第17話 記録を動かすな
「中へ」
横から聞こえたマルヤ・センドの声には、掲示板の前で続ける話ではないという硬さがあった。
ノラ・ヴェイルはうなずき、ヨルを連れて灯口の相談所へ入った。
相談所は、浅縁から戻した人と控えで落ち着いていなかった。そのざわめきの中で、マルヤは机の端を空け、三冊を並べた。
煤釘。
赤錆。
浅縁。
別々の紙にされた人の流れが、三冊を並べると一本につながった。奥の机から、若い男が振り返った。
二十になるかならないか。袖口に墨がつき、指先にも紙の粉が白く残っている。背筋は伸びているが、周りの音にいちいち反応するところがまだ若かった。
「マルヤさん」
男は、机に置いていた小さな布包みを持ち上げた。
「これ、先に見てもらえますか。古い札ですけど、家の印が残っています」
マルヤの顔から、温度が引いた。
「ユアン。それを机の真ん中へ置きなさい」
ユアンと呼ばれた若い記録係は、一瞬だけ戸惑った。それでも言われた通り、布包みを机へ置く。中には、相談所の古い記録棚から出した認識札が一枚入っていた。
黒ずんで、端が少し欠けている。名前の半分は削れ、残った文字も汚れで読みにくい。けれど、裏には家の印らしき線が残っていた。ユアンは、札を見つめたまま言った。
「返せるかもしれません。相談所の記録棚の奥にあったものです。家の印が合えば、誰のものか分かります」
「返せるかもしれない、で動かさない」
マルヤの声は低かった。
「名前は荷物じゃないの」
「でも、戻らない人のものを、棚に置いたままにするだけなんですか」
相談所の中の音が、少し薄くなった。
紙をめくる手。椅子を引く音。戸口で誰かが行き先を尋ねる声。それらの間に、古い札だけが置かれていた。
マルヤは怒鳴らずに言った。
「置くのと、返すのは違う。札だけ先に動かして、読む相手も届く家も間違えたら、取り返せない」
ノラはマルヤを見た。ユアンは納得できないまま、認識札へ手を伸ばした。
「名前が読めれば、照合できます。ここ、たぶん一文字残っていて——」
指先が、削れた文字の溝をなぞった。
その瞬間、机の下でヨルが「クル……」と鳴いた。
ユアンの指が止まり、ノラは札を見た。削れた文字のくぼみに、薄い湿り気が浮いている。相談所の中は乾いていた。誰かが水をこぼしたわけでもない。けれど、札の古い傷だけが、暗い水を吸ったように濡れていた。
ノラはユアンの手首を軽く押さえた。
「読むな」
ユアンは驚いて顔を上げた。
「まだ声には出していません」
「声に出す前に、目で名前を追う。ここが反応しているなら、それだけで十分危ない」
「場所って、ここは相談所です」
「だから安全だと思った?」
安全だと言い切れずにユアンが黙ると、ノラは手首を放した。その隙にマルヤが認識札へ布をかけ直し、名前が再び見えないよう端まで指で押さえた。
「古い札には、古い呼び声がついていることがある。灯口の棚は墓じゃない。でも、墓に戻れなかったものを預かっている場所ではあるの」
ユアンは唇を引き結んだ。それでも札からは目をそらさなかった。
「棚に戻すだけなら、返したことにならないと思ったんです」
返したいという願いを聞いた瞬間、マルヤの指の下で布がわずかにずれた。ユアンも札へ向かって半歩踏み出した。マルヤは布を押さえ直したまま言った。
「返したいなら、なおさら手順を飛ばさない。善意で名前を読めば、いちばん危ない場所が先に聞く」
ユアンは顔を伏せなかった。
「それでも、待っている家があるかもしれません」
「待っている家へ返すために確かめるの。急いで読んだ名前を横穴に覚えられたら、その家には何も残らない」
そこへ、戸口から灯口の使いが駆け込んできた。
「マルヤさん。保管庫の鍵、確認をお願いします」
マルヤは顔を上げた。
「どの保管庫」
「古い方です。外から照会が来ています。戻らなかった人の札と、横穴跡の地図を見たいと」
相談所の奥で紙が落ちる音は小さかったが、ノラにはやけに近く聞こえた。
マルヤは使いから受け取った紙の照会元を確かめたが、灯口にも灰鷹にも属する名はなく、いくつもの控えを回った印だけが重なっていた。
赤錆の斡旋控え。
浅縁の見張り補助。
その間に、別の印が薄く挟まっている。
サイラスの名がなくても、その印の流れを見たノラには、保管庫まで手が伸びたことが分かった。
「保管庫まで伸びた」
マルヤは判断を固めるように紙を畳んだ。
「伸ばした人間の名前がない。今のうちに見ないと、どの棚に触られたか分からなくなる」
古い札という言葉に反応し、ユアンが椅子を押して立ち上がった。
「僕も行きます。古い札なら、僕が一番場所を覚えています」
マルヤはすぐに首を横へ振った。
「あなたはここで紙を写していなさい。古い札には触らない」
「でも、場所を間違えたら」
「間違えないために、私が行く」
「僕が持ち出したわけじゃありません。ただ、返せるものを見つけたから——」
「その気持ちで触るから止めているの」
マルヤの声が、少しだけ強くなった。ユアンは口を閉じた。指の湿り気を上着へ拭い、同じ場所をもう一度擦った。ノラはユアンの手元を見た。
彼の指には、さっきの札の湿り気が残っていた。乾いた部屋には似つかわしくない、冷たい汚れだった。
「洗って」
ユアンが一瞬、何を言われたのか分からない顔をすると、ノラは続けた。
「その手で別の紙に触るな。違う記録に、さっきの札の気配が移る」
ユアンは自分の指を見て小さく息を吐き、棚の横の水桶へ向かった。
「分かりました。洗います。でも、あの札は捨てないでください」
マルヤは返事を急がなかった。
「捨てないわ。だから、勝手に返さない」
その言葉で、ユアンはようやくうなずいた。けれど、背中にはまだ未練が残っていた。水桶へ向かう足取りが、何度も机の方へ引かれている。マルヤはそれを見届けてから、照会紙を帳簿に挟んだ。
「ノラ。保管庫を見る。名前を読む必要が出ても、ここでは読まないで」
ノラは布をかけられた認識札を見た。その下で、湿った文字はもう見えない。
「読む場所を選ぶんだね」
「選ばないと、横穴に覚えられる」
マルヤは帳簿からはみ出した照会紙の端を、爪で奥へ押し込んだ。少し間を置いてから、低く付け足す。
「……そういう紙を、私は見てきた」
ヨルが机の下から出てきて、戸口の方へ鼻を向けた。相談所の外では、まだ人が行き先を探している。紙を握り、賃の額を聞き返し、自分の名前を書く場所を探している。ノラは認識札の布から目を離した。
今度は、穴の奥ではない。紙の奥から、人が呼ばれようとしていた。




