第4話 『忘却の朝、二度目の初対面――歪む黄金の瞳』
満天の星空に月は上り、美しくも無味乾燥とした宝石の樹海を抜け、土の匂いがする枯れ木と岩場の荒野へと入った頃。この辺りは最前線の僅か手前、モンスター達の侵攻はあっても、土地まで穢れはしなかった辺り。宝石化させた地域との境界。
レナータ様の震えが限界に達していた。私は足を止める。
漆黒と深紅のゴシックドレスの裾が、夜露に濡れた下草を撫でる。
「……ここなら、追手もすぐには来ないでしょう」
焚き火の爆ぜる音が静寂を強調していた。パチ、という乾いた音と共に、赤い火の粉が夜空へ舞い上がる。
私たちは岩陰に身を寄せ、夜を明かそうとしていた。
「……寒い」
レナータ様が、膝を抱えて小さく呟く。
その身体は屋敷にいた時よりもさらに一回り小さく、あどけなくなっているように見えた。
大人びたノースリーブの深い碧色ワンピースドレスはサイズが合わず、肩から滑り落ちそうになっている。
「空をあんな速さで飛んだせいで……恥をかいたわ」
彼らを確実に引き離すにはあれしかなかった。だから、言い訳はしない。どの道、各地の転移陣で追いつかれるだろうが。
それに、彼女の悲鳴は大変に愛くるしかった。レナは、私と旅をするようになった頃の彼女は、もうそういう事に擦り切れていたから。
私は太腿に巻かれたガーターベルト――そこに装着された革製の拡張ポーチから、毛布を取り出した。
古代魔導人形として生み出された時からの亜空間収納は武装専用。日用品は、こうして現代の魔法技術を用いて持ち運ぶしかない。それでも、レナが旅もできるだけ快適に。味の無い食事は嫌。なんて、わがままを言うからそういうものはしっかりと収めてある。
「どうぞ、お使いください」
彼女の肩に毛布を掛ける。彼女はビクリと身を竦めたが、今回は振り払わなかった。
チラリと、私の顔を窺う蒼銀色の瞳。そこには、警戒心と共に、僅かながら温かな色がある。
彼女はまだ、今日の記憶という記録に、実感を持っているから。
昨日の朝、十五歳の自分が私に『朝食が不味い』と文句を言ったことも。そして今日、教会の騎士たちに襲われた際、私が圧倒的な武力で彼女を救い出したことも。
「……アンタ、強かったのね」
彼女がボソリと言った。
「当然です。私はレナータ様を守護し、世界の秩序を乱す全て。それこそ竜種すら片手間に退けたのですよ?」
もっとも、その力ももはや罅割れ(ひびわれ)だらけ。美しく気に入っているとはいえ、宝石化による応急処置のつぎはぎだらけですが……それを伝えて不安がらせる必要もないでしょう。
「ふん。自分で言う?」
彼女は鼻を鳴らすが、その声には微かに安堵が混じっていた。
「まあいいわ。助けてくれたことだけは、礼を言う。……ありがと」
そっぽを向いたままの、小さな感謝。それだけで、私の胸の奥の魔核・心の核が温かく心地よい熱を帯びる。
たとえ記憶が消滅し、自己認識が退行しても、彼女の根底にある気高さと――世界のために己を差し出すほどの優しさは変わらない。
「でも、勘違いしないでよね」
彼女は急にこちらを睨みつけた。
「私はまだ、アンタを信用したわけじゃないから。あの日記……『遺言書』だっけ? あれに、あんな気色の悪いことを書き足す人形なんて、やっぱりどうかしてるわ」
「……いえ、ですからあれはレナータ様が」
「なんで私が人形……それも、同性を伴侶にするのよ。意味わからないわ」
そういえば、彼女が極度の男性嫌いになったのは十六歳の頃、許嫁のせいと言っていたか……つまり今の、これからの彼女はそういう対象として私を。いや、わからない。極端になるきっかけはあっても、そもそもそういう気質があったからこそ。そう信じよう。
そうだ、そう教育すればいい。レナが私にイロイロと、教え込んだように。
私はまた何か、主人に絶対の忠誠を尽くす魔導人形らしからぬことを考えたような? そんなわけはないか。
「それに、十五歳の私に向けたページから後が白紙って、あり得ないでしょ。嘘はもっと上手につくものよ」
白紙? そんなバカな……!
けれど、問い返すよりも先に。
「目的地はどこって言ったかしら?」
「『廃棄された地』……深海図書館と呼ばれる場所へと通じる転移門があるとされる場所です。昔、レナ……ータ様はそこには希望があると」
「希望、ねぇ……」
彼女は焚き火を見つめ、自嘲気味に笑う。
「どうせ、またろくでもない何かなんでしょうけど。……ま、ここで野垂れ死ぬよりはマシか」
彼女は毛布にくるまると、コロンと横になった。
背中を向けられる。それは、背後を預けてもいいという、最低限の信頼の証。
「おやすみなさい、お嬢様」
「……ふん」
彼女の寝息が聞こえ始めるまで、私はその背中を見つめていた。
私のドレス――漆黒と深紅のゴシックドレスは、闇夜に溶け込んでいる。
戦闘時に展開した『漆黒の刃』は、すでに拡張空間へと収納済みだ。
今の私は、ただの無力な少女のように見えるだろう。
私の内側では、彼女から預かった『時間』が燃えている。
明日の朝、彼女が目覚めれば――きっとまた一つ、彼女は若返る。
そして、今日の記憶も、ただの脳内の記録となる。
この焚き火の暖かさも、私の強さも、交わした会話も。全ては一夜の想い。
(それでも、構いません)
私は、眠る彼女の白銀の髪に、触れない距離で指を伸ばした。
貴女が忘れても、私が覚えています。
貴女が私を愛した事実も、貴女が私を拒絶した痛みも。すべて、私が記録し続けますから。
胸の内側にしまった日記、遺言書を想う。白紙? いったいどういう。
読むべきか。
けれど、読み聞かせはお終いとレナが。気になる。気になるけれど……。
ドレスの胸元をギューッと抑える手指に力ばかりが籠った。
◇ ◇ ◇
その頃。浄化の炎に包まれ、破壊された別荘の跡地。
宝石化した森が月光を反射し、幻想的で静謐な墓地のように輝いていた。
「……逃げられましたわね」
冷たい呟きを零す一人の騎士が瓦礫を踏みしめ、佇んでいた。
秩序の聖印を刻んだ純白のドレスアーマーを身に纏い。視界を狭める兜を嫌い、魔導保護の施された彫金のヘッドドレスで、ストレートロングの金髪を飾っている。背丈は周囲の騎士と比べると肩口程しかない、小柄な冷たい美少女。
この世界の規範を維持し、平穏なる『人の世』を維持する事を絶対とする支配者。第一管理塔『法規』白亜の大聖堂。かつては華々しき表の『聖堂騎士団』の名を隠れ蓑としていた、暗部『秩序執行部隊』隊長オルドリア。
彼女は、破壊された白い騎士の残骸の前に跪き、その割断された兜をそっと拾い上げた。
「ご苦労様。……安らかに還りなさい」
中身のない人形に対する、短くも厳粛な弔い。
彼女にとって彼らは、ただの道具ではない。
同じ『秩序』という巨大なシステムの一部として摩耗し、散っていった同胞(歯車)だ。
ましてその秘された来歴を想えば……。
彼女は立ち上がり、周囲を見渡す。
月光に照らされた宝石の樹海。聖女レナータの奇跡によって生まれた、永遠に朽ちぬ、美しき死の世界。
「……綺麗ですわ」
その言葉に、偽りはない。また、厄災を前に失われる命の灯を、破滅の未来を、防いだ功績は偉大なものと認めている。
だが、次の瞬間、彼女の黄金の瞳には冷徹な、刃のように鋭い光が宿った。
「ですが、ここでは誰も生きられません」
彼女は、足元の宝石化した花を、迷いなく金属のグリーブで踏み砕いた。
パキン、と硬質な音が響く。
「変革。奇跡。愛。……聞こえはいい。けれど、そんな不確実なもので、今日食べるパンがない子供が救えますか? 今、目の前で病に苦しむ老人に安寧を差し上げられましょうか?」
否、と彼女は心の中で断じる。
この世界は既に限界。緩やかな滅びの坂道を転がり落ちている。
それを、変革を拒否したが故とする説もあった事を知っている。
創造神が遺した七の管理塔を人の道理で六へと減じた。それを糾弾する声もかつてはあったと聞く。
だが、だからこそ。『秩序』こそが必要なのだ。
自由を奪い、可能性を摘み取り、全てを管理してでも――今日、一人でも多くの民が安寧を得るために。
秩序と平穏の揺り籠にも限りがある。その揺り籠に一人でも多くを迎え入れるために。誰かが、泥を被らねばならない。
誰かが、嫌われ者の『首輪付きの番犬』となり、牙を剥く脅威を排除しなければならない。
誰かが、静かなる永遠の礎とならねばならなかった……なのに。
「聖女レナータ。貴女の我が侭な奇跡は世界を救ったかもしれません。ですが、世界を維持するのは……我々です。そしてそのためには、貴女の誓言を成しえた『聖核』が必要なのです」
白い少女騎士の周りで、意思無きゴーレム騎士達が無言で動く。
ダイヤモンドで覆われた地面を、白い輝きを付与した騎士剣で斬り裂く。
一体何をしているのか……。
やがて数体が、斑な結晶を多量に内包したダイヤモンド化した地中から、何かを引きずり出す。
白く、濁った塊。
――それは人の形をしていた。
「棄民の村の跡地、記録通りでしたね、全て掘り起こしなさい。まったく、ここまで変容されては地図と照合するのも難儀します。わざわざ私の魔眼をこんな事に使わされる事になろうとは」
厄災の源の地。そこに埋められた無数の死体。
つとめて淡々と地中を透かし見ては指示を繰り返す、凍れる美貌の少女。
彼女の脳裏に浮かぶのは、月を背に飛び去った黒と赤の姿。聖女の守護者たる魔導人形、レティシア。
自由を謳歌し、人の欲を際限なく増長させた挙句、滅びた古代魔導文明の遺物。
主のためだけに生き、主のためだけに剣を振るう、美しくも傲慢な獣。
首輪(義務)を持たず、ただ愛(我欲)のみで動くその姿は――あまりに眩しく、そして妬ましい。
「……貴女にはわかりませんでしょうね。世界を背負う重みも、首輪の痛みも。そして何より、秩序の外に捨てられる絶望も。ましてや、そこから拾われた者の苦しみも!」
ズキリ。
純白の装束の中、首元でただ一つ黒い色をもつチョーカーが、彼女の昂り始めた感情を咎めるように微かに熱を持った。
彼女はそれを、指先でなぞる。
冷徹な美貌にわずかな諦念をのぞかせながら。
「ですが、私はこの痛みを誇りましょう。……私が鎖に繋がれているからこそ、無辜の民は揺り籠の中で安眠できるのですから」
彼女は顔を上げる。使命に殉じる殉教者のような、静かで熱い覚悟。
――あぁ、しかし。
今一度、少女騎士は視線を移す。少し離れたところに残る、燃やし尽くされたばかりの屋敷の跡地。
的確に動力源である魔石を、あるいは駆動部を切断された騎士の姿をした操り人形(ゴーレム騎士)達の残骸を……無感情に見つめる。切断面は鋭利で、迷いがない。圧倒的な戦闘能力の証。
冷たく無感動にそれら痕跡を見つめていた彼女の静かな美貌に、やがて色が……艶が現れ始める。
「あはぁっ……」
不意に唇から漏れる、喘ぎ声ともとられかねない吐息。
「あぁ……あぁ、ぞくぞくする」
今先ほどまでの、冷徹で、落ち着いた氷の美貌から一転。
黄金の瞳は艶やかに濡れ、頬は確実に上気している。
氷のような美貌は未だ気品を保ちつつも、確かに淫靡に歪んでいた。
「誓言を叶えた神の寵愛受けし子、聖女レナータを世界の礎へと墜とす。ええ、えぇ、それもまた素晴らしい。けれど。何よりも! あぁ、まさに神が削り出した彫像のような美貌。従者たる魔導人形、あの漆黒の髪に彩られた淡々とした顔が歪むさまは……あ、んぅ……さぞや甘美なのでしょうね。ああ、なんて忌々しい! 自由なお人形だなんて――」
月を背に星空を飛び去るあの一瞬。確かに目が合った。
指揮官として、追跡者として、この黄金の魔眼で聖女をずっと追っていた。時に使い魔の瞳も使って、今も。
世界でただ一人に神が認めた奇跡は圧巻だった。全ての穢れを宝石の樹海へと還す埒外の奇跡。
それでも、その聖女よりも。
深紅の瞳の、美の裏側に殺戮を宿した、古代の技術の結晶。
失われた芸術、古代魔導人形の少女。存在は知っていた、聖女の守護者として。
無数の厄災の獣を前に一歩も引かず、その身を犠牲にしてでも聖女を守り抜いた圧倒的な強さも。
けれど、実際にこの眼で一目見て……惚れた。身体をゾクゾクとした快美な感覚が駆け巡る。
「消えゆく聖女に貴女はただただ、もったいない。どうやって墜としてあげようかしら……ねぇ」
ただ一人を主と仰ぐ、あの気高き創られた命を。
その時、昂り続ける感情に冷や水を浴びせるように、首筋に痛みが走る。
「ぐっ……」
苦鳴を漏らし、細い手を黒いチョーカーに添える。燃えるような熱を発し、肉の焦げる臭気を立ち昇らせる首元。
苦し気な呼吸を繰り返すこと数度。
数瞬前までの昂りを忽然と消し去り、今一度、掘り起こす場所を淡々と指示する。
再び冷徹な指揮官の顔へと戻った美貌の少女が呟く。
「まずは、ええ、そうね。あの方角……聖女レナータの現状……私は秩序と正義を世界に敷く。それが唯一、安寧の揺り籠により多くを招き入れる方策……白亜の大聖堂の理念こそ唯一の平穏」
濁りを見せる黄金に輝く視線の先は、レナータの所在を。レティシアの向かった先を正確に捉えていた。
◇ ◇ ◇
枯れ木をくべた火が爆ぜる。夜明けが訪れる。
結局一晩中、指は胸元をさまよい続け。日記を開く事は出来なかった。
空が白み始め、荒野の岩肌が灰色から琥珀色へと色を変えていく。
遠く、この魔導人形の瞳に映る虹色に輝く地平線。決戦の地であった『厄災』の源となった領域。
今は宝石の樹海が広がる、静止した、生命の存在を拒絶するただ美しいだけの場所。
あれほどの厄災の源を生み出したのは果たして何だったのか。封印されているはずの第七管理塔にそこまでの影響力が本当に? 疑問は尽きないが……レナータ様が、身じろぎをした。毛布から出た華奢な肩が、朝の冷気に震える。
私にとっての最優先は決して間違えない。
成熟した大人であった彼女のドレスはやはり大分、身の丈に合っていない。まずは何着か、今後の身の丈に合う服を調達するべきか。
私はすぐに膝をつき、声をかける準備をする。
もしかしたら『おはようございます』と言えば、彼女はまた憎まれ口を叩きながらも、私を受け入れてくれるのではないか。
そんな、魔導人形にあるまじき願いを想ってしまうのは、レナがくれた『時間』、心のせい。
「ん~……」
白く長い睫毛が震え、瞳が開く。
蒼銀色の瞳が朝の光を映してきらめく。
そして、焦点が私に合った。
「どなた……?」
その瞬間。空気が凍りついた。
彼女の瞳から、昨夜の芽生え始めた『信頼』が完全に消え失せていた。
代わりに浮かんでいるのは、警戒と混乱。
辺りを見回す彼女。白銀の髪も今はもう背中の中ほどまでもない。
不安げに揺れる蒼銀の瞳。
体に合わないドレスに気が付き、毛布に肩までくるまり、きつく身体を両腕で抱きしめる。
彷徨う視線が一通り状況を確認し、それでも、それゆえに、余計に混乱をきたした。
「お嬢様、レナータ様」
「ご、ごめんなさい、知らない。知らないのに、レティシアさん? を知ってる? それにどこ、ここ。お外……お空を飛んで。いや……なに……」
彷徨う視線。強い警戒の瞳は徐々に混乱と、精神の均衡を保つための敵意へと移っていく。
「落ち着いてお聞きください。私は貴女様の従者、守護する者。レティシアと申します」
できるだけ穏やかに。あんたは笑うのが下手ね、とレナには良くからかわれたけれど、それでも必死に微笑みを浮かべる。
「誘拐……ですか? でも、それにしては。それに私は白亜の大聖堂の中にいたはず。どうして、宝石の森の上? 空を飛んで?」
とりあえず私自身からの敵意はないことを確認したのか、わずかに探るような色が強くなる。
自分の中の記憶、おそらく十三歳頃だろうか。実感としての年齢相応の記憶と、この六日間の記録としての記憶の矛盾に困惑するレナータ様。
露に濡れた荒野の岩陰。冷たい風が、彼女のまた少し短くなった白銀の髪を揺らしている。
昨夜、私に背中を預けて眠った彼女はもういない。
今ここにいるのは私を知らず、まだ世界を知らず、不安と混乱に震える少女だ。
「いいえ、お嬢様。申し上げました通り、私はお嬢様の護衛であり、従者です」
私は膝をついたまま、恭しく頭を垂れる。
「私たちは今、旅の途中なのです。……少し、長い旅の」
「旅? 私が? 嘘を仰らないで。要の聖女となる私は、大聖堂から一歩も出る事は生涯無いと……」
彼女は言いかけて、ハッとしたように口を噤んだ。そして、恐る恐る自分の手を見る。
昨夜よりもさらに小さく、幼くなった手。
言葉遣いも少し硬く、温室育ちのお嬢様へと戻っている。
そして、自分が纏っている、サイズが合わずにずり落ちそうな豪奢なドレス。
「お洋服まで……いったい、どうなっているの」
「レナータ様だけに許された魔法――祝福の影響です」
私は淡々と、しかし優しく告げる。
「お嬢様は、ある使命のためにそのお身体の時間を使われました。その代償として、記憶と肉体が過去へと逆行しているのです」
「なぜ貴女が私の誓言の事を……それに、え? 意味が分からないわ」
彼女は拒絶するように首を振った。けれど、その瞳は揺れている。
自身の身体に起きている異常を、本能では理解しているのだろう。
「信じていただけなくても構いません。ただ、ここが危険な場所であることは事実です。……まずは、移動しましょう」
「待って、聖印はどこですか? 私の聖印がありません」
やはり昨日の宝石化の魔法の行使は大きかった。せっかく緩やかになっていた年齢の逆行が、一気に進んでしまった。
昔、レナが語っていたことを思い出す。
確かこの頃はまだ、魔導への関心は薄く、聖女としての修業に明け暮れていたはず。
外の世界も、第一管理塔、白亜の大聖堂を通じた知識に限られていた。
「レナータ様、問題が起きた際に聖印は落としてしまわれたのです」
「落とした? 聖印を!? あ、あり得ないわ」
再び噴出する不安。聖印を下げているはずの胸元をぎゅっと握りしめる。ぶかぶかになった胸元に皺が寄る。
強い帰属意識は、そのつながりを失った時、不安を増幅し恐怖へと転じる。
けれど。
今の私では慰めになれない。
ならば、強引に気分を変えてしまおう。
あそこなら。きっとレナータ様にもよくしてくれる。
朝食は、それからでも良いだろう。
私は立ち上がり手を差し伸べるも、彼女は気が付かない。聖印、せいいん……と、俯き、ぶつぶつと呟いている。
白銀の髪に覆われて目元は見えないが、ひどく憔悴した表情をしている事だろう。
「失礼します」
抱き上げるべく、背中と腰に、すっと腕を回そうとする。野営地の片づけは終わっている。
痕跡は……消すだけ無駄。ずっと、視線を感じている。おそらくあの黄金の瞳の女性騎士。遠隔視の魔眼かなにか。
レナが万全なら遮断の魔法もかけようがあるけれど、私にはそんな器用なことはできない。
私にできる事はただ、古代魔導文明が鍛えた刃でもって、殺戮するだけ。
「あっ……!」
彼女は抵抗するように、自力で立ち上がろうとして――よろめいた。
岩場の段差で、足から脱げそうになったヒールに足を取られたのだ。
私は流れるような動作で彼女を支え、そのまま抱き上げた。
「きゃっ!? な、なにをするの」
「お足元が悪いゆえ。それに、お嬢様のその靴は、今のおみ足には大きすぎます」
昨夜までは辛うじて履けていたヒールも、今の彼女にはぶかぶかだ。荒野を歩くなどとんでもない。
私は暴れる彼女を、壊れ物を扱うように慎重に、けれど絶対に逃がさない強さで抱きしめた。
胸の奥の魔核が、愛おしさで熱く脈打つ。
(ああ……軽くなられた)
昨日よりも、確かに軽い。まして、共に駆け抜けたレナと比べたら……。
その事実に胸が締め付けられると同時に、この温もりがまだここにあることに、感謝したくなる。
翼刃を展開。淡い魔素の光を灯す。
「綺麗……?」
漆黒の刃が無数に連なる翼、飛行のため大きく広げたそれを蒼銀色の瞳が、驚きとともに見つめていた。
目指すは荒野の遥か先に佇む影――『ムニティア城塞都市』。
――かつてそこは第一管理塔領域にとっての対『厄災』戦線の最重要拠点だった。
高くそびえる石積みの城壁。活気に満ちた市場。兵士たちの剣戟の音。
山脈の狭隘を背に、要衝の最終防衛拠点として建造された城塞都市。
けれど今は、崩れかけた城壁をかろうじて補修し、防壁と成しているだけ。
モンスターの大群といった形をとるような厄災相手にはもはや役には立たないが、自然の獣やはぐれの魔獣に対する防護くらいには十分だろう。
まして厄災の源を絶った今、問題はあるまい。
「……ここは、どこなのでしょう?」
私の腕に抱かれたまま、レナータ様は、城壁の内側に広がる修復の追いついていない、瓦礫の転がる大通りを呆然と見渡した。
「ムニティア城塞都市です。かつてお嬢様が守り、そして恒久的な脅威の原因を排除し、今度こそ救った街ですよ」
「私が? このような場所、知りません」
戸惑いを露わにする彼女。けれど、その視線は、街の中央広場にある噴水の跡に吸い寄せられていた。
枯れ果て、ひび割れた噴水。
かつてそこには、美しい女神像があった。今は半ばから砕け、足元だけが残っている。
私は、胸元からレナの日記を取り出した。
黒革の表紙を開き、ページをめくる。何度も読み聞かせをした範囲。私と共に歩んだ足跡。
そこには、今思えばきっとこの最後を予見していたとしか思えない、彼女が書き記した繊細で流麗な文字が並んでいる。
『ムニティアの噴水広場で、レティとクレープを食べた。あの子ったら、クリームを鼻の頭につけて、本気で慌てていたわ。可愛らしいこと』
日記の一節を読み上げると、レナータ様がぴくりと肩を震わせた。
「それは?」
「この日記には、未来のお嬢様が……私と旅をした記録が記されています。そしておそらくお嬢様の過去の事も記されている……はず」
私は日記を閉じることなく、続ける。
「あの日、お嬢様は言いました。『平和になったら、またここでクレープを食べましょうね』と」




