第17話 『断罪の解放者、歌う剣舞――首輪を断ち切るキスの味』
扉の向こうに広がっていたのは、静寂に満ちたホールだった。
深海図書館『第一禁忌書庫』。
あの二人の言う深部とは、これもまた違うのだろう。
それでも、ドーム状の高い天井には、アドラの夢の残滓と思しき無数の小さな結晶が星座を成す星のように瞬いている。まさに、リネアが持っていたそれにうりふたつ。丁寧に磨き上げられた、煌めく宝石。壁には繊細な彫刻が施された木製の飾り棚に収められた年代も様々な遺物。羊皮紙の束、魔力を帯びた書物、用途不明の装飾品。
中央にはいつの時代の物か、祭壇が鎮座している。
本来ならば、ここは知識の探究者が何かを追い求めて辿り着くのであろう場所。
だが今、そこは処刑場のような冷たい空気に満ちていた。
台座の前。
一人の騎士が、背を向けて立っていた。
純白のドレスアーマーに黄金の髪。そして、その腰に佩いた純白の騎士剣。
彼女の周りに配下のゴーレム騎士は一体もいない。
たった一人。
だが、その存在感は、百の軍勢をもたやすく凌駕していた。
「……遅かったですわね」
彼女――オルドリアが、ゆっくりと振り返る。
その顔には以前のような嗜虐的な笑みも、冷徹な無表情もなかった。あるのはただ深く、昏い覚悟。
黄金の瞳が、私と、私の左腕に抱えられたレナータ様を射抜く。
「ようこそ。ここが、貴女方の終着点ですわ」
彼女の声は静かだった。
だが、その内側で燃え盛る激情の炎を感じる。
私はレナータ様を抱き直し、一歩前へ出る。
「オルドリア……。なぜ、ここに」
彼女が、リネアとアドラの魔法によって変質した騎士達の水流に飲み込まれ、忽然と消えたのはわかっている。
このダンジョンの中にいるのだろうとも、もちろん確信をもっていた。けれど、なぜ、ここにいるのか。
大人しく私たちを、ただ待っていたのか。
「ここは海底図書館浅層、『第一禁忌書庫』。そして私は、今……そうですわね、さながらボス部屋の主、でしょうか?」
彼女は自嘲気味に笑った。
「あの怪物たちは、私に役割を与えたのよ。『ここを訪れる者に試練を与える番人』という、惨めな役割をね」
彼女の手が、首元の黒いチョーカーに触れる。
「この空間から出ることは許されない。貴女方を倒すまで、私はここから一歩も外へは行けない。……どうです? 笑えるでしょう? 白亜の大聖堂、第一管理塔の鎖に縛られた操り人形が。今度は、第七管理塔、封印姫にまで鎖で縛り付けられている。二重の操り人形。忌々しい程に滑稽じゃありません?」
自嘲気味に吐き捨てる、凍れる美貌の少女。しかし、彼女の瞳に宿る光は、決して諦めの色だけではなかった。
「ですが。ええ、これはこれで、好都合ですわね」
彼女は、ゆっくりと剣を抜いた。鞘鳴りの澄んだ金属音が、ヒールに響き渡る。
「邪魔者はいません。第一管理塔直々の監視も、干渉も、ここでは随分と弱まっているようです。……ようやく、貴女と私だけで戦えます。存分に、貴女にぶつけられます、私の痛みを、嘆きを」
彼女は切っ先を私に向ける。
「レティシア。私は、貴女が憎い」
その言葉には、殺意以上の、ドロリとした感情が込められていた。
「道具の分際で意志を持ち、愛を語らい、絆に従い主を守り抜く貴女が……どうしようもなく目障り。お腹の底が疼いて仕方がない。貴女が這いつくばる姿を想うと、歓喜に震えそうになる」
彼女の全身から、魔力が噴き上がる。
「うらやましい……」
小さな呟き。聞こえないと思っていたのかもしれないが、私の聴覚は拾ってしまった、吐息のような囁き。
純白の『秩序』の輝きに加え、焦げ付くような黄金の輝きが全身から漏れだす。
彼女自身の魂の色――。
「証明してさしあげますわ! 道具として完成された私が、不完全なガラクタである貴女に劣るはずがないと!」
「……来ますよ、お嬢様」
私は、レナータ様に囁く。彼女は、不思議そうにオルドリアを見ている。
「きれぃ~。おねえちゃん?」
恐怖はない。三歳の彼女には目の前の騎士が、かつて自分を連れ去ろうと、あるいは殺そうとした相手だという理解すらない。ただ、とても綺麗な人がいるだけだ。
その無垢な瞳を守るために、私は戦おう。
「……お相手しましょう、オルドリア」
右手に漆黒の刀を構える。左手はレナータ様を抱いているため、使えない。
不利は承知。だが、負けるわけにはいかない。背には無数の漆黒の刃の群れ。
「貴女が縛られていると言うなら、それが憎いと言うなら、その鎖……私が断ち切って差し上げます。今の私は……ええ、きっと、とても――」
とても、なんだろう。
幸せ? 満たされている?
違う気がする。レナの遺してくれた言葉の意味を、私は取り違えていると、魔導人形としての演算は伝えてくる。
でも、もう。縋るしかない。
こんなにも軽い腕の中の感触。
下手に動けば、その慣性で壊してしまいそうに、儚い姿になられてしまっては。
「煩いっ!」
開戦の合図は、オルドリアの絶叫だった。
ダンッ! 彼女が床を蹴る。速い。以前戦った時よりも数段速い。
そもそもあの時は『秩序』の支配領域における耐久戦のような物だった。
想えば、きちんと剣戟を交わすのはこれが初めてか。
瞬きする間に、間合いを詰められる。
「はぁぁぁッ!」
振り下ろされる白銀の刃。
私はそれを、紙一重で受け流す。
ギャリリリッ!
火花が散る。重い。彼女の剣には、迷いがない。全てを捨て、ただ私を破壊することだけに特化した、純粋な殺意の塊。
返す刃で切りあげられる白刃を再度受け流す。合間に差し込むように、翼刃の射出。
騎士剣で払うまでもなく、純白の障壁に拒絶される。
「どうしました、防戦一方ですか!?」
彼女は追撃の手を緩めない。
横薙ぎ、突き、斬り上げ。
迷いなき足さばきと共に、怒涛の連撃が私を襲う。
私は片手で必死に捌くが、衝撃で足元が揺らぐ。
左腕のレナータ様を守るため、どうしても動きが制限される。
「くっ……!」
「聖女様がお邪魔なのでしょう!? ならば、捨ててしまいなさいな! 道具なら、効率を優先しなさい!」
オルドリアが叫ぶ。
「捨てません! 彼女こそが、私の全てです!」
私は、彼女の突きを刀で巻き取り、カウンターの左突き蹴りを放つ。
ドンッ! 彼女の腹部に命中するが、彼女は微動だにしない。魔力で強化されたドレスアーマーが、衝撃を吸収している。
間髪入れず、翼刃の連続射出。
いつかの夜の繰り返しのように、白き結界を次々割り砕くが、本人には傷一つ届かない。
どころか、漆黒の刃に僅かな欠けが生じる。秩序の外にありと、断罪し、廃絶する結界の強度が増している。
古代魔導技術で鍛え上げられた刃を疲弊させるほどに。
「甘いですわ。……愛などという不確定要素を抱え続けるから。私は全てを賭けてここにいます」
純白の結界はよく見れば黄金の輝きを内包している。彼女自身の魂が生み出す、輝き。
彼女は冷たく笑い、剣を構え直す。
彼女の胸元の聖印が、眩い純白の輝きを宿す。黄金のきらめきと混ざり合う。
「――私こそが秩序に選ばれた、その体現!」
支配領域外にあってなお、『秩序』と『正義』を押し付ける威圧が、空間を圧する。
重圧に耐える私へと、迫る剣戟。
よくよく観察していれば、その狙いはひたすらに私を向いている。
腕の中のレナータ様、明確な弱点を狙うでもなく。ただ、ただ、私と斬り結ぶ。
「ぁ……ぁぁあ」
左腕に抱いたレナータ様が泣き出しそうになっている。
いけない……。
くるり、くるり、軸足を踏みかえ、回る、回る。
幼いレナータ様と踊り舞うように、ゴシックドレスの裾を翻し、飛び出す刃で無数の斬撃を宙に放ち。
純白の輝きを宿す騎士剣を打ち合う、逸らす。
「あは、あははぁ」
徐々に狂気的なまでの艶を帯び始めるオルドリアの表情。
凍てつく美貌に朱が差し、興奮に揺れる瞳が、私の焦りを見つめて蕩ける。
「――♪」
ふと、私の口から旋律が零れた。それは、腕の中のレナータ様へ向けた即興の子守唄。昔、まだ大人だった頃のレナが、眠れない夜にふざけて私に歌ってくれた優しい鼻歌。柔らかなハミングを指揮棒にして、私は剣戟の即興曲を奏で始める。
翻る純白の剣閃。漆黒の刀で撫でるように受け流す。
シィィィン……。空気を震わす硬質なのに柔らかな金属音。
ステップを踏む。右、左、ターン。私の足さばきが石床を叩くタッ、タッ、タンというリズムは、軽快な小太鼓。追従するオルドリアの重厚な踏み込みは、腹に響く大太鼓。
彼女が展開した『秩序』の領域――不可視の断絶結界が、私の進路を塞ぐガラス板となって立ちはだかる。
私は止まらない。
背中の翼刃を再び全周から射出。黒い刃の群れが、白く輝く結界に突き立ち、多重に食い破る。
パリーン! パキィィィ!!
盛大に砕け散る純白の魔力片。秩序による排斥を破砕する音は、高らかに鳴り響くシンバルか、あるいはきらびやかな金管楽器のファンファーレ。
「あーぅ! きらきら!」
レナータ様が、舞い散る結界の破片を見て笑う。ええ、そうです。これは貴女のための演奏会。怖がる必要などありません。
「――♪ ――♪」
決して歌を途切れさせてはいけない。私はさらに回転を速める。遠心力で広がるゴシックドレスの裾。その影から、秘された漆黒の刃が何本も飛び出し、不規則な軌道でオルドリアを襲う。
ヒュン、ヒュン、シュッ。
空気を切り裂く風切り音は、繊細な弦楽器の調べのように。
「ん……んぅ」
激しい応酬に、熱い吐息を漏らすオルドリア。
一方の私はただ冷静に、極度の集中に色を捨てた視界の中、赤い瞳が捉える相手の動きを、色を失った視界の中に映える演算による赤い線を、しっかりと捉え続ける。歌と、即興曲を途絶えさせること無く。
白い騎士剣が振るわれ、迫る刃を叩き落とす。その剣戟の交歓が、曲のテンポを加速させる。
もっと速く。もっと鋭く。
互いに致命の一撃を叩きこもうと、隙をさらける瞬間を待ち、連撃をぶつけ合う。
視界が赤と白と黒で埋め尽くされていく。
越えられない互いの剣技への焦りが、脳内で甘美な興奮へと変わり、歌声に熱を帯びさせる。
いつしか私の唇から漏れるのは子守歌から、かつてを想う郷愁の調べへと変じていた。
刃が交錯し、結界が砕け、火花が散る。
全ての破壊音が、今は心地よい伴奏となって、楽曲に彩りを添えていた。
さあ、クライマックスに向かいましょうか。
目の前で、蕩けるような笑みを浮かべるオルドリアの吐息が熱く、激しく乱れる。
「もっと、もっとですわ。自由なあなたを縛るその鎖を、あぁ、いつ手放してくださいますの。もっと、もっと、もっと私を見て、私に貫かれるその時まで、さぁさぁ、さぁ!」
狂おしい程に熱の籠った声を艶やかに吐き出す純白の少女騎士。
私は歌うように微笑み、腕の中の温もりを決して離すまいと、強く抱きしめながら。
死の舞踏へと踏み込んだ。
「んぅ……ぐっ!」
唐突に、オルドリアの表情が静まる。まるで冷水を浴びせられたように、冷静に戻る。
首に走る歪み、あるいは皺。
黒いチョーカーが絞め付けられている?
「かはっ……!」
苦し気な呼気を漏らし……。
剣戟の交歓が終焉を迎える。歌が止まる。
喜びはしゃいでいたレナータ様が異常を前におろおろと戸惑う。
「さすがに、興奮しすぎ……ましたわね。忌々しい……枷」
聖印がこれまでの比ではない強烈な輝きを放ち。オルドリアの魔力が膨れ上がる。尋常ではない圧力。
まるで命そのものを燃やすような、無茶な魔力の高まり。
それはまるで、初めの襲撃の時、白い騎士が自爆を仕掛けようとした時のような。
「目標捕捉。誓言の担い手を……抹殺」
冷たい呟きが零れ落ちる。
爛々と輝く黄金の瞳が見据えるのは、腕の中のレナータ様!?
彼女の姿が霞んだ。一瞬前までと動きの質があまりに違う。
直線的で、遊びの無い突貫。
横!?
私の視界でとらえきれない、瞬間的な加速。
純白に輝く騎士剣の一閃はもはや、一筋の閃光。
防げない。
咄嗟に、身体を捻ってレナータ様を庇う。
ザンッ!
鋭い衝撃が走る。痛みはない、痛みを感じる機能はない。
喪失。
私の右肩から右胸――刃が切り裂き、抜けた。
『秩序』による廃絶が、傷口周辺までも崩壊させる。
拡がる亀裂。
透明の魔導液が吹き上がる。内部機構が飛沫と共に飛び散る。
決して離さない、左腕の大切な重み。
反して、失われる右腕にバランスがわずかに崩れる。
焦点のあっていない黄金の瞳を見開いたオルドリアは、その隙を見逃さない。
彼女は剣を振りかぶり、私の護るべきたった一つの大切。レナータ様へと――。
蒼銀の瞳が恐怖に見開かれている。
「……レナ!」
私は、決断した。
私の全てをこの時に。
燃える、燃える、心の核が。
レナにもらった時間が。
「超過駆動――全制限、破棄」
私の魔核が、爆発的な熱を発する。
視界が深紅に染まる。
これは、自滅へのカウントダウン。
だが、構わない。
この一瞬に、私の全てを懸ける。
守るという実感に、『ワガママ』に、思考が煮え滾る。
「ああああぁあぁあっぁぁ!」
全ての翼刃を内側へと向け、全周から射出。
迫りくる純白に輝く刃の軌跡に向かって、自ら飛び込んだ。
静止する世界の中、のろのろと、私が進む。
迫りくる刃。
黄金の髪の輝きを靡かせるオルドリアの、凍てついたような無表情。その瞳には何も、私の姿すら、映ってすらいない。
強烈な白い輝きを、首元の黒いチョーカーが放っている。
レナータ様へと正確に迫る剣尖。
まっすぐに突き出される刃は私がどの方向へ避けようと、柔軟な斬撃へと姿を変えるだろう。
だから。
ふっ。
茫洋と虚無を見つめる黄金の瞳に、深紅の瞳の輝きがいやがおうにも映り込む。
思いがけず。とこれを言うのだろう、私の口元に微かな微笑みが浮かんだ。
ズブリ。
レナがかつて、出会いの時に継いでくれた胸の大穴。七色の宝石が彩る胸の中央。
秩序の騎士剣が、潜り込む。
刺し貫く。
黒と赤のドレスの胸元が、塵と化す。
内側から、青白い鼓動を激しく放つ、魔核・心の核の輝きが、一際激しく瞬く。
正面からの、自殺行為としか言いようがない、胸中央への直撃、貫通。
鈍く、重い衝撃が走った。
焼けるような熱さと、氷のような冷たさが同時に私を貫く。
「かひゅっ……ッ!」
透明の魔導液が、喉の奥から噴き上がる。
オルドリアの騎士剣は、私の胸――魔核を深々と貫き、背中へと突き抜けていた。
もっとも固い、胸郭の内側を通って。
あ……しまった。
そこには、レナの遺言書(日記)も格納していた拡張収納が。
唯一の誤算。
でも、最後は燃やしてって……言っていたものね。
けれど、無事だと……いいな、まだ、二冊目は読んでない――から。そんな暢気な思考が思わずよぎる。
致命傷には違いないが、古代魔導人形である私は魔核を喪失したとしても、即死だけは免れる。
ボロボロとは言え、現代では考えられない遺失技術と、加工不能な希少素材の塊ともいえる私の中枢部。
全力でもって、刺さったままの刀身を内側から締め付け、固定する。
自らの傷口を万力として、敵の武器を封じる。
感情を失ったように、冷たく、いつになく虚ろだった金髪美少女の顔が崩れる。
見開かれる瞳。
「わ、私は……なに……な、正気ですか!?」
感情が、また戻っているらしいオルドリアが叫ぶ。首元の輝きが明滅し、弱まっている。
彼女は剣を引き抜こうとするが、私の身体がそれを許さない。
固く私の胸郭内に閉ざされた騎士剣はびくともしない。
時代すら異なる魔導人形技術の集大成を前に、『秩序』の白い輝きすら、私を白い塵に返すことはできない。
「離し、ません……!」
レナータ様の脅威を確実に、排除する。
私は、血(魔導液)を吐き出しながら、さらに一歩、前へ踏み出す。
ズズッ、ズズズ……。
刃がさらに深く、私の体内を抉り進む。
鍔が胸に当たるほどの、至近距離。
私の顔が、白い少女騎士の目の前にある。互いの吐息がかかる距離。
彼女の黄金の瞳と、私の深紅の瞳が今度こそ、互いを映し出している。
血の気の薄い唇が、私の唇のすぐ手前にある。
ああ、これがレナだったら。吸い付いて、甘い吐息を交わし合うのに。
刹那逸れそうになる思考を、左腕の大切な重みで揺り戻す。
彼女は。
おそらく操られたのだろう、この一瞬前まで。
戦闘に昂る思考の中で、たったの一度も、自らの意志ではレナータ様を狙おうとはしなかった。
私に、絆を手放すことは求めても。自らの手では決して。
彼女の白く細い首元で異彩を放つ黒いチョーカーを、いよいよ輝きを失い始めたそれを、意識する。
操り人形と自らを蔑む、白い騎士。
ミアを救った、ミアを助けるために停戦を選んだ、黄金の瞳の少女。
こうしてみれば、私よりもやはり、背も低い。
周囲で私達を囲む漆黒の刃の群れへと意識を飛ばす。
「貴女を縛るその鎖……私が、断ち斬る!」
「な、なにを!」
オルドリアが騎士剣を手放し、純白の輝きの障壁を展開しようとする。
欠ける無数の漆黒の刃。私に残された、数少ない古代からの武器。
魂を燃やすような魔力の輝きに後押しされ、翼刃の群れがついに砕かれ始める。
互いに削り合う、純白の障壁と、漆黒の刃の群れ。
漆黒の刃の損耗が大きい。
所詮は、ポンコツ。往年の力などほとんど失った、残りかすの殺戮人形。
けれど。
ああ、けれど。
ここはあの封印姫、第七管理塔の主の領域。
『秩序』こそ全てと謳う、第一管理塔、白亜の大聖堂の支配領域ではない。
無数の翼を形成していた私の漆黒の刃に貫かれ、白い輝きもまた、薄れてゆく。
白い少女騎士の胸元を飾る聖印に、ピシリ、ピシリッ。細かな罅が生まれ始める。
あともう少し。けれど、漆黒の刃の残りもわずか。
砕ける障壁の煌きにまぎれ、私の肩口から、漆黒の刃が鎌首をもたげる。
一本だけ、隠し残しておいた背中の翼刃。
ふふ、レナ。一回だけ、一回だけごめんなさい。
こんなにも私を寂しくさせた、貴女が悪いのよ?
期待だけさせて、あんな一言だけを記して。
そう、期待だけさせて……。
過密した剣戟の応酬の間、ずっと気になっていた、少しだけ見下ろす角度で引き結ばれる、唇。
そっと、半歩の距離を埋めて。
ちゅっ。
湿り気を帯びた感触。
キス。しちゃった。
それはもう、ただ衝動的だった。
なんだか、全部馬鹿らしくなって。
いえ、これは隙を作るため、そう。私欲じゃない。
あまりに予想外の私の異常な行動に、冷徹な表情が罅割れ、黄金の瞳が驚愕に見開かれる。
「あの夜の、仕返しです。私の心を弄んだ、貴女への」
そう、そうです。知らなくてよい事をレナータ様に吹き込んで、彼女に『大嫌い』などと言わせて。
私の思考を止めたこの白い少女騎士への、きっとものすごく歪んだ、壊れかけの操り人形への、ささやかな復讐。
一瞬の意識の空白、確かな隙。
サソリの尾のように跳ね上がった最後の漆黒の刃。
レナからもらった時間を、魂を燃やし、私の全盛期にも迫る古代魔導の神髄、そのきらめきを全開に宿し。
私の首の後ろから突き出される。
私の首ごと、貫く。
狙いは心臓ではない。喉笛でもない。
白い騎士を戒めている、漆黒のチョーカー。ただ一点。
秩序の加護薄いこの場所ならば。変革をこそ是とするこの場所であればこそ、その戒めの本質にも届く。
「あ……」
オルドリアの声が漏れる。
ハラリ――。
彼女の首から、黒い戒めが消えた。
白い騎士が、真に純白の装いのみに包まれる。
茫然と惚ける、オルドリア。
私の胸に突き立った騎士剣は手放したまま、ペタリ。石の床にへたり込む。
ずいぶんと可愛らしい、ええ、年相応なのだろう。きょとんとした表情。
その首元にはもう、忌々しい黒い輪はない。
彼女を『操り人形』たらしめていた枷が、この『混沌』と『変質』の支配領域の中で。
取り除かれた。
私は、その場に膝をついた。
胸に刺さった騎士剣は、そのままだ。
抜く力もない。そもそも、抜けば残りの魔導液が一気に流出し、即座に停止するだろう。
支えを失った身体が前へ倒れそうになるのを、重心の制御と、喉から引き抜いた、たった一本だけ残った翼刃で支える。
腕の中のレナータ様を、押しつぶさないように。
視界が急速に暗くなっていく。
音が遠くなる。
寒さを感じないはずの身体が、酷く冷たい。
「……あぅ?」
腕の中で、レナータ様が動いた。そっと左胸の力を強める。
刺さったままの剣に当たらないように気を付けながら。
彼女は私の顔を、不思議そうに見上げている。
私の口から流れる透明の液体。胸に突き刺さった騎士剣。
普通なら泣き叫ぶような光景だろう。だが、彼女は泣かなかった。
状況が理解できないのだ。
ただ、大きな音の連続と、眩い輝きの連続に、茫然としている。
大好きな『れてぃ』が動かなくなってしまったことへの、漠然とした不安だけが、その蒼銀の瞳を揺らしている。
彼女の小さな手が、私の頬に伸びる。
届かない。
左胸を、ぺち、ぺち。
「……れ、ちぃ?」
その声に、私は最後の力を振り絞って、口角を上げた。
笑わなくては。
最期に彼女が見る私が、苦痛に歪んだ顔であってはいけない。私は、彼女の『幸せな夢』の一部でありたいのだから。
「……はい。レティですよ」
声が出ているか分からない。喉の風穴から、声も漏れて行っている気がする。
左腕に抱えたままの彼女を、一生懸命その先端にある左手を伸ばして、震える頭を撫でる。
サラサラとした白銀の髪の感触。
柔らかい頬の温もり。
甘い、ミルクのような幼い匂い。
「貴女だけの……レティですよ」
その全てを、私の記憶の最深部に焼き付ける。
ああ、よかった。
守り切れた。
傷一つ負わせず、彼女をここまで連れてこられた。
私の『誇り』は、護られた。
「……オルドリア、頼めませんか? いえ……『任せても……いえ、任せますわ』。でしたか?」
私は、目の前で呆然と、女の子座りでへたれている彼女に呼びかける。
あの日、巨狼を、ミアの……を、任せて勝手にいなくなった彼女への、これも意趣返し。
ああ。
私の体の感覚が消えていく。
元々、長く稼働しすぎたのだ。限界なんて、とっくの昔に。
意識が闇に溶けていく。
レナと出会った遺跡、消える寸前の私の意識を、無理やり引きずり上げた彼女の、白銀に彩られた愛おしい姿。
「あぁー! ぁぁあー!」
レナータ様が、私の異変に気付いて声を荒げる。
彼女の手が、胸元を探る。ポーチからなにか、キラリと光るものがその手に。桜色のキャンディー、いえ、宝石。
アドラが残した、『夢の結晶』。
「……良い夢を、お嬢様」
さようなら。
レナ、ごめんなさい。最期の約束は守れなかった。
そもそも、私に貴女を殺せって……ふざけていますよね?
私は、貴女の最期を、看取るなんて無理。ましてや、そんな残酷な命令、よく私にできましたよね?
愛しています。
――ブツン。
世界から、光が消えた。
眩い『虹色の輝き』が、私の見た最後の色だった。
とても、とても綺麗で、でも、決して見てはいけなかったはずの彩り。
でも、どうしてだめだったのか……。
私の時間は、ここで。
私、泣かなかったよ? レナータ様は私を、泣かせなかったよ? レナ――。
終わった。




