第18話 二人分の空き
保管庫の鍵は、マルヤの帳簿より古く見えた。
黒ずんだ鉄の輪に、何本もの鍵が下がっている。どれも似た形をしているのに、マルヤは迷わなかった。灯口の相談所の奥、紙束の棚を抜け、使われていない裏戸の前で足を止める。
「開ける前に、もう一度言うわ」
マルヤは鍵を差し込む前に、ノラを見た。
「中で名前を見ても、読まない。名前を読む必要が出ても、ここでは読まない」
「分かってる」
「あなたに言っているのと、私に言っているのと、半分ずつよ」
そう言って、マルヤは鍵を回した。
古い金具が、嫌な音を立てた。
戸の向こうは、石の匂いがした。湿った紙と、古い革と、消えた灯油の匂いも混じっている。人が長くいる場所ではない。けれど、誰かが放っておいた場所でもなかった。
壁に沿って棚が並んでいる。
木箱。布包み。認識札。破れた手袋。割れた灯り。服の切れ端。煤で黒くなった紙片。名前が読めるものもあれば、かすれて線だけになったものもある。
ヨルがノラの足元から一歩出た。
鼻先を棚へ向ける。すぐには鳴かない。ひとつ、ふたつ、箱の前を過ぎて、低く喉を鳴らした。
「クル……」
それは怖がっている声ではなく、古いものの中に新しく動いたものを見つけた時の声だった。
マルヤは灯りを上げ、棚を見ながら低く言った。
「墓じゃないわ」
「けれど、墓まで戻れなかったものは、ここへ来る」
ノラは返さなかった。ここに並ぶ物を数えても、いない人間は一人も戻らない。
マルヤは奥の棚へ向かった。
棚板には、いくつか紙片が挟まっている。迷宮名。年。班。所在確認。戻らず。死亡扱い。遺体なし。短い言葉ばかりだった。短いから軽いわけではない。むしろ、短くするために何かを削り落とした紙だった。
「照会が入っていたのは、この辺り」
マルヤは紙束をめくった。
「煤釘、赤錆、浅縁。その流れを直接たどったものじゃない。けれど、斡旋控えを経由したような跡がある。誰が見たのか、誰が写したのか、きれいには残っていない」
「照会が欲しがったのは、この棚?」
「ええ。名を残さず、ここまで辿ってきた」
マルヤの声は落ち着いていたが、紙をめくる指先だけが少し速い。間に合わなかった時の形を、いくつも知っている動きだった。
今度は、ヨルが奥の棚の前でまた低く鳴いた。
そこだけ、ほかの棚より整っていた。箱の角がそろい、紙の束もまっすぐ積まれている。古い保管庫の中で、その棚だけがやけにきちんとしていた。
きちんとしているのに、空いている場所が二つあった。
棚板の埃が、そこだけ薄い。何かを置くために空けているのか、何かが戻らなかったせいで空いているのか、見ただけでは分からない。
ノラは空いた棚板の幅を指で測った。
「二つ空いてる」
マルヤはすぐに答えなかった。
灯りの火が小さく揺れる。棚の奥に、布切れが一枚置かれていた。襟の裏に当たる部分だろう。灰色の糸で、荒く縫い止められた跡がある。
マルヤは、その布に触れなかった。
「空けてあるのよ。戻ったら、入れる場所だったから」
「戻らなかった?」
「紙だけはね」
マルヤは棚板の端を指で押さえた。
「兄が二人いたの。二人とも、迷宮で死んだと聞かされた。遺体は戻っていない。戻ったのは、読みにくい写しと、役に立たない説明だけ」
マルヤの灯りが、空いた二つの棚を往復した。火が揺れたのは、一度だけだった。
ノラは布切れを見た。
「その糸」
「家で使っていた色。母が、何でもその糸で直していたの。破れた襟も、袋も、椅子の布まで」
マルヤの口元は少しだけゆがんで笑みになりかけたが、思い出に触れる前に引き結ばれた。
「上の兄は研究班にいた。認識札の角を、自分で欠いていたわ。間違えないようにって」
棚の奥には、小さな写しがあった。
欠けた認識札の形だけを紙に写したものだ。名前の部分は、墨がにじんで読めない。けれど、角がひとつ、確かに欠けている。
その横に、短い書きつけが残っていた。
名は、穴の中で呼ぶな。
ノラは目だけで読んだ。
声にはしなかった。
「名前は」
そう聞くと、マルヤの指が棚板から離れた。
「ここでは呼ばない」
「分かった」
ノラは、それ以上聞かなかった。マルヤはただ灯りを少し下げ、研究班の棚から一歩離れる。
その時、ヨルが鋭く鼻を上げた。
「クルッ」
ヨルは研究班の棚ではなく、保管庫の戸へ鼻を向けていた。
マルヤはすぐに保管庫を出た。
二人が相談所へ戻ると、机の中央には布だけが残っていた。さっきまで包まれていた認識札がない。
マルヤの顔が変わる。
「触るなと言ったのに」
怒りより先に、危険を見つけた声だった。
ノラは机へ近づいた。布の脇に、細い引っかき傷がついている。誰かが爪でこすったような跡だった。札を持ち上げた時についた傷ではない。布の下にあった名前の形を、何かがなぞったようにも見えた。
「ユアンが気にしていた札?」
「ええ。家印が残っていた。返せるかもしれないと言っていた札よ」
マルヤはすぐに、相談所の地図棚へ向かった。
保管庫の原図をもとに作った、入口確認用の写しが並んでいる。古い街道。水路。閉鎖口。横穴跡。茶色くなった紙が、薄い音を立てて動く。
一枚分、抜けていた。
マルヤはその空いた束を見て、息を浅く吸った。
「古い横穴跡の写しがない」
「持ち主の家へ近い道?」
「そう見えるでしょうね。紙の上だけなら」
マルヤは地図棚を閉じ、保管庫の戸を見た。原図は、あの中に残っている。
「近道じゃない。あそこは、昔から読まれた名前を覚える」
ノラは、相談所の戸口を見た。
ユアンは相談所に残され、紙を写せと言われ、古い札には触るなとも言われた。それでも「棚に戻すだけでは返したことにならない」と考え、机の札と地図の写しを持って動いた。
「ユアンは、札を返しに行った?」
「たぶんね」
マルヤは机に残った空の布を二つに折った。折り目は大きくずれたままだった。
「返したいつもりで、いちばん危ないことをしている」
ヨルが床を嗅いだ。
机の下に、黒ずんだ土が一粒だけ落ちている。保管庫の床にある石の粉ではない。湿り気を残した粘土だった。ヨルはそれを嗅ぎ、相談所の奥ではなく、戸の向こうへ鼻を向けた。
町外れの方角。
ノラは腰の縄を確かめた。
「ユアンが呼ばれてる」
「灯口の人を二人、入口へ回して」
ノラは入口側へ顎を振った。
「横穴跡の入口を押さえる。誰かが名前を読もうとしたら止めて。止められないなら、火を近づける。名前を読ませないことを優先して」
「あなたは中ね」
「ヨルが追える」
「私も行くわ」
「外を止める人がいる」
マルヤは一瞬、机に残された空の布を見た。止めきれなかった責任ごと中へ行くつもりだったが、二人とも入れば、横穴の入口を押さえる者がいなくなる。
ノラは灯りを腰へ戻した。
「中は私が見る。外はあなたが止めて」
マルヤは、保管庫に残る二つ分の空きを思い出した。研究班の古い棚。戻る場所だけが残った棚。
それから、ユアンが認識札を持ち出した机を見た。
「分かった」
マルヤは保管庫へ戻り、横穴跡の原図を抜いた。帳簿と一緒に胸の前で抱え直す。
「入口で、名前を読ませない」
相談所の奥は、まだ紙の音で満ちていた。誰かが賃の額を聞き返し、誰かが別の仕事へ回されることに不満を言っている。今日を越すための声が、壁の薄い部屋に積もっていた。
マルヤは灯口の男を二人呼んだ。
「町外れの古い横穴跡へ走って。入口を塞がないで、見て。中から名前が聞こえても返事をしない。誰かが読もうとしたら止める。止まらなければ、灯りを近づけなさい」
男の一人が顔を強ばらせた。
「横穴跡ですか。あそこはもう塞がっているはずじゃ」
「塞がっている場所へ、地図の写しを持って行った子がいるのよ。口を動かす前に足を動かして」
男たちは走り出した。
マルヤは戸口で一度だけノラを見た。
「見つけたら、先に札を離して」
「本人を先に出す」
「叱るのは、私がやる」
「息をしてからにして」
「……頼むわ」
「見つける」
ノラはそれだけ言って、ヨルを連れて外へ出た。
昼の光はまだ残っていた。けれど、町外れへ向かう道は、建物の影で少し暗い。ヨルは石畳を嗅ぎながら走る。いつものように何度も振り返らない。匂いを逃すまいとして、低い姿勢のまま進んでいた。
途中、ヨルが一度だけ足を止めて耳を伏せた。風の中に、声になりきらない音が混じっていた。
返して。
読んで。
誰の。
ノラは返事をしなかった。
腰の灯りを低く持ち直す。革袋の中で、短い縄と布が揺れた。認識札を包む布はある。怪我人を縛る縄もある。けれど、名前を奪われた後で戻す道具は、持っていない。
だから、奪われる前に止める。
町外れの草が見えた。
古い横穴跡は、まだ姿を見せていない。
それでも、名前を待つ気配だけが、先にこちらを見ていた。




