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小説 北条時宗 護国の盾 1251-1284  作者: 山田 誠一


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第四章:蒙古襲来、三万人のハーン

文永九年(1272年)二月。鎌倉の冬の空気は、刃物のように冷たかった。

異国からの脅威が日増しに現実味を帯びる中、時宗は、内なる最大の制約を排除するための算術を終えていた。

(外敵を迎え撃つ前に、背後の不純物を一掃せねばならぬ。二つの頭を持つ蛇は、己の身を食い破る)


時宗が狙いを定めたのは、京都の六波羅探題南方として独自の兵力を動かしつつあった庶兄・北条時輔と、鎌倉内でこれと気脈を通じる名門御家人・名越時章・教時兄弟であった。彼らが時宗の失脚を狙い、京都の公家衆と結託して謀反を企てているという確たる報せが、得宗家の密偵によってもたらされたのである。


二月十一日、鎌倉の沈黙は破られた。

時宗の密命を受けた執権直属の武者たちが、名越の邸宅を急襲した。

澄み切った冬空に、突如として鬨の声が響き渡り、名越教時は刀を抜いて激しく抵抗したものの、多勢に無勢、血飛沫のなかで壮絶に討ち取られた。返り血を浴びた鎌倉の泥道は、一瞬にして修羅の巷と化した。


鎌倉での刃傷から僅か四日後、その刃は京都の時輔にも届いた。

二月十五日、時宗の命を受けた六波羅探題北方の北条義宗(時宗の従兄弟)が、不意を突いて時輔の御所を包囲した。

時輔は、自らが異母弟の掌の上で完全に躍らされていたことを、そのときになって初めて悟った。

「時宗……これほどまでの男であったか。最明寺の血は、すべてお前に流れたか」

時輔は無念の言葉を遺し、京の土を踏みしめながら自害を遂げた。彼の政治的生命、そして北条一族内の対抗軸は、ここに完全に絶たれたのである。


この一連の粛清劇は、のちに「二月騒動」と呼ばれる。

事件の直後、連署の北条政村が慌てた様子で時宗の執務室へ駆け込んできた。

「執権殿、大変な失策にございます! 名越時章への襲撃は、誤認であったとの報告が上がりました。これでは御家人たちの幕府への不信が爆発いたしますぞ!」

時宗は書類から目を離さず、氷のような声で応じた。

「なれば、時章を殺害した御家人たちを『命を誤解して暴走した咎』として直ちに処刑されよ。それで御家人たちの怒りは収まる」

「しかし、それでは……」

「政村殿。一族の有力な対抗勢力を削ぎ、同時にその責任を配下に被せる。これで幕府の意志は私一人に一元化された。この国難を前に、二つの頭はいらぬ。私の手を汚すだけで済むならば、安いものにございます」

政村はその若き執権の冷徹な合理性に戦慄し、それ以上言葉を続けることができなかった。父・時頼から受け継いだ「鬼の目」が、時宗のなかで完全に開眼した瞬間であった。


身内の血で己の衣服を染め上げた時宗は、鎌倉の山中にある禅寺に佇んでいた。

吹き抜ける寒風が、竹林を激しく揺らしている。時宗は、自らの両手を見つめた。そこには、兄の血の温もりがまだ残っているかのような錯覚さえ覚える。

「これで、鎌倉の意思はひとつになった」

時宗の呟きは、誰に聞かせるためでもなく、己の胸の奥底へ沈んでいった。


この血の騒動から間もない文永十一年、大宰府から鎌倉へ、ついに恐れていた急報がもたらされる。

「蒙古の大軍、ついに海を渡り、対馬・壱岐へ襲来」

国を揺るがす大涛が、ついに日本の土を踏み荒らし始めた。時宗の、そして日本という国の、真の試練が幕を開けたのである。


(第五章に続く)

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