第6話 『安寧の街、泡沫の休日――明日の昨日へのお買い物』
渓谷を抜けると、そこには別世界が広がっていた。
背後には、はるか先に死と静寂が支配する宝石化した樹海を望む、荒涼とした荒野。
私たちが成し遂げた成果であり、そして逃亡を余儀なくされた世界。
けれど、目の前に広がる光景は、あまりに色彩に溢れていた。
「……まぁ」
私の腕の中で、レナータ様が感嘆の声を漏らす。
午後の日差しと共に眼下に広がるのは、豊かな緑に抱かれた城塞都市『ヴェルデ』。
高い城壁に囲まれたその街は、白い化粧石で装飾された建物が整然と並び、色とりどりの花々が咲き乱れている。
中央には巨大な噴水があり、陽光を浴びて虹がかかる。
遠くからは鐘の音と共に人々の楽しげな、抑え目の喧騒さえ聞こえてくる。
城塞と言いながら、外壁の大門を警備する兵士すらいない、暢気な街。
そこには、『厄災』の爪痕など微塵もなかった。魔物の襲撃に怯えることも、明日をも知れぬ不安に震えることもない。
ただ、圧倒的な『平穏』だけが、そこにあった。
「こんなに……綺麗な場所が、あったのですね」
レナータ様がそっと呟く。その蒼銀色の瞳は宝石のように輝き、物心ついて初めて見る理想的な、大聖堂の外の世界への憧れと、僅かな不安に揺れている。
「はい。ここは『法規』の加護厚き地。……皮肉なほどに」
私は、胸の奥で黒い感情が渦巻くのを抑え込む。この街の平和は、確かに本物。
けれど、それは世界の半分を切り捨て、見殺しにした上に成り立つ、ガラス細工のような平和だ。
白亜の大聖堂は自らの支配領域が中心を成すこの、巨大な円環状山脈の外側西方の領域だけを、残された創造神の加護によって守り。山脈向こうの領域全てを『試練』と称して切り捨てた。
ここで暮らす人々は、世界を分断するような山脈の向こうで何が起きているのか、何も知らないのだろう。
補給拠点としての機能だけは果たしていたが、それも、生命無き白い騎士達が担っていた。
各方位に配置されている第二から第六管理塔の支配領域も多かれ少なかれ似た状況ではあるが、ここまではっきりと境界を分け、安寧を貪るようなことはしていなかった。海岸沿い、かつて併合した元第七管理塔の領域の一部にその主を封じ、封印を管理しているという大義名分がある故に、許されていることだ。
「降りましょう、お嬢様。……ここでは少しだけ、羽を伸ばせるはずです」
どうせ監視の目は今も私達を捉えている。この街には転移陣があるが、山脈向こうからは陸路で戻って来るしかない。
追跡者が他にいない限り、今夜一晩、レナータ様を休める事は出来るはず。
翼刃を収納し、街外れの大きな木の陰へと舞い降りた。
ここでは『秩序』に従っていないと疑われれば、排斥される。
魔導人形としての異形を隠すため、ドレスの上にフード付きのマントを羽織る。
レナータ様にも、目立たぬように薄手のショールを被せた。彼女のサイズが合っていないドレスと、白銀髪の美貌という組み合わせは、この何事も起きない平穏な街ではあまりに浮いてしまうから。
同じく抱きかかえて歩くのもまずいだろう。異常を知らせてしまう。
「あの、レティシアさん……」
サイズの合っていない靴で地面に足を下ろしたレナータ様が、上目遣いに私を見る。
脱出行の始まりで見せた、少し反抗的な15の頃合いとは違う。
混乱とも折り合いをつけ、箱入りのお嬢様らしく礼儀正しい、そしてどこか自信なげな様子がすっかり顔を出している。
緩やかな飛行の間に少しは私にも慣れてくれたのか。あるいは、記録として脳内に残るこの6日間の記憶にも多少の納得を覚えてくれたか。
彼女は、自分の手をじっと見つめる。指先が私のマントの裾をぎゅっと掴んだ。
「……離さないでくださいね? 私、こんなに知らない人が多いところ、初めてで……」
「ええ。決して離しません。それに、歩くのもお辛いでしょうから、まずはとにかく服飾店に参ります」
マントを握る手を取り、しっかりとつなぐ。その温もりが、私の胸の内を震わせる。今の彼女は、私を怪物として怖がっていない。ただの、頼れる従者として見てくれている。それだけで、胸が痛いほどに熱くなる。
さあ、行きましょう。
つかの間の、夢のような安らぎのひと時へ。
こんな時ばかりは白亜の大聖堂が支配する『秩序』も悪くはない。
――街中へと進むと、そこは静かな活気に満ち溢れていた。市場には新鮮な野菜や果物が並び、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂っている。しかし、歩く人々は決して大きな声では笑わない。
粛々と成すべきことを成し、しかし確かな幸せを抱いて日々の歩みを進める。
「すごい……! 本で見た通りです!」
そんな静謐といえば聞こえが良いが、およそ喧噪とも縁遠い、整然とした街。
それでもレナータ様は、見るもの全てが珍しいようで、きょろきょろと視線を彷徨わせている。
その横顔は、年相応の少女のそれで、聖女としての重圧から解放されたような明るさがあった。
「まずは、お召し物を整えましょう」
私は、彼女のぶかぶかになったドレスを視線で示す。
肩が落ちそうで、裾も引きずりそう。おかげでぶかぶかの靴が目立たずに済んでいるが。
今の彼女は、まるで親の服を隠れて着た子供のよう。愛らしくはあるが、歩きにくい事極まりない。
「あ……そう、ですね。恥ずかしいです……」
彼女は顔を赤らめ、ショールをきつく巻き直した。
私たちは、大通りに面した一軒の店に入ることにした。
『ブティック・リリウム』。
ショーウィンドウには、最新の流行を取り入れたドレスや、可愛らしいワンピースが飾られている。白亜の大聖堂が管理する地域だけあって、品揃えは洗練されており、価格もそれなりに高そうだ。
だが、今の私には旅をする中でレナと共に稼いだ資金がある。金貨の一枚や二枚、彼女の笑顔のためなら安いもの。
「いらっしゃいませ。おや、可愛らしいお嬢様とお連れ様ですね」
店に入ると、ほっそりとした女性店主が笑顔で迎えてくれた。
店内に漂うのは、甘いポプリの香りと、新しい布の匂い。
彼女の視線は、私のマントの下のゴシックドレスと、レナータ様のサイズの合わない服を一瞬で見抜き、商売人の顔になる。
「旅の方ですか? お嬢様のお召し物、少しサイズが……」
「ええ。急な旅立ちで十分な備えもない中、荷物を失ってしまい。この子に合う服を見繕っていただけますか?」
私が答えると、レナータ様は私の後ろに隠れるようにして、ぺこりと頭を下げた。
「あの……よろしく、お願いします」
「あらあら、なんてお行儀の良い! そうですね、是非お似合いになる素敵なお洋服を見繕わせていただきます」
店主は目を細め、手際よく数着の服を選んでくる。
「このあたりはいかがでしょう? 今、聖王都で流行りのデザインですよ」
差し出されたのは、淡いピンク色のフリルがついたワンピースや、空色のリボンがあしらわれたブラウス、刺繍入りのスカートなどなど。どれも、清貧さを是とし、純白以外は纏う事を許さない大聖堂内部に暮らす聖職者たちには無縁の、華やかで可愛らしい服ばかりだ。
レナータ様の目が、釘付けになる。
「かわいい……」
彼女の手が、桜色のワンピースに伸びる。細い指先が、レースの縁をなぞる。けれど、すぐに引っ込めた。
「だめ、です。聖女たるもの、華美な装いは慎まねば……」
彼女は、自分に言い聞かせるように小さく呟く。
その表情には、幼い頃から刷り込まれた戒律への恐れと、抑えきれない憧れがせめぎ合っていた。
13歳。それなのに、自分の好きを素直に表現することさえ、罪悪感を覚えてしまう境遇。
大聖堂での生活は、彼女から少女としての楽しみを奪い続けてきたのだ。
私は、彼女の前に跪き、視線を合わせる。
「お嬢様」
「……レティシアさん?」
「ここは、大聖堂ではありません。誰も、貴女を咎めたりしませんよ」
私は、ピンク色のワンピースを手に取り、彼女の胸に当てる。
「それに、私は見てみたいです。お嬢様が、一番好きな服を着て、笑っているところを」
「……私、が?」
「はい。何を選んでもいいのです。それが、旅の想い出に、楽しみになりましょう」
嘘ではない。レナは言っていた。『私は、ただの女の子になりたかった』と。
ならば、今の彼女にその願いを叶えさせてあげることこそ、私の役目だ。
レナータ様は、しばらくワンピースを見つめていたが、やがておずおずと顔を上げた。
「……着てみても、いいですか?」
「もちろんです」
試着室のカーテンが引かれる。衣擦れの音。ためらいがちな吐息。
私は聞こえないはずの音をしっかりと聞きながら、店内を物色する。
今後、彼女はさらに若返っていく。10歳、7歳、5歳……。そのたびに服を買いに寄り道をできるわけがない。
この先、第一管理塔の支配域を抜ける以上、襲撃も当然あるだろう。
私は、サイズ違いの服を次々と選んでいく。
動きやすそうな生成りのチュニック。肌触りの良いコットンの寝間着。冬の寒さに備えた、ウサギの毛皮付きのケープ。そして――さらに小さな、よちよち歩きの子供用の靴下。赤子用のおくるみ。どれもできるだけ女の子らしい、可愛らしい物を選ぶ。レナータ様が少しでも、楽しめるように。
それらを手に取るたび、私の指先は微かに震える。
これは成長のための買い物ではない。退行のための準備だ。
彼女が小さくなっていく未来を、私が肯定し、受け入れるための儀式――
胸の奥の魔核・心の核が、きしりと音を立てた。
「あ、あの……」
試着室のカーテンが少しだけ開き、レナータ様が顔を出した。
頬を林檎のように赤らめ、もじもじとしている。
「ど、どう、でしょうか……?」
カーテンが全開になる。そこには、春の妖精のような少女が立っていた。
淡い桜色のワンピース。
ふんわりと広がるスカートの裾から、白い足が覗く。
腰の後ろには大きなサテンのリボン。胸元には小さな花の刺繍。袖口には繊細なレースがあしらわれ、彼女が動くたびに軽やかに揺れる。それは彼女の白銀髪と透き通るような肌に、これ以上ないほど似合っていた。
「……とても、お似合いです」
私の声は、感極まって少し震えたかもしれない。記録する。この瞬間を、永遠に。
彼女が聖女の呪縛から解き放たれ、ただの少女としてそこに在る姿を。レナの願いを、一つでも多く叶えてあげたい。
そんな儚い想いもまた、私の中に記録する。永久に忘れないよう、例え再び私の時間が終わったとしても。
「本当ですか? 変じゃ、ないですか?」
「ええ。どんな宝石よりも、輝いて見えます」
「そ、そんな……大袈裟です……」
彼女は照れ隠しのように俯くが、その口元は嬉しそうに綻んでいる。
鏡の前に立ち、くるりと回ってみせる。スカートが花のように開く。その笑顔は、宝石の森のどんな輝きよりも眩しく、私の回路を魔力過負荷で焼き尽くしそうだった。
「あ、あれも着てみたいです! こっちのも!」
一度タガが外れた彼女の好奇心は、止まるところを知らなかった。
次々と服を持ち込み、着せ替え人形のように楽しんでいる。
水色のワンピースは、彼女の瞳の色を映して涼やかに。レモン色のカーディガンは、彼女の、ようやく浮かべるようになってくれた自然な笑顔をより明るく照らし出す。花柄のスカートを穿けば、可憐な村娘のように。
「これ、すごく可愛い! 手触りも、ふわふわで……」
彼女は、ベルベットのケープを頬にすり寄せ、うっとりと目を細める。
その無防備な仕草。聖女として祀り上げられ、門外不出の偶像として扱われてきた彼女が、今、ただの布の手触りに心底安らいでいる。私は、彼女が着替えるたびに、髪を整え、リボンを結び直す。その細い首筋。華奢な肩。私の冷たい指が触れると、彼女は少しだけ身を縮めるが、決して拒絶はしない。むしろ、信頼しきった猫のように、身を預けてくる。
「レティシアさん、このリボン、結んでいただけますか?」
彼女が背中を向ける。私は、震える指で背中のリボンを結ぶ。この温もり。この柔らかさ。
あと何日、こうしていられるだろうか。
彼女が小さくなればなるほど、意志を通わせあう時間は失われていく。
今はまだ服を選び、はしゃぎ、私の言葉に応えてくれる。けれど、やがては言葉さえ失い、ただ泣くだけの赤子に戻る。
その時、私は――
レナの言葉が脳裏によみがえる。
『誓言を紡ぐ喉を潰して、殺しなさい』
「……レティシアさん?」
リボンを結ぶ手が止まっていたことに気づいたのか、彼女が振り返る。
「どうしましたか? 悲しい顔をして……」
「……いえ。あまりに可愛らしくて、見惚れておりました」
「もう、からかわないでください!」
彼女はぷくっと頬を膨らませる。その表情さえ、胸が痛くなるほど愛おしい。
そんな彼女がふと、カウンターに並ぶ可愛らしい髪飾りに目を留める。
「ねえ、レティシアさん、あれ。あれ、どうかしら! 黒と赤の貴女のドレスに、そして何より、とっても艶々で、綺麗な漆黒の髪にとっても似合うと思うの」
そこにあったのは、大きなリボン。少し……表情が硬く、どちらかといえば冷たい美人。といった印象の私には可愛らしすぎる気がするけれど。
でも、その提案はあまりに魅力的で。
「ええ、是非。それに……色違いでお揃いに……しませんか?」
「素敵。素敵だわ!」
そうして、彼女の瞳とお揃いの涼やかな蒼色のリボンを。私に昏めの深紅のリボンを。
バレッタになっていたそれを、互いにつけて、微笑みあった。とても、とても。心の核が穏やかな温もりをもたらす時間。
永遠に続いてほしい、幸せの時間。
「では、これらを全ていただきます」
私がカウンターに服の山を置くと、店主は目を丸くした。
「あらまあ! こんなにたくさん? それに、随分と小さなサイズのものまで……」
店主の視線が、幼児服やおくるみに注がれる。
さすがに異質に過ぎたか。それでも、私は表情一つ変えずに答える。
「……妹君も、いらっしゃるのです。これからお迎えに行く予定でして」
「あら、そうだったのですね、それは楽しみですね」
店主はそれ以上の疑問は押し殺す事に決めたのか、納得して、手際よく包んでくれた。
過度に疑う事もまた、秩序を乱す行い。
かなりの量になったけれど、拡張収納のガーターポーチに無事収まってくれてよかった。
「ありがとう、レティシアさん!」
店を出たレナータ様は、新しい薄桜色のワンピースを着たまま、足取りも軽く歩き出した。
新品の、先のまあるい可愛い靴で軽やかに、石畳を弾むように歩く彼女の背中を見つめながら、私は誓う。
この笑顔を、最後まで守り抜くと。
たとえ彼女が忘却の果てに言葉を失い、私を従者とみなす事ができなくなっても。
私が、彼女の尊厳を、彼女の『生』を包み込む揺り籠になろう。
「あ、レティシアさん! あそこ、見てください!」
彼女が指差した先には、オープンカフェのテラス席があった。香しい紅茶の香りが漂ってくる。
「……喉が渇きました。少し、休んでいきませんか?」
彼女は上目遣いに私を見る。その瞳には、もう聖女としての翳りはない。
ただの、甘えん坊の少女の色だけが映っていた。
「はい。喜んでお供いたします」
私たちは、午後の陽射しが降り注ぐテラス席へと向かった。
お揃いの、色違いのリボンを頭の後ろで揺らしながら。
そこにはまだ、穏やかな時間が流れている。
迫りくる追手の気配も、残酷な運命の足音も、今はまだ聞こえないふりをして。
私は、彼女のために椅子を引いた。




