第15話 浅縁へ行くな
一日待った子は助かった。その一日の隙間に、別の子が縁へ立たされた。
ノラ・ヴェイルは町外れへ走りながら、腰袋の重みを確かめた。乾いた布、包帯、短い縄、火打ち石。ミミが押しつけるように渡した布は、袋の口から少しはみ出している。ヨルは先を走っていた。
いつものように振り返って急かすことはしない。尾を低くし、石畳ではなく、町の外から流れてくる湿った土の匂いを追っている。浅縁は、町外れの低い崖にあった。
遠目には、ただ崖の端が少し欠けているだけに見える。赤錆の縦穴のように深い口を開けているわけではない。入口から縁が見え、縁から先の足場も見える。だから、札には浅層見張りと書けるのだろう。
重荷なし。見張りだけ。足場確認。そう並べれば、足の悪い子でも、力のない子でもできる顔をする。
けれど、崖の縁の下だけが暗かった。昼の光は崖の上に落ちている。周りの草も、石も、人の靴も見える。それなのに、縁の下へ視線を落とすと、そこだけ灯りを薄く吸うように沈んでいた。
浅い穴のふりをした、人の口を待つ場所だった。
「ノラ!」
マルヤ・センドが足場の外から声をかけた。
腰には帳簿ではなく、太い縄を巻いている。袖は肘まで上げ、片手で縄の端を握っていた。灯口の者が二人、小灯りと担架を持っている。もう一人は、崖の縁へ近づこうとする見物人を押し戻していた。
マルヤの顔は険しい。けれど、崩れてはいない。やることを先に並べた顔だった。
「落ちてはいない。まだ、つかまってる。でも下が、あの子の声を待ってる」
「トマは」
「来ていない。あなたが見に行ったおかげで、今日は間に合った」
崖の端に、少年がしがみついていた。
十六ほどだろう。肩幅はまだ細く、上着の袖は手首で余っている。片手で崖の草をつかみ、もう片方の腕は崩れた土の中に半分埋まっていた。土を掴んでいるのではない。土に掴まれているように見えた。
顔は泥で汚れている。歯を食いしばっているのに、唇だけが細かく震えていた。マルヤが言う。
「ネイ。赤錆には入れなかった子よ。浅縁なら見張りだけでいいって、回された」
「誰が回した」
「今はあの子が先」
ノラはうなずいた。崖の下から声がした。
「聞こえているなら返事を」
大人の男の声だった。現場の者が言いそうな、固い声。心配している声ではない。紙に書いてある義務を、そのまま口にしたような声だった。
ネイの肩が跳ねた。
ノラは足を止めず、縁へ近づきすぎる前に腹ばいになれる場所を探した。先に崖の端へ鼻を寄せたヨルは一歩退き、右へ回る。草が少し残る場所で前足を止め、低く鳴いた。
「クル」
ノラは靴先で土を押し、崩れないのを確かめてから、そこに膝をついた。
「ネイ。私を見る」
少年の目が、ようやくこちらを向いた。
「俺、ちゃんと答えたんです。下から呼ばれたら返せって、そう言われてたから」
その言葉が落ちた瞬間、下の暗がりが同じ声を戻した。
「そう言われてたから」
ネイの声だった。けれど、本人の喉から出た声ではない。怖さも痛みも抜かれ、言葉だけが縁の下で濡れて返ってきた。
その言葉を返しただけで、浅縁はネイの言い訳まで覚えようとした。ネイの足元の土が、細く裂けた。
乾いた崖の土ではなかった。水に濡れた紙を指で押したように、縁が内側へたわむ。少年の体が半分、下へ沈みかけた。
「ネイ、今は言うな」
ノラは低く言った。ネイは崖を掴む指に力を込める。
「でも、俺のせいにされたら」
下から、すぐに声が上がった。
「俺のせいじゃない」
今度もネイの声だった。少年の喉が動いた。言い返そうとしたのではない。自分の声で呼ばれたせいで、反射的に口が開きかけたのだ。
ノラは崖に腹をつけ、腕を伸ばした。
「ここで言えば、今の声も下に取られる」
ネイの目が揺れる。
「じゃあ、黙って責められろってことですか」
「違う。地上で言え。相手を見て言え。ここに聞かせるな」
マルヤが縄を握ったまま、外から言った。
「責める相手は、こっちで帳簿に残す。あなたじゃない」
ネイの目が、一度だけマルヤへ動いた。ネイは口を閉じようとした。だが、下の声は待たなかった。
「見張りが答えなかったからだ」
別の男の声。
「声を返さないから、下が詰まる」
言葉が変わるたび、ネイの顔が歪んだ。どちらも、どこかで聞いた声なのだろう。浅縁の下にいるはずのない声が、見張り役の責任を少年の首へかけようとしている。ネイの指が崖の縁をえぐった。
「俺は——」
「飲み込め」
ノラが一言で制すると、ネイは震える口元を奥歯ごと噛み締め、返事を喉へ押し戻した。その沈黙が保たれている間に、ノラは腰の縄をほどいた。
「マルヤ、外で張って」
「もう持ってる。灯り、下へ」
マルヤが灯口の者へ顎を振る。小灯りが縁の下へ近づいた。火が近づくと、下の暗がりがほんの少し揺れる。声が消えるほどではない。だが、言葉の輪郭が乱れた。
崖の縁でヨルが短く鳴く。前足の先から土がこぼれたため、ノラはそこへ荷重をかけない位置まで体をずらした。
土の固いところへ肘を置いて腹ばいになると、ノラは縄の輪を作り、ネイの胸下を狙って投げた。最初の一投は届かず、追おうとしたネイの肩が動いたぶんだけ、縁の土がまた崩れ落ちる。
「動くな。私が寄せる」
「落ちます」
「落とさないために言ってる」
ノラはもう一度、縄を投げた。今度はネイの腕にかかった。少年が反射でつかみかける。
「握らない。胸へ通す」
ネイは首を動かさず、唇を閉じたまま、ぎこちなく縄を肩の下へ送った。わずかな動きにも縁の土がこぼれる。マルヤが外側で縄を引き、張りを確かめた。
「引くわよ。ネイ、返事はいらない。歯だけ食いしばりなさい」
ネイは声を出さなかった。ノラは腕を伸ばし、ネイの手首ではなく肘の上を掴む。手首を引けば、崩れた土ごと剥がれる。肘の上なら、まだ支えられる。
「足を探せ。落ちる方じゃない。残ってる方を探せ」
ネイは靴先を動かした。
崖の下で小石が落ちる音がした。縁がまた薄くなる。ヨルが低く鳴いた。ノラはその合図で、少しだけ体重を右へ逃がす。
ネイの片足が崩れた土から抜けた反動で、残る足が滑った。その隙を狙ったように、暗がりからネイ自身の声が上がる。
「俺のせいじゃない」
自分の声に責任を責められ、ネイの顔が崩れかけた。返事を作ろうと口が開くより先に、ノラは肘の上をつかむ指へ力を込めた。
「ネイ。今は黙って上がれ」
ネイが口を閉じたのを合図に、マルヤたちは縄を引いた。少年の体が少し浮く一方、支えを失った土が崖下へ流れ、浅縁の暗がりから舌打ちに似た音が返った。
「謝れば済む」
下が声を変えた。
「言われた通りにしただけだ」
また別の声。
「見張りは、答える仕事だ」
少年の目に水が浮いた。ノラは引いた。マルヤも引いた。
灯口の者が後ろへ下がりながら縄を持つ。ヨルが縁の裂け目の前で低く鳴き、ノラはそこへ足をかけないよう体をずらす。ネイの体が地上へ出た。
最後に靴が縁を蹴った。土が大きく崩れる。下から、声が一つだけ上がった。
「返事をしろ」
火が近づけられ、声はそこで乱れた。ネイは地面へ転がった。しばらく、誰もすぐには喋らなかった。
ネイは胸を大きく上下させている。腕は擦りむけ、袖は泥で重くなっていた。土に埋まっていた方の手は赤く腫れている。けれど、動いている。
ノラは膝をついた。
「今は、それで勝ち」
ネイはすぐには返せなかった。マルヤが担架を寄せさせる。
「腕を見る。足も。勝手に立たないで」
ネイは顔を背け、小さな声で言った。
「俺、悪くないって言いたかった」
ノラは布を取り出し、泥を払った。
「言うなら、地上で言いな。穴に聞かせるな」
灯口の者が担架を地面へ置いた。ネイはまだ立てない。けれど、地上にいる。浅縁の縁ではなく、人の手が届く場所にいる。
ノラは浅縁の縁を見た。崩れた土は、もう普通の土の顔をしている。暗がりも、さっきより浅く見えた。何もなかったように、低い崖が昼の中に戻ろうとしている。
だが、下から細い声が上がった。
「ノラ・ヴェイル」
ノラは答えず、ヨルも鳴かなかった。ヨルはノラの靴の横に戻り、浅縁の下へ鼻を向けている。マルヤが灯口の男へ言った。
「木片を箱に入れた子だけじゃない。受付まで来た子も、声をかけられただけの子も探して」
「全部ですか」
「全部よ。落ちてから名前を拾うのは、もうたくさん」
灯口の男が走り出す。別の女が、浅縁の札を書き写した控えを抱えていた。マルヤはそれを受け取り、細い字の部分を指で押さえた。呼びかけへの応答義務。
その一文を見る横顔は、怒っているというより、冷えていた。
「灰鷹へも出して。見張り補助の一時停止。安全確認まで新規受付を止めるように」
「灰鷹がすぐ止めますか」
「すぐ止めさせるために、今ここで紙を作るの」
マルヤは顔を上げないまま続けた。
「今受付に並んでいる子にも伝えて。浅縁へ行くな。理由は後で聞けばいい。先に縁から離れさせて」
灯口の者がうなずき、浅縁の札を書き写し始めた。マルヤは声を荒げなかった。荒げる時間を、紙を動かす方へ使う人だった。浅縁の下で、名を呼ぼうとする音がした。
言葉にはならない。人の声の形だけを作り、呼ばれた者が顔を向けるのを待っている。
奥へ行けば、核に近づけるかもしれない。それでもノラは踏み込まなかった。今は、生きているネイを灯口の手へ渡す方が先だ。マルヤが近づいてきた。
「救助は終わったわ」
「生きている子は、もういない」
「なら、今日はそこまでにして」
マルヤの強い声が、ノラを外側へ引き戻した。ノラは浅縁の奥を見た。底からは、まだかすかな声がしている。
それはもう言葉ではなく、誰かが反射で振り向く瞬間だけを待つ音だった。ノラの名も、混じっていた。呼ぼうとして、まだ声になりきっていない。ノラは短く息を吐いた。
「今日は、ね」
マルヤは眉を寄せたが、追わなかった。
「今日は一人、浅縁の箱から灯口へ連れ戻せた。その一人を消さずに済んだことは、帳簿の上でも大きいのよ」
ノラは、担架の結び目が動いていないことを目で追った。ヨルが低く鳴いた。
担架の脚が地面を擦る音がした。ネイが運ばれる準備をしている。灯口の者が声をかけ、マルヤが短く返す。人の声が、人のいる場所で動いている。
浅縁の下には、まだ声になる前の音が残っていた。担架は、その音を浅縁の下に残したまま、町へ向かって進んだ。




