第15話 『甘い水底の舞踏会、無邪気な自傷――ジャムと死の味』
碧い、碧い世界。
レナータ様を背に乗せ、晶洞の中へと突入すると視界が歪み、いずこかへと転移された。
目の前に広がるのは海そのものだった。
ただし、それは塩辛い海水ではなく、甘く発泡するソーダ水の海。
私たちはその中を、まるで空中を歩くように進んでいた。
「ぷはっ! レティ、いきできるよ! すごい!」
腕の中で、五歳のレナータ様が目を丸くしている。
アドラの夢を用いた変質。その結果として生まれたダンジョン、あるいは異空間。
この空間は真水で満たされているが、呼吸が可能だった。
重力も緩やかで、身体がふわふわと浮き上がるような感覚がある。
「不思議な場所ですね。……お嬢様、はぐれないようにしっかり掴まっていてください」
言いながら、翼刃の一部をさらに彼女の身体の固定の補強に回す。
「うん! レティ、みてみて! おかし!」
彼女が指さす先には、珊瑚の代わりに生えたキャンディーの木々や、マシュマロのイソギンチャクが揺らめいている。
泳いでいる魚たちは、ビスケットやゼリーで出来ていた。
まさに、絵本の中のお菓子の世界。
深海図書館という名前から察するに、通路だったのであろう場所が、メルヘンチックな海底回廊へと変貌している。
途方もなく広い通路。優に十人の大人が横に並んで進めるだろう。
壁沿いには本の形をしたチョコレート菓子が飾られたクッキーの本棚。
私の深紅の瞳は、その甘い風景の中に潜む、明確な殺意を捉えていた。
カチャ……カチャ……。
硬質な音が近づいてくる。
回廊の奥から現れたのは、一隊の騎士たちだった。
「へーたいさんだ!」
レナータ様が喜ぶ。無理もない。
彼らの見た目は、愛らしい『おもちゃの兵隊』そのものだったからだ。
ジンジャーブレッドマンの身体に、ホワイトチョコレートの鎧をまとい、手には紅白の縞模様のキャンディーステッキ――いや、槍を持っている。顔にはアイシングで描かれた、ニコニコとした笑顔。
しかし、その動きは統率され、一糸乱れぬ隊列を組んでいる。
「……元・ゴーレム騎士、ですか」
私は悟る。
あれこそが、アドラたちが『変質』させた、オルドリアの配下たちだ。
外見は可愛らしいお菓子に変えられたが、中身に刻まれた私達への敵意、害意だけは、生きている。
彼らは、ニコニコと笑ったまま、お菓子の槍の切っ先をこちらに向けた。
「もくひょー、はっけん。まっさつ、まっさつー」
甘ったるい声でなされる、殺害予告。
キャンディーの槍が、鋭く突き出される。
「きゃっ?」
レナータ様が背中で驚きの声を上げる。
「下がっていてください――とは、言えませんね」
私は苦笑し、彼女をさらにしっかりと背中に固定する。
この水中では、彼女を下ろせばどこへ流されていくか分からない。
背負ったまま戦うしかない。
「お嬢様、ダンスのお時間です」
「だんす?」
「はい。ステップに合わせて、しっかり捕まっていてくださいね」
私は、床――本気で蹴りつけてみたら、ボスンと、穴が開いてしまった。たぶん固めのスポンジケーキだ……。
気を取り直して翼刃で生み出す推力に切り替える。水の抵抗は前面に配した翼刃で斬り裂き、背の翼刃に魔力を集める。空中戦さながらの水中高速機動。
ヒュンッ!
迫りくるキャンディーの槍を、最小限の動きで躱す。
そのまま回転。
ターン。スカートが花のように開き、その裾から漆黒の刃が閃く。
ザシュッ!
ジンジャーブレッドマンの首が飛ぶ。
断面から溢れたのは、血ではなく、甘いベリーのジャムだった。
「わぁ……!」
レナータ様が、目を輝かせる。
彼女には、残酷な殺し合いになど見えてはいないだろう。
ただの、楽しいショー。
ゆらゆら、ひゅんひゅん、安心できるレティの背中にゆられる、アトラクション。
「レティ、すごい! くるくるって!」
「はい、くるくるです」
私は微笑みながら、次々と襲い掛かってくるお菓子の兵隊を薙ぎ払う。
そのたびに、長い黒髪が水中でゆらりゆらりと、舞い広がる。
チョコレートの鎧を砕き、クッキーの手足を粉砕する。
ただでさえ甘い水が、さらに濃厚な甘さで満たされる。
敵は多い。二十、いや三十体以上。初めの倍は集まっている。
前後から続々姿を現し、全方向から、無邪気な笑顔で殺しに来る。
「はいじょ、はいじょ♪」「おかしに、な~れ♪ めっさつ、めっさつ♪」
「しつこいですね……!」
可愛い声だが、言っている事は可愛くない。私は双刀を振るう。
攻撃は激しいが、個々の戦闘力も、動きの精度も、以前のゴーレム騎士より落ちている。
アドラの夢が、彼らの全てをお菓子並みに下げているおかげだ。
これなら、レナータ様を守りながらでも――。
「おいちぃ」
回廊を漂う赤いジャムを垂れ流すクッキーの欠片。近くを漂っていたそれを、レナータ様が手に取り、もぐもぐ。
食べてしまっている。
「や、おやめください。それは……」
「おいしぃよ? れてぃも、はい!」
差し出されるべっとりと赤いジャムのついたクッキー。元はただのゴーレムのはずなのに、なぜか、とても。とても悍ましい物に見えてしまって、胃の腑がひっくり返りそうな嫌悪感に襲われ、動きを止めてしまった。
その時だった。
「あぶない!」
背中で、レナータ様が叫んだ。私の死角。背後から、天井に張り付いていたお菓子の兵隊が、槍を投擲しようとしていた。
不慣れな水中とはいえ、問題ない。切り離した翼の刃を二本、推進させて……。
「えいっ!」
レナータ様が、小さな手を向けた。
可愛い掛け声と共に。
キラッ。
彼女の指先から放たれた虹色の光が、漆黒の刃を追い越す。
それは、お菓子の兵隊に直撃し――。
カチ、カチカチッ。
硬質な音がして、美しいルビーの彫像へと変わった。
重さに耐え切れず、天井から剥がれ落ち、床のスポンジにめり込む。
「……え?」
私は目を見開く。
今のは、『奇跡・宝石化の魔法』。
「やったー! キラキラになった!」
レナータ様は、無邪気に手を叩いて喜んでいる。恐怖による防衛本能でもなければ、害意をもったわけでもない。
ただ、『レティのお手伝いがしたい』『一緒に遊びたい』という、純粋な気持ちからの行使。
彼女にとって、この魔法はもう『代償を払う呪い』ではなく、『キラキラになる楽しい何か』のような感覚なのだ。
これは……彼女に迂闊に使わない教育が施されたのも分かる。
理由はどうあれ、現実は残酷だ。
彼女の指先から、さらさらと碧い水の中にあってなお青白く輝く燐光がこぼれ落ちていく。
命の、時間の煌きが、流れ出ている。
「お嬢様、いけません! 魔法を、奇跡を使っては……」
「えー? でも、レティといっしょに、あそびた~い」
彼女は、私の制止を聞かない。目の前には、まだたくさんのお菓子の兵隊がいる。
彼女の目には、それが倒すべき敵ではなく、魔法をかければキラキラになる的として映ってしまっている。
外見の恐ろしさがなくなったが故に、楽しいお遊戯くらいに感じてしまっている。
「それっ! キラキラにな~れ!」
彼女が手を振る。
正面の兵隊が、エメラルドに変わる。
パキン!
「わぁ、きれい!」
燐光が舞う。
彼女の時間が、笑顔と共に削られていく。
「やめて……やめてください……!」
私は叫びながら加速する。彼女に魔法を使わせる暇もないほど速く、私が全てを斬るしかない。
翼刃を全力展開、私自身が高速で水中を飛翔し、触れるを幸いと斬り裂き続ける。
だが、この空間はアドラの夢の中。
レナータ様の楽しいという感情が、この場の魔力と共鳴でもしているのか、敵の動きがここに来て急激に機敏になる。
完璧に捉えたはずの核が、するりと動いた敵に逸らされ掠るにとどまる。殲滅しきれない。
「わ~い、きょうそうだ~♪ そっちも! えいっ!」
キラキラ、パキン!
次々と宝石に変わる敵。
そのたびに、彼女の身体から光が溢れる。
リネアやアドラに、何ら悪意はなかったのだろう。
ただ、無邪気な愛らしさで生み出された空間。
その無邪気な遊び場こそが、今のレナータ様にとっては最悪の処刑台になってしまっていた。
「終わりです! これで、終わりっ!」
私は、なりふり構わずついには魔核・心の核の時間まで燃やし、超加速。
止まって見える視界の中、残りの兵隊たちをまとめて薙ぎ払う。
全ての敵がジャムを垂れ流すクッキーの欠片となって四散した。
静寂が戻る。
「あーあ。おわっちゃった」
レナータ様が、残念そうに呟く。
「……お嬢様」
私は、震える手で彼女を背中から胸の中へと抱きかかえなおす。
制限解除の熱がまだ残る心の核の温もりが、急激に冷えていく。
軽い。
先ほどまでよりも確実に。
そして、明らかに――突入前よりも幼い顔つきになっている。
四、五歳から、さらに退行が進んでいる。
たった数分の遊びで、また一年程の時間を失ったのだ。
「レティ? どうしたの? こわいかおしてる。ないてるの?」
彼女は、無邪気に私の顔を覗き込む。
自分が何を失ったのか、全く気づいていない。
今はまだ、思考と記録の連続性が保たれている。アンバランスな状態。
「……いいえ。なんでもありません」
私は、彼女を強く抱きしめた。いっそ涙を流せるなら、纏わりつく水を押し流せたかもしれないのに。
叱ることはできない。彼女は私と遊んだだけ。初めはもしかしたら、助けようともしてくれたのだから。
その優しさと愛おしい無邪気さが、彼女自身の終わりを致命的に早めているとしても。
「先へ……急ぎましょう」
長居はできない。
レナ……レナ、貴女はここに何を残したの? お願い、お願いだから早く、何とかして。
もう私には縋る事しかできなかった。
護りたい、護り抜く。けれど、ただの殺戮人形にできる事には限界がありすぎる。
私は、宝石とジャムにまみれた回廊を、逃げるように駆け抜けた。
碧い水底。
まだ見ぬ先へ向かって、私たちは進んで行く。




