第六章:国を守る石
一
文永の役の翌年である建治元年(1275年)、蒙古の皇帝・クビライは、再び日本へ使者を送ってきた。
今度の使者・杜世忠らは、単なる国書の伝達ではなく、日本が完全に蒙古の軍門に降ることを要求し、大宰府ではなく、直接鎌倉へと乗り込んできたのである。
鎌倉の幕府は、この傲慢な異国の使者を前にして、再び激論に揺れた。
「使者を斬れば、敵は必ずや前以上の大軍で怒り狂って押し寄せる。ここは言葉を濁し、再び使者を追い返すに留めるべきだ。無用な戦をこれ以上引き起こしてはならぬ」
多くの宿老たちがそう主張した。彼らは、あの博多湾でのてつはうの轟音と、集団戦の恐怖を忘れていなかったのである。
しかし、二十五歳になった執権・北条時宗の決断は、周囲の予想を遥かに超える、苛烈なものであった。
「使者を鎌倉の龍ノ口へ引き立て、一人残らず首を刎ねよ」
時宗の命令に、評定の間は凍りついた。
「使者を殺害するなど、国際的な礼儀に反するだけでなく、もはや和睦の道を完全に閉ざすことになりますぞ!」と叫ぶ宿老たちに対し、時宗は立ち上がり、静かに言い放った。
「和睦の道など最初から無い。使者を斬ることで、国内の武士たちに『生き残るためには、戦って勝つ以外の道はない』という退路を断つ絶望を植え付けるのだ。生きるか死ぬかの瀬戸際で、迷いは最大の敵となる。異国に対して『我が方は一歩も引かぬ』という不退転の宣戦布告を、この首で示すのだ」
二
建治元年(1275年)九月七日、江の島に近い龍ノ口の刑場において、杜世忠ら蒙古の使節五名の首が刎ねられた。
彼らは、まさか島国の主がこれほどの暴挙に出るとは思っていなかったであろう。辞世の詩を詠む使者の首が、秋の乾いた砂の上に転がった。時宗は、己一人が歴史の怨嗟を背負う覚悟であった。
同時に、時宗は次の襲来に備え、博多湾の沿岸に、数年にわたる大規模な石の壁――「元寇防塁」の築造を命じた。
これは、高さ二メートルに及ぶ石垣を、十数キロメートルにわたって海岸線に築くという、途方もない大土木工事であった。西国の武士たちは、自らの費用でこの石垣を築かねばならず、その負担は過酷を極めた。
三
時宗の心身は、この国家の全重量によって、確実に蝕まれていった。
不眠の夜が続き、時宗の顔からは若々しさが消え、痩せ細った頬には深い陰影が刻まれるようになった。身内の粛清、異国の脅威、結果として身を削るような大土木工事の指揮。
時宗は、この底知れぬ孤独と重圧から逃れるように、宋から渡来した禅僧・無学祖元を鎌倉に招き、深く帰依するようになる。
「和尚、私の心のなかには、常に巨大な嵐が吹き荒れております。兄を斬り、使者を斬り、多くの民を過酷な役に駆り立てている。どうすれば、この恐怖と罪業に打ち勝つことができますか」
時宗は、円覚寺の静寂のなかで、老僧に問いかけた。
無学祖元は、じっと時宗の目を見つめ、ただ一言、
「莫煩悩(煩悩することなかれ)」
と告げた。
「過去を悔いるな、未来を恐れるな。ただ今、己がなすべき大義に集中せよ」というその言葉は、時宗の張り詰めた魂に、静かに染み渡っていった。しかし、大陸での戦支度は、時宗に休息の時を一切与えなかった。
(第七章に続く)
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