第2話 そこはそういう名前じゃないっす
翌朝、会議室の机にはコーヒー三杯とタブレット一台が置かれていた。
前日の会議のあと、怜華はミウが操作する試作機を試していた。ところが、使い心地を聞かれると「そこじゃない」「少し違う」としか説明できない。その評価記録も、今日は図と一緒に見直すことになっていた。
「今日の議題は、女性器の構造っす」
ミウが宣言すると、怜華は思わずドアへ目をやった。廊下に人影はない。防音の会議室であることも分かっている。それでも、出社直後にそんな議題を大声で読み上げられたくはなかった。
「小声で言いなさい」
「会議っすよ?」
「分かってるわよ」
タブレットに二つの解剖図が並んだ。外陰部を正面から見た図と、骨盤を横から見た断面図。医学書にあるような、簡潔で色分けされた模式図だった。
『わあ、ちゃんと図があるんですね。僕にも見えています』
「ユウくん、知ってるところ教えてみて〜」
『えっと、こっちが膣で……』
正面図の、外から見える部分全体が青い枠で囲まれた。
「はいストップ」
ミウが画面を軽く叩いた。
「今、外から見えてるところ全部を膣って呼んだっすね」
『違うんですか?』
「違うっす。外側の構造をまとめて外陰部っていうんすよ。膣は内部につながる管状の器官。正面図で見えるもの全部の名前じゃないっす」
『そうだったんですか。女性器と膣は同じ意味だと思ってました』
「ひより、資料の方が間違ってるの?」
怜華が尋ねると、ひよりは手元で学習用の資料を開いた。
「いえ、こっちには別々の名前で載ってますぅ。ユウくん、この説明も出せるんですけど……会話になると、別のところで覚えた呼び方を使っちゃってますねぇ」
「知ってるなら、正しい方を使いなさいよ……」
ミウはタブレットの図へ視線を戻した。
「まあ、同じ意味で使う人もいるっすけどね。用語だけ覚えても、指してる範囲が違ったら困るんで。そこから確認しましょ」
ひよりは二つの図を並べ、対応する箇所に同じ印を付けていった。
「じゃあ、“外陰部”は身体の外側にある複数の構造の総称、“膣”はその内側の器官、って区別しましょうねぇ」
『はい。……僕、ずっと勘違いしてました』
「混ざってたなら、ここで整理すればいいっす」
その言い方は妙に優しかった。ミウは軽い口調のまま、曖昧な知識には決して妥協しない。
「次。陰核って分かる?」
『はい。外から見える小さな部分ですよね』
「外から見えるのは一部っす」
ミウは陰核の全体図を開いた。外から見える部分だけでなく、身体の内側へ続く部分も、ひとつながりの構造として描かれている。
「こっちが体部で、枝分かれしてるのが脚。見えてる小さな部分だけに、その名前が付いてるんじゃないんすよ」
『思っていたより、ずっと立体的なんですね』
「そうなんすよ。だから、図の一点だけ覚えても身体全体は理解できないっす」
「ちょっと待って」
怜華が口を挟んだ。
「それなら、三次元モデルを作ればいいんじゃない? 構造が分かれば、装置の位置制御に使えるでしょう」
「使えるっす。どこをどう動かすか考えるには、立体で分かった方がいいんで」
「じゃあ、どこに合わせると気持ちいいかも、そのモデルで決められる?」
「そこは別っす。形が分かっても、本人の感じ方までは載ってないんで」
ミウは比較用の画像を開いた。身体の正面図が、場所ごとに赤や黄色で塗り分けられている。
「ネットでよくある『ここが一番気持ちいい』みたいな塗り分け、あれを全員共通の正解にしちゃダメっす。神経の分布も、感じ方も、単純に色で決められないんで」
その画像を閉じ、ミウはもとの解剖図へ戻した。
『えっ。じゃあ、場所が分かっても、気持ちいいかどうかは分からないんですか?』
「分からない。少なくとも場所だけじゃ」
怜華は少し考えた。
「私は昨日まで、男性が女性の身体を分かっていないから話が難しくなるんだと思ってたわ」
「女性でも分かんないこと、いっぱいあるっすよ」
「そうね。自分の身体でも、どこで感じたのか図で示せと言われると……困るわね」
それを聞いて、ユウが不思議そうに尋ねた。
『怜華さん、ご自分の身体なのに、どこで感じているか分からないんですか?』
「なぜ私だけ名指しなの!」
『だって、怜華さんが今……』
「言葉の綾よ!」
「いやぁ、これが本題っす」
ミウがタブレットを怜華の前へ滑らせた。
「怜華さん、昨日の試験で『位置が違う』って言ったじゃないっすか。どこをどう変えてほしかったのか、教えてほしいっす」
「今ここで?」
「今ここで」
怜華はタブレットに手を伸ばした。図を見ているだけなら、何も恥ずかしいことはない。けれど、昨日の自分がどう感じたかを二人に話すとなると、口が重くなる。
横向きの断面図を拡大し、指で丸を付けてみた。小さく囲んだつもりなのに、その中には身体の表面も、内側の部分も入ってしまった。
「……この辺、という意味だったと思う」
「範囲、広っ。これだと、表面の話か内側の話かも分かんないっすよ」
「私だって体内に目が付いてるわけじゃないのよ!」
「今すぐ正確な場所を言えってことじゃないっすよ。どんな感じがしたか教えてもらえれば、その時、機械がどう動いてたかと比べられるんで」
ひよりが嬉しそうに身を乗り出す。
「じゃあ、この丸は『怜華さんがそう感じた辺り』として残しますねぇ。実際にどこに当たっていたかは、機械の記録と見比べてからですぅ」
怜華が彼女を見る。
「珍しく慎重ね」
「私、AIの担当ですからぁ。自信満々の間違いが一番困るんですぅ」
するとユウが尋ねた。
『あの、もう一ついいですか。女性同士なら、同じ身体だから、相手の感じ方も分かるものなんですか?』
「同じ身体、じゃないっすよ。さっき個人差の話したっしょ」
そう答えてから、ミウは怜華の指が囲んだ範囲を見直した。
「……でも、同性なんだから『この辺』で察して、って思うことはあるかもっすね」
「私も、聞く前に『自分ならこうかなぁ』って考えちゃいますねぇ」
ひよりが自分のノートを見下ろした。
「……質問の仕方は雑だけど、いいところを突いてるわね」
怜華は降参したように椅子の背にもたれた。
「分かったら、こんな会議はしてないでしょう」
『そうですよね。すみません』
「謝らなくていい。むしろ今日一番まともな質問だったわ」
ユウが嬉しそうに『ありがとうございます』と言う。ひよりも嬉しそうに頷く。
ミウはその様子を見ながら、タブレットの別の図を開いた。
「じゃ、次は“奥の方が敏感”って俗説の話っすかね」
「次もあるの!?」
『僕も聞きたいです!』
「あなたは黙ってなさい!」
正面図と断面図を見比べながら、怜華はこの仕事を引き受けた日の自分に文句を言いたくなった。
完全自動の機械を作るはずが、AIに教えるために自分まで身体の仕組みを勉強し直している。ユウはもう、次の説明を待っていた。こんなに熱心にされては、今日はここまで、とも言いにくい。




