第19話 名札の横穴
古い横穴跡は、町外れの水路裏にあった。
今は迷宮札も出ていない。作業口でもない。荷車の轍も途切れている。ただ、石積みの壁に半分埋もれた黒い口だけが、枯れ草の奥でまだ息をしていた。
入口には古い封鎖縄が張られていた。赤い封蝋はひび割れ、灯口の印も半分剥げている。けれど、封鎖の形だけは残っていた。
その下に、人がくぐった跡がある。土が削れ、草の茎が折れ、細い靴跡が奥へ向かっていた。マルヤ・センドは、封鎖縄の前で足を止めた。
「間に合っていればいいけれど」
声は落ち着いていた。けれど、腰の帳簿を抱える腕に力が入っている。保管庫から持ってきた横穴跡の原図は、記録束と一緒に布で巻かれていた。抜けた認識札の番号、ユアンが見たかもしれない照会紙も、マルヤが入口側で抱えている。
ノラ・ヴェイルは、封鎖縄の下を見た。
「足跡は新しい」
ヨルが先に鼻を入れ、黒い鼻先で湿った土をなぞった。すぐに顔を上げ、横穴の奥へ向かって低く鳴いた。
「クル……」
生きている匂いを見つけた声だった。マルヤの足が前へ出かけたのを、ノラは手で制した。
「ここから先は私が行く」
「ユアンは灯口の子よ。私が叱る相手でもある」
「叱るなら、外で息をしてからにして」
マルヤは言い返さなかった。
その代わり、マルヤは帳簿を抱え直し、灯口の男二人を従えて封鎖縄の脇へ立った。一人には灯りを、もう一人には布と縄を持たせてある。見つかった札を素手で扱わせないため、布を持つ男は空の袋まで広げていた。ここへ来る途中で、マルヤがすでに役を割り振ったのだ。
「入口は押さえる。持ち出された札の記録も、私が受ける」
「名前を読まないで」
「分かっているわ。私に言う時は、もう少し信用している顔で言いなさい」
ノラは横穴の奥を見た。
「信用してるから、外にいてと言ってる」
マルヤの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑うには場が悪かった。
「ユアンを外へ出して。認識札の名前を、横穴に覚えさせない」
「そうする」
ノラが封鎖縄をくぐると、ヨルが先へ入った。横穴の中は、最初から狭かった。
大人がまっすぐ歩ける高さはない。肩を斜めにしなければ壁に当たる。灯りを上げると、壁の湿り気が鈍く光った。石の割れ目に、古い木片がいくつも埋まっている。
名札の跡だった。木札そのものは腐り、ほとんど剥がれている。けれど、壁に残った四角い跡だけが並んでいた。そこにかつて名前が吊られていたことだけを、壁が覚えている。
ノラは足を止めた。歯のように並ぶ名札跡の間に、文字が浮いている。
墨ではない。刻まれた字でもない。削れた名前の端だけが、湿った壁の奥からにじむように出ていた。
……オ。
……ヤ。
……リ。
名前にはなっていない。けれど、名前になりたがっている。ヨルがノラの足元へ戻り、耳を伏せた。横穴の奥から、細い音がした。
「……返して」
男か女か分からない声だった。
「名前を読んで」
ノラは返さない。
返さずに、足元を見る。ユアンの靴跡は続いている。途中で一度、膝をついた跡があった。そこで地図を広げたのか、認識札を確かめたのか、土に指の線が残っている。
ヨルがその線を嗅ぎ、先へ進んだ。横穴は少しずつ下っていた。
天井から水滴が落ちる。音はひとつのはずなのに、奥でいくつにも割れる。ぽたり。ぽたり。ぽた、り。最後の一音だけが、人の舌のように湿っている。
奥から話し声が届いたため、ノラは相手にこちらの灯りを悟られない高さまで火を下げた。
「……ここを通れば、早いんです。記録では、水路裏の家印に近い。だから、間違っていないはずで」
聞こえるのはユアンの声だが、応じる人間の気配はない。それでも彼は、暗がりの誰かを納得させようとするように説明を続けていた。
「棚に置いたままじゃ、返したことにならない。家が分かるなら、せめて、せめて札だけでも」
言い訳めいた声が途中で揺らいだのを聞き、ノラは危険が近いと悟って足を速めた。
「そのまま動かないで」
声の先に開けた小さな空間で、ようやくユアンの姿が灯りに浮かんだ。
崩れた石棚の前に膝をつき、両手で認識札を抱えている。灯りは床に置かれ、火が小さくなっていた。横には、相談所から持ち出した古い地図の写しが広げられている。端が湿り、文字がにじみ始めていた。
振り返ったユアンは青い顔をしていたが、それでも自分が間違っていない理由を探していた。
「ノラさん、ここ、家印の古い道に近いんです。壁の印と札の欠けが合えば、持ち主の家が分かります。マルヤさんは手順が必要だって言うけど、手順を待っている間に、また照会が入ったら」
「ここで読むな」
ノラが横穴へ拾われない低さで制すると、ユアンは続きを口にする寸前で止まった。
「読まなければ、返せません。名前を確かめないと、家を間違えるかもしれない」
「ここは家じゃない」
ノラは札の文字を視界に入れない角度からユアンへ近づいた。
「ここで読めば、横穴が先に名前を覚える」
ユアンは認識札を抱え直した。
「でも、読まないまま棚に戻したら、また誰にも届かない。戻らなかった人のものを、番号だけで置いておくのは、もう嫌なんです」
見下ろせば追い詰めると考え、ノラはユアンと同じ高さまで膝をついた。
「返したいなら、生きて外へ持っていく。ここで名前を読んだら、その札は家まで行かない」
ユアンは反論しかけた。その前に、横穴の壁が濡れた。
認識札の文字へ、湿った光が寄る。札に刻まれた名の一部が、にじむように浮き上がった。ユアンはそれを読もうとして、喉を動かした。ノラはユアンの口元へ手をかざし、声を止めた。
「声にするな」
ユアンの目が見開かれる。壁の削れた文字が、少しずつ形を変えていた。札にある字を真似るように、欠けた線が湿った石の上でつながっていく。名前が、札から壁へ移りかけている。
ユアンの顔から血の気が引いた。
「僕は……返そうとしただけです」
「分かってる」
「だから、ここで終わらせない」
横穴の奥が、低く鳴った。水滴の音が止まる。次に聞こえたのは、マルヤの声だった。
「兄さん」
入口の方からではない。横穴の壁そのものが、マルヤの声を真似ていた。ユアンがびくりと肩を揺らす。
ノラは振り向かない。振り向けば、壁がこちらの反応を覚える気がした。もう一度、声がした。
「兄さん」
今度は少しだけ、幼い声に寄っていた。似ているのかどうか、ノラには分からない。ただ、入口にいるマルヤへ届くように、横穴が声を選んでいることだけは分かった。外で、布が擦れる音がした。
マルヤが動いたのだ。横穴はそれを聞いて、また声を出そうとした。入口で、息を吸う音がした。
「兄――」
声は歯の裏で切れ、紙の落ちるかすかな音が入口側から届いた。
「……その名は、ここで呼ばない」
横穴が震えた。壁の名札跡が一斉に濡れる。歯のように並んだ四角い跡が、口を開くように黒くなる。
「返して」
「名前を読んで」
「マル……」
ノラはユアンの腕をつかんだ。
「出るよ」
ユアンは認識札を胸へ抱いたまま、動けないでいる。
「僕が、横穴に名前を覚えさせようとしていたんですね」
「今気づいたなら、まだ間に合う」
「でも、札を落としたら」
「布に包んで。名前は見ない。握るだけにして」
ユアンは慌てて腰袋を探った。指がうまく動かない。ノラは自分の布を一枚抜き、認識札の上へ置いた。
「包んで」
「はい」
今度の返事には、言い訳がなかった。ユアンは札を布で包んだ。名前の刻まれた面が隠れる。壁の文字が、形を失ってにじんだ。
ヨルが鋭く鳴いた。
「クルッ」
出口側ではない。
右の低い割れ目を示している。来た道は、壁の名札跡が膨らみ始めていた。腐った木片が石から押し出され、床へ落ちる。落ちた札跡は、虫のように震えながら、こちらへ向いている。
「そっちか」
ノラは灯りを拾い、ユアンの腕を引いて右の割れ目へ体を入れた。狭い。肩が石に擦れる。ユアンは布包みを抱えたまま、うまく進めない。
後ろで、声が重なった。
「ノ……」
「ラ……」
「ヴェ……」
ノラの名を作ろうとしている。ユアンが反射的に振り返りかけた。ノラは低く言った。
「私の名前でも返すな。形が似ているだけだ」
「はい。今度は、聞きません」
ユアンは布包みを胸から少し離した。抱え込むと、足が動かないと分かったのだろう。片腕で包みを支え、もう片方の手で壁を押した。横穴が揺れる。
天井から古い木札が落ちた。腐った札に、墨のかすれた線が残っている。それが床に当たった瞬間、細い声が跳ねた。
「……母」
「ここ」
「名前を」
ノラはユアンの背中を押した。
「急いで。ただし、札を見ない」
「見ません。もう、ここでは見ません」
割れ目の先に、薄い光があった。
入口ではない。封鎖口の少し横へ出る補助穴だろう。ヨルが先に潜り、外の空気を嗅ぐ。危険がないと見て、尾を一度振った。
その時、湿った床が紙を裂くように割れ、ユアンの足元が抜けた。横へ傾いた体から布包みが滑ると、彼は自分を支えるより先に札へ手を伸ばした。
ノラは札の行方を追わず、落ちかけたユアンの肘の上をつかんだ。
「札は拾える。生きてる人間を先に出す」
生きている自分を先に選べと言われ、ユアンは顔を歪めながらも、布包みへ伸ばした手を離した。
ノラはユアンを引き上げる。床の裂け目から、冷たい息が吹いた。布包みは石の縁で止まっている。ヨルが戻り、包みの端を噛んだ。
「ヨル、持つな。寄せるだけ」
ヨルは短く鳴き、包みをこちらへ引いた。ノラはユアンを押し出してから、片手で布包みを拾う。名前の面は見ない。布の上から握り、腰袋へ入れる。
横穴が、怒ったように鳴った。
「返せ」
今度の声は命令の形を取ったが、ノラは応じず、ユアンを補助穴へ押し上げた。肩が穴を越えるにつれて、閉じかけた視界に外の光が広がった。
「受けて」
マルヤの声がした。
ユアンの体が外へ出る。マルヤと灯口の男が受け止めた。ユアンは地面へ転がり、咳き込む。マルヤはその肩を支えながら、すぐには叱らなかった。
「息をしなさい。叱るのは、そのあと」
「マルヤさん、僕は」
「謝罪もあと。今ここで名前を増やさないで」
ユアンは口を閉じた。
ノラも外へ体を引き上げた。ヨルも飛び出す。灯口の男が封鎖縄の方へ火を近づける。横穴の中から、まだ小さく声が漏れていた。
「……名前を読んで」
火が近づくと、声は水に落ちる灰のように細くなった。マルヤは、封鎖縄を張り直すよう灯口の男へ指示した。
「入口を二重にして。補助穴も塞ぐ。灰鷹には、横穴跡が反応したとだけ伝えて。認識札の名前は、紙に写さない」
男が動き出すと、マルヤは土に落ちた紙を拾い、泥も証拠にするようそのまま帳簿へ挟んだ。ノラも腰袋から布包みを出した。
「見ないで受け取れる?」
ユアンは顔を上げたが、すぐには手を出さなかった。
「今の僕が持つと、また読みたくなるかもしれません」
マルヤが布包みを受け取った。
「それが分かっているなら、今は私が預かる」
ユアンは深く息を吸った。
「棚にしまって終わりにしたくなかった。でも僕は、返す先をこの穴に決めさせた」
マルヤは布包みを帳簿の上へ置いた。
「返したい気持ちだけで名前を動かすな。名前は荷物より軽く見えるけれど、読まれた場所を選べない」
「次からは、僕だけで触りません」
「次から、では遅いこともあるわ」
マルヤの声は厳しかった。そこで切らず、少しだけ低く続けた。
「でも、今日は生きて外にいる。だから、叱れる」
ユアンは目を赤くしたが、泣き声は上げなかった。灯口の男が水袋を差し出した。ユアンは両手で受け取り、口をつける前に、一度だけ横穴ではなくマルヤを見た。ノラは横穴の入口を見た。
封鎖縄の奥では、灯口の男たちが石を積み直している。声はほとんど聞こえないが、横穴は閉じておらず、核の場所も分からない。忘れられた名前の残りで、まだ細く息をしている。ヨルがノラの足元へ寄った。
「クル」
ノラは奥へ戻らなかった。今は、外へ出したユアンと認識札を離す場面ではなかった。マルヤは布包みを開かなかった。
けれど、包みの端から、別の小さな札が一枚滑りかけていることに気づいた。ノラも見た。形が少し違う。欠けた角。古い研究班で使われていたものに似ていた。
マルヤの指が、その札の手前で止まる。長い間ではなかった。けれど、横穴の声よりも、その一拍の方が重かった。
ユアンが不安そうに言う。
「それ、もしかして」
「似ているだけよ」
マルヤは布をかけ直した。
「兄さんのものだと決めつけたら、横穴と同じことをする」
ユアンは何も言わなかった。ノラも聞かなかった。マルヤは帳簿と布包みを胸に抱え、封鎖された横穴を見た。
「これは家へ返す。穴ではなく、家へ。声に読ませるんじゃなく、生きている手へ渡す」
マルヤは布包みをユアンへ差し出した。ユアンは開かず、両手で受け取った。ヨルが鼻を鳴らした。
町の方から、荷車の音が近づいてくる。夕方の仕事が終わる時間だった。ノラは横穴に背を向けた。背後で、湿った壁が最後に一度だけ鳴った。
「名前を読んで」
その要求は、家へ向かう荷車の音に踏み消された。




