えさせるところでした」
マルヤは細く息を吐いた。
「分かったなら、次は一人で運ばない。名前を返す時は、生きている人間が一緒に行く」
「……はい」
「はい、だけなら、横穴の声にも言えるわ」
ユアンの視線が戻ると、マルヤは机の上の札を指で押さえた。
「来なさい。謝りに行くんじゃない。あなたが動かした名前が、どこへ戻るのかを見るの」
ユアンが今度は声を出さずにうなずくと、マルヤは帳簿を二冊開き、古い控えの家印と棚番号を、札の欠けや磨り減った紐穴に重ねていった。返したい気持ちを、照合の代わりにはしない手つきだった。
ノラは机の端からそれを見ていた。
「間違いないの」
マルヤはすぐには答えなかった。
「間違いない、と言えるところまでは見る。言えないなら返さない。返したい気持ちで、別の家へ名前を置くわけにはいかない」
マルヤは、横穴の入口で「その名は、ここで呼ばない」と告げた時と同じ硬さを残したまま、今度は帳簿を見ていた。
やがて、二冊の帳簿で同じ家印が重なった。
「行くわ」
町の端に、その家はあった。
戸口の鉢には水が少しだけ残り、乾いた土の上に細い葉が倒れている。敷居は何度も削られ、椅子の脚には違う木が継がれていた。暮らしを捨ててはいない。けれど、どこも少しずつ足りない家だった。
戸を開けたのは、年老いた女だった。
マルヤが名を名乗り、灯口の者だと告げる。女はすぐに札へ目を落とさなかった。まず、マルヤの顔を見た。それからユアンを見て、最後にノラとヨルを見た。
「見つかったんですか」
マルヤは布包みを開いた。
「確認できるものが一つありました。間違っていたら、ここへは来ません」
女が両手を出し、その掌に認識札が置かれた。女の指は、札の表面ではなく、欠けた端へ向かった。迷わなかった。そこを確かめるために、ずっと手だけが覚えていたようだった。
欠けを二度なぞり、三度目には指が止まった。札の裏へ回った親指が、見えない汚れを落とすように同じ場所をこする。ユアンは説明しようとして口を開いたが、女の手が震えるのを見て、言葉を札より先へ置かなかった。
「この傷」
女は、少し笑った。笑い切る前に、口元が細く震えた。
「あの子が自分でつけたんです。間違えられるのが嫌いで。兄の札と似ているからって、夕飯のあとに小刀で削って……叱ったら、これで間違えないって」
ユアンが息を止めた。棚の上には、欠けた茶碗が一つ伏せてあった。誰かの分を片づけきれなかった家の匂いがした。女は札を胸に抱かず、欠けた端を親指で何度もなぞった。
「どこにありました」
見つかった場所を答える前に、マルヤはユアンへ判断を委ねるように目を向けた。逃げずに話す番だと悟り、ユアンも伏せていた顔を上げた。
「灯口の相談所の、古い記録棚です」
戻せずにいた時間を思ったのか、欠けをなぞっていた女の親指が止まった。
「では、どうして昨日まで棚に?」
ユアンは唇を噛んで黙り込みそうになったが、それでは同じことを繰り返すと気づいて口を開いた。
「誰の札か、確かめてからでないと返せなかったんです。僕はその確認を待たず、手順を飛ばして持ち出しました。返せると思って。けれど、危ない場所へ運びました」
危ない場所へ札を運んだという告白を聞き、女は初めてユアンを正面から見た。
「持ってきた人の顔も、覚えておきます」
それだけ言って、女は札を包んでいた布を受け取った。ユアンは深く頭を下げた。
「今は、下げないでください。私は、その札を持つので精一杯です」
深く下げた頭を半分だけ戻しても、ユアンはまだ目を上げられなかった。マルヤが記録帳へ手を伸ばすと、女の指が認識札の上で閉じた。
「それも、また持っていくための紙ですか」
女はユアンの方へ顔を戻した。
「来月もまた、灯口へ聞きに行くんですか」
マルヤは記録帳を開かなかった。
「札はここへ置いていきます。保管番号は消さず、返却済みに移す。写しは灯口に残します。でも、人を寄越すのはあなたが望んだ時だけ。こちらの都合で、もう一度この家から動かしません」
女はすぐにはうなずかなかった。欠けた茶碗の横へ札を置きかけ、そこでは近すぎると思ったのか、窓辺へ移す。最後には、椅子に座れば手の届く小箱の上を選んだ。
「置く場所は、私が決めていいんですね」
「そのために返しに来ました」
女はそこで初めて札から手を離した。帰り際、戸口まで見送ったが、記録帳の方は一度も見なかった。
「帰ってきたと言っていいのか、まだ分かりません」
女は札を離した手を見た。
「でも、どこに置けばいいかは、今日から分かります。棚でも、箱でも、私が決められる」
マルヤは頭を下げた。
「この家への返却として、記録します」
帰り道、ユアンは少し後ろを歩いた。何度か口を開き、そのたびに閉じた。歩幅だけが、石畳の継ぎ目ごとに乱れた。相談所へ戻る手前で、マルヤが足を止めた。
「ユアン」
「はい」
「先に戻って、返却記録を書いて。今日の分は、私が見る」
「僕が書いていいんですか」
「書きなさい。今度は、勝手に動かさずに」
ユアンは一度だけ強くうなずいたが、走らなかった。手に何も持っていないことを確かめるように、自分の指を開いたまま歩いた。その背中が角を曲がってから、マルヤはノラを見た。
「少しだけ、付き合って」
ノラは答えず、横に並んだ。ヨルが二人の間を歩く。さっきまで認識札の布を気にしていた鼻先は、今は地面へ向いていた。人の名前を欲しがる横穴の匂いは、もう薄い。
マルヤはしばらく黙っていた。通りの端で、壊れた看板を直す男が釘を打っている。金槌の音が三つ鳴り、一つ外れた。男が舌打ちをして、もう一度釘を立てる。
「兄たちは二人とも、迷宮で死んだと聞かされた」
マルヤは看板の方を見たまま言った。
「遺体は戻っていない。戻ったのは、紙の報告と、役に立たない写しだけ。弔ったと言われても、信じる場所がなかった」
ノラは相槌を打たなかった。
「今日の家みたいに、欠けた場所を指で確かめられるなら、まだよかったのかもしれない。そう思う自分が、少し嫌になる」
「嫌になる必要はない」
「慰めは下手ね」
「上手く言う場所じゃない」
「もし、どこかで兄たちのものを見つけたら」
そこで言葉が止まった。名前は出なかった。出しかけた気配だけが、夕方の空気に触れて消えた。
「持って帰らなくていい。無理に奪い返さなくてもいい。名前を横穴に読ませず、簡単でいいから弔って。誰かの口を使わせるくらいなら、石を一つ置くだけでいい」
ノラはすぐには返さなかった。迷宮の中で何を見つけるかは分からない。見つけても、手を伸ばせないことがある。生きている者を先に出さなければならない時もあるから、言えることだけを言った。
「見つけたら、外へ戻って先に伝える。弔うかどうかを、私一人では決めない」
マルヤはうなずいた。
「それでいい。約束を飾られるより、そっちの方が信用できる」
ヨルは二人の間で尾を一度振ったが、それが同意なのか不満なのかは分からなかった。マルヤは目を伏せる。
「この子、分かっている顔をするわね」
「分かってる時もある」
「分かってない時も?」
「パンを隠す場所は、だいたい分かってない」
ヨルが顔を上げ、抗議するように鼻を鳴らした。マルヤはそこで、ほんの少し笑った。
相談所へ戻っても、ユアンは笑わなかった。返却記録の最後の欄を空けたまま、筆を握っている。二人が入ってきた気配にも顔を上げず、やがて諦めたように聞いた。
「『帰った』と書いていいんでしょうか」
「何が?」
「あの人が、帰ってきたと言っていいか分からないって」
マルヤはユアンの横へ立った。空いた欄をのぞき込み、赤字を入れる代わりに、机の端を指で一度叩く。
「帰ったのは札よ。人じゃない。そこを一緒にしたら、あの人からまた何かを奪う」
ユアンは筆先を紙へ戻したが、すぐには書けなかった。
「嫌な書き方ですね」
「ええ。でも、嫌だから空けておくのはもっと嫌い」
ユアンはゆっくりと書き始めた。文字は歪んだが、今度は欄の途中で止まらなかった。書き終えて吸い取り紙を取ろうとした手が、その下に伏せてあった別の紙をずらす。
子ども用の靴底の張り替え。甘い薬が二包。柔らかい布。小さな髪飾りの修繕。どれも町で珍しくない品だったが、並ぶと、持ち主の姿だけが抜けた部屋のように見えた。
「清算紙?」
ノラが聞くと、マルヤはうなずいた。
「灯口を通った分ね。赤錆でも浅縁でもない。生活用品の清算」
ユアンの手が紙を引き寄せかけ、途中で止まった。指先を浮かせたまま、マルヤを見る。
「見てもいいですか」
認識札を持ち出した時には、聞くより先に動いた手だった。マルヤは自分で紙を返し、三人の間へ置いた。
下の端に、サイラス側の印があった。赤錆の斡旋紙で見たもの。浅縁の控えに薄く混じっていたもの。名前を動かす紙の端にも、何度か残っていた印が、今は子どもの靴と薬の横に押されている。
「この印、こういう清算にも使うのね」
マルヤの眉が寄った。ヨルが机へ前足をかけ、甘い薬の匂いには顔を背けたのに、紙の端だけはもう一度嗅いだ。
「クル……」
「届け先を探します」
ユアンはもう立ちかけていた。椅子の脚が床を擦る。
「今夜は行かない」
マルヤが言うと、ユアンは紙ではなく彼女を見た。
「また朝まで置くんですか」
「暗くなってから子どもの届け先へ一人で走る方が、さっきと同じでしょう」
「一人では――」
そこでユアンは、ノラへ一緒に来てほしいと言いかけた。ノラの右肩が、横穴で打ったせいでまだわずかに下がっているのを見て、言葉を飲み込む。
マルヤは清算紙を取り上げなかった。
「明日の朝、靴屋から見る。私とノラで行く。あなたは、いま書いたものを最後まで返す」
「僕を信用していないんですね」
「あんなことがあった直後に、元通りだと言う方が嘘よ」
返事は厳しかったが、マルヤは清算紙を鍵のかかる箱へしまわなかった。ユアンの手が届く机に伏せ、石の文鎮だけを乗せる。
外はもう暗くなり始めていた。掲示板の方から、明日の仕事を探す声や今日の賃を数える声に混じって、誰かの名を呼ぶ声が流れてくる。ユアンは一度だけ戸口を見た。
「今日は、ここまでにしましょう」
マルヤが言うと、ユアンは椅子へ座り直した。
ノラはヨルを連れて戸口へ向かう。
「帰るよ」
ヨルが短く鳴いた。背後で筆が紙を擦る音が戻る。文鎮の下からはサイラス側の印だけがのぞいていたが、ユアンはもう手を伸ばさなかった。




