第16話 『時を超える恋文、届かない恋文――言葉を失うその前に』
碧い水の回廊を抜けると、眼下には巨大な空間が広がっていた。
ざあぁぁぁ……。回廊との間を滝のように壁面伝いに流れ落ちる水。
緩やかな傾斜のつけられた斜面の手前はマジパンらしき森と動物たち。奥へ行くほどメルヘンチックな雰囲気は息をひそめ、芸術的な彫刻に彩られた、蒼と黒の荘厳な建造物へと変わっていく。
私たちが辿り着いたのは、どこからか揺らめく光が差す、煌びやかな図書館だった。
幾重にも、上下にまで連なる書架。立体迷路のようにも見える、多層構造。
それでいて、開放感のある整然としたつくり。
重苦しい色合いながらに、不思議と落ち着く拡がり。
『開架書架』と彼らが呼んでいたのがここなのだろうか。
アドラの夢による変質とのちょうど境目。
「……広いですね」
私は、腕の中のレナータ様を抱き直す。
彼女は私の胸元に収まったまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
先ほどの遊び(戦闘)で体力も使い果たしたのだろう。その寝顔は、昨日よりもさらに幼く、頼りない。
三歳ともなれば、自分の足で歩くことすら覚束ない、完全な庇護対象。
寝て起きてを繰り返すこの時期ともなれば……記憶の連続性ももはや期待できないだろう。
私はかすかな重みをしっかりと抱きしめ、揺らめく輝きの中を進む。
魔法によるものか、書架に収まった書籍に古びた様子は見られない。ただ、その書かれた言語は私ですら見たことが無い物まで多く存在する。さらには、私が生まれた時代、古代魔導王国時代の文字も散見される。
まさに、世界の知の保管庫。あるいは、忘れ去られた知の墓場。
静謐な書架に足を踏み入れると、背後で流れ落ちているはずの水の音も消え失せた。
静寂が、耳に痛いほど重い。
頭上高くまで並ぶ書架を見上げ、圧倒されていると、この神秘的な灯りの中。点々と、異質な輝きを放つものがあることに気が付いた。
「これは……?」
足元を見る。冷たいグラデーションを描く青と黒の石畳の隙間から、一輪の花が咲いていた。
生花ではない。
エメラルドの葉に、サファイアの花弁を持つ、精巧な宝石の青薔薇。
『宝石花』。
レナータ様の奇跡の痕跡?
「レナ……貴女が……ここを訪れた時に残したのですか?」
私は息を呑む。彼女の過去(未来)の記憶。
救世の巡礼聖女としてであれば、ここへと立ち入る許可もおりていたのかもしれない。
そもそもこの場所の事を知っていた、ということはそうなのだろう。
そして、何らかの理由で、ここに宝石化の魔法の痕跡を残していった。
ポゥ、ボゥ、淡く輝く宝石花は一輪だけではない。
視線を上げれば、書架の海の奥へと続くように、点々と、道標のように咲いている。
その幽かな光に導かれるように歩き出した。
昔の私なら、罠かもしれないと警戒もしただろう。
だが、今の私には分かる。いや、分かったことにしている。
腕の中のあまりにも軽い感触。
時間がない、はやく、早く。レナ、手遅れになる前に早く私に見せて。
この輝きは、私を呼んでいる。そうに違いない。
迷子になった子供が、家に帰るために落としたパン屑を拾う、どこかで読んだ寓話のように。
過去の彼女が、未来の私と幼い彼女を導くために残した灯火。
「んぅ……?」
焦りによる振動でか、レナータ様が目を覚ました。
「れてぃ……こぉ、ど~こ?」
まどろんだ声。言葉の端々が甘ったるく溶けている。
「図書館ですよ。……お嬢様の、大切な場所かもしれません」
「としょかん……?」
彼女は、私の肩越しに宝石花を見つけた。
「あ! キラキラ! きれいな、おぁな!」
彼女は身を乗り出す。
三歳児の認知能力。自分が作った花の可能性には思い至りようもない。
「降りたいですか?」
「うん! おぁな、みる!」
私は彼女を床に下ろす。ヨチヨチとした足取りで、宝石花に駆け寄ると、ペタンと座り込み、指でツンツンとつつく。
「つめたぁー。……でも、きれぃ」
キャッキャと笑う彼女の姿は、この陰鬱な書架にはあまりに不釣り合いで、だからこそ神々しい。
また、ゆるゆるになってしまったお洋服。ここでお着替えをしておこう。
そっと、夢中できらきらの花びらをつついている彼女にお着替えを促す。
チェック柄の、少し大人びたお洋服。ワンピースドレスに、柔らかいソックス。
今も私の髪を飾る色違いのお揃いリボンは……少し悩んで、髪をそっと梳く。
いつも、私に任せていた、ハーフアップへの結い上げ。
肩口までしかない今の髪をそっと、ねじりは弱く、優しく半分だけ持ち上げて。
大きな薄青色のリボンを飾って。
まるでお人形さんのよう。私みたいな人造の、継ぎはぎだらけになった殺戮人形とは違う。
愛されるためだけに生まれた、柔らかく、温かなお人形。
「あぃあとぉ!」
可愛らしいお礼の言葉と共に彼女は、次の花を見つけると、またヨチヨチと歩き出す。
「あっち!」
私はその後ろを、付かず離れずの距離でついていく。まるで、初めてのお使いを見守る親のように。
しばしば上空へと導く道標に、レナータ様を抱き上げ、延々と続く書架の間を飛翔することしばし。
宝石花の示す行き先は、ある一つの部屋の前で途切れていた。
扉はない。アーチ状の入り口があるだけの、道中いくつも見かけた小さな閲覧室の一つ。
その中央に、古びた書見台が置かれている。台座には幾輪もの青薔薇の宝石花。
「……あれは」
一冊の、黒い本。
黒革の表紙。銀の鎖。
私に託された『遺言書(日記)』と、全く同じ装丁の本が、そこに鎮座していた。
まるでずっと、そこで私たちが来るのを待っていたかのように。
「くろ、ほん!」
レナータ様が、書見台に手を伸ばす。
まったく背が届かない。彼女は爪先立ちをして、一生懸命に本を取ろうとする。
「とどかなー。れてぃ、とってー」
彼女は私を振り返り、ねだる。静かに歩み寄り、彼女を抱き上げて。
「どうぞ」
私の心の核が早鐘を打つように、ドクドクと、高鳴る。
何が、何を残したの、レナ。
レナータ様は、小さな手で、重たい本を開く。
鎖がチャリ、と音を立てた。
適当に開かれた、前半のページ。
そこには、びっしりと文字が――書かれていなかった。
白紙。
「んぅ~?」
ぱらぱら、めくられるページ……白紙。
どのページをめくっても、白い紙が続くだけ。
レナ……レナータ? さすがに、怒りますよ? ねぇ、ねえ、ここに来れば全部うまくいくのではなかったの!?
「なーんだ。えほん、ちがう~」
レナータ様は、興味を失ったように唇を尖らせる。
「まっしろ。つまんないの」
彼女は本を閉じようとする。 だが、私は止めた。
「待ってください、お嬢様」
本の後半。手渡されたレナの日記では白紙であったそこ。
ぱらりと開くと……今度こそ、美麗な文字がびっしりと書かれていた。
さっと目を通す。
それは、あの日記には書かれていなかった彼女の生い立ち。私と出会うより昔の、十七歳以前の、より詳細な。そして、欠けていた彼女の過去。
読みたい。全てを知りたい。
けれど、今はその時ではない。
裏表紙をめくる。
白いページ。
けれどその中央に。
たった一言。
美麗な文字で記されていた。
それは、見慣れた、愛おしい筆跡。
かつて私に日記を託した、大人の彼女の文字。
たった一行。
真ん中に、ぽつりと書かれた言葉。
『レティを泣かせないこと。“愛してる”と言いなさい』
愛してる。その言葉を強調するように、装飾を加えて書き記した、たった一行の言葉。
「ッ……!」
息が止まる。
それは、手元の日記の最後にも、書かれていた言葉。
過去(未来)の彼女が、退行していく自分自身に向けて左手に書き残した、唯一の命令。
いいえ、きっと、違う――違うでしょう?
これは、レナ、貴女自身への言葉ではない――そうでなくては!
そうだ。
彼女は知っていたのだ。
自分がここまで来た時、もう文字など読めなくなっていることを。
『愛してる』という言葉の意味さえ、理解できなくなっていることを。
だから、そう、きっとこれは。
読めなくなった自分の代わりに、私が読むことを想定した――。
私への、ラブレター。
『私が言えなくなったら、貴女が代わりに読み上げて。……私の言葉として、受け取って』
行間から、そんな彼女の声が聞こえる気がした。
論理的思考を重んじるはずの魔導人形の思考を、レナが植え付けた魂が、心が、上書きする。
演算される正答など、無視する。
他には何も、もう考えたくない。
縋るように、そのたった一行、たった一言を前に。
ただ、ただ、幸せだけに縋るように思考を閉ざす。
「レティ? ないてるの?」
レナータ様が、私の顔を覗き込む。
私は泣いていたのだろうか。
本来の魔導人形に涙などない。
けれど、この暖かな心の核は。
私に心という哀しみを与えた心の核は。
ついにこの赤い瞳から、雫を零させる。
そんな水を流すなんていう不条理な機構、無かったはずなのに。
レナの文字をずっと見つめていたいのに、視界を酷く滲ませる。
「……いいえ。目に、ゴミが入ったようです」
私は、溢れそうになる感情を必死に押し殺し、微笑んだ。
そして、本に書かれた言葉を、声に出して読み上げる。
「……『レティを泣かせないこと。“愛してる”と言いなさい』」
私の声が、静寂に沈む書架に響く。 それは、過去の彼女からのメッセージであり、今の私が一番聞きたかった言葉を内包した、メッセージ。
だけど。
「?」
腕の中のレナータ様は、キョトンとして首を傾げた。じーっと、私の口元を見ていた。
「あぃ……う?」
彼女は、おうむ返しに呟こうとする。
その響きに、感情はない。ただの音の模倣。
不完全な、模倣。
昨夜、最後に彼女に残したかった『愛』という概念、『愛されている』ということも、三歳になった彼女の中からは、もう零れ落ちてしまっているのかもしれない。
「ぁい、あ~……あぃぅちぇ……」
何度か、真似っこをしようとしたけれど、結局正しく言葉にすることは出来なくて。
「レティ、あそぼ? おぁな、さがしゅ」
彼女は結局、本よりも、床の宝石花に興味を移してしまった。
「うぅ~、きれいきれぃがいい」
白紙の本よりも、読めない文字の綴られた本よりも、宝石花の煌きに惹かれて彼女は私の腕の中で暴れ、降りようとする。
届かない。
もう、届かないのだ。
どんなに美しい愛の言葉も、魂を削って残したメッセージも。
幼児化という絶対的な断絶の前では、ただの雑音にしかならない。
「……っ」
胸が引き裂かれるようだ。
目の前にいるのに。温もりを感じられるのに。
心だけが、遥か彼方へ行ってしまった。
でも。
暖かい。
だから。両腕に強く、強く、力を込めて。
「……はい。私も愛しています、お嬢様」
届かなくてもいい。
分からなくてもいい。
過去の彼女が、今の私を想って残してくれた、この一言があるだけで。
私は、最後の時を覚悟をもって、迎えられる。
「くーるーしーいー」
レナータ様が、むずがる。
私は力を緩め、彼女の額にキスをした。
「ごめんなさい。……さあ、行きましょうか」
私は、黒い本を閉じた。
そっと本を手に取る。大切に、胸の内側に。
一冊目の日記と一緒に、私の胸郭の内側。レナにもらった、大切を収めるための拡張収納にしまう。
心の核の熱と共に、私を内側から満たしてくれるように。
私は記された言葉の全てを、魔核・心の核に刻み込んでいこう。
レナータ様がもう、覚えていることができないなら、その分まで。
永遠に消えない、一番大切な、すべてに優先する想いとして。
「れてぃ、あっち! あっち、もっとキラキラある!」
レナータ様が、回廊の奥を指さす。
そこには、ひときわ大きく輝く、巨大な扉があった。
『第一禁忌書庫』。
そう、札が打たれた重厚な扉。
そこから漂ってくるのは、甘いお菓子の匂いではなく――焦げ付いたような、殺気。
「……待っているのですね」
私の感覚が、殺戮人形としての勘が、扉の向こうにいる敵を感知する。
背を向けて、レナータ様との最期の時を過ごす。そんな甘美な思考が一瞬よぎる。
けれど、きっと。それはこの場を用意したあの二人も許さない。
なにより、レナータ様を護る。己に課したその使命を遂げる最後の機会を。
私を証明する。そんな私の『ワガママ』を。
中の気配は、ただ一人。
待ち構えるは第一管理塔、最強の白き少女騎士。
「行きましょう」
「うん!」
私は双刀の片割れを右手に抜き放つ。翼刃がしゃらりと背に広がる。
左腕はレナータ様を抱きかかえたまま。
涙は拭った。迷いも捨てた。
残るは、レナータ様を護るという意志だけ。
護るために、敵とまみえる。
そんな矛盾に、心の核がチクリと痛むのをつとめて無視し。
私は、最後の扉を、開いた。




