第1話 『昨日の恋人、今日の他人――宝石継ぎの朝』
私達が身を休めるこの地は、浄化され、死に絶えることで完成していた。
窓の外に広がるのは、虹色の樹海。
かつて鬱蒼と茂っていた魔の森は、レナータ様の魔法によって葉の一枚、露の一滴に至るまで、硬質な宝石へと変貌している。エメラルドの枝葉が風に揺れることはない。サファイアの川面が波打つことはない。魔素を寄せ付けないダイヤモンドの大地は、いかなる命をも育むことはない。
永遠の静止。呼吸を忘れた美しさ。差し込む陽光が無数のファセットに乱反射し、万華鏡の中にいるような目眩を誘う。
「……レティ。紅茶が渋いわ」
不満げな声に、私は思考の海から浮上する。
天蓋付きのベッド。絹のシーツに身を沈めた主人が、気怠げにカップを差し出していた。
「申し訳ありません、レナ。抽出時間を2.5秒、誤りました」
「嘘おっしゃい。考え事をしていただけでしょう」
彼女はくすりと笑う。
二十歳。
全盛期の美貌。
長い睫毛が落とす影さえ、計算され尽くした芸術品のように優美。
けれど、その身体はボロボロだった。
薄いネグリジェから覗く肌には、『奇跡・宝石化の魔法』の大規模行使による代償が露わになっている。
砂のように零れ落ちる彼女の『時間』。
青白い燐光を放ちながらさらさらと、儚く消えていく彼女という『存在』。
「……貴女の身体のこと、考えていたの?」
違うとわかっているのに、こういうことを言う。いじわるな主人。
レナータ様が体を起こし、私の左胸――心臓にあたる部分に、そっと手を触れる。
私の身体は、先日の決戦でもはや半壊していた。
群がる厄災の魔物たち。世界の変質因子に毒され生まれた、厄災の勢力との争い。
世界を維持する六の管理塔は、封印した第七管理塔の仕業であると喧伝する。
魔物、魑魅魍魎、悪鬼羅刹、果ては土地までもが牙をむく。世界を悪しき方向へ『変質』させる、総称して『厄災』あるいは『厄災の魔物たち』。
押し寄せる奴らを食い止め、レナータ様が奇跡を行使される時間を稼いだ最終決戦。
「私が、並み以上に魔法が使えていれば……聖女なんて言う肩書に相応しい奇跡を授かっていれば……」
「レナはとびっきりの奇跡を宿しています」
即座の私の否定に、苦笑を浮かべ口をつぐむレナータ様。
嫋やかな指がそっと私の胸元を這いまわる。優しく、優しく、撫でさするように。
人工皮膚が裂け、剥き出しになった胸郭の奥。
そこには、本来の魔導炉である魔核とは異なる、青白い燐光を放つ宝石――『魔核・心の核』が脈打っている。
「痛む?」
「いいえ。魔導人形に痛覚はありません」
「嘘おっしゃい。貴女、私が痛い時は、自分の回路を魔力暴走させるくらい共感するくせに」
「それは心の核の痛みであって、身体は……」
彼女の指先が、私の胸の傷の内側へともぐりこむ。
元々彼女の宝石化で補修されていた虹色の傷痕をなぞる。
その熱に、私の動力源がチリチリと微弱な、抗いがたい魔力の波を体中へ送り出す。
私を巡る魔力は、本来の魔導人形の動力が生み出すそれとは異なる。
古代魔導王国時代の残滓、遺跡の奥底で機能停止の淵にあった私。彼女が自身の寿命を削って分け与えてくれた『時間』そのもの。聖女レナータ唯一の大魔法の結晶である宝石こそ、私の現在の動力、『魔核・心の核』だ。
――ただの殺戮人形だった私に、『心』なんていう残酷な物を芽生えさせた元凶。
私の主人であり。
新たなこの生の親であり。
伴侶……でもあるはずの彼女が触れると、私の命は歓喜の声を上げる。
「……修理しましょうか、レティシア」
「いけません。レナは安静に。今後一切、奇跡の行使は容認しかねます」
「いいえ、するわ。貴女が汚れていると、私の目覚めが悪いの。それにもう手遅れよ」
彼女はわがままに言い放つと、指先から虹色の魔力を紡いだ。『奇跡・宝石化の魔法』。
「ぁ……っ」
私の裂けた人工皮膚の断面に、彼女の魔力が食い込む。
チリチリ、硝子が軋むような硬質な音と、ミシリ、ミシリ、組織が侵食される微細な音が混ざり合う。
傷口から発生した美しい七色の宝石。結晶が、私の内部機構の隙間へ、根を張るように侵食していく。
正しい修復ではない。私の構成物質を、彼女という『異物』で強制的に置換していく、甘美な凌辱。
冷たいはずの身体が、宝石が埋め込まれた箇所から、マグマのような熱を持って、魔導液の循環とは異なる脈動を始める。
傷を隠すのではない。傷跡を宝石に変えて飾るのだ。
欠けた器をつなぐ、金継ぎのように。
さながら『宝石継ぎ』。
私の身体は全身が彼女の宝石継ぎで、内部機構までつぎはぎされている。
「うん、美しいわ、私のレティ。それはそうと、もう私の『時』は尽きているはずなのに、どこから代償を引っ張ってきているんだか……神様も案外優しいのかもしれないわね?」
そう言いながらも、彼女の時間逆行と崩壊の証である、燐光が舞う速度は明らかに上がっていた。
許される限界を超えた奇跡の行使の代償は、終わりまでの時間のさらなる加速……。
けれど、その事に触れては彼女の私への想いを否定する事になる。
「そのような事あるはずがありません。優しさなどというものを神が欠片でも有するなら、なぜ……!」
それが彼女の愛し方。独占欲の形。
そもそも古代魔導人形を正しく修復できる人間も、技術も、この世にはもう存在しないだろう。
「綺麗よ、レティ。今の貴女は私の最高傑作。生まれは違っても……ね」
彼女は満足げに微笑み、そしてふいと視線を逸らす。
ベッドサイドには、あの日私が受け取った黒革の『日記』が開かれていた。
「今はまだ、貴女に聞かせてもらう事で『気持ち』を追いつかせられる。ただの記録としてではなく、熱を持った想いとして。でもね……今日は。ううん、もう今日からは、読み聞かせはいいわ。」
「な、なぜ!?」
「だって、聞いている間に眠る時間になってしまうわ。今でももう15年分もの未来を読み聞かせて貰わないといけないのよ? それにね……」
彼女の手がペンを執る。微かに震えている。
今この瞬間も、青白い燐光を宿す粒子と共に、彼女の身体の輪郭そのものまでも縮んでいく。急速な逆行は留めようもなく進行している。
徐々にその速度は落ちるが、それでも……何もなくて、もってあと10日といったところか。
昨日は使えたはずの飛行魔法の術式が、今朝はもう思い出せなかった。
たとえどれだけ、魔法使いとしても凡庸でしかなかったとしても。聖女としての才能が一切無かった彼女が、研鑽と努力の果てにたどり着いた魔法の知識までもが、砂時計の砂のようにサラサラと抜け落ちていく恐怖。
唯一最後まで残るのは、彼女を聖女たらしめる、誓言により神が与えたたった一つの、奇跡を体現する魔法。
彼女の時間を奪い去り、存在すらも消し去ろうとしている、過酷な代償と引き換えに行使できる『奇跡・宝石化の魔法』ただ一つ。彼女が自分を『魔女』と称する由縁。
「レナ……レナータ様」
日記を、彼女の全てを記した黒い本を、手繰り寄せる。
そうして私は、紅茶のワゴンからインク瓶を取り出し、跪く。
私はせがむ。
彼女が歩んだ、今の彼女にとっての未来をも記した、この日記に。今日まで、ただ読み進めるだけだった、過去を記した日記に……。
震える手を取り、その手の甲に、口づけを落とすように顔を寄せた。
「書いてください。貴女が忘れたくないことを。記録でも、記憶でもない、明日の貴女に残したい気持ちを、実感を」
「……忘れたくないこと」
「はい。世界の未来も、厄災も、どうでもいいのです。貴女が今日、何を愛し……私に、どんな想いを向けてくれたか――たった一つの大切なことを」
彼女はハッとして、私を見た。
その瞳が揺らぐ。恐怖と、そして深い慈愛の色に。
「聡すぎるのも困りものね」
そんな言葉を吐息と共に零し。
彼女はペンを走らせた。日記帳にではない。
私に口づけられた、自分の『左手の甲』に。
「もう記してあるわ。だから……ね」
さらさらと、インクが染みる。はらはらと解けていく彼女の存在、身体……時間の粒子に紛れて。
くすぐったいような、痛いような沈黙。
『レティを泣かせないこと。愛してると言いなさい』
記録としての記憶しか持ち越せなくなった彼女が、明日のレナに命じる形ばかりの……。
書き終えた彼女は、悪戯っぽく、けれどどこか泣きそうな顔で笑った。
「明日の私……生意気な小娘はこれを見て、反省するといいわ」
「ええ。きっと、顔を真っ赤にして怒り出しますよ」
「ふふ。……ねえ、レティ」
「はい」
「抱いて。私が、大人の女でいられるうちに――貴女を覚えていられるこの最後の夜に」
宝石の森に、夜が来る。
「こんな事も、理解できるようになってしまって……えぇ、私が教えた。貴女は本当に、未来のレティなのね。もう、ポンコツなんて、呼べないかしら」
私たちは互いの体温を貪るように求め合った。
レナータの意識が途切れるまで。
私の胸の奥で燃える温かな青白い光と、彼女の体から零れる砂時計の砂のような青白い燐光が、暗闇の中で混ざり合っていた。
◇ ◇ ◇
穏やかな朝の到来を言祝ぐ小鳥のさえずり。
腰下まであった白銀の美しい髪は、背中の半ば程までしかない。
私と出会ってからは、腰下で毛先を整える以外では意地のように切ることを拒んでいた髪が。
切断する事も困難な私の黒髪と、お揃いの長さにまで伸びていた髪が。
「……んぅ」
小さな呻き声。
シーツの盛り上がりが、昨日よりもさらにひとまわり小さい。
夜中にはすでに分かっていた。愛し合い、彼女が気絶する寸前。
虚ろに彷徨う視線はすでに私を半ば認識できていなかった。
全てを賭した、厄災の源を祓った奇跡の行使。
それ以前の時間、記憶、存在は若返りと共に消失していく。
それより後の出来事は記憶としては残る。けれど、その実感は眠りのたびに失われる。ただの脳内の記録へと堕ちる。
それが、未来の時間をすべて使い尽くした彼女が支払う、奇跡の代償。
赤子より前へ、存在の消滅まで至るわずかな猶予の間に支払う、大きすぎる代償。
私の思考回路に、冷たい魔力の澱みが起こる。
見つめ続けた……一晩中。
片時も逃さず、愛おしい主の。レナの身体が、存在が、時を戻り矮小になっていく姿を。
幻想的な青白い燐光へと散っていくのを。
それがどれだけ私の心の核に負荷をかけるとしても、見つめるのをやめる事は出来なかった。
「……レナータ様」
覚悟を決める。
恐る恐る、シーツをめくり、優しく声をかける。
ベッドから降りて姿勢を正し、挨拶をするべきだっただろう。
分かっている。
けれど。
私の中に息づく、魔導人形にあるまじき、魂と心を生み出す『魔核・心の核』が、軋みと共に私の身体の動きを拒んだのだ。
添い寝したままの腕の中。そこにいたのは、十五歳前後の少女だった。
大人の妖艶さは消え、蕾のようなあどけなさと、思春期特有の尖った空気を纏った美少女。
まだ骨格の細い肢体に、蕾のような未成熟さを残した少女。
白銀の髪は寝乱れ、薄いネグリジェからはあどけなくも健康的な鎖骨が覗いている。
彼女は不機嫌そうに瞼を開け、蒼銀色の瞳で私を見た。
そこに、昨夜までの親愛はない。あるのは、見知らぬ他者を見るような、警戒心。
そして、得体の知れないものが己に触れている事に対する、あからさまな拒絶反応。
それはそうだろう……私と彼女の出会いは十七年前。彼女が十八歳の時。
私と彼女が魂を交わし、地獄のような戦場を駆け抜け、互いを唯一無二の伴侶と定めるきっかけとなった出会いの遺跡は……。
だから、そう。
今のこの彼女からは既に。
「……貴女、誰? いえ、何この気持ち悪い記憶は……なんで私のベッドにいるの? いえ、まだ、いるの?」
瞳孔が開いている。心拍数も上昇。これは警戒の反応。
ああ。やはり。
私と過ごした過去の日々は、ただの読み聞かせられた断片。
世界を救った記憶、私に『愛している』と囁いた昨夜の熱は――脳裏に残る他人の記録。
胸の奥がギシリと音を立てて軋む。
昨夜修復してもらった、宝石化した皮膚の奥が引き攣れる。
けれど、私は魔導人形。人工の表情筋を総動員して、完璧な『従者』の仮面を貼り付ける。
『恋人』あるいは、『伴侶』の仮面をそっと大切にしまう。
「ねぇ、聞いてるんだけど?」
たとえ、窓の外の森で――この静寂に包まれた宝石の樹海に存在するはずのない、金眼の黒い鳥の影が見えたとしても、今の私には些末な事。
ああ、あの煩わしいさえずりの犯人もこれか。忌々しい。生命などまだ存在するはずのないこの決戦跡の地にまで……。
思考を集中する。
今優先すべきは、敵の排除ではない。目の前の主人の不安を取り除くこと。
「おはようございます、お嬢様。私はレティシア。貴女様の従者であり、専属メイドです」
「メイド? 私にメイドなんて……教会の仕業? いえ、私が遺跡で拾った? 何それ知らない。――にしても、趣味が悪いわ。なんでこんな、廃棄品みたいなつぎはぎだらけの人形を」
読み聞かせた日記はあくまで、日記。表面的な事実を、レナの気持ちで綴っただけの記録。
その記憶しか持たない彼女に全てを悟れという方が無理な話。
けれど。
どれだけ魔導人形としての演算能力が理解を促しても。
彼女の言葉は、容赦ないナイフとなって私を刺す。
いつも『私の宝石で彩られた貴女の肌、綺麗。大好きよ』そう言って、愛おし気に体中に残る修復の跡。宝石化の魔法による七色の傷痕に口づけてくれた唇が。
今は、私を『趣味が悪い廃棄品』と吐き捨てる。
ああ、やはりいつものドレスで体を隠し、目覚めを待つべきだった。せめて彼女が好むであろう、美しく漆黒と深紅で着飾った私で。こんな添い寝をしたままの裸身ではなく――球体関節も、宝石継ぎされた傷痕も、隠した私の姿で。
彼女は怪訝そうに眉をひそめ、あくびを噛み殺そうとして――自分の左手に気づいた。
手の甲に書かれた、黒いインクの文字。
零れ落ちる時間の粒子と共に、辛うじて読み取れるかどうかという程に薄れた文字。
『レティを泣かせないこと。愛してると言いなさい』
昨日の彼女が、今日の彼女に遺した、決して届かないとわかっていた儚いメッセージ。
彼女はそれを凝視し、そして。
「は? これ……私が書いた、のね。気色わるっ」
躊躇なく、サイドテーブルのクリスタルの水差しを乱暴にひっつかむと、手を突っ込んだ。
この頃の彼女なら……そうするだろう。
バシャバシャと、乱暴に洗う。
冷たい水が愛の残滓を、零れ落ちる粒子と共に洗い流してしまう。
「あ……」
止める間もなかった。昨日の彼女の想いが。私への最後のラブレターが。
ただの『汚れ』として、水の中へ霧散していく。
「……愛してるなんて、寒気がするわ。この私が愛だなんて、冗談よしてよ」
彼女は濡れた手をシーツで無造作に拭うと、私を睨みつけた。
「ふん、まあいいわ。ねえ、レティシア――で、あっているのよね。朝ごはんはまだ? 私、お腹ペコペコなんだけど。聖女を待たせるなんて」
私のことを愛すべき半身ではなく、便利な道具としてしか見ていない、その瞳。
15歳の彼女は、傲慢で、無知で、残酷なほどに生命力に溢れていた。
挫折を知る直前の彼女。
蒼白い燐光、彼女の『時』の漏出は大分緩やかになっている。
これならもしかしたら、あと20日程度は……いえ、レナの事。自分の、聖女レナータの性格をわかっている上での10日という目算はきっと正しい。決戦から今日までですでに5日。
私の胸の奥で、青い燐光がチリチリと痛む。私は、誰にも見えない角度で、一度だけ深く瞼を閉じた。
切り替える。
私は何者でもない、ただの魔導人形。
最期の時まで、かつて『私のレナ』であった聖女レナータに尽くす。ただそれだけの存在。
「……かしこまりました。直ちにご用意いたします、私のお嬢様(レナータ様)」




