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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第4章 二人分の空き
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第19話 名札の横穴

挿絵(By みてみん)

古い横穴跡は、町外れの水路裏にあった。


今は迷宮札も出ていない。作業口でもない。荷車の轍も途切れている。ただ、石積みの壁に半分埋もれた黒い口だけが、枯れ草の奥でまだ息をしていた。


入口には古い封鎖縄が張られていた。赤い封蝋はひび割れ、灯口の印も半分剥げている。けれど、封鎖の形だけは残っていた。


その下に、人がくぐった跡がある。土が削れ、草の茎が折れ、細い靴跡が奥へ向かっていた。マルヤ・センドは、封鎖縄の前で足を止めた。


「間に合っていればいいけれど」


声は落ち着いていた。けれど、腰の帳簿を抱える腕に力が入っている。保管庫から持ってきた横穴跡の原図は、記録束と一緒に布で巻かれていた。抜けた認識札の番号、ユアンが見たかもしれない照会紙も、マルヤが入口側で抱えている。


ノラ・ヴェイルは、封鎖縄の下を見た。


「足跡は新しい」


ヨルが先に鼻を入れ、黒い鼻先で湿った土をなぞった。すぐに顔を上げ、横穴の奥へ向かって低く鳴いた。


「クル……」


生きている匂いを見つけた声だった。マルヤの足が前へ出かけたのを、ノラは手で制した。


「ここから先は私が行く」


「ユアンは灯口の子よ。私が叱る相手でもある」


「叱るなら、外で息をしてからにして」


マルヤは言い返さなかった。


その代わり、マルヤは帳簿を抱え直し、灯口の男二人を従えて封鎖縄の脇へ立った。一人には灯りを、もう一人には布と縄を持たせてある。見つかった札を素手で扱わせないため、布を持つ男は空の袋まで広げていた。ここへ来る途中で、マルヤがすでに役を割り振ったのだ。


「入口は押さえる。持ち出された札の記録も、私が受ける」


「名前を読まないで」


「分かっているわ。私に言う時は、もう少し信用している顔で言いなさい」


ノラは横穴の奥を見た。


「信用してるから、外にいてと言ってる」


マルヤの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑うには場が悪かった。


「ユアンを外へ出して。認識札の名前を、横穴に覚えさせない」


「そうする」


ノラが封鎖縄をくぐると、ヨルが先へ入った。横穴の中は、最初から狭かった。


大人がまっすぐ歩ける高さはない。肩を斜めにしなければ壁に当たる。灯りを上げると、壁の湿り気が鈍く光った。石の割れ目に、古い木片がいくつも埋まっている。


名札の跡だった。木札そのものは腐り、ほとんど剥がれている。けれど、壁に残った四角い跡だけが並んでいた。そこにかつて名前が吊られていたことだけを、壁が覚えている。


ノラは足を止めた。歯のように並ぶ名札跡の間に、文字が浮いている。


墨ではない。刻まれた字でもない。削れた名前の端だけが、湿った壁の奥からにじむように出ていた。


……オ。


……ヤ。


……リ。


名前にはなっていない。けれど、名前になりたがっている。ヨルがノラの足元へ戻り、耳を伏せた。横穴の奥から、細い音がした。


「……返して」


男か女か分からない声だった。


「名前を読んで」


ノラは返さない。


返さずに、足元を見る。ユアンの靴跡は続いている。途中で一度、膝をついた跡があった。そこで地図を広げたのか、認識札を確かめたのか、土に指の線が残っている。


ヨルがその線を嗅ぎ、先へ進んだ。横穴は少しずつ下っていた。


天井から水滴が落ちる。音はひとつのはずなのに、奥でいくつにも割れる。ぽたり。ぽたり。ぽた、り。最後の一音だけが、人の舌のように湿っている。


奥から話し声が届いたため、ノラは相手にこちらの灯りを悟られない高さまで火を下げた。


「……ここを通れば、早いんです。記録では、水路裏の家印に近い。だから、間違っていないはずで」


聞こえるのはユアンの声だが、応じる人間の気配はない。それでも彼は、暗がりの誰かを納得させようとするように説明を続けていた。


「棚に置いたままじゃ、返したことにならない。家が分かるなら、せめて、せめて札だけでも」


言い訳めいた声が途中で揺らいだのを聞き、ノラは危険が近いと悟って足を速めた。


「そのまま動かないで」


声の先に開けた小さな空間で、ようやくユアンの姿が灯りに浮かんだ。


崩れた石棚の前に膝をつき、両手で認識札を抱えている。灯りは床に置かれ、火が小さくなっていた。横には、相談所から持ち出した古い地図の写しが広げられている。端が湿り、文字がにじみ始めていた。


振り返ったユアンは青い顔をしていたが、それでも自分が間違っていない理由を探していた。


「ノラさん、ここ、家印の古い道に近いんです。壁の印と札の欠けが合えば、持ち主の家が分かります。マルヤさんは手順が必要だって言うけど、手順を待っている間に、また照会が入ったら」


「ここで読むな」


ノラが横穴へ拾われない低さで制すると、ユアンは続きを口にする寸前で止まった。


「読まなければ、返せません。名前を確かめないと、家を間違えるかもしれない」


「ここは家じゃない」


ノラは札の文字を視界に入れない角度からユアンへ近づいた。


「ここで読めば、横穴が先に名前を覚える」


ユアンは認識札を抱え直した。


「でも、読まないまま棚に戻したら、また誰にも届かない。戻らなかった人のものを、番号だけで置いておくのは、もう嫌なんです」


見下ろせば追い詰めると考え、ノラはユアンと同じ高さまで膝をついた。


「返したいなら、生きて外へ持っていく。ここで名前を読んだら、その札は家まで行かない」


ユアンは反論しかけた。その前に、横穴の壁が濡れた。


認識札の文字へ、湿った光が寄る。札に刻まれた名の一部が、にじむように浮き上がった。ユアンはそれを読もうとして、喉を動かした。ノラはユアンの口元へ手をかざし、声を止めた。


「声にするな」


ユアンの目が見開かれる。壁の削れた文字が、少しずつ形を変えていた。札にある字を真似るように、欠けた線が湿った石の上でつながっていく。名前が、札から壁へ移りかけている。


ユアンの顔から血の気が引いた。


「僕は……返そうとしただけです」


「分かってる」


「だから、ここで終わらせない」


横穴の奥が、低く鳴った。水滴の音が止まる。次に聞こえたのは、マルヤの声だった。


「兄さん」


入口の方からではない。横穴の壁そのものが、マルヤの声を真似ていた。ユアンがびくりと肩を揺らす。


ノラは振り向かない。振り向けば、壁がこちらの反応を覚える気がした。もう一度、声がした。


「兄さん」


今度は少しだけ、幼い声に寄っていた。似ているのかどうか、ノラには分からない。ただ、入口にいるマルヤへ届くように、横穴が声を選んでいることだけは分かった。外で、布が擦れる音がした。


マルヤが動いたのだ。横穴はそれを聞いて、また声を出そうとした。入口で、息を吸う音がした。


「兄――」


声は歯の裏で切れ、紙の落ちるかすかな音が入口側から届いた。


「……その名は、ここで呼ばない」


横穴が震えた。壁の名札跡が一斉に濡れる。歯のように並んだ四角い跡が、口を開くように黒くなる。


「返して」


「名前を読んで」


「マル……」


ノラはユアンの腕をつかんだ。


「出るよ」


ユアンは認識札を胸へ抱いたまま、動けないでいる。


「僕が、横穴に名前を覚えさせようとしていたんですね」


「今気づいたなら、まだ間に合う」


「でも、札を落としたら」


「布に包んで。名前は見ない。握るだけにして」


ユアンは慌てて腰袋を探った。指がうまく動かない。ノラは自分の布を一枚抜き、認識札の上へ置いた。


「包んで」


「はい」


今度の返事には、言い訳がなかった。ユアンは札を布で包んだ。名前の刻まれた面が隠れる。壁の文字が、形を失ってにじんだ。


ヨルが鋭く鳴いた。


「クルッ」


出口側ではない。


右の低い割れ目を示している。来た道は、壁の名札跡が膨らみ始めていた。腐った木片が石から押し出され、床へ落ちる。落ちた札跡は、虫のように震えながら、こちらへ向いている。


「そっちか」


ノラは灯りを拾い、ユアンの腕を引いて右の割れ目へ体を入れた。狭い。肩が石に擦れる。ユアンは布包みを抱えたまま、うまく進めない。


後ろで、声が重なった。


「ノ……」


「ラ……」


「ヴェ……」


ノラの名を作ろうとしている。ユアンが反射的に振り返りかけた。ノラは低く言った。


「私の名前でも返すな。形が似ているだけだ」


「はい。今度は、聞きません」


ユアンは布包みを胸から少し離した。抱え込むと、足が動かないと分かったのだろう。片腕で包みを支え、もう片方の手で壁を押した。横穴が揺れる。


天井から古い木札が落ちた。腐った札に、墨のかすれた線が残っている。それが床に当たった瞬間、細い声が跳ねた。


「……母」


「ここ」


「名前を」


ノラはユアンの背中を押した。


「急いで。ただし、札を見ない」


「見ません。もう、ここでは見ません」


割れ目の先に、薄い光があった。


入口ではない。封鎖口の少し横へ出る補助穴だろう。ヨルが先に潜り、外の空気を嗅ぐ。危険がないと見て、尾を一度振った。


その時、湿った床が紙を裂くように割れ、ユアンの足元が抜けた。横へ傾いた体から布包みが滑ると、彼は自分を支えるより先に札へ手を伸ばした。


ノラは札の行方を追わず、落ちかけたユアンの肘の上をつかんだ。


「札は拾える。生きてる人間を先に出す」


生きている自分を先に選べと言われ、ユアンは顔を歪めながらも、布包みへ伸ばした手を離した。


ノラはユアンを引き上げる。床の裂け目から、冷たい息が吹いた。布包みは石の縁で止まっている。ヨルが戻り、包みの端を噛んだ。


「ヨル、持つな。寄せるだけ」


ヨルは短く鳴き、包みをこちらへ引いた。ノラはユアンを押し出してから、片手で布包みを拾う。名前の面は見ない。布の上から握り、腰袋へ入れる。


横穴が、怒ったように鳴った。


「返せ」


今度の声は命令の形を取ったが、ノラは応じず、ユアンを補助穴へ押し上げた。肩が穴を越えるにつれて、閉じかけた視界に外の光が広がった。


「受けて」


マルヤの声がした。


ユアンの体が外へ出る。マルヤと灯口の男が受け止めた。ユアンは地面へ転がり、咳き込む。マルヤはその肩を支えながら、すぐには叱らなかった。


「息をしなさい。叱るのは、そのあと」


「マルヤさん、僕は」


「謝罪もあと。今ここで名前を増やさないで」


ユアンは口を閉じた。


ノラも外へ体を引き上げた。ヨルも飛び出す。灯口の男が封鎖縄の方へ火を近づける。横穴の中から、まだ小さく声が漏れていた。


「……名前を読んで」


火が近づくと、声は水に落ちる灰のように細くなった。マルヤは、封鎖縄を張り直すよう灯口の男へ指示した。


「入口を二重にして。補助穴も塞ぐ。灰鷹には、横穴跡が反応したとだけ伝えて。認識札の名前は、紙に写さない」


男が動き出すと、マルヤは土に落ちた紙を拾い、泥も証拠にするようそのまま帳簿へ挟んだ。ノラも腰袋から布包みを出した。


「見ないで受け取れる?」


ユアンは顔を上げたが、すぐには手を出さなかった。


「今の僕が持つと、また読みたくなるかもしれません」


マルヤが布包みを受け取った。


「それが分かっているなら、今は私が預かる」


ユアンは深く息を吸った。


「棚にしまって終わりにしたくなかった。でも僕は、返す先をこの穴に決めさせた」


マルヤは布包みを帳簿の上へ置いた。


「返したい気持ちだけで名前を動かすな。名前は荷物より軽く見えるけれど、読まれた場所を選べない」


「次からは、僕だけで触りません」


「次から、では遅いこともあるわ」


マルヤの声は厳しかった。そこで切らず、少しだけ低く続けた。


「でも、今日は生きて外にいる。だから、叱れる」


ユアンは目を赤くしたが、泣き声は上げなかった。灯口の男が水袋を差し出した。ユアンは両手で受け取り、口をつける前に、一度だけ横穴ではなくマルヤを見た。ノラは横穴の入口を見た。


封鎖縄の奥では、灯口の男たちが石を積み直している。声はほとんど聞こえないが、横穴は閉じておらず、核の場所も分からない。忘れられた名前の残りで、まだ細く息をしている。ヨルがノラの足元へ寄った。


「クル」


ノラは奥へ戻らなかった。今は、外へ出したユアンと認識札を離す場面ではなかった。マルヤは布包みを開かなかった。


けれど、包みの端から、別の小さな札が一枚滑りかけていることに気づいた。ノラも見た。形が少し違う。欠けた角。古い研究班で使われていたものに似ていた。


マルヤの指が、その札の手前で止まる。長い間ではなかった。けれど、横穴の声よりも、その一拍の方が重かった。


ユアンが不安そうに言う。


「それ、もしかして」


「似ているだけよ」


マルヤは布をかけ直した。


「兄さんのものだと決めつけたら、横穴と同じことをする」


ユアンは何も言わなかった。ノラも聞かなかった。マルヤは帳簿と布包みを胸に抱え、封鎖された横穴を見た。


「これは家へ返す。穴ではなく、家へ。声に読ませるんじゃなく、生きている手へ渡す」


マルヤは布包みをユアンへ差し出した。ユアンは開かず、両手で受け取った。ヨルが鼻を鳴らした。


町の方から、荷車の音が近づいてくる。夕方の仕事が終わる時間だった。ノラは横穴に背を向けた。背後で、湿った壁が最後に一度だけ鳴った。


「名前を読んで」


その要求は、家へ向かう荷車の音に踏み消された。


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