第2話 『砂上の蜜月、拒絶する少女――忘却は残酷な断絶』
朝食の席は、針のむしろだった。
メニューは彼女が好んだスコーンと木苺のジャム。そして、こだわりの茶葉で淹れた紅茶。
昨夜の彼女なら、『相変わらず私の事が大好きね、レティ。好みを完璧に把握されちゃって、困るわ』なんて、一緒にテーブルを囲みながら、からかい交じりに微笑みかけてくれただろう。
けれど、今の彼女はただ不満げにナイフとフォークを動かしている。
「ジャムが甘すぎるわ。もっと酸味のあるのが好きなのよ、私」
「申し訳ありません」
「紅茶も温度が低いわ。猫舌じゃないんだから、もっと熱くして」
「……直ちに」
私は給仕に徹する。
彼女の味覚もまた、若返っているのだ。
私が好みをようやく理解し始めた頃に彼女が好きだった味は、十五歳の彼女には合わない。
身長もそう、いつも見上げていた彼女を、今は私の方が少し見下ろすようになってしまった。普通よりも少し小柄なくらいに作られた私なのに。
些細なことだ。私の中の記憶を更新すればいい。『酸味と甘さの程よいバランスを好む、紅茶は熱め』脳内の記録に書き加えながら、私はふと、窓の外を見た。
そこには、宝石の森が広がっている。
エメラルドの葉、ルビーの実、ダイヤモンドの幹。陽光を浴びて七色に煌めく、美しき平穏の世界。
彼女がその命(時間)を捧げて作り上げた、この時代における恒久平和の象徴。
今やこの光景が、広大な周辺一帯に広がっているはず。変質因子を生み出していた広大な領域全てに。
変わる事で発展する全てを否定し、脅威足りうる全てを拒絶し。ただひたすらに秩序と平穏が支配する今の世界。
創世から世界を支える七柱の管理塔。その内、『混沌』と『変質』の概念を司り、『変革』を象徴する第七管理塔は放棄された。かつて創造神の使徒でもあったその主を深海図書館へと封じ、無かったことにした世界。
古代より稼働してきた、今やガタのきた私の記憶に残る、断片的な記録とその事実は確かに符合するが……。
「ねえ」
フォークを置いて、レナータ様が窓の外を指差した。
「あれ、なんなの?」
「……はい?」
「外よ。あんなキラキラした趣味の悪い森、いつの間にできたの? それに、ここは何処? 私、大聖堂の自室で寝ていたはずなのに」
カチャン、と、私が入れなおしてきた紅茶の注ぎ口がカップと当たる音がしてしまった。
思考回路が凍りつく。
そうだ。十五歳の彼女は、いずれ多少は使えるようになる汎用魔法にしても、まだ修練を始めたばかり。
聖女としての修練を積み、開花しない才能に焦っていた時期。
このたった五日間の、決戦の地からここへと至る日々の記録は記憶にあっても、三十五歳からの二十年間の全てが失われている。十八歳での私との出会いも含めて。ただ断片的な、読み聞かせでの日記の記録だけが、その空白をわずかに埋めるだけ。
彼女を囲っていた第一管理塔、白亜の大聖堂の教育で、世界が『変質』により生じる『厄災』という危機に瀕している事は教えられていても。自分が救世の巡礼聖女として世界を旅するようになることも、その代償が何であるかも――もはや、分からないのだ。
もう一度日記を読み聞かせれば、もしかしたら……いえ、それは愛する『レナ』の意思に反する。
『もう読み聞かせなくてよい』と、彼女がそう願ったのなら。それに、きっとどこまでいっても記録は記録にすぎない。
私は、用意していた欺瞞を紡ぐ。
「ここは、静養のための別荘です。外の森は……特殊な結界の影響で、そのように見えるだけです」
「静養? 私が?」
彼女は怪訝そうに自分の体を見下ろす。
この場所が彼女の別荘である事は本当。決戦の地へと赴くために用意した、厄災の発生原因に呑まれた土地の中に残されていた屋敷。そこに、生活用品を二人で持ち込んでいたのだ。
「体の調子は悪くないわよ。むしろ……ほら、きらきらと青白い光まで舞って、もしかして、聖女としての覚醒の兆しではないかしら?」
彼女は掌を開閉させる。
残酷なほどにはっきりと陽光の元でも見える、零れ落ちる青白い燐光。
たった五日……ここへと旅したその短期間で二十年を失った昨日までとは比較にならないほど緩やか。とはいえ、確かに今もなお零れ落ちていく彼女が歩んだ過去の時間。少しずつ積み重ねた記憶が、消えて行っているはず。
そして新たに紡いだ時間すら、眠りにつけば……夢のうちにただの記録へと堕ちて行ってしまう。
新たに想いを積み重ねる事すら許されない、代償と呼ぶにはあまりに残酷な、祝福という名の神の呪い。
神へと願う事を許された、選ばれし者の『誓言』がもたらした、宝石化の魔法という人ならざる奇跡をただ人の身で行使する代償。
「ほら、早く聖典を持ってきて。治癒……いえ、浄化の特訓をするわ! 今日は絶対にうまくいく気がするの」
白銀の髪を右手でさっと払い、自信に満ち溢れた笑み、強がりの笑顔を私に向けるレナータ。
けれど、ここは純粋な聖女としての道を断念した後の遥か未来の彼女が私と用意した拠点。
「申し訳ありません、聖典はご用意がございません。魔導書であれば……」
その言葉にピクリと整った片眉を吊り上げるレナータ。
射殺さんばかりの視線で私を睨み据えるが、ぐっとこらえ、目をつむりながら深いため息を零す。
引き結ばれる唇、一瞬の間と共に蒼銀色の瞳が姿を現し。
「そう。そうね……ええ、もう、諦めるべき……なのよね。いいわ、持ってきなさい」
血の気が失せるほど強く握りしめられた右手をそっと左手で隠した彼女に指示されるまま、いつも読んでいた魔導書をとりに向かう。
「そういえば聖印は? またどこかにやったかしら」
「申し訳ありません、身に着けていらっしゃらなかったため、お持ちし忘れてしまいました」
聖女としてのレナータが所属し、幼い彼女を引き取った、秩序と正義を司る法規の第一管理塔『白亜の大聖堂』。
その所属の証であり、信仰の徴とされる聖印。レナータはそんなものどこかに捨てたと言っていた。
世界の平穏の護り手、その象徴のはずなのだけれど……。
「あっそ、まあいいわ」
あっさりと彼女はそれを許した。
第七の管理塔を封じた人間達は、残る六の管理塔を正しき支配体制であるとした。
中でも第一管理塔の決定こそ全てに優先するとし、この世界を変革する乱数である混沌、変質因子をことごとく『穢れ』、『厄災の元』として排斥した。
魔物のみならず、異才、奇才、異能すらも含めたあらゆる『秩序』の外に在ると規定されたモノ全てを。
◇ ◇ ◇
午後の陽射しが宝石の森を透過して、七色の光を部屋に落とす中、レナータ様は私が渡した魔導書を手に、私室に閉じこもっていた。
昨日までは二人で泊まっていた、彼女の私室。二人で眠るために大きなベッドを据えた部屋。
木の温もりが香る扉を前に、離れがたい気持ちにあらがえず、私はただ扉の前で待つ。
この別邸にも自室はある……一度も使ったことがない、ただ形式的に家具を置いただけの部屋が。
扉の向こうから、ガサゴソと何かを探る音がする。
おそらく状況を把握しようと、部屋の中を漁っているのだろう。
魔力の高まりは大分前に収まっている。
十五歳。ちょうど『普通の』聖女の道を歩むことは諦め。聖女という肩書はそのままに、魔導に傾倒し始めた頃だったと、レナからは聞いている。渡したあの分厚く歴史を感じさせる魔導書がまさに、この頃から使っていた物である事も。
その魔法にしても、彼女は決して才に恵まれているとは言えなかった。聖職者としての、創造神の残した御力を行使し、治療や病の浄化を施す才の完全な欠落よりはましというだけ。彼女を聖女たらしめた、誓言にて神より授かった『奇跡・宝石化の魔法』が彼女の唯一にして絶対の、何者をも寄せ付けない才能だった。彼女自身をして己を魔女と自嘲させるほどに。
もしかしたら……あの日記(遺言書)を見つけたかもしれない。
あの日記には三十五歳の彼女が、若返り続ける……記憶と経験を失い続ける彼女自身に向けて書いた、真実が記されている。
『私は聖女として今の世界を救った』
『この魔導人形、レティシアは私の最愛の伴侶である』
中にはそれら事実も……。
五日間、どんどんと若返る彼女に毎日語って聞かせたから……二十歳までの彼女に向けて残された言葉は全て知っている。それ以前(以後)の記述は――彼女の指示を抜きにしても、怖くて読んでいない。そんな事よりも、レナと過ごす一瞬一瞬を大切にしたかった。
あれを読めば、ただの記録としてではない彼女自身の実感として、理解してくれるだろうか。
私への態度を改めてくれるだろうか。淡い期待が回路を巡る。
うっかり……そう、うっかり。あの日記を部屋の中に置いたままにした私は、主の魔導人形として壊れているのだろうか。いや、最後に命じられたのは『もう読み聞かせなくていい』。ただ、それだけ。ならばこれは許されるはず。
「――ふざっけるな! 嘘!! これは嘘よ、あり得ない!」
突然、部屋の中から叫び声が響いた。
何かが壁に叩きつけられる鈍い音。
「そうよ、記憶。記憶だって、あの人形がこの日記を読み聞かせていただけじゃない! 騙された、騙されているのよ!! この輝きが、私が消えていく証? ふ、ふざ……!!」
私は思わず、扉を壊れんばかりの勢いで押し開け、部屋の中に飛び込んだ。
「お嬢様!?」
部屋の中は、荒れていた。
本棚から本が、小物が、引き出され。床に散乱している。
そして、部屋の中央。
レナータ様が、肩で息をしながら立っていた。
目に隠しきれない涙の痕を湛えて。
足元には、あの黒革に銀鎖の日記帳が転がっている。
開かれたページが、無残に折れ曲がっていた。
それは、私に読み聞かせをねだった彼女が決して、私に読ませようとしなかった、私と出会う十七歳より前の記録を残しているはずの……。
「お嬢様、なにが……」
「見たわよ、これ!」
彼女は私を指差して叫んだ。その瞳には涙が溜まっている。
「なによこれ……『世界のために私を捧げた。レティが生きる世界を残すため』? 『誓言で得た私だけの魔法。未来では足りない。だから私の過去と、存在の全てを』? ふざけないでよ! 挙句に何!? 『これ以上奇跡を使えば、終わりを早めるだけ』?」
彼女は、自分の体を抱きしめるようにして、ガタガタと震えだした。
「私は……私は、まだ十五歳なのよ! 恋だってしたことない、美味しいものだってたくさん食べたい、行きたいところだってある、ちゃんとした聖女として皆に認められたい……。その為にはこの、たった一つの私の力だって使わなきゃいけない、なのに」
彼女の叫びは、悲痛な魂の吐露だった。
「なんで私が! 死ななきゃいけないの!? なんで世界なんてもののために、私が犠牲にならなきゃいけないのよ!」
私が出会った頃の、十八を過ぎた彼女は、すでに悟りきっていた。
『聖女』としての責務を受け入れ、誇り高く散ることを選んだ。
けれど、私のため――そんなことは一言も。読み聞かせた日記にだって、責務、仕方がない、そんな事しか。
いずれであっても、十五歳の彼女は違う。
彼女はまだ、自分の人生がこれから始まると信じている。
無限の可能性を信じている、ただの少女なのだ。
そんな彼女に、『お前は今、死にゆく途中だ』と突きつける日記は、呪いの書でしかない。
「……愛してる、ですって?」
彼女は、侮蔑の篭った目で私を見た。
「こんなボロボロで亀裂だらけの人形相手に? ありえない、気持ち悪い。……こんなの、私の字を真似た誰かの捏造よ。アンタ。そうよ、やっぱりアンタが書いたのよね!? 私を洗脳するために。記憶だって、古代の魔導技術か何かを使って」
「ち、違います……! それは、本当にレナが……」
「黙って!! それに、レナなんて馴れ馴れしく呼ばないで!」
彼女は、近くにあった花瓶を掴み、私に投げつけた。ガシャーン! 花瓶が私の左肩に当たり、砕け散る。
水が黒と赤のドレスを濡らし、花が虚しく床に落ちた。
私は動かなかった。避けることもできたけれど、避けてはいけない気がした。
それに、見えてしまった。彼女の手の震え、眦を決し睨みつけるその瞳が縋りつくように私を見ていたのを。
食い違う記憶と記録。
存在の消滅へと進む自身の状態を否が応でも証明する、五日間にわたる急速な若返りの記憶。
その中で私と愛を交わした、やはり実感を伴わない記憶。
「……出て行って」
彼女が、力なくその場に座り込む。
「私の前から消えて。……アンタの顔を見てると、寒気がするの」
拒絶の言葉。
けれど、その声は頼りなげに震えていた。怒りではない、純然たる恐怖。
自分が今まさに『死』に向かっている、否、既に確定された死の中、『死んで』いる。その事への恐怖。
彼女は、孤独なのだ。記憶のない場所で、見知らぬ人形だけが傍にいて、死の宣告を受けている。
なにかを呟いている彼女。
魔導人形たる私の耳でも聞き取れない、言葉にならない言葉。
レナのお陰で、私には心が、魂が芽生えた。それでも、細かすぎる機微まではわからない。
――わからなかった。
「そうよ、そうだわ、嘘。嘘なのよ……あは、簡単な事じゃない、すぐにわかるわ!」
唐突だった。
ぺたん座りで悲嘆に暮れ、俯いたまま言葉にならない言葉を漏らしていた彼女が突然、サクランボ色の唇に狂笑を浮かべ、蒼銀色の瞳を見開き。
「だめ!!!」
遅かった。遅すぎた。理性ある人間の行動を信じすぎた。
彼女なら、きっとすぐに立ち上がってくれると思っていた。
まだ未成熟な人間の心理というものを私は理解できていなかった。
私にとって唯一の人間は、レナータ……レナ、私を庇護し導く、魂の先達であったから。
虹色の魔力が迸る。
『奇跡・宝石化の魔法』
神の代行者たる聖女の神聖な力ではない。
人の叡智が世界を読み解いた、魔法の力でもない。
神が与えた恩寵。レナータにのみ備わった『特別』な、唯一無二の魔法。
現状の世界の平穏を乱す変質因子、『厄災』の源までをも宝石へと変ずる力。
転じて、彼女自身が『平穏』を乱すと定義した全てを宝石へと転換し、封じる力。
その代償は彼女の時間、存在。
壊れた花瓶が、床に零れ落ちた水が、散乱する未来(過去)の彼女の私物が。
在るべき平穏から逸脱したものであると、彼女によって定義される。
虹色の魔力に包まれ、キラキラ、きらきら。
色とりどりの宝石へと姿を変じる。
美しく儚い、レナータだけの魔法……。
「いやぁ、い、いやぁぁぁ。うそ、うそうそうそ、うそよ、ありえない。なんで、ありえな……!」
青白い燐光が、すさまじい勢いで彼女から噴出する。
この程度の奇跡の行使であれば、ほんの数秒『未来の時間』を消費するだけ。
目に見える変化など起きようはずもなかった。彼女の今の認識では。
そして、事実。最終決戦で世界を救う前までの彼女であれば、さしたる負担もみせず、鼻歌交じりで終えていただろう。
しかし……世界を根底から覆しうる厄災の源全てを宝石へと変じ、浄化した今。
未来の時間はすでに全て捧げ尽くされている。
それでは足りず、過去の時間までをも清算している、定められた死の中を逆行しているのが今の彼女。
そんな状態で、さらなる奇跡を行使すればどうなるか。
支払うべき対価はすでになく。せめてもの徴収と、彼女の残り僅かな、逆行する時間の流れが早められるのは必然。
せっかく少しだけ緩やかになっていた彼女の時の逆行、存在の漏出が……加速した。
「いやぁぁぁあぁ!」
悲鳴を上げる彼女を中心に、青白い燐光が舞い散る。
それはいっそ幻想的なまでに美しい光景だった。
気絶させてでも止めるべきだった。そんな後悔すら押し流すほどの、儚く綺麗な情景。
煌く宝石へと変わったかつての想い出の品々に見守られ、またわずかに、彼女の姿が小さくなる。
その時だった。
夕暮れに沈む屋敷の外、宝石の森。
私の探知能力の限界、そのギリギリに――微かな空気の振動を感知した。
敵性反応。多数。
白亜の大聖堂からの『お迎え』が、近づいていた。




