第12話 『境界線の海、お菓子の浜辺――夢見る姫と禁忌の人形』
夜が明けた。
波の音で目が覚める。
「ザザァン……シュワァァ……」
やはり、昨夜聞いた音は聞き間違いではなかったらしい。
炭酸が弾けるような、軽やかで、それでいてどこか不気味な潮騒。
私は隣で丸まっている毛布の塊に目を向ける。
小さい。昨日よりも、さらにひと回り。
「……お嬢様」
私は覚悟を決めて、毛布をめくった。そこにいたのは親指を口に含んで眠る、幼い子供だった。
四、五歳といったところか。少女としての輪郭は溶け、頬は餅のように柔らかく膨らみ、手足はぷくりとしている。
「……んぅ」
彼女が目を開ける。
焦点が定まるまで少し時間がかかり、やがて私を認識すると、花が咲くように破顔した。
「れちぃ!」
やや舌足らずな声。
彼女は両手を突き出す。
「だっこ!」
躊躇いも、遠慮も、羞恥心もない。
社会性は芽生えるころ。まだ、昨夜伝えた『愛されている』という事実を、温かな何かとしては受け止められるはず。
記録となった記憶を振り返る……という発想が生まれるとは思いづらいが。
「はい。おはようございます、お嬢様」
私は彼女を抱き上げる。
軽い。片手でも余裕で支えられる重さ。
彼女は私の首にしがみつき、また頬をスリスリと押し付けてくる。
「レティ、おなかすいたー」
「ええ、ご飯にしましょうね」
「あまいの、におい」
海から漂う、甘い匂い。
確かに、果実水や、甘いお菓子のようなにおいだ。
すっかりその気になってしまったらしい彼女には、買い置きしてあるマカロンを朝食には、あげよう。
昨日の服はもう着られない。
私は荷物から、さらに小さなサイズの服を取り出す。
ヴェルデの街で、妹君のためと言って買った、フリルにレースたっぷりのプリンセスドレス。肩口まで短くなってしまった白銀の髪から、私とお揃いの薄青色のリボンカチューシャをとろうとすると。
「や、やぁ」
と、手を伸ばし、とられるのを嫌がる。
一瞬考えた後。
「大丈夫です、ドレスにつけてあげますからね」
「ん~?」
とりあえず、手の届くところに渡されて満足したのか、生返事でリボンをいじっている。
「はい、ばんざーい」
「ばんあーい」
彼女はキャッキャと笑いながら、着せ替えを楽しんでいる。
お腹の所に見えるように、大きなリボンカチューシャをつけてあげれば、輝くばかりの笑顔で自慢げに私に見せてくれる。
赤い飾りのついた、柔らかな革のストラップシューズを履かせる。
「かわいい!」
彼女は自分の足を見て、手を叩いて喜んだ。
語彙が激減している。
複雑な感情表現はなくなり、目の前の現象に対する喜び、悲しみの反応だけが返ってくる。
私は胸の奥で、小さな喪失感に別れを告げた。
昨日までの彼女は、もういない。
けれど、目の前のこの笑顔を守ると誓ったのだ。
「さあ、海に行きましょうか」
「うみ! いくー!」
私は荷物をまとめていつものガーターポシェットに放り込み、彼女の手を引いて丘を下り始めた。
しかし、数歩進んだところで彼女が立ち止まる。
「レティ、だっこ。あるくの、やぁ」
5歳児の体力と集中力では、この坂道すら冒険なのだ。
「はい」
私は微笑して、彼女を胸の中に抱き上げる。
「ちがうの」
そっと私の黒髪を引っ張り、主張するレナータ様。
なんでしょう、さすがにわからず困惑していると。
ぐい、ぐいっと、よじ登ろうとし始めている。なるほど。
「う~、おせなか」
「背中に負ぶって欲しいのですか?」
「?」
不思議そうに見返す蒼銀の瞳のなんと無垢なことか。けれど、きっとそうなのだろう。
万が一にも落っこちないように翼刃を展開し、支えを幾重にも用意したうえで背負う。
彼女は、
「おうまさん~ぱっかぱっか~おうまさん~」
と歌い始めた。
どこで覚えた歌だろうか。
もしかしたら、まだ両親と引き離される前。聞いたことの無いご実家で、ご両親と?
それにしてはやはり、両親を求めて愚図るでもなく、ただ、私に懐いてくれているのは……いったいどういう事なのか。
レナ、貴女が日記に十五より前の事は何一つ、書いてくれないから……。
果たしてそんな存在が実在したのだろうか……謎に包まれた彼女の生い立ち。
昨夜も、白紙の日記は確認した。
もしかして何か条件で浮かび上がるのでは、などと益体もない事も考えながら。
目覚めた時、少しでも逆行した『記憶』にある事実に沿ってお相手できるようにできないかと。
勿論、そんな都合の良い事は無かったのだが。
丘を下るにつれて、異変は顕著になった。
植生がおかしい。
昨日は確かに、塩害に強い植物が生えていたはずの場所に、見たこともない『何か』が生えている。
葉が飴のように透き通り、茎がパステルカラーの縞模様を描いている。
実っている果実は、どう見ても――マシュマロ?
地面の土もよく見れば粒が大小まちまち。白い砂糖に、クッキーの欠片? それから、チョコレート……?
ええ、魔導人形の視力を凝らして見るというよりも分析すると、どうもそうとしか思えない。妙に多孔質だし、踏むとぼろぼろと崩れる。
「おいしそー!」
レナータ様が背中から手を伸ばそうとするのを、慌てて制止する。
「いけません。食べてはいけませんよ」
「ぶー。レティ、けちんぼー」
彼女は唇を尖らせる。
そして、海岸線に出た時、私は言葉を失った。
そこは、断じて私の知る『海』ではなかった。
「わぁぁ……キラキラ!」
レナータ様が歓声を上げる。
目の前に広がるのは、エメラルドグリーンとサファイアブルーがマーブル模様に混ざり合う、美しい海。
砂浜は真っ白。でも、よく見ると砂粒ではなく、微細な金平糖のような結晶体。
そして何より――海全体が、泡立っていた。
シュワシュワ、パチパチ。
波が寄せるたびに、白い泡が弾け、甘い香りが漂う。巨大なソーダ水の海がそこにあった。
「まさか、これが変質? けれど、昨日の午前は決して、こんなではなかったはず」
少なくとも、レナータ様と植物のお話をしている。ならば、この一日の間に徐々に、あるいはどこかの時点で変わった?
世界を塗り替えるように。
「変質」
その言葉が頭をよぎる。第七管理塔が司る世界の、人々の、進化のための変化。変質。
けれど、ここまで突拍子もない状況、経年劣化と破損による穴あきだらけとはいえ、古代魔導文明の頃にさかのぼっても聞いたことがない。それに何より、『混沌』と『変質』を行使する主、『夢見る姫』は深海図書館に封印されているはず。
「おさかなさん、とんでる!」
レナータ様が空を指さす。見上げれば、薄い膜のような翼を持った魚たちが、編隊を組んで空を泳いでいた。
鱗が飴のように少し鈍い輝きを放ち、空中に虹の軌跡を残して飛んでいく。
重力も、生態系も、物理法則さえもが狂っている。
まるでそう、誰かの『夢』の中に紛れ込んだかのよう。
「レティ、レティ! あっち!」
彼女が背中からもぞもぞ。飛び降りようとするので、翼の刃を丁寧に階段状に並べ直してあげると、とことこと、あっという間に駆け下り、波打ち際へと駆け出す。
「お嬢様! 危ないです!」
「あはは! つめたーい!」
彼女は靴のまま、ソーダ水の海に入ってしまった。バシャバシャと水を蹴り上げる。跳ねた水滴が、炭酸の泡となって空中に舞う。
「あまい! レティ、あまいよ! 海っておいしいんだね♪」
彼女は指についた雫を舐めて、目を丸くしている。
「もう……お腹を壊しますよ」
私も波打ち際へ行き、海水を指ですくってみる。舐める。
……確かに甘い。
ほんのりとした甘さと、爽快な酸味。上質な果実水に強めの炭酸を混ぜ込んだような味。
昨夜は確かに感じた潮の香り、塩分は微塵もない。
これでは、生物など住めないはずだが――空飛ぶ魚を見る限り、どこまでこの状態が続いているのかわからないけれども、ここにはここの生態系ができあがっているらしい。おそらくたった一晩で。
「ここは……安全、なのでしょうか」
敵性反応はない。
教会の追手も、今のところ感じられない。
近くに、知る限り転移魔法陣のある大きな街はない。もっとも、あの石碑のようなものがあちこちにあるとすれば、お手上げだ。
今、この領域は、少なくとも『秩序』の影響が極めて薄いはず。
元々、この海沿いは第七管理塔の領域を白亜の大聖堂が簒奪した地域。
「レティ、あそぼ! おみず、かけっこ!」
バシャッ! レナータ様が両手で水をすくい、私にかけてきた。
黒と赤のドレスが、ソーダ水で濡れて色濃くなる。
これは……後が大変ですね。
「お嬢様……」
「えへへ、つめたい?」
悪戯っぽく笑う、五歳の彼女。
その笑顔には聖女の悲哀も、死への恐怖も、何もない。ただ今を楽しむ、純粋な命の輝きだけがある。
私は、ふっと肩の力を抜いた。
些末な後の事など、考えるのはやめよう。今この時を、レナータ様のために。
幸い、海側から見ればすぐに分かった。
少し先、小高い丘の海側の崖の絶壁。
精緻な彫刻が施された真っ白の壮麗な柱がいくつも並ぶ、神殿のような入り口が開いている。
あそこがおそらく目的の場所、その入り口。中の様子は影となっていて見えないが、荘厳な表側に反する、重く澱んだ雰囲気を感じる。
「……ええ。冷たいですね」
私もドレスの裾を摘まみ上げ、少しだけ水を蹴ってみる。
パシャ。
小さな水しぶきが、彼女の頬にかかる。
「わっ! レティがやったー! はんげきだー!」
彼女は大はしゃぎで、全身びしょ濡れになって遊び始めた。
時々ごくごくと美味しそうに、海水……いえ、果実炭酸水を飲んでいる。
私はそれを見守りながら、少し。
ほんの少し、不意に涙腺が緩んだ。
こんなに平和で、こんなに楽しい時間。
全てを忘れて、はしゃぎ合うだけの、関係。
彼女の『最期』を迎える、美しく、狂った世界。
ひとしきり遊んで、彼女が疲れて砂浜に座り込んだ頃。
あぁ……砂に見える金平糖をもぐもぐと、幸せそうに。
もう止めるのは諦めました。
それに、虫の気配も何もしない、明らかに異常な見た事もない生き物の存在を除けば、潔癖なまでに綺麗な世界。
私の深紅の瞳で解析しても、問題が見当たらない。
「レティ、おふねは?」
彼女が聞いた。
「おふね?」
「うん。うみだから、おふねにのるんでしょ?」
「……そうですね。でも、船はありません」
私は再びあの崖に刻まれた人工の建築物を見る。
きっとあの中に手掛かりがあるはず。海底図書館へと向かう転移魔法陣があるのか。
あるいは、各地に存在するダンジョンというものになっているのか。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
足元の砂浜が、微かに振動し始めた。
「な、なに? ゆれてる、ゆれてるよ、レティ?」
レナータ様をそっと抱きしめ、わずかに宙に浮かぶ。
「いいえ……海からです」
沖合の海面が、盛り上がっている。
シュワシュワとした泡が、爆発的な勢いで噴き出す。まるで、巨大な栓が抜かれたように。
ズヴォォォォッ!! 海が割れた。
大量の炭酸水の飛沫を上げて、海中から何かが浮上してくる。
巨大な――ガラス瓶?
巨大なワインの瓶を人が何人も悠々入れるくらい巨大にした、ガラスの容器。
それが突き出され、海面に倒れ込むと、滑るようにしてこちらへ近づいてくる。
瓶の中には、美しい家具と、優雅にお茶を楽しむ二人の人影が見えた。
激しく倒れ込んだのに、中に収められた物も人も、天地の向きは変わっていない。地面と常に水平になるよう、瓶の中に球体の泡が浮かび、全てはその中に収められているよう。
「……え?」
私の思考が追いつかない。
敵意はない。けれど、圧倒的な格の違う魔力が、そこから漏れ出している。
「きれいな、おふね!」
レナータ様は怖がるどころか、手を叩いて喜んでいる。
巨大なガラス瓶は、波打ち際で静かに停止した。
はらはらと、瓶が解けていく。細かな薄い透明な雲母箔のように。紙束をぶちまけてしまったみたいにそこらじゅうを舞う、薄い薄い、瓶や家具だったはずの透明な破片は一つに集まり、女性の手の上で一つの薄緑色の結晶になった。エメラルドのような綺麗な、宝石の結晶。丁寧に磨かれ、切り出されたファセットが芸術的なきらめきを見せる。
手にした女性。お菓子の砂浜に降り立った一人は、漆黒の髪に軍服のようなドレスを纏った暗金色の眼をした少女。
寄り添うように腕を絡めてしな垂れかかるのは、濡れたような蒼銀の髪を持つ白いドレスの少女。
私の記憶から古代魔導王国末期、神が遺した七つの管理塔による支配が決定的となった時代の記録を呼び起こす。
破損しかけていた記憶が、警告を発する。
白いドレスの、情熱的な眼差しで黒髪の美少女を見つめる彼女を、知っている。
「夢見る姫……近代における呼称は、封印姫アドラ」
伝承にある姿。第七管理塔の主。
詳細は不明。
支える派閥は壊滅、いや、禁忌に手を出し、自滅。
そう、確かそうだった。
主の封印を嘆き、手を出してはならない何かに触れ、全滅。そう記録されている。少なくとも、そういう事になっている。
「あら、リネア。見て」
蒼銀の髪の少女――アドラが、鈴を転がすような声で言った。
彼女は、海岸に立つ私たちを見つめ、楽し気に微笑んだ。
「お外に出たら、一番最初に会うのが『ご同類』……う~ん、ちょっと違うかな? でもでも、運命的ね?」
「……同類?」
私は身構える。
彼女の視線は私と、抱きかかえた五歳のレナータ様に注がれていた。
世界を『変質』させる、封じられていたはずの、世界の一角を司る歴史の闇に葬り去られた混沌、第七管理塔の主が今。
私たちの前に立っていた。
とても、とても、睦まじげに。女の子同士で寄り添い合いながら。




