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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第3章 助ける人でしょう
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第14話 渡せない箱

挿絵(By みてみん)

箱を棚の下へ戻しても、ヨルはその前から離れなかった。ノラ・ヴェイルが古い布の端を押し込む間も、黒い鼻先を戸口へ向け、誰かが近づく気配を待っていた。


小屋の奥では、ミミが洗い上げた包帯を畳んでいた。布の端を合わせ、膝の上で平たく押さえる。いつもなら少しくらい曲がっても気にしないのに、今日は一枚ずつ角をそろえている。


「その箱、今日は棚の奥に入れた方がいいです」


ミミが言った。ノラは蓋から目を離さない。


「見えてる?」


「見えます。ヨルが、誰かに取られる前の顔をしています」


「ヨルの顔で分かるの」


「ノラさんの顔でも、少し分かります」


ヨルが短く鼻を鳴らした。自分のせいにするな、とでも言いたげな声だった。


ノラは布をかけ直した。端を引き、炭筆の文字を隠す。箱は小さい。持ち出そうと思えば、子どもでも抱えられる大きさだ。


だから余計に、重かった。


「中身、出さない方がいいものなんですよね」


「出さない方がいい」


「捨ててもだめなんですか」


「捨てたら、拾う人がいる」


布の端を押さえたミミは、ただ怖がるだけでなく、怖いものの輪郭を覚えた目をしていた。


「じゃあ、ここにある方がまだましなんですね」


「今はね」


「今は、って言う時は、あんまり安心できません」


「私も安心してない」


ミミは小さく眉を寄せた。それ以上は聞かなかった。聞いても、ノラが全部は答えないと分かっている顔だった。戸を叩く音がした。


ヨルが箱の前で顔を上げる。すぐには鳴かない。灰と外套と、紙に染みついた墨の匂い。危険な匂いではないが、町の外から来た匂いでもなかった。


ノラが戸を開けると、エリオ・カーンが立っていた。


外套の裾に赤い土がついている。赤錆の粉だ。目の下は少し暗い。眠れてはいるらしい。それでも、紙の上の数字がまぶたの裏に残っているようだった。


「朝からすみません」


「赤錆?」


「赤錆と、浅縁です。中で話しても?」


ノラが戸を少しだけ開けたままエリオを見ると、その視線に気づいたエリオは、肩から提げた書簡入れを軽く持ち上げた。


「紙だけです。人は連れてきていません」


「なら入って」


エリオが戸口で泥を落としている間に、ミミは包帯の籠を寄せて机の前を空けた。ヨルだけは箱から離れず、エリオが紙を置くと、そのあいだに伏せ直した。


「赤錆の底は、灰鷹が入った時には静かでした。理由は、まだ分かっていません」


「静かな方がいい」


「そうですね。ただ、理由の分からない静けさは、灰鷹では扱いに困ります」


「何が起きたか分かるまで、人を入れないで」


「それを言うために来ました。あなたなら、そう言うと思ったので」


エリオは紙を広げた。


赤錆は作業中止、安全確認待ち。底で人の名を呼んだ声は、紙の上では「異音消失」の四文字に収まっていた。


ノラは何も言わなかった。机の端に紙を置いた拍子に、棚の下の布が少しずれた。箱の角が見えた。


ヨルがすっと動く。


鳴かない。歯も見せない。ただ、エリオと箱の間に体を入れる。黒い背中が、棚の下を隠した。


ミミが包帯の籠を持ち上げた。


「そっちは、まだ乾いていない布です」


そう言いながら、棚の前へ置く。片づけのふりは上手くなかった。けれど、慌てて隠したようにも見えない。ミミなりに、見られたくないものを日常の中へ戻しただけだった。


エリオの視線は、ヨルから包帯の籠へ動いてからノラへ戻った。


「ヨルは、灰鷹の紙よりそちらを気にするんですね」


「紙の方を先に」


「紙は噛まない。ですが、迷宮から持ち出した物なら、灰鷹では確認します」


ミミが包帯の端をそろえる手を止めた。


「中身を見たの」


「見ていません。見ていないから、確認が要ると言っています」


エリオはヨルを見た。ヨルは棚の前で、まばたきもしなかった。


「規則なら、今ここで両方です」


エリオは棚と、机に広げた浅縁の紙を見比べた。


「でも、浅縁は人が落ちる前です。今日はそちらを先にします」


「箱の話は」


「消えたことにはしません」


エリオは紙の端をそろえ直し、話を机の上へ戻した。


「止まった赤錆から、浅縁の見張り補助へ人が流れています」


ミミが包帯をそろえる手を止め、包帯の上に両手を伏せると、ノラは机の紙を見た。


「赤錆から?」


「若い人が何人も。浅層だけ、見張りだけ、重荷なしと書かれています」


トマの木片が、頭に浮かんだ。


北の石段の下。傷めた足。申込木片。呼びかけへの応答義務。


ノラは、その名前を出さなかった。


「呼ばれたら答える仕事?」


エリオは紙をめくった。


「下から呼ばれた時は、所在確認のため返答すること。そうあります」


「返事を仕事にしてる」


「浅縁側は、見張りのためだと説明しています」


「その説明をした人間が、下の声を聞いたとは限らない」


エリオは黙って紙の上の字をもう一度見た。返答。所在確認。見張り。どれも仕事の言葉だった。仕事の言葉は、人を責める時によく固くなる。


「灰鷹から、浅縁へ人を出すの」


「確認には出します。ただ、まだ落ちていない者を理由に、作業を止める権限が弱い」


「落ちてから強くなる権限なら、遅い」


「分かっています」


エリオの声は、反論ではなかった。


「だから、先にあなたへ知らせに来ました。灰鷹の紙だけで動くと、たぶん遅れます」


ノラは紙から目を上げた。エリオは若く、灰鷹の中ではまだ強い決定を下せない立場だ。それでも、紙を運ぶ以上の役目を引き受けようと、どこまで踏み込めるかを自分で測っていた。


「赤錆のことも、浅縁のことも、灰鷹だけでは拾いきれません。あなたが何か見たなら、言えるところだけでもください」


「言えるところがあれば」


「言えないところも、あるんですね」


「ある」


エリオは苦い顔をした。


「それを聞かなかったことにするのは、灰鷹の仕事ではありません」


「分かってる」


「でも今日は、浅縁の方を先に見ます」


エリオは紙を畳み、帰る前にもう一度だけ棚の方を見た。ヨルは箱の前に座り、ミミの包帯籠も元の位置から動いていない。それでも、エリオは何も聞かなかった。


「浅縁で何かあれば、灰鷹の詰所へ」


「灯口にも知らせて」


「マルヤさんには、もう紙を回しています。あの人の方が、足場の外を動かすのは早いので」


ノラが小さくうなずくと、エリオは小屋を出ていき、静けさが戻った。


外の足音が遠ざかる。ヨルはすぐには動かなかった。耳だけを戸の方へ向け、エリオが角を曲がるまで待っている。ミミが、棚の前に置いた包帯籠をどけた。


包帯籠の陰には、布をかけた箱が変わらず残っていた。ノラは中を確かめるまでもなく、その箱だけなら灰鷹へ渡した方が安全に見えると考えた。


けれど、煤釘、灰喉、赤錆の名が一つの箱に並んでいる。それを見せた瞬間、ノラは救助屋ではなくなる。誰が閉じたのか。誰が核を抜いたのか。どこへ持ち出したのか。


だが由来を聞かれても真実は答えられず、黙れば疑いだけが深まる。その先で縛られるのは箱ではなく、次の救助へ向かうノラの足だった。


ミミが隣へ来た。背伸びはしない。箱の中を見ようともしない。ただ、布のかかった四角い形を見ている。


「それ、誰かに預けたら、少しは安全になりますか」


「箱はね」


「ノラさんは?」


ノラはすぐに答えなかった。ミミは、その沈み方で分かったようだった。口をへの字に曲げ、畳み終えた包帯を抱え直す。


「じゃあ、預けられないんですね」


「預けた相手まで、巻き込む」


「もう少し嫌な言い方をしないでください」


「きれいに言っても、重さは変わらない」


納得しないまま、ミミは包帯の束を机に置いた。ヨルが箱の布を鼻先で押すと、ノラは棚の奥へ手を入れ、箱を少しだけ押し込んだ。それでも、外から見える角は消えた。


その時、戸の外から、石につまずきかけても止まらず走り直す足音が近づいてきた。戸を叩く余裕さえない切迫を察し、ヨルが立ち上がるのと同時にノラは戸を開けた。


灯口の相談所の若い男が、息を切らして立っていた。額に汗が浮き、手には折れた紙片を握っている。マルヤの走り書きだった。


「浅縁で、見張りの子が落ちかけています。マルヤさんが、ノラさんを呼べと」


「トマ?」


「違います。別の子です。名前は、ネイ。縁につかまったまま、下から呼ばれてるって」


トマの名でなかったことに安堵する暇もなく、ノラは戸の縁から手を離した。落ちかけているのは、同じ木片を持たされた別の子だった。


ミミがすぐに包帯をつかんだ。棚から乾いた布を二枚取り、ノラへ差し出す。


「持っていってください」


「足りる?」


「足りなかったら困ります。でも、持たずに行かれる方がもっと困ります」


ノラは受け取った。ヨルはもう戸口の外へ出ている。尾は低い。鼻先は町外れの方を向いていた。


ノラは一度だけ棚を見た。箱は布の下にあり、奥へ押し込んでもそこにある。ミミがその視線に気づいた。


「留守番してる間、箱には触りません」


「触らなくていい」


「でも、ヨルがいないと、少し怖いです」


ノラは足を止めた。ミミは怖いと言いながら、泣きそうな顔はしていなかった。怖いものが小屋にあると分かったうえで、ここに残る顔だった。


ノラは戸の内側を見た。掛け金。窓の留め具。裏戸の木栓。どれも古いが、閉めれば音は出る。


「戸は内側から。灰鷹かマルヤ以外には開けないで。裏と窓も忘れずに」


「分かってます。帰ったら、箱より先に傷を見せてください」


「順番を考えておく」


「考えるだけで逃げないでください」


答えれば少しだけ嘘になる気がして、ノラは何も返さなかった。


外へ出ると、浅縁の方角から人のざわめきが流れてきていた。まだ遠い。けれど、助けを呼ぶ声は、町の中を通るうちに大きくなる。ノラは包帯を腰袋へ押し込み、走り出した。


背後で、小屋の戸が閉まる音がした。箱は、置いていく。置いていくと決めたのではない。今それを抱えて走れば、落ちかけている子の手より、箱を守る手が先に出る。


町外れでは、箱にしまったものと同じ種類の喉が、また人の返事を待っていた。ノラは振り返らなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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