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小説 北条時宗 護国の盾 1251-1284  作者: 山田 誠一


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第八章:玄界灘の神威

弘安四年(1281年)閏七月一日。

ついに、天地の全重量がひっくり返る、世紀の大決戦の幕が上がった。


九州北部、玄界灘。大気を引き裂く凶暴な落雷とともに、海鳴りが怪物の咆哮となって轟き渡る。襲来したのは、海を、空を、世界のすべてを圧殺せんばかりの、観測史上類を見ない超巨大台風であった。


逃げる場など、最初からどこにもない。博多湾、そして伊万里湾の洋上にぎゅうぎゅうに停滞させられていた四千艘の蒙古軍船は、逃亡を遮られ、怒り狂う巨涛のなかに引きずり込まれた。

ドゴォォォン! という凄まじい破壊音とともに、数千貫の巨船が木の葉のように空中へと巻き上げられ、次の瞬間、制御を失った質量同士が弾丸のごとく激突し、互いの船体を粉々に打ち砕いていく!


「退避しろ! 沖へ出せ!」

ハーンが誇る世界最強の将兵たちの絶叫も、すべてを薙ぎ払う暴風のなかにかき消された。火薬を積んだ軍船に雷が直撃し、漆黒の怒涛のなかで、まるで火山が噴火したかのような大爆発が連鎖する。天を突く火柱が夜の海を真っ赤に染め上げ、日本を震撼させた十四万の遠征軍が、冷たい海水のなかで、ただの無力な肉塊として次々と圧殺されていく。大自然という名の神の鉄槌が、一晩中、地獄の如き轟音を立てて狂い咲いた。


そして、夜が明けた。

嵐が去り、静まり返った玄界灘の海を、博多の浜辺から見下ろした坂東武者たちは、全員が魂を抜かれたように立ち尽くした。

昨日まで世界を呑み込もうとしていた四千艘の大船団が、文字通り、影も形もなく消え去っていたのである。眼前に広がっていたのは、海を埋め尽くす無数の船の破片と、波打ち際に山となって打ち寄せられた、異国の兵たちの冷たくなった骸の山。十四万のハーンの軍勢は、一晩にして、文字通り海の藻屑と化して全滅したのだ。


「生き残りを一人も逃すな! 斬れ、引きずり出してすべて斬れ!」

辛うじて浜辺にしがみつき、命乞いをする敵兵たちを、日本の武士たちは容赦なき怒号とともに片端から斬り捨てていった。


「敵、ことごとく潰え去り申した! 我らの勝利にございます!」

大宰府からの、天地を揺るがす勝鬨の報せが、鎌倉の時宗の元に届いたのは、それから数日のちのことであった。


「神風だ! 真に神仏が我が国を救い給うたのだ!」

大蔵幕府の評定の間は、地獄の底から生還した宿老たちが手を取り合い、涙を流して狂喜乱舞していた。割れんばかりの歓声。だが、その狂騒の中心にあって、三十二歳になった執権・北条時宗だけは、ただひとり静かに、深く、胸に溜まった泥を吐き出すように息を吸っただけであった。

彼の顔に、笑みなどは微塵もない。土色の頬を濡らすのは、歓喜の涙ではなく、燃え尽きかけた命の冷たい汗であった。


「神仏が救ったのではない」

時宗の、低く、しかし骨を削るような呟きに、評定の間が一瞬で凍りついた。時宗は「鬼の目」で、狂喜する宿老たちを冷徹に見据えた。

「わしらが博多に石の壁を築き、武士どもが命を賭けて海の上で敵の足を釘付けにした。そうして、時を稼ぎ続けた。その執念の果てに、あの嵐が間に合ったのだ。……勝ったのではない。わしらは、ただ生き残ったのだ」

静まり返る座を他所に、時宗はただ、乾いた潮風が吹き抜ける庭へと視線を戻した。

「だが、国難はまだ続く」

その呟きは、誰の耳に届くこともなく、静かに由比ヶ浜の波の音へと消えていった。大陸の牙を防ぎ抜いた英雄を待っていたのは、国家を救った代償という名の、さらに過酷な内なる泥沼であった。


国難は去った。しかし、時宗の前には、これまでの戦いよりも遥かに過酷な内なる戦いが待ち受けていた。

それは、恩賞の問題であった。


武士が命をかけて戦うのは、勝利の後に、敵から奪った領地を恩賞として分配されるからである。しかし、今回の戦いは異国からの防衛戦であった。敵を追い払いはしたものの、新しく獲得した土地は一坪もなかったのである。

「命をかけて戦ったのに、一歩の土地も貰えぬとは、いかなる仕打ちか!」

「防塁の築造で、我が家は破産寸前であるぞ!」

九州から戻った御家人たちの不満は、瞬く間に鎌倉への怨嗟へと変わっていった。安達泰盛がその苦境を時宗に告げる。

「執権殿、御家人たちの困窮は目を覆うばかりにございます。このままでは幕府への反逆が起きかねませぬ。神社の社領を割くなり、徳政令を出すなりせねば、保ちませぬぞ」

時宗は深く息をついた。

「わかっている。だが、無い土地は与えられぬ。徳政を布き、御家人たちの借金を帳消しにせよ。神社仏閣の力を借りてでも、不満を散らすのだ」

しかし、それは根本的な解決にはならず、むしろ融資を渋る商人の動きを止め、武士たちの困窮を深める結果となった。時宗は、国を救った英雄でありながら、同時に日本中の武士から最も恨まれる存在となっていったのである。


さらに、大陸のクビライは、二度の失敗を経てもなお、日本征服の野心を捨てていなかった。

「三度目の襲来がある」

その流言は、鎌倉の街を常に怯えさせていた。時宗は、恩賞の処理に追われながらも、西国の防衛体制を解くことができず、さらに厳重な警備を敷き続けねばならなかった。


時宗の身体は、完全に燃え尽きようとしていた。

激しい咳をするたびに、白い着物が赤く染まった。

ある夜、時宗は執権館の庭に立ち、澄み切った月を見上げた。

「父上、私は鎌倉を、日本を守り抜くことができたのでしょうか。民を苦しめ、武士に恨まれ、それでもこの国を護る盾たろうとした私の歩みは……」

その問いに答える者はなく、ただ坂東の夜風が、冷たく彼の頬を撫でるだけであった。


(第九章に続く)

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