第16話 助ける人でしょう
ネイを灯口の者へ預けたあと、ノラ・ヴェイルは掲示板へ戻った。
肘と膝には、浅縁の湿った土が残っていた。縄を引いた右手は、掌の皮が薄くめくれている。ヨルの腹にも泥がつき、歩くたび乾きかけた土が石畳へ落ちた。傷を洗うより先に、浅縁の札を止める必要があった。
赤錆と煤釘の札は消え、浅縁の札だけが残っている。停止紙を持った使いは、まだ通りの向こうだった。申込箱の前には三人ほど残り、そのうち一人は木片を握ったまま、集合場所の字を読んでいた。
ノラが札の端に指をかける。貼られたばかりの紙には、まだ湿り気があった。
「助かったようで、何よりです」
柔らかい声がした。サイラスだった。
よく払われた上着。泥の少ない靴。町の掲示板の前にいても、そこで働いている者の匂いがしない男だった。
浅縁の札の前にサイラスが立っていたが、ノラはサイラスではなく、目の前の札を見た。
「見ていただけの人が言うことじゃない」
「見ていたから、言えることもあります」
サイラスの視線が、ノラの泥のついた肘から、縄で擦れた掌へ移った。
「今日は、奥まで見に行かなかったんですね」
浅縁にはまだ声が残り、核の場所へ近づくこともできたが、ノラは生きているネイを先に出した。その理由を口にすれば次の罠の材料になるため、答えなかった。
ヨルはサイラスの靴へ鼻を向け、すぐに顔を背けた。嫌な匂いがした時ではない。匂いが薄すぎるものを、信用しない時の動きだった。サイラスは、ほんの少し視線を下げた。
「相変わらず、賢い子ですね」
「飾りじゃない」
「そうでしょうね。あなたの近くにいるものは、どれも飾りではない」
サイラスはそこで言葉を切り、浅縁の札へ戻った。風が吹き、紙が小さく揺れる。
申込木片を持った若者が、二人の間を避けるように横を通った。ノラは一歩詰めかけた足を止める。ここでサイラスの胸ぐらをつかめば、見えるのは救助帰りの女が掲示板の前で男に手を出した場面だけだ。
声は変わらなかった。
「煤釘は、耳飾りだったそうですね」
掲示板の前の音が、少し遠のいた。
荷車の車輪。誰かの足音。紙をめくる音。全部が一枚、薄い布の向こうへ移ったようだった。
ノラが見返しても、サイラスは笑いも脅しも見せず、拾い上げた事実を机へ並べるような口調で続けた。
「片方だけの耳飾り。売れば銅貨にもならない。けれど、それが抜かれた後に、あの穴は沈んだ」
ヨルがノラの足元へ寄った。ノラは札へかけていた指を外した。紙は破らない。今ここで力を入れれば、浅縁を止めたいのか、耳飾りの話を消したいのか、サイラスに選ばせることになる。
片方だけ。銅貨にもならない。推測で置ける言葉ではない。煤釘でトマが見た形まで、サイラスの側へ届いている。
灰鷹は知らない。マルヤの帳簿にもない。サイラスだけが、そこまで近づいていた。
「灰鷹は、まだ知らないようです」
サイラスはそこで止めた。それ以上、言わない。
ノラは浅縁の札を見た。太い字。細い字。呼びかけへの応答義務。人を縁に立たせるための言葉が、紙の上でまだ乾いていない。
サイラスの目は、札ではなく、ノラの右手に向いていた。皮のめくれた掌。落ちかけた子を引いた手。
「誰かが落ちれば、あなたは来る」
サイラスの声は穏やかだった。
「誰かが呼ばれれば、あなたは止める。助ける人でしょう、あなたは」
「人を札にするな」
ノラの声が低くなった。
ネイの腕に残った土。トマの足の引きつり。リトが返事の続きを飲み込んだ喉。そういうものを、紙の太い字は見せない。
サイラスは少しだけ笑った。
「あなたは一人で決める。どの声を人として助け、どの声を穴ごと黙らせるか。札にしているのは、本当に私だけですか」
ノラが答えないまま、「一人で決める」という言葉だけが残った。
「だから使っていい理由にはならない」
「止めたいなら、どうぞ」
サイラスは浅縁の札へ触れず、剥がそうとも守ろうともしなかった。人を呼び込む紙ではなく、初めからそこにある道具として眺めていた。
「あなたは止めに来る。私は、それを知っただけです」
ノラは聞き返さず、浅縁の札から手を下ろした。
「それでも、落ちた子は拾う」
サイラスの目が、ほんの少し細くなった。
「ええ。だから助かる人がいる」
そこで一拍置く。
「そこが、あなたの厄介なところです」
ノラはサイラスへ一歩近づいた。ヨルが足元で体を低くする。
「サイラス」
「はい」
「次に子どもを落とすために札を出したら、私は札じゃなく、出した手を見る」
サイラスは初めて、笑みを薄くした。
「怖い言い方ですね」
「怖がるなら、まだまし」
その言葉に、サイラスは返さなかった。通りの向こうで、灯口の者が浅縁の控えを抱えて走っている。マルヤの声が遠くで誰かを止め、別の紙を渡していた。
サイラスは浅縁の札を一度だけ見てから、赤錆の札があった釘の跡、煤釘の札があった跡へ視線を移した。紙のない場所を覚えるような目だった。
「では、また」
サイラスはそれだけ言って人混みの中へ歩き出したが、誰も避けず、誰も追わなかった。急がず、足音を残さず、掲示板の前から消えていった。
「クル……」
ノラは、サイラスの背を追わなかった。
浅縁の札はまだある。赤錆の札はない。煤釘の札もない。けれど、空いた釘の跡は残っている。
通りの向こうから、灯口の若い男が走ってきた。手には赤い停止紙がある。マルヤの字で、受付停止、安全確認待ち、と書かれていた。男は息を切らしながら、浅縁の札の上へそれを重ねる。
太い字は半分隠れた。申込箱の前に残っていた若者が、手の中の木片と停止紙を見比べた。理由を聞く相手を探すように周囲を見たが、箱へは入れなかった。木片を元の束へ戻し、人の列から離れていく。
束の一番上に、名前の書かれていない木片が残った。
それでも、空いた場所には、次の紙が掛かる。
誰かの名前が書かれる。
誰かが、太い字だけを読む。
ノラは浅縁の札ではなく、空いた釘の跡を見た。
「次は、偶然じゃない」
ヨルはそれ以上、鳴かなかった。
サイラスは、穴を探しているのではない。
ノラが来る場所を探している。
掲示板の前で、風がまた一度吹いた。浅縁の札が揺れ、紙の下の細い字が、ほんの少しだけめくれた。




