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第7話 『月の雫、暴かれる真実――泥棒猫の幸福な呪い』

 ヴェルデで一番の格式を誇る宿、『ドムス・ルナエ(月光亭)』のスイートルーム。

 その浴室は大理石で設えられ、窓からは月明かりが差し込んでいた。


「わあ……お部屋付きの広いお風呂です! 大浴場ではないのですね!」


 湯気を立てる浴槽を見て、レナータ様が歓声を上げる。今日買ったばかりの寝間着――肌触りの良いコットンのネグリジェを脱ぎ捨て、白い肌を露わにする。

 十三歳の身体は、まだ幼さを残しつつも、女性らしい柔らかな曲線を描き始めていた。

 透き通るような肌に、湯気が絡みつく。


「お背中、お流ししますね」


 私が言うと、彼女は素直に頷いて洗い場の椅子に腰かけた。

 白銀の髪を纏め上げ、華奢な背中を預けてくれる。

 スポンジに泡を立ててその背中を滑らせる。きめ細かい肌。浮き出る背骨のライン。そのすべてが壊れやすく、そして尊い。


「……気持ちいいです」

 彼女が、うっとりと目を細める。

「レティシアさんの手、冷たいけれど……なんだか、安心します」


「恐れ入ります」

「ねえ、レティシアさん」

 彼女は、少しだけ顔を後ろに向けて、私を見た。その瞳は湯気で潤んで、とろりとしている。


「私、今日のこと、忘れたくないです」

「……」

「明日になったら、また忘れちゃうんですよね? 貴女のことも、今日食べたクレープの味も、このお風呂の気持ちよさも。ううん、覚えてはいるけれど、今のこの……貴女と過ごした大人な私の、ほんの三日前までの夜みたいに……こんなに濃厚で素敵な記憶なのに、他人事。分厚い本の中で、一行で流れてしまう出来事のように」


 彼女の声が少し震える。消滅する過去の経験、時間に対する忘却とも少し違う。

 想いの喪失への恐怖。

 それは、彼女が逆行する中、睡眠をとるたびに抱き続ける根源的な恐怖だ。


「……大丈夫ですよ」


 私は、つぎはぎだらけの手を石鹸の泡で包み、彼女の肩を優しくマッサージする。

 宝石継ぎの表面は滑らかだけれど、それでも、わずかな傷も許さないために。


「私が、覚えていますから。お嬢様が忘れてしまっても、私が何度でもお話しします。今日の楽しかったこと、お嬢様の笑顔、全部。私の想いの全てと共に」

「……うん」


 彼女は、私の手に自分の手を重ねた。

「お願いしますね。……私の、大切な従者さん」


 その言葉に、私の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。

 魔核・心の核が脈打つ。これは、彼女の命の鼓動だ。

 彼女が私にくれた時間。私を生かしている熱。

 それが今、こんなにも愛おしく、そして痛い。

 奇跡の代償の一部にすらなりえない程度と分かってはいても。あの日、あの時、この時間を私に分け与えていなければ。

 そう考える事はやめられない。


 お風呂から上がり、髪を乾かし終えると、私たちは寝室へと移動した。ふかふかのベッドに、彼女が飛び込む。


「ふあぁ……極楽~。大聖堂のベッドよりも気持ちがいぃの~」


 彼女は枕に顔を埋め、足をパタパタさせる。その姿は、年相応の無邪気な少女そのものだ。

 私は、部屋の明かりを落とし、窓際の椅子に腰かける。

 魔導人形に睡眠は必要ない。今夜も、彼女の寝顔を見守りながら朝を待つ。


 ――はずだった。

 そろそろお布団の中に入ってもらおうと、声をかけようとしたその時。


 ギッ。


 微かな金属のこすれる音が、私の聴覚に引っかかった。

 廊下ではない。

 窓の外でもない。

 ――天井裏? いや、壁の向こう、隣の部屋?


 このフロアにはスイートルームの二部屋しかないが、隣室が空室だったことは確認している。


「……お嬢様」

 私は、鋭く呼びかける。

 眠りたくないと、疲れた体に抵抗を強いていたレナータ様が、ぱちりと目を開けた。


「……お客様です。あいにくと、招かれざる」

「え?」


 彼女が身を起こした瞬間。

 音もなく、壁がさらさらと消えた。

 あの屋敷の時のような火球による破壊ではない。壁が秩序への妨害としてこの世から否定され、砂のように崩れ落ちたのだ。

 そこから、白い影が滲み出してくる。純白の甲冑。無機質な白い光。

 聖堂騎士団。いえ……秩序執行部隊。


「な、なに……!?」


 レナータ様が悲鳴を上げる。

 私は即座にベッドの前に立ちふさがり。

 ジャキッ! 展開される漆黒の刃たち。


「しつこいですね。……お引き取りください」


 私が威嚇すると、騎士たちは無言のまま剣を抜いた。

 殺気はない。あるのは無機質な、任務遂行の意志だけ。それが逆に不気味さを際立たせる。


「対象を確保」


 無機質な声と共に、騎士たちが一斉に踏み込んでくる。先行するのは四体。どれも騎士剣を構え、白い輝きに包まれている。

 屋敷の部屋の時とは違い、壁一面が消失し、後続も一斉に押し寄せてくる。

 レナータ様を巻き込むわけにはいかない。


「下がっていてください!」


 私は呼びかけ、迎撃に入る。

 スカートを翻し、先頭の騎士の剣を回転する数多の刃で受け流すとともに、回し蹴りで吹き飛ばす。

 まだベッドの上で固まっているレナータ様が気がかりだが……二人目の突きを躱し、その腕を手中の二刀で切り落とす。

 残る二人が同時にベッドへと跳びかかろうとする。

 翼刃を射出。ハリネズミにして叩き落す。

 速さと手数なら、私の方が上。けれど、彼らも『痛み』を知らない。

 腕を失っても、首を飛ばされても、魔石を砕かない限り動き続ける。


「キャァッ!」


 背後で、レナータ様の悲鳴。見れば崩れた壁からさらに六体の騎士が入り込んでいる。しかも先の二体が触れたベッドの脚が消え、傾いていた。

 第一管理塔の支配域内において『法規』の権能は最大化される。

 奴らの纏う白い輝き、それを妨げるものはことごとくこうなる。


 古代魔導技術で鍛え上げられた私の漆黒の刃であれば、少なくともただの騎士程度に与えられた干渉力、なんら問題にもならないが……。


「させないっ!」


 私は残りの騎士を無視して、レナータ様のもとへ飛翔する。

 彼女に伸ばされた騎士の腕を、空中で叩き斬る。

 自らの身を護るすべを持たない彼女に、この真白き光は致命的な害毒。


 そのまま彼女を抱きかかえ、部屋の隅、窓際へと退避。


「レ、レティシアさん……っ!」

 彼女は私の胸にしがみつき、ガタガタと震えている。私は、彼女の頭を庇うように抱きしめる。



「大丈夫です。私が、守りますから」

 やむを得ない、外壁を破るか。翼刃を再び大きく広げようとしたその時。

 部屋の入り口から、拍手が聞こえた。


 パチ、パチ、パチ。


 乾いた音が、戦闘の喧騒を切り裂く。

 十四体にまで増えていた室内の騎士たちが、一斉に動きを止めた。左右に分かれ、道を作る。

 悠然と、部屋の扉を開け、歩いてくる人影があった。


「見事です。さすがは、魔女……失礼? 救世の巡礼聖女様の守護者」

 黄金の髪。冷徹な美貌。白いドレスアーマーを纏った小柄な少女騎士。

 あの日、黄金の瞳で私達を見つめていた指揮官。そしておそらくずっと私達を追跡、監視していた……。


 彼女は、私たちを見据えて、薄く笑った。

 怜悧な中に華やかな愛くるしさと、柔らかさを湛えたレナータ様とは違う。特に私と愛を交わしていた頃の成熟したレナは豊満な体つきへと成長していた。


 目の前の彼女はどちらかといえば私に近い。研ぎ澄まされた刃のように鋭い美貌の少女。

 こうして間近で見ると意外と幼い? 年の頃は十七前後ではないだろうか。

 血の気の薄い、月光に照らされている事を抜きにしても青白い、どこか病的な途轍もない美少女。感情の抜け落ちた、作り物めいた、まるで人形のような。


「聖堂騎士団指揮官、『秩序執行部隊』隊長と言った方が良いかしら。オルドリアです。無駄な抵抗はおやめになって。この街はすでに、我々の『法規』の下にありますわ」


 彼女が胸元の聖印に触れ、祈りを捧げると、部屋の空気が一気に重くなった。

 太古の原理で稼働する古代魔導人形の私への影響はかなり軽減されているはずだが、それでも空気が急激に粘り気を帯び、水底に沈められたような圧倒的な加重と抵抗感。ボロボロのこの身体では、とても跳ね除けきれない。


「そもそも、まさか我々の領域に逃げ込むとは……何を考えているのやら」

『法規』の名の下に行使される無法。彼らの正義と秩序にそぐわぬ全てを、独善的に排除する。

 領域内の空気、水分、ありとあらゆるものが私達を阻む。

 身体が鉛のように重くなり、床に縫い付けられる。


「ぐっ……!」


 膝をつきそうになるのを、出力を上げて堪える。

 けれど、生身のレナータ様には耐えられない。

 彼女は「うぅ……」と呻き声を上げて、その場に崩れ落ちた。

 それでも、私の手だけは離すまいと、片手の指を絡め合う。


「お嬢様!」

 私は彼女を支えようとするが、自分の体さえ思うように動かない。


「可哀想に。……何も知らないまま、怪物に飼われているとは」

 オルドリアは、倒れたレナータ様に歩み寄る。

 その顔に浮かぶのは、つい先ほどまでの冷ややかな美貌とはうって変わった、慈母のごとき微笑。

 しかし、私の目には明らか。濡れるようなぬめりを帯びる瞳には、憐れみと嗜虐的な色が混ざり合っている。

 首元の黒いチョーカーだけがやはり異質に目立つ。


「怪物……? ふ、ふざけないで。レティシアをそんな風に呼ばないで……!」

 レナータ様が、苦しい息の中で問い返す。

 そこでふと、レナータ様にかかる荷重が軽減される。

 白い皮手袋に包まれた手が、うつぶせのままの彼女の顎を軽く上げる。

 見つめ合う、蒼銀と黄金の瞳。


「ふふ。たった一日でこうも懐柔されるとは。世間知らずの箱入り娘にも困ったものですわ。そうですとも、聖女様。貴女が頼りにしているその古代魔導人形……レティシアと言いましたか。守護者……ええ、ずいぶんとお綺麗な言葉だこと」


 オルドリアは、微笑を浮かべたまま、私に目線を向ける。


「それは、貴女の『未来』を喰らって動く、寄生虫なのですわよ?」

「……え?」


 レナータ様の思考が停止する。私も、息を呑む。いけない。その話は、いけない。


「やめ……っ!」

 私が叫ぶのと同時に、オルドリアは続けた。


「知らなかったのですか? その人形の動力源が何なのか。それにはもはや本来の魔核が存在していません。……それは、貴女自身の未来の時間、『寿命』を糧に動いているのですわよ?」


 彼女は残酷な真実を、慈愛の仮面の内側から、まるで世間話のように告げた。

 その声は、するりと、レナータ様の耳へと滑り込む。


「貴女は、世界を救うために『時間』を捧げた。ですが、その代償はもっと軽いはずだったのです。ええ、確かにあなたは長生きは出来なかったかもしれません。ですが、なぜ。なぜ、過去までをも奪われねばならないのです? これほど急速に若返っているのでしょう? 記憶も、存在も、全てを奪われていく地獄までも味わわねばならないのですか?」


 彼女は、私を睨みつける。


「ねぇ、聖女様? その人形をごらんなさい。胸の青白い輝き……見たでしょう? 感じたでしょう? 見覚えがありませんか? 貴女の何を、喰い尽くされているのか」

 黄金の瞳が、じぃっと、私達を観察する。


「貴女が生きるはずだった時間、積み重ねるはずだった経験、愛するはずだった未来……。そのガラクタが、奪ったのです。その全てを燃料にして、それは動いていますわ」

「う……そ……」

 レナータ様が私を見る。その瞳は、揺れていた。

 否定してほしいと、縋るように。


「嘘ですよね? レティシアさん。だって、貴女は私を守ってくれて……。お、覚えていないけれど、未来の。いえ、過去? の私の傍でずっと、ずっと」

「……」


 私は、言葉を発することができなかった。

 否定できない。私が彼女の未来の時間、寿命を奪った。それは紛れもない真実だからだ。

 私の魔核の代わりとなった心の核、灯る青い燐光。それは、彼女の命、未来の時間を『奇跡・宝石化の魔法』でレナ自身が宝石化し、与えてくれたもの。

 私が動けば動くほど、彼女を守るために力を使えば使うほど、受け取った時間は削られていく。

 私は、彼女を守る盾でありながら、彼女の未来を奪った罪人。


 世界を救うための代償と比べれば、微々たるもの。けれど、そんなことは私の口から決して言葉になどできない。

 この未来の時間があれば、もしかしたら。もしかしたら彼女は少なくとも存在の消滅まで逆戻る事はなかったのではないか? その疑問は私自身もぬぐい切れない疑いだから。

 レナがなんと言っても、それは私の気持ちを安堵するための嘘だったのではないのか? その疑念をぬぐい切れなかったのだから。


 そうして、逡巡する私の沈黙が、何よりの答えとなってしまった……。


「ぁ……」


 レナータ様の顔から、血の気が引いていく。

 彼女の全身から力が抜ける。

 絡めあっていた指が……するり……。


 抜け落ちる。

 離れてゆく。


 そろりそろりと、胸元へと引き寄せられていく彼女の左手。


 穢れた者に触れてしまった。そう言わんばかりに加重から解放された彼女は、右手でごしごしと、強く、強く。

 ほんの数日前、レナの書き残した文字の記されていた手を。


 こする。

 肌が赤くなるほど強く。

 穢れを払うように、こする。


「……本当、なの……ね」

 震える声。

「私の……寿命を? 私の未来を……貴女が、食べているの?」


「……お嬢様、それは……」


「答えて!!」

 彼女の叫びが、部屋に響き渡る。涙が、その目から溢れ出す。


「……はい、お嬢様の未来のお時間を、戴いた事は事実、です」

 蒼銀色の瞳が揺れる。

 左手をこする手が止まらない。


 拡散していく瞳孔。

 抜け落ちる表情。

 わなわなと振るえる全身に、さらさらと、湯上りの丁寧に梳いてさしあげたばかりの髪が揺れる。


「返して」

 彼女は、ゆらりと、幽鬼のように起き上がる。


「返して?」

 ぺたり、ぺたり。はだしの足が、冷たい石の床を一歩、二歩。


「ねぇ、返せ、返せ……返してよぉ!」

 加重にさいなまれ、動きの自由を確保できない私に、掴みかかった。

 とても、とても弱弱しい力で。


 小さな拳で。私の胸を叩く。

 ぽふん、ぽふん。

 黒と赤のゴシックドレス越しの、鈍い音が響く。


「返して! 私の人生を! 私の時間を! なんで……なんで、貴女は私を護ってくれて。なんで……私、消えちゃうの? 消えちゃうのよ? ねぇ」


 彼女の言葉は、鋭い刃となって私の魔核・心の核を貫く。


 痛い。

 何ら痛痒をもたらさない拳が、痛い。


 存在の根底を否定される痛み。


「私は生きたかった! 恋をして、大人になって、おばあちゃんになるまで……普通に生きたかったのに! それを、貴女が……貴女が奪ったのね!?」


 彼女は泣き叫ぶ。

 私を傷つけるにはあまりに無力な拳は、けれど、私の心を粉砕するには十分すぎた。


「……申し訳、ありません」


 私は、ただ謝ることしかできない。

 弁解の余地はない。


 こんな時ですら、涙の一つも零せない深紅の瞳が恨めしい。

 魂を、心を、もらっても……涙を流すという機能は、古代魔導人形。殺戮兵器として生み出されたコレには付随していない。


 たとえ、それが彼女レナの意志だったとしても。

 たとえ、私がそれを望んだわけではなかったとしても。

 今のレナータ様にとっては、私は『彼女の命を奪う、奪った、泥棒』でしかないのだ。


「滑稽ですわ。ええ、まるでおとぎ話に聞く悪魔のようではありません?」

 オルドリアが、嘲笑う。亀裂のような艶やかな微笑み、荒い吐息。

 昂りを抑えきれないように、レナータ様の背後で己の身体を抱きしめ、愉悦に悶えている。

 慈母の仮面が罅割れる。隙間から覗くのは歪んだ悦楽。


「主人の命を代償に、主人のために戦う? ……矛盾した存在にもほどがありますわ。壊してさしあげるのが、慈悲というものではなくて!?」

 と、昂ぶり続けた彼女が……すんっと、急に冷徹な無表情に戻る。

 幽かにすがめられた眉、首筋に浮かぶ皺は、何かに……あのチョーカーに締め付けられた?


 彼女が剣を抜く。神々しい純白の刀身が月光に照らされ、仄白く輝く。


「聖女様。我々が保護してさしあげましょう。その怪物から引き離し、貴女の時間をこれ以上奪わせないために」


 それは、違う。この時間は、あの時に戴いたもの。日々奪っているものでは……!

 けれど、その言葉はやはり私の喉から漏れる事はない。


 レナータ様にとって、そこになんの違いがあるだろう……。


 彼女は、甘い声でレナータ様に囁く。

 それは、それこそ、悪魔の誘惑だ。


 レナータ様の首を、身体を、這いまわる金髪の少女、オルドリアの左手。

 その手は、まるで彼女を縛り付けようとする蔦のよう。


「聖女様をお守りできるのは同じ『人間』である私共だけ。白亜の大聖堂であれば、聖女様に正しき秩序のための最期を安らかにお過ごしいただけましょう。要の聖女様であった貴女様を必要としている民が無数に居りますわ」


 第一管理塔がいまさら何をレナータ様に求めているのかはわからない。けれど、それが碌なことなわけがない。

 意識も自由も、必ずや永遠に失われる。


 しかし、絶望した今の彼女には、それが救いの手に見えてしまうかもしれない。

 レナータ様が、私を叩く手を止める。

 ふらり。オルドリアの方へ振り向き、再び慈母の微笑みで取り繕われた美貌の少女の黄金の瞳と見つめ合う。



「……まって」


 行ってしまう。たったの一歩。それでもう彼女は、敵の胸の中に飛び込んでしまう。


 私は、反射的に彼女の腕を掴んだ。

 途轍もない加重に継ぎ跡だらけの身体がきしむ。あまりの負荷に、継ぎ目となっていた宝石沿いに、再びかつての傷口が引き千切られる、レナに繕ってもらった傷痕が開く。


「お嬢様、いけません! 彼らは貴女を……」

「触らないで!!」

 彼女は、私の手を振り払った。その目には、今度こそ、明確な憎悪があった。


「人殺し! 私の人生を返して! ……大っ嫌い!!」

 その言葉が、決定打だった。


 私の思考回路が、一瞬。


 完全に停止した。


『大っ嫌い』。

 それは、私が最も恐れていた言葉。最も、聞きたくなかった言葉。


 その隙を、オルドリアは見逃さなかった。

「あはぁ――絶望に沈みなさい、可愛い、ポ・ン・コ・ツちゃん、だったかしら?」


 純白の剣閃が走る。

 反応が遅れた。


 そもそもその言葉は、レナが決戦の地で、私に……! 全部、全部見られていた? 知られていた?

 あり得ない、あの場は厄災との死闘が支配していた。世界の法則すら歪み、乱れていた。いくら魔眼であろうとも、遠隔で見通せるはずがない。ならばあの場に? それこそあり得ない。一体どこまでがこいつらの手の平の……!?


 回避行動が間に合わない。

 ただでさえ加重をかけられた中。

 翼刃での飛翔すら、致命的に遅れた意志の反応では。


 魔核を狙った正確無比な一撃。

 白い輝きを纏った、私という『秩序』の敵を排斥する輝きを纏った一閃。

 ただのゴーレム騎士とは格の違う輝き。


 ドスッ!


 鈍い音がして、衝撃が走る。

 けれど、砕けたのは魔核ではなかった。


 完全な回避を諦め、全力で横へと自身を突き飛ばす飛翔の加速により、辛うじて剣尖からそれた。


 それでも、私の左肩の球体関節が、斬り裂かれた。

 ドレスは裂かれ、左腕が脱力する。双刀の片割れの保持もできず、左の一刀は格納空間へ。

 体中を巡る透明の触媒液が、血のように噴き出す。

 やはりただの騎士とは別格。刹那の斬撃で傷口の周辺までもが砂のように崩れ去った。抉られたような傷口。


「ぐっ……!」

 私は、自身にかけた無茶な加速で壁に叩きつけられた。

 視界が歪み、一瞬途切れる。


「あら、しぶとい」

 オルドリアが嬉しそうに喜悦の声を漏らす。

 彼女は、くずおれた私には目もくれず、レナータ様を抱きかかえるように、腕を背に回そうとする。

「さあ、聖女様」


 レナータ様は、呆然と私を見ていた。私の傷口から溢れる透明の魔導液。黒と赤のゴシックドレスに広がってゆく、血の代わりの染み。


 引き裂かれた生地から覗く、体中に走る宝石継ぎの痕跡。

 お風呂場でも見ていたはずの、無数の損傷の跡。


 彼女は、もう半歩後退る。オルドリアの方へ。

 けれど腕の中に、胸の内に収まる寸前、その足が止まる。


 彼女の視線が、私の足元に落ちている『物』に釘付けになったからだ。

 異常な加重の中での激しい挙動に、落ちてしまった『もの』。

 今日、あのブティックで買った、バレッタについた作り付けのリボン。

 暗めの赤い大きなリボンの、彼女と色違いでお揃いの髪飾り。


 彼女が選んでくれた、新しい想い出。

 長い黒髪に映える、暗めの赤。

 彼女は、それを拾い上げた。幸い汚れてはいなさそう。

 ただ、すり抜けて、落ちてしまっただけ。


 それを握りしめ、彼女は震えだす。

「……お、嬢様?」


 私は、這いつくばったまま彼女を呼ぶ。

 彼女は、ゆっくりと振り返った。その瞳から憎悪は薄れ、代わりに遠く焦点の結ばない瞳で、ただリボンを見つめる。


「……どうして」


 彼女が呟く。


「どうして、そんなにボロボロになってまで……私を守ろうとするの?」

「……それは」

「あなた一人なら、どうとでも逃げられる。自由にだってなれる。時間……それは今、貴女にあげているわけじゃない。きっと、昔の未来の私が、あげた時間」


 やはり、彼女は聡い。自身の能力を知っているから、でもあるのだろう。

 誓言による『奇跡・宝石化の魔法』を神に授かったのはもっと、遥かに幼い頃だと聞いた。たぶんそれが、赤子の頃。


 私は、軋む身体を起こし、跪く。

「私が、お嬢様……レナータ様の……人形だからです」


 命令だからではない、主従の契約だからでもない。

 ただ、貴女が大切だから。

 貴女がくれたこの魂(時間)を使って、貴女の笑顔を守りたかったから。


「……馬鹿なお人形さん」

 彼女は、泣き笑いのような顔をした。そして、オルドリアの腕から眼前からするりと抜け出した。


「……私は、行かないわ」

「あら?」

 オルドリアが眉をひそめる。



「白亜の大聖堂には行かない。戻らないわ。……私の時間を奪ったのがこの人形だとしても、それを許したのは『私』よ。誰かに管理された道じゃない、私が選んだ破滅なら、それは私のものだわ!」


 彼女はリボンを握りしめ、オルドリアを睨み据える。


「貴女たちの目はいつも同じ。私を『聖女』という『機能』としてしか見ていない。崇め奉りながら、その実、籠に閉じ込めることしか考えていない! ……未来を食い荒らす泥棒の方が、私を『意思ある主人』として見てくれるだけ、幾倍もマシよ! どちらも許せない。でも、今どちらを選ぶべきかくらい、私でもわかる」


 彼女は叫び、私の元へ駆け寄ってきた。

「立って、レティ! 私を連れて行って!」


 彼女の身体が、虹色の輝きを生み出す。

 彼女の奇跡の輝き。

 奇跡・宝石化の魔法の行使。


 ああ……いけない、それだけはダメ、なのに。


 左肩に触れる彼女の細い指。

 代償となる未来を失い、存在の消滅が確定した彼女が支払える唯一の対価。

 消滅までの残り僅かな時間の損耗加速。


 斬り裂かれ、抉られた左肩の球体関節が、きらきら煌めく七色の宝石で継がれる。

 体内を巡る魔導液の導線が、輝く青色のサファイアで形成され直す。


「さあ、これで動けるわよね」

「はい、私の主……レナ……」


 変わる彼女の呼びかけに、私もまた、親愛の名で応える。


「ん……。か、勘違いは、しないでね。許したわけじゃない、私の時間……命。でも、聖女なんていう拘束具にまた閉じ込められるくらいなら……そこから、今。私を自由にできるのは貴女だけ。だから……だから、私を救わせてあげます! 償いはその後でしてください」


『秩序』に排斥された絶不調のはずの総身が、高鳴りを抑える事すらできない魔核・心の核の高まりに、天井知らずに昂る。世界からの排斥? だからなんだ。

 たかだか、『現代』の。残りかすの猿知恵の産物が。


 神代を駆け抜けた、古代魔導人形。殺戮兵器の神髄を……思い知れ。


 昂り、蒼白い燐光を放つ心の核。

 レナ……少しだけ、もらった時間を――燃やすね。


 冴えわたる意識、加速する思考。

 何が嬉しいのか、喜悦の表情で私達を見据える黄金の瞳の美少女。

 白いドレスまでもが、純白の、正義の名を騙る排斥の輝きを増す。


 それがどうした。


 燃える。燃え盛る。心の核が。

 限りない力を、本来の全力へと迫る、焔をこの身に宿す。


「超過駆動――解放」


 瞬間、魔核が悲鳴を上げた。

 熱い。熱い。

 ドクン、と私の炉心で弾けたのは、本来ならば彼女が過ごすはずだった未来。

 穏やかな日差しに照らされて、大好きな紅茶を飲みながら、駆け回る子供たちを見つめる、綺麗な皺を刻んだ目元。

 出窓に植えた鉢植えに水をやると聞こえてくる、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり。

 私のいない、年老いたレナ。長閑な自然の中の一軒家にはきっと、彼女が選んだ伴侶がいて……。

 あり得たはずの、レナの未来、可能性が……私の、殺戮人形の、暴力の源へと変換されて消えていく。


「あぁぁぁぁぁッ!!」


 私の喉を押し開くのはケダモノの咆哮か、あるいは悲鳴か。

 敵を切り裂く感触よりも、彼女の時間を食らい尽くす感覚が、私の与えられた心を焼き焦がす。

 ごめんなさい。ごめんなさい、レナ。

 貴女がくれた未来を喰らって、私は今……。



 時が静止した。


 翼刃を広げ、低空を疾駆する私の視界に、動くものなど存在しない。

 漆黒の刃の先端は水蒸気の白い筋を幾重にも靡かせ。音すら置き去りに、縦横無尽に飛翔する。

 ひらめく無数の漆黒の刃。


 刹那の時。

 フロアにはびこる全ての白い騎士が。


 ズンッ!


 音は全て同時に届いた。

 神速で駆け巡った私が、双刀で薙ぎ、スカートの裾の刃を巡らせた。

 ただそれだけの事。


 ひしめく白い騎士達は刹那の間に振るわれた幾千の刃で、粉みじんに斬り裂かれ。

 もはや白い結晶の粉末と化し、部屋中を満たした。


 ばらばらにほどける翼刃、幾百の漆黒の刃は白いドレスアーマーの少女騎士へと宙を翔けていた。


 バリンッ! バリ、バリンッ!


 幾重にも響く、白い輝きの割れ砕ける音。

 奴を覆っていた不可視の結界が次々、強烈な白い輝きを放ち飛散していく。


 第一管理塔領域において、それは絶対の護りであるべきはずの『秩序』の守護結界。

 害するすべてを排斥する『法規』の証。


 それが、飛来する漆黒の刃、翼のはためきに無数の破片を散らし、次々崩壊していく。

 私の魔核から供給する熱が、秩序の独善を貫く鋭さを刃に与える。


 ついに黄金の瞳を強烈に輝かせ、オルドリアが騎士剣を振るう。

 こちらもまた人とは到底信じられない瞬速。


 もはや音はただの甲高い連続音となり、衝突の輝きは光すら捉える私をもってしてもギリギリ追える限界に達する。

 互角。


 全てをぎりぎりでいなし、弾く、鉄壁を見せるオルドリア。しかし、さしもの『秩序執行部隊』隊長と言えど、捌ききるのに手いっぱい。

 淫蕩にすら見えた表情を殺し。

 黄金の瞳を爛々と輝かせ、敢然と漆黒の刃の群れと打ち合いに興じる。



「素晴らしい! 一筋縄には堕ちないその輝き」

 彼女が喜悦の声を上げる。


 仕留め切るのは無理……いえ、仕留めようと思えば、レナにもらった時間をここで使い切ってしまう覚悟が必要になる。

 今は……その時ではない。目的をはき違えてはいけない。

 ここではまだ、損耗を最小限に。


 レナータと共に『廃棄された地』。深海図書館への転移陣にたどり着くまで、私は終われない。

 そこに何があるのか、何を想ってかつてのレナが、その名を漏らしたのかはわからない。

 けれど。

 だから。


 僅かに残しておいた背中の翼刃に魔力を集め、そっとレナータ様を抱き上げる。

 お姫様抱っこに抵抗する様子もなく、しっかりと私の首につかまる彼女。

 その全身からは留めようもない、青白い燐光が舞い散っている、目に見えて縮んでいく彼女……。


「信じています」

 その言葉を耳に。


 飛翔する。先ほどついでとばかりに斬り裂いておいた外壁を抜け、大空へ、月光の元へと。

 ああ、今宵の月は美しい。


 きっともう少しで満月。


 あの終わり始まりの日から七日……腕の中のレナータ様に視線を落とす。

 猶予はもはやほとんど残されてはいまい。三日、よくてもう少し……無理か。

 やはり二十日も保たないというレナの予想が的中してしまう。


 急速に時を逆さに進められている彼女。その姿はよわい10を数えるか否か……。


 風が、ごうごうと耳元で唸る。腕の中で、レナータ様が震えている。

 先ほどの毅然とした態度はどこへやら、彼女は私の胸に顔を埋め、小さく啜り泣いていた。


「……怖かった」

 彼女が呟く。

「ごめんなさい……ひどいこと言って……ごめんなさい……。本当はわかっていた、分かっていたのに。でも、胸の奥から上がってくるどろどろとしたものも、どうしても止められない。止められないの。聖女なんて聞いてあきれる」


「……いいえ」


 私は、彼女の頭をそっと撫でる。

 精一杯の優しさを込めて。

「お嬢様の仰る通りです。私は、貴女様の命を奪う。奪った怪物です。……それでも」


 私は、夜空に輝く月を見上げる。

「それでも、貴女様がお許しくださるなら。……この命が尽きるまで、お傍にいさせてください」


「……当たり前じゃない。それに、先に尽きるのは私だわ」

 彼女は、涙声で言った。


「貴女は私の人形でしょう。……私から奪った時間、命。その分際で、私より先に終わるなんて許さないわ」

 彼女の指が、私の頬に触れる。冷たく、震える指先。

「地獄の底まで付き合いなさい――レティ」

 あぁ……また、その名で私を呼んでくれるの?


「私の最期を看取るその瞬間まで……貴女は、私に縛られ続けるの。それが……私の時間を盗んだ貴女への……罰。私の最期を看取っていいのは、貴女だけ……なん、だか……」


 その言葉は、わがままで、理不尽で。そして、何よりも温かい『赦し』だった。

 それと同時に、決して許されない罪を、罰を受ける事すらできない業を背負わせる残酷な言葉。


 彼女の身体が、ふっと重くなった。

 緊張の糸が切れたのか、彼女は私の腕の中で意識を失っていた。


「お嬢様……」


 眠ってしまった。


 ということは――今日の記憶は、再び記録へと。そして、この加速した時の逆巻き、呪いとしかもはや思えない存在そのものの若返り。

 私への憎しみも、そして最後の和解も。責任を問う赦しさえも。


 次に彼女が目覚めれば、また『初対面』だ。

 記録だけで理性深き人は信じあえない、愛し合えない。


 さらにぼろぼろに、つぎはぎ具合のひどくなった私を見て、再び恐怖するかもしれない。


 それでも。私は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。


「……おやすみなさい、お嬢様――レナ」


 夜風が、私の壊れた身体を冷やす。

 斬り裂かれたドレスの肩口から吹き込む風が、痛みを感じないこの身体に突き立つように染みる。



 稼働状態を平常に戻した魔核の光が弱々しく、けれど確かに明滅していた。


 私たちは、闇の中を飛び続ける。

 引き戻した翼刃を全開に、大きく広げ。


 レナが残した希望。

『深海図書館』。

 廃棄された、『変革』をもたらす第七管理塔の主が封じられたはずの、その場所へと通ずる『廃棄された地』へと。


 一路、山を背に、海へ。


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