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第11話 『最後の夜、貴女への温もり――あるいは愛という名の刷り込み』

 太陽が中天を過ぎ、影が長く伸び始める頃。

 荒野の景色は少しずつ様相を変えていた。

 第一管理塔支配下の街が存在する肥沃で安定した地域、確実に転移魔法陣のある地域を避けたこともあるが、レナータ様には少し寂しい旅路を強いてしまったかもしれない。


 乾いた赤土と岩ばかりだった大地に、低い灌木や、塩気を含んだ風に強い植物が目立ち始める。

 風の匂いも変わった。


 鼻腔をくすぐる土埃の匂いは薄れ、代わりに独特の――潮の香りが混じり始めている。


「レティ、あれなぁに?」

 私の腕の中で、レナータ様が指をさす。

 彼女の視線の先には、風に揺れる箒のように斜めにかしいだ植物の枝。オレンジ色の花がまばらに咲いている。


「あれは海浜植物の一種です。海が近い証拠ですよ」

「かいひん……。ふ、ふうん」


 彼女は興味を失ったように返事をすると、私の首に回した腕に力を込めた。


「まだつかないのぉ?」

「もうすぐです。今日中には、海が見える丘まで行けるでしょう」

「えー。あるくの、つかれたぁ」

 ずっとお姫様抱っこなのも体の疲れになっているのかもしれない。まあ、一度も歩いてはいないのだけれど。


 彼女は頬を私の肩に押し付け、ぐりぐりと甘えるように擦りつける。

 その仕草は、昨日よりもさらに幼い。

 言葉は通じる。意思の疎通もできる。


 けれど、論理的な思考や、複雑な因果関係の理解はもう難しい。

 今の彼女の世界は、快か不快か。好きか嫌いか。

 そして……『レティがいる』か『いない』か。

 それだけで構成されていると言っても過言ではない。

 私にとってはただ、ただ、それだけが重要で、この期に及んでの心の支えなのだけれども。


 本来の彼女はこの頃どうしていたのだろう、母を呼ぶ声も、父を頼る涙も、一度として見せないレナータ様に疑問を覚える。彼女を背に乗せた父は少なくとも、彼女自身が私と比較したのだから、いたはずなのに。いや、どうなのだろう。『パパさん』という呼び方が引っ掛かる。


「少し、休憩にしましょうか」

 私は手ごろな大岩を見つけ、その陰に彼女を下ろした。

 日差しはまだ強い。彼女の柔らかい肌を焼かないよう、大人用のマントで日陰を作る。ところどころに擦り傷の残る、クリーム色のマント。目立つからもう少し暗い色の物をといっても、頑として聞かなかった、可愛くてお洒落なマント。

 私の黒赤の色彩と対になる、明るい色彩。


 水筒の水を含ませたハンカチで汗ばんだ額を拭いてあげると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。

「ん……レティ、すき」

「はい。私も大好きですよ」

 息をするように紡がれる愛の言葉。


 それはかつての、恋人同士の熱っぽい囁きとは違う。

 親鳥を慕う雛の鳴き声に近い。


 私は、荷物の中から一冊の本を取り出した。黒い装丁に銀の鎖。『遺言書』――彼女の日記。

 私も知らない彼女の過去は白紙で誤魔化されてしまっていた、日記。

 これまでの旅路、私は彼女が眠った後に何度も繰り返し読みなおしていたが、日中は彼女自身が読みたがることもあった。


 記録となった記憶の中に残る数少ない物品。自分の持ち物。


 私は彼女の失った記憶の手掛かりとして。あるいは、未来(過去)の彼女からの手紙として。彼女のお願いには反するかもしれないけれど、再び読み聞かせをしてあげる事にした。


 私も、触れていたかったから。

 彼女が記した言葉に。


「お嬢様、ご本です」

 私は抱き上げた彼女の膝の上に、日記を置いた。

 彼女は「ん」と頷いて、無造作にページを開く。


 十五歳の彼女はこれを読んで、戸惑い、混乱から怒りを振りまいてしまった。

 十三の彼女は伝えられた言葉と共に、思い出の味を知った。

 十の彼女は、残された言葉に導かれ、かつての未来の足跡を再び訪れた。


 けれど。


 今日の彼女は、パラパラとページをめくるだけ。

 その手つきは覚束なく、目はとても文字を追っているとは思えない。

 ただ、模様を眺めている。それだけ。



 やがて、彼女はつまらなそうに本を閉じた。

「レティ」

「はい?」

「これ、なんてかいてあるの? 絵がなくって、つまらないよぉ」


 ドキン、と。私の魔核・心の核が嫌な音を立てた。


「……読めない、のですか?」

「うん。むずかしいことば、ばっかり」

 彼女は頬を膨らませ、日記をぐっと膝の上で追いやった。


 かつて彼女が、「私が殺した後、燃やして」と託した、彼女の記憶の現身。

 それが今、彼女自身の手によって「つまらないもの」として追いやられる。



 それは、彼女が大人としての知性から、明確に切り離されたことを私に伝えてきていた。

 複雑な概念、過去への後悔、未来への希望。言葉によって定義されるそれら全てが、今の彼女の手からこぼれ落ちていった。もちろんそれは自然なこと。本来ならば、前へと進む時間の中で手にしていく全て――彼女が持っていたはずの全て。


「……そう、ですか」

 私は静かに日記を膝から掬い上げ、閉じられた表紙を撫でる。

 胸が締め付けられる。


 昨日の夜までは、まだ通じ合えていたはずの架け橋が、焼け落ちてしまったような喪失感。


「レティ? どうしたの? おこってるの?」

 私の沈黙を不安に感じたのか、レナータ様が私の顔を覗き込む。

 その瞳は澄み切っていて、自分の失ったものの大きさになど気づいてもいない。


「いいえ。怒ってなどいませんよ」

 私は微笑み、彼女の頭を撫でる。

「ただ……そうですね。少し、お勉強の時間が足りなかったかもしれません」

「えー。おべんきょう、きらーい」

「ふふ。難しいことはしません。……今夜は、大切なお話をしましょう」


 私は決めた。

 彼女が言葉を完全に失う前に。理解という能力を失っていない間に。

 彼女の魂に、本能に、刻み込まなければならないことがある。






 ――夜の帳が下りる頃、私たちはついに海を見下ろす丘の上に到着した。

 眼下に広がるのは、月明かりを浴びてうねる黒い海原。


 ザザァン……サァァ……ザザァン……。


 寄せては返す潮の香りを運ぶ波の音が、荒野の静寂とは違う、深く重いリズムで響いている。


「うわぁ……ひろーい!」

 レナータ様は、初めて見る海に目を輝かせた。

「あれがうみ? おみず、いっぱい?」

「はい。あそこが、私たちの目指す場所です」

 正確にはこの海岸線のどこかにある、遺構、あるいは遺跡。深海図書館へと続く転移魔法陣が収められた場所を見つけなければならないが。


 私は焚き火の準備をしながら、彼女の様子を見守る。

 彼女は丘の端まで駆け寄り、風にはためくピンタックワンピのスカートを押さえながら、暗い水平線を見つめている。

 その背中はあまりに小さく、広大な夜の闇に飲み込まれてしまいそう。


 パチ、と薪が爆ぜる音。

 オレンジ色の炎が揺らめき、私たちの仮宿を照らす。スープの香りが漂い始めると、レナータ様がトテトテと戻ってきた。

 レナが好きだった、保存食のトウモロコシと、乾燥させた出汁で作るスープ。

 新鮮な牛乳は持ち運べないので、クリームスープにはできないけれど、滋味をたっぷりと含んだ濃いめの味付け。

 甘みの引き立つ乾燥トウモロコシが良いアクセント。ほんのり薄茶色のおつゆを取り分ける。


「レティ、ごはん?」

「はい。今日は、トウモロコシを使ったスープですよ」

 彼女を膝の上に座らせ、スプーンで少しずつ口に運ぶ。

「あーん」

「あーん……ん、おいし」

 彼女は素直に食べる。


 野菜は濾してあるけれど、トウモロコシの粒はたっぷり。少しずつ咀嚼する口元がリスのように動くのが愛らしい。


「それと、こちらです」

 楕円形のパンに、焼いた干し肉をたっぷり挟み、香辛料で味を調えたサンドウィッチ。食べやすいように、幾切れにも切り分けたそれを合間合間にお口に入れる。


「レティは? レティは食べないの?」

「今は大丈夫ですよ」

「う~ん?」

 食事をとる機能はある。レナはいつも私に、必ず同じものを一緒に食べるように命じていた。

 けれど、今はこうしてただお世話をしている方が良い。膝の上で、少しずつ味わって幸せそうに食べる、今のレナータ様を見つめている方が……。



 食事を終え、温かいお茶を飲んでいると、レナータ様がふと不安そうな顔をした。

「ねえ、レティ」

「はい」

「あしたになったら、またちっちゃくなるの?」

 彼女は自分の手を見つめる。


「きょうのことも、わすれちゃうの?」

 七歳児なりの直感か、それとも消えゆく大人の理性の残滓か。

 完全に失われた成長過程の記憶と違い、決戦から九日間の旅程の記憶は記録として存在している。だから、忘れるというのは正確ではない。けれど、自分のものと思えない記憶の残滓では、本人にとってやはり忘れているのと変わらないという事なのだろう。


 彼女は、自分が自分でなくなっていく恐怖を、本能的に感じ取っているようだった。


「……そうかもしれません」

 私は正直に答える。嘘をついても、彼女の本能は見抜くだろう。

「やだなぁ……」


 彼女は私の胸に顔を埋める。

「レティのこと、わからなくなりたくない。レティといっしょにいるの、たのしいもん」

 涙声。その言葉が、私の胸を抉る。

 明日の彼女は、もう今日のこの会話すら、分からなくなっているだろう。


 楽しいという感情すら、もっと原始的な『快』へと溶けてしまうかもしれない。

 だからこそ。


 今夜が、きっと最後の機会だ。


「お嬢様」

 私は彼女の身体を抱き上げ、膝の上で向かい合わせに座らせる。

 見上げてくる小さな可愛いお顔。その蒼銀色の瞳に深紅の瞳が映り込む。

 焚き火の明かりに照らされた彼女の瞳は、揺らめく炎を映して、どこまでも綺麗だった。


「これから、とても、とても大切なことを、お伝えします」

「おべんきょう?」

 彼女はきょとんとする。


「いいえ。そうではありません。文字も、魔法も、歴史も教えません。もっと大切な……たった一つのことだけを、覚えていただきます」

 この頃の彼女は、記憶の中ではきっと白亜の大聖堂で学びの機会を与えられていたのだろう。

 少しずつ、大人になるためのお勉強。


 それにしてはそうした想い出、記憶の中の人々を気にかける様子がないのは……そういう事なのだろう。

 パパ、ママ、その存在は確かにあった、彼女自身がついこの前も触れていた。なのに。


 よくぞ彼女がまっとうに……いや、レナをまともと言っていいのか少し、ほんの少し判断に迷わなくはないのだけれど……育ってくれたものだ。


 私は、彼女の小さな手を両手で包み込む。

 魔導人形の冷たい手と、人間の温かい手。


 ぎゅっ、と。彼女が私の指を握り返した。

 小刻みな震えと、必死に、すがりつくような圧力。

 だから私は、言葉を紡ぐよりも先に、同じ強さで、ゆっくりと握り返した。

「大丈夫」「ここにいます」。そう伝えるための、言葉にならない会話。


 彼女の震えが、ゆっくりと収まる。


「お嬢様。……レナ」

「なあに?」

「貴女は、愛されています」

 ゆっくりと、噛み含めるように。

 言葉の意味ではなく、その音と響きを、彼女の魂に染み込ませるように。


「あい……されてる?」

「はい。この世界で一番、大切で、愛おしい存在です」


 私は、彼女の手を自分の胸元――魔核・心の核がある場所へと導く。

 そっとドレスの胸元を開く。宝石継ぎがひときわ大きく、内部機構を透かし見せる胸の中央。


 ドクン、ドクン。


 規則正しく、けれど熱く脈打つ鼓動。確かに拍動する生きた宝石としか言いようがない、特別な魔核の姿が七色の宝石の窓越しに見える。本来の、魔力機関にすぎない古代魔導人形の魔核にはあり得ない脈動。


「ここにある光は、貴女がくれたものです。私が動くのも、戦うのも、全て貴女あってこそ、貴女が大切だからこそです」

「たいせつ……」

「はい。たとえ貴女が言葉を忘れても、歩けなくなっても。名前さえ分からなくなっても」


 私は、彼女の額に、自分の額をコツンと合わせる。

 至近距離。互いの吐息が混ざり合う。


 深紅の瞳と、蒼銀の瞳が、鏡合わせのように見つめ合う。


「私は、絶対に貴女を離しません。貴女が泣いていたら抱きしめます。お腹が空いたらご飯を作ります。怖い敵が来たら、私が全部追い払います」

 それは、新しい、未来への誓い。

 護る者としての覚悟であり、恋人としての執着であり。もしかしたら、母としての慈愛。


「だから、安心してください。何も怖いことはありません」

 彼女の瞳が、揺れる。


 難しすぎる言葉の羅列だったかもしれない。

 七歳の子供には、重すぎる誓いかもしれない。


 けれど、伝わったと信じたい。

 言語を超えて、彼女の魂が覚えている心と共鳴して。


「……レティは、ずっといっしょ?」

「はい。ずっと一緒です」


「わたしが、ちっちゃくなっても?」

「ええ。ちっちゃくなったら、私のポケットに入れて守ります」

「……ふふっ。ポケットだって。私そんなにちっちゃくなれないよ」


 彼女が笑った。

 張り詰めていた不安が解け、柔らかい、花が綻ぶような笑顔。


「うん。レティがいるなら、だいじょうぶだね」

 彼女は、そっと手を伸ばし、私の首に抱き着いた。

 ぎゅー。すこしずつ込められる力。

 やがて、頼りなくも今の彼女の力いっぱい。


「わたしもね、レティのこと、すき。だーいすき」

「……!」

「おべんきょう、おしまい?」

「お勉強では……はい。大変よくできました」


 私は、震える声で答えるのが精いっぱいだった。


 心の核の鼓動が強くなる。

 どんな難解な魔導書の解読よりも、どんな高尚な教義の暗唱よりも。

『すき』。

 きっとその無垢な一言は、尊く、正しく、私の世界を照らす真理だった。



 潮風が強くなってきた。炎が風に煽られ、大きく揺らぐ。


「そろそろ、寝ましょうか。明日は、海岸線沿いを進みますよ」

「うん……たのしみ……」

 安心したのか、急激な眠気が彼女を襲ったようだ。

 彼女は私の膝の上で、私の胸元に寄りかかって丸くなり、すぐに寝息を立て始めた。

「すー……すー……」


 規則正しい寝息。

 私はそっと毛布をガーターポーチから取り出し、彼女をくるみ、その寝顔を見つめる。

 長い白銀の睫毛。ぷっくりとした唇。

 幽かに月夜に見える、青白い……喪失の輝き。


 もう一日、あるいはもって二日か。

 それを過ぎれば、もう彼女にとって言葉は単語の羅列になり、私の言うことも半分も理解できなくなるだろう。

 トイレも、食事も、一人では難しくなる。

 その前に。

 レナ自身が示した期限、理由はよくはわからない。それでも、赤ん坊の彼女へと至ってしまう前に。


「お嬢様……」

 私は、彼女の柔らかな髪を梳く。

 ハーフアップに私が結い上げた結びを乱さないように。肩口の少し下までの髪を、そっと、そっと。


 今夜伝えた『愛されている』という感覚だけは、どうか魂の底に残っていてほしい。


 私との触れ合いが、彼女のよすがとなるように、抱きしめる。

 微量ずつの腕の中の重みの変化を感じる魔導人形の身体が憎い。

 喪失の実感に。黒髪がはらりはらりと、震える夜。


 顔を上げ、海を見た。

 月明かりに照らされた水面は、どこか奇妙だった。


 日中、遠目には黒くうねる波に見えたが、よく見ると――泡立ちが異常に多い。

 波頭が白く砕けるたびに、シュワシュワと、炭酸が弾けるような音が風に乗って聞こえてくる。

 潮の香りの中に、微かに混じる甘い匂い。

 シロップのような、キャンディーのような、場違いな甘い香り。


 私の知る海は断じてこんな香りはしない。


 太古の昔、今は表舞台から抹消された記録に確か存在した。

 第七管理塔の管理者……それは『夢見る姫』。

 混沌と変革を司る、世界に進化をもたらす役目を負った異質な管理塔。

 平穏と安定を望む6の管理塔とは相いれなかった、それ故に封印された異端の、創造神の落とし子。


 どちらにせよ、私たちは行くしかない。

 レナが残した希望の道しるべへと。


 私は腕の中の小さな体温を確かめ、夜明けを待った。

 これが、彼女とじっくりと言葉を交わせた、最後の静かな夜だった。


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