第5話 『解放の都市、甘いクレープの味――愛の想い出』
「……あり得ません」
レナータ様は、吐き捨てるように言った。けれど、その視線は開かれたままの日記から離れない。文字を追う瞳が、小刻みに震えている。
「平和になったら、ですって? 外の世界は穢れに満ちていると教皇猊下は仰っていたわ。夢という不確かな形で世界を侵略する、廃棄された第七管理塔の残滓。『厄災』の元凶。それを私が、『誓言』を宿すこの身を地下の祭壇で捧げて今度こそ消滅させる。それこそが私の使命、私の未来。そのためだけに私は一歩も外に出る事もなく……大聖堂に。クレープを食べて笑う未来なんて、意味が分かりません、聖女には許されていない。馬鹿げた妄想よ」
頑なな拒絶。十三歳、聖女としての教育が最も苛烈を極め、同時に彼女自身がその役割に殉じることを、半ば洗脳に近い形で受け入れていた時期。
甘えることも、遊ぶことも罪だと教え込まれ、ただ祈り、学ぶことだけを強要されていた、籠の鳥だった時代。
「嘘ではありません」
私は日記を閉じ。ドレスの内側、魔核が収められた胸郭の内部。魔導人形だからこそ格納できる一番安全な場所に据え付けた拡張空間収納へと仕舞い込む。
思えばこれも、レナにもらったものだった。
私の視線の先。
瓦礫の撤去作業をしていた数人の男たちが、手を止めてこちらを見ていた。
そして、一人の初老の女性が、籠を抱えてよろよろと歩み寄ってきた。
「……まさか」
老婆の絞り出すような声。
「黒と赤のドレスのお人形さん……それに」
老婆の視線は、私たちに釘付けになっている。
私の腕の中にいる、ぶかぶかのドレスに埋もれる白銀の髪の少女へと視線が移る。
「聖女、様……?」
レナータ様がビクリと身を竦めた。
「わ、私はまだ聖女……様だなんて。なにも」
ほんの僅かな喜びを感じさせつつも、大きな戸惑いを露わにするレナータ様。
その小柄な手は、私のスカートをそっと指先でつかんでいる。
今の彼女にとって、大聖堂の外の人間とはすなわち未知の存在。
「ああ……ああ、なんと! お若く可愛らしいお姿におなりのご様子。それでも」
老婆は、その場に膝をついた。瓦礫だらけの地面に、額を擦り付けるように平伏する。
「生きて、おられた……! あのような厄災の大軍を屠り、道を切り開き。聖女様の赴かれた先が光の中に消えて。――もう二度と、お会いできないものと……!」
「え……?」
レナータ様が呆気にとられた声を出す。
周りにいた男たちも、大工道具を放り出し、次々と集まってきた。
誰もが、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、涙を流している。
「聖女様だ! 聖女様が戻ってこられた!」
「おい、誰か! 領主さまを呼んで来い!」
「鐘を! いや、鐘は壊れたままだ、大声で知らせろ! 使いを走らせろ」
「姿が変わられているが、間違いない。虹色に輝く蒼銀の瞳、聖女様だ!」
歓喜の輪が、波紋のように広がっていく。
街の反対側、厄災の発生源の遠くから優先していたのだろう、復興の槌音が止み。
代わりに次々と人々が集まってくる。感謝の言葉が、祈りのように降り注ぐ。
「……どういう事なのですか?」
レナータ様が、私を見上げて震える声で問う。
「私は、まだ何もしていないわ。要の聖女として、白亜の大聖堂の中で厄災の源を消滅させるための礎になる儀式だって、まだ……」
「いいえ」
私は首を振る。
「貴女は、成し遂げたのです。このムニティアの人々を守り、厄災を退け、未来を繋いだ。……あの日記に書かれていた通りに。方法は……白亜の大聖堂が望む形とは異なりましたが」
唖然と、いえ、愕然とした表情であたりを見回すレナータ様。
微笑ましい想いで彼女を見つめているところに、水を差す無粋な者達が。
「……その『方法』とやらが、我々を見殺しにすることだったのですか?」
不意に、刺々しい声が歓喜の輪を割った。
復興作業の手を止めて集まっていたムニティアの住民たちが、ざわめきと共に左右へ道を開ける。
現れたのは、煤けた外套を纏った数人の男女だった。
その身なりは、この街の住民たちよりも遥かに荒んでいる。着の身着のまま、命からがら逃げ延びてきた――厄災の源に近かった街からの避難民たちだろう。
「聖女様。……あんたが、救世の巡礼聖女様だと言うなら、これを」
先頭に立った男が、震える手で何かを差し出した。
それは、黒くこびりつく穢れに半ば覆われた、銀のロケットペンダントだった。
微弱だが、確実に毒となる魔素の波動を感じる。
ざっ、と、住民達がさらに遠のく。
「俺たちの街は、あんたが救ってくれなかったから滅びた。間に合わなかったから、死んだぁ!……これは、俺の娘の唯一の形見だ。だが、呪われているから捨てろと、皆が言う。忘れろ、置いて行け、と」
男は、血走った目でレナータ様を見据え、縋るように叫んだ。
「あんたならできるんだろう!? この穢れを祓って……娘の思い出を、一緒にいさせてくれよ! せめて、それくらいの慈悲はあってもいいだろう!?」
「ひっ……」
レナータ様が、小さく悲鳴を上げて後ずさる。彼女の視線が、黒ずんだロケットに釘付けになる。
出来る。今の彼女でも、その程度の小物、『奇跡・宝石化の魔法』を使えば容易く浄化できるはずだ。
だが――その代償は?
腕の中で彼女の身体が、小刻みに震えだす。その顔に浮かんでいるのは、純然たる『恐怖』。
残り僅かな、存在できる『時間』を、命を削る事になる……ただの、記録となった記憶。それでも、はっきりとわかってしまうだろう、15歳の自分が奇跡をほんのわずか行使しただけでどうなったか。とめどなくこぼれ落ちる青白い燐光、自らの時間、存在そのもの。
言葉には出さずとも、その瞳が雄弁に語っている。
彼女はまだ、自分が死に向かって逆行している事実を受け入れきれてはいない。
生きたい。小さくなっていきたくない。消えたくない。
その本能が、聖女としての責任感を、ためらわせる。成長した彼女が諦観と共に得た行動力を、本来であれば長い未来を歩めたはずの、その時そのままの記憶へと戻った彼女に求めるのはあまりに酷。
「あ、ぅ……わたし、は……」
助けを求めるように彷徨う視線。男が一歩、詰め寄る。
「たのむよ、なぁ!? 聖女様! こ、こいつらだってみんな、皆そうなんだぁ。旦那を、子供を……!」
期待と、怨嗟と、狂気が入り混じった目。
汚れた外套を纏った者達が手に手に様々な穢れのこびりついた品をもって、にじり寄ってくる。
それらがレナータ様に触れるより早く、私は動いた。
ヒュッ。
風切り音と共に、男の手からロケットを弾き飛ばす。
宙を舞ったそれは、地面に落ちる前に――音速を超えて放った斬撃の衝撃波によって、粉々に砕け散った。
パリン。
乾いた音が響き、黒い魔素が霧散する。
依り代の物理的な破壊による強制的な排除、魔素の霧散。それは浄化とは違う。またこの世界のどこかに流れ着いてしまう、一時しのぎ。それでも確かに今、この場から魔素は払い除けられる。人々への感染を防げる。
「あ……?」
男が、虚空を掴んだ手のまま固まる。
「穢れは祓いました。これで、貴方たちの健康が害されることはありません」
手首の球体関節を、あえて見せつけるように、袖を少し引き下げ。
私は冷徹に告げ、抜いた漆黒の刀を音もなく収める。
まるで、羽虫でも払ったかのような淡々とした所作で。
「お嬢様はお疲れです。これ以上の奇跡を行使されることは、このレティシアが看過しません」
「き……貴様っ! あれは、娘のぉっ!!」
「命あっての物種でしょう、下がりなさい。それに、穢れの染みついた物品を街中に放置する事は推奨しかねます。この街を、新たな厄災の種にでもしたいのですか?」
殺気を含んだ真紅の瞳を一瞥させるだけで、男は腰を抜かし。
すごすごと、各々の取り出していた物品を隠すように外套の中に収めた仲間たちに、引きずられるようにして去って行った。
背中越しに、避難民たちの憎悪の囁きが漏れる。
「なんだよ、あれ……」「冷たい」「何が聖女だ、魔女だ、魔女なんだ」「俺たちのことなんて、どうでもいいんだ……」「人形風情が」
彼らと私たち、双方に突き刺さる元からのムニティア住民達の視線。
レナータ様は顔面蒼白で、私の背中に隠れるようにして震えている。
明後日の方向へと逸らされた視線、縋るようにドレスをつかむ指先の血の気は引き。
けれど、その身体は私の身体に触れる事はない。
自らの保身のために民を見捨てた罪悪感と、私に汚れ役を押し付けた後悔と安堵。
その双方が、幼い心をかき乱しているのが分かる。
重苦しい沈黙が、場を支配した。
安堵を目の奥に隠しながら、気まずそうに逸らされ始める視線。
その、凍り付いた空気を切り裂いて。一人の少女が、人垣をかき分けて走ってきた。
手には、一つの包み紙。
「聖女さま!」
少女は、私たちの足元に駆け寄ると、その包みを差し出した。
「これ、食べて! お父ちゃんが、聖女様がお好きだったからって。出来立てだよ!」
甘い、匂い。
焦げた砂糖と、ミルクの香り。
包み紙の中には、焼きたてのクレープが入っていた。
具材は乏しい。果物もクリームも少ない。けれど、それは間違いなく、あの日記に記された私とレナの『思い出のクレープ』だった。そして、この荒れ果てた中でも、確かな補給が後方から送られているという証。『秩序』が人を生かしている証明。
「……受け取るわけには参りません」
レナータ様は、顔を背ける。
「復興中、なのでしょう? 私は……」
「お嬢様」
私は、彼女の耳元で囁く。
「お腹が、鳴っています」
くぅー。常人の耳には聞こえていないだろう。けれど、すぐそばに寄り添う魔導人形である私にははっきりと。
「っ!?」
ぽっと、彼女の顔が赤く染まる。育ち盛りの身体に今朝は何も食べていないのだ、当然だろう。
「民の感謝を、好意を、受け止めるのも聖女の務めではありませんか?」
「……うぅ」
彼女は悔しげに唸り、そして、恐る恐る私の陰から姿を現すと、少女の手からクレープを優しく受け取った。
「いじわるなお人形さん……!」
彼女は小さな口で、クレープの端をかじった。もふり。動きが止まる。
蒼銀の瞳が、見開かれる。
そこには、味覚への感動だけではない、何かもっと深い――魂が震えるような情動が浮かんでいた。
「……懐かしい?」
ポツリと、零れ落ちた言葉。
「知らないのに……知っている気がする」
「お嬢様?」
「変よ……食べたことなんてないはずなのに。どうして……こんな。胸が苦しいの」
彼女の目から、一筋の涙が伝い落ちる。本人は気づいていない。ただ、わけもわからず流れる涙を、クレープを持ったままの手で拭おうとして、鼻先にクリームをつけてしまう。
『あの子ったら、クリームを鼻の頭につけて』
日記の記述が、現実と重なる。ただ、その関係が逆なだけで。
場所も時間も、違う。立場も、逆。けれど、そこにある『魂』は同じ。
彼女が失った記憶。彼女が支払った時間。
取り立てられるまさに最中のその残滓が、味覚を通じて、彼女を揺さぶっている。
「ああ、聖女様が泣いておられる……」「我らの感謝が届いたのだ」「ありがたや、ありがたや……」
人々は、彼女の涙を見て、さらに深く頭を垂れる。
違う。
彼女は、貴方たちが思うような『慈悲深い聖女』として泣いているのではない。
自分が何者なのか、自分が何を失ったのか。その喪失感の巨大さに、記憶は無くとも魂が悲鳴を上げているのだ。
レナータ様は、食べかけのクレープを握りしめ、はふりともう一口。
けれど。
「……行きましょう」
震える声で命じた。
「ここには居たくありません。……みんなが私を見る目が、怖いです」
「はい」
それに、先ほどの避難民がまた来ないとも限らないか……。
クレープを届けてくれた少女に礼を伝え。
残念にも感じながら、私は翼を広げる。
「皆様、申し訳ありません。聖女様は、先を急がれます」
「おお、もう行かれるのか!」「引き留めてはならぬ。聖女様には、世界を救う使命がおありなのだ」「どうか、ご武運を!」
人々の祈りを背に、私は空へと舞い上がった。
模範的な、民。
『秩序』に支配された、従順なる子羊。
それは確かに美徳。人と人の争いなど、この安寧の中では起こりえない。困難にあっては手を取り合う。
怨みを抱えたよそ者であっても、懐に招き入れる。
窮するものあれば、手を差し伸べ合う。
街ごとに、与えられた分をわきまえ、平穏のために今を維持する。
まさに白亜の大聖堂が説く理想通り。
眼下で背の高い石造りの壁に囲われたムニティアの姿が小さくなっていく。
この先は渓谷。
彼女の衣服を整えたかったが……いずれにせよあの様子では無理だろう。贅沢品はまだ乏しい。思うような衣服は手に入るまい。
渓谷を抜けた先。脅威から隔絶されてきたこの先であれば。
それまでは我慢してもらおう。
瓦礫だらけの街。最前線を支えた、要衝。
けれど、そこには確かに煙が昇り、人々の営みがあった。
滅びなかった街。彼女が、その身を削って守り抜いた証。
上空の風は冷たい。
今のレナータ様は自力で防風の結界魔法を張る事もできない。
だから、速度は緩やかに。刃の翼の一部を衝角として先行させ、少しでも風の勢いを緩める。
彼女は私の胸に顔を押し付け、クレープをちびり、ちびりと、まだ大事そうに食べていた。
「……美味しかったわ」
食べ終わった包み紙を風に飛ばしながら、彼女が呟く。
共に旅したレナなら、ちょっとした魔法の火で燃やし尽くしていただろう。
「あんな厳しい場所で作ったものなのに。大聖堂の食事より、ずっと」
「それは良かったです」
「……ねえ」
彼女は、私の胸元をぎゅっと掴んだ。
「私、本当に……あの人たちを救ったの?」
「はい。むしろ、この大陸の全てを」
「覚えていないわ。……何も、覚えていないの」
彼女の声が、風に震える。
「みんなが私を見る目が熱っぽくて。まるで神様を見るみたいで。……私、そんな立派なものじゃないわ。ただ、言われるがままに祈って、お勉強して……自分の意思なんて、何一つなくて」
聖女という重圧に押しつぶされそうになりながら、それでも期待に応えようと必死だった頃。
世界を救うという実感はなく、ただ『役割』だけを背負わされていた孤独。
開花しない才能に絶望を深めていく始まり。
「お嬢様は」
私は、飛行速度をさらに少しだけ緩める。
「ご自身の意思で、選び取ったのです。外の世界へと飛び出し、救うことを。戦うことを。……そして、私という人形を供とすることを」
「……最後のは余計だと思います」
彼女は鼻を鳴らすが、その手は私の服を離さない。
「でも……そうね。もし、貴女が日記を語り聞かせてくれた記憶が本当なら」
彼女は顔を上げ、首元の金継ぎのような宝石の継ぎ目を見つめた。
「未来の私は、少しは……マシな聖女になっていたのかしら」
「マシ、などという言葉では足りません」
私は断言する。
「お嬢様は、気高く、慈悲深く、そして誰よりも美しい。民の憧れの『救世の巡礼聖女』であり……私の、自慢の主人でした。もっとも、私といる時の貴女自身は自分の事を、落ちこぼれ聖女にして偉大なる魔女だと言い張って、ききませんでしたが。」
彼女は目を丸くし、それから、ふいっと視線を逸らした。
耳まで赤くなっているのが、分かる。
「……お口が上手なお人形さんだわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
むぅと、唇を尖らせるレナータ様。私が彼女を口で遣り込める日が来るだなんて、あの頃は思いもしなかった。
いつも、いつもこうやって私をからかうのはレナで。
私はただただ、翻弄されるばかり。
「寒くないですか?」
「……平気です」
彼女はそう言って、私の胸元――魔核・心の核の発する温もりに縋るように、身を委ねた。
「暖かいのですね」
渓谷を抜ければ、山脈に囲まれた領域に厄災の相手を任せ、安寧に守られていた地域へと出る。
人が安らかに住む場所へと、秩序に護られた揺り籠の世界へと、ひとまずはレナータ様をお連れできる。
またすぐに旅立つのだとしても。




