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7/21

預言 ── 教母エレノア「四十年待っていました」── 軍師任命通告

朝、扉が外から控えめに叩かれた。


その控えめさが、昨日までの隊長の叩き方とは違っていた。


「お時間です。準備が整いましたら、お声がけください」


壁越しの、低い男の声。


入ってこなかった。


それも、昨日までとは違う。


俺は絹の長椅子から起き上がった。


昨晩、王の前から下がってからは、ほとんど横になったままだった。

考え事だけをして、それから考えるのをやめて、目を閉じた。


眠ったのか。

眠っていないのか。


自分でもよく分からなかった。


身支度、と言っても整えるものはない。

パーカーの皺を、手で軽く伸ばしただけだった。


廊下に出ると、ライナーとソフィアが立っていた。


ライナーは、いつもの革鎧の上に紋章入りの上着をもう一枚重ねている。

ソフィアは、軍服がいつもより少しだけ整って見えた。

襟元がまっすぐだった。


「行くぞ」


ライナーが短く、それだけ言った。


王宮の門を、馬車で出た。


聖都の朝は、思ったより人が多かった。


市場の屋台が広がり始めている。

子供が走る。

犬が吠える。

神官らしき白い衣の男が、角の祭壇に頭を下げていた。


昨夜、窓の外で見た灯りの正体が、こうやって昼の顔で動いている。


そういうことだった。


馬車は、王宮の派手な門前から、緩やかに街の北側へ降りていった。

通りの幅が、だんだん狭くなっていく。


ソフィアは、馬車の中でずっと黙っていた。


「ソフィア大尉、今日はやけに静かだな」


軽く声をかける。


ソフィアが、ゆっくりこちらを見た。

睫毛が、細かく震えている。


「教母様にお会いできるのは、信徒として、一生の誉れですから」


声は低くて、きれいだった。


押しつけがましさはない。

けれど、揺るぎもなかった。


俺は、もう少しだけ踏み込んでみた。


「教母様って、どんな方なんだ?」


ソフィアは少しだけ考えてから、答えた。


「私が……言葉にできる方ではありません」


「……それ、答えになってないだろ」


「申し訳ありません。ですが、会えば分かります」


会えば分かる。


その言い方は、こちらの世界でもたぶん、世界共通だった。


──あ、こいつ、本気のガチだ。


頭の中で、それだけ確認する。


昨日、カイラに「ガチですよ♪」と言われたものが、目の前で形になっていた。


ライナーは何も言わなかった。


ライナーが何も言わない。

そのことに、何かの含みがある気がした。


けれど、それを訊く空気でもなかった。


馬車が止まった。


「着いたぞ」


降りた先に、小さな家があった。


小さい。


その言葉が、ぴったりだった。


王宮の派手さとは、ほとんど反対側にある建物だった。


白漆喰の壁。

木の門。

庭には、薬草らしき緑の束がいくつか、土に並んでいる。


香りが、ふわっと鼻に入った。


乾いた葉と、湿った土の匂い。


祭壇のような大きなものはなかった。

代わりに、玄関の扉の脇に、控えめな銀の意匠が一つだけ嵌め込まれている。


光の輪のような形。


たぶん、「光の父」と呼ばれている、この国の神の象徴だった。


ライナーが門の前で足を止めた。


「俺はここで待つ」


「……はい」


「お前とソフィアだけでお入りしろ」


ライナーは、それ以上何も言わなかった。


門の脇の低い石に寄りかかるようにして、姿勢を整える。

教母の前に、自分は出ない。


そういう形だった。


ソフィアが扉に近づき、軽く叩いた。


「失礼いたします。お連れいたしました」


中から、女の声が応えた。


「どうぞ……お入りなさい」


低くて、柔らかな声だった。


扉が、内側から開く。


中は、外と同じくらい質素だった。


板の床。

木の机。

低い長椅子。


壁には刺繍の布が、一枚だけ掛かっていた。

それも派手なものではない。


白い布に、淡い金糸で光の輪が控えめに縫い取られていた。


窓辺の木の椅子に、老婦人が座っていた。


銀色に近い白い髪。

穏やかな線の顔。

質素な白い衣。


膝の上に、小さな手がゆっくり組まれている。


歳は、六十くらいに見えた。


けれど、若いとも、年寄りとも、決めつけにくい顔だった。


老婦人が、ゆっくり立ち上がる。


その動きは、思ったよりも軽かった。


「ようこそ……北見直人様」


声は、扉越しに聞いたものと同じ温度だった。


ソフィアが、その場で深く頭を下げる。

頭を下げたまま、彼女の肩が軽く揺れていた。


俺は、ライナーに教えてもらえなかった礼の作法を、その場で見様見真似した。


老婦人がこちらに近づいてくる。


足音は、ほとんどしなかった。


俺の前まで来る。


そして、両手で俺の手を包んだ。


掌の温度が、皮膚にふっと伝わる。


「私は……四十年……あなたを待っていたのです」


頭が、一拍止まった。


──四十年?


昨日、王が口にした「四十年」。


それが今日、目の前で繰り返された。


昨日は、玉座の上の声だった。

今日は、両手で俺の手を包んでいる声だった。


「……あの」


「私はもう……お会いできずに死ぬのだろうと思っていました」


老婦人の声は、震えていなかった。


ただ、深いところから、ゆっくり出てきている。


「神は……私の生のうちに、あなたを送ってくださった。約束の地への道を……共に歩む者として」


──約束の地。


また、初めて聞く言葉だった。


何が「約束」されていて。

どこが「地」なのか。


何ひとつ分からない。


教母は、それを説明しなかった。

説明する気配もなかった。


「は……はあ……」


口から出たのは、それだけだった。


頷く以外の選択肢が、その瞬間には思いつかなかった。


ソフィアの目に、涙が滲んでいた。


俺ではなく、教母の言葉に対しての涙だった。


彼女の頬骨のあたりで、それは止まったまま、こぼれなかった。


──ソフィア、泣いてるよ。


頭の中で、そっと確認する。


これマジで何の話だ。


その言葉が後ろに続きそうになった。

続けなかった。


続ける場面じゃない。


『直人さん♪』


頭の上で、カイラがいつも通り明るく光った。


『教母様、敵意ゼロです♪ 純度百パーセントの好意ですよ♪』


──純度百パーセントって、それ余計に怖いやつだろ。


口には出さなかった。


口に出していたら、たぶん声が震えた。


教母の手は、まだ俺の手を包んでいた。


優しい手だった。


皺がいくつか走っている。

それでも皮膚は、思っていたよりなめらかだった。


──うわ。


正直、最初に頭をよぎったのは、その一語だった。


日本にいた頃。


駅前でマイクを握った人。

家のチャイムを鳴らしてくる人。

急に「お話を聞いてください」と言ってくる人。


そういう人たちは、もれなく避けてきた。


全部、関わりたくないやつだった。


今、目の前にいる老婦人は、それの上位互換だった。


品がある。

優しい。

温度がある。


しかも、拒否できない構造に、俺はもう置かれている。


──関わりたくない。


それが本心だった。


でも、何もできなかった。


王に紹介されている。

ライナーは「教母様がお目を留めた」と言った。

ソフィアは涙ぐんでいる。


ここで「失礼します」と席を立つ選択肢は、たぶんない。


あったとしても、立つだけの元気が俺にはなかった。


「お話は……また少しずつ」


教母が、ゆっくり俺の手を離した。


「今日は……ただお会いできただけで」


そして、目をほんの少し細める。


「お茶を淹れますね」


老婦人は、奥の小さな炉のほうへ歩いていった。

相変わらず、足音はほとんどしない。


湯を沸かす、小さな音。

乾いた葉を器に落とす、もっと小さな音。


俺は、低い長椅子にソフィアと並んで座っていた。


肘の置き場が分からない。


膝の上に両手を置く。

組み直す。

また戻す。


落ち着かない。


カップが机に置かれた。


湯気が、ゆっくり立ち上る。

淡い、青草のような香りだった。


「あなたは……お疲れでしょう」


教母が、向かいの椅子に座り直した。


「慣れない世界に……いらしたのですから」


──慣れない世界。


知ってるのか?


頭の奥で、警報がもう一度点いた。


点いた。


それでも、俺は何も訊かなかった。


訊いてしまえば、たぶん何かを認めることになる。


何を、とは分からない。

けれど、認めたくない何かが確かにあった。


「ゆっくり、お茶をお飲みなさい」


カップに手を伸ばした。


熱い。


一口、含む。


少しだけ苦くて、後ろのほうに、ほのかな甘みがあった。


──まあ、いいか。


そう思った。


適当に頷いておけば、終わる。

それでたぶん、今日は解放される。


カップを両手で包んだ。


両手で、というのが自分でも思った以上に自然だった。


「ありがとうございます」


ソフィアが隣で、また軽く肩を揺らした。


今度は、声を出さずに何かを祈っていた。


教母の家を出たのは、昼少し前だった。


太陽は、空の真上に近づいている。

光が白く、強かった。


門の脇で、ライナーが姿勢をほとんど崩さずに待っていた。


「終わったか」


「はい」


それだけだった。


ライナーは、何が話されたか訊かなかった。


馬車に乗ってから、ソフィアが目元を軽く指で押さえた。

赤くなっている。


「直人殿」


「はい」


「教母様にお会いできて、本当に光栄です」


声が、まだ少しだけ湿っていた。


「……はい」


俺は、それしか返せなかった。


ソフィアが少しだけ間を置いて、こちらを見る。


「直人殿は、信仰をお持ちですか」


──きた。


「……いえ。特には」


ソフィアの表情は変わらなかった。


変わらなかった、ということは、たぶん不正解ではなかった。


「いずれ、お分かりになります」


そうだろうか。


たぶん、分からないままで終わる気がする。


それでも、口には出さなかった。


──俺、一生分の信仰の量を浴びた気がする。


頭の中で、それだけ呟く。


カイラは頭の上で、いつも通りぽうっと光った。


何も言ってこなかった。


今日は、いつもの解説をいつもより控えている。


たぶん、彼女なりの何かの判断があった。


王宮に戻った。


客間で、昼を過ぎてしばらくしたあと、扉が叩かれた。


ライナーだった。


「明日、陛下がお前を軍師として正式に任命する」


「……え?」


「教母様の判断だ。陛下は了承された」


「いや……待ってください。俺、何も聞いてないんですが」


ライナーは答えなかった。


答えない、ということが答えだった。


「……分かりました」


口が勝手に言っていた。


分かったわけではない。


分かったわけでは、まったくない。


ライナーはそれだけ告げて、出ていった。


声に、いつもの抑揚と、もうひとつ何か別のものが混じっていた気がした。

けれど、それを見極めるには近すぎた。


扉が閉まる。


『軍師ですって♪』


頭の上で、カイラがようやく解説に戻った。


「カイラ」


『はい♪』


「これ、ヤバい流れだな」


『たぶん♪』


たぶん。


今日、何度目のたぶんだったかは、もう数えていなかった。


俺は立ち上がって、客間の窓に近づいた。


夜の聖都は、まだ昨日と同じ場所にあった。


燭台の火。

暖炉の火。

誰かの夕食の火。


点々と、続いている。


そのどこか。

たぶん、どこかの家の窓辺に、教母が座っているはずだった。


──分からなかった。


口の中で、小さく呟く。


何が起きていたのか。

頭の中で、まだ整理できていない。


教母の手の温度だけが、まだ手のひらに残っていた。


それだけは、覚えていた。


ただ、選んだ覚えはなかった。


選ばなかった、ということを、選んだのだろうか。


それも、よく分からなかった。


頭の上で、淡い光が揺れている。

いつも通り、ぽうっと光っていた。


視界の端に、半透明の文字が浮かび上がる。


《軍師任命イベントが発生しました》

《拒否権:未確認》


「……未確認って何だよ」


カイラは、答えなかった。


分からないまま、俺は絹の長椅子に戻った。

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ε(・Θ・。)з~『読了、お疲れ様でした〜♪ 楽しんでいただけた可能性が少しでもありましたら、下の☆☆☆☆☆評価やブックマークが有効です♪ 作者さんの継続率が上がります。たぶん♪』
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