死 ── 勝利の翌朝、AI相棒と戦場処理を任された件
翌朝、ハルム橋はまだ立っていた。
それだけで、少し気分がよかった。
昨日、あれだけ必死に守った橋が、朝の光の中で普通にそこにある。
石の欄干。
濡れた路面。
北岸に立つ青い旗。
勝った場所は、朝になると観光地っぽく見える。
いや、見えるはずだった。
実際には、そうでもなかった。
橋の上には、割れた盾が落ちていた。
折れた槍。黒く焦げた布。倒れた樽。踏み潰された矢。
それから、赤黒いもの。
最初は泥かと思った。
でも、泥にしては色が濃かった。
「血、か」
口に出すと、急に現実味が出た。
『はい。血液です』
カイラが、いつもより少しだけ声を落として言った。
いつもより、少しだけ。
本当に少しだけだった。
「見なくても分かるんだな」
『色、粘度、周辺の足跡、飛散方向から推定可能です♪』
「朝から解析が具体的」
『お役に立ちます♪』
それはそう。
それはそうなんだけど。
橋の下から、川の音が聞こえる。
昨日は勝利の音みたいに聞こえた。
今朝は、血を流している音みたいに聞こえた。
ライナーは北岸のたもとにいた。
兜を脱ぎ、腕を組み、橋の向こうとこちらを交互に見ている。
周囲では兵士たちが忙しく動いていた。
「軍師殿」
「はい」
「橋頭堡の整理を行う。見ておけ」
「俺もですか」
「次の戦のために必要だ」
次の戦。
もう次。
昨日勝ったばかりなのに、もう次。
ゲームなら勝利画面が出て、経験値が入って、宿屋で休んで、次の町だった。
ここには勝利画面がなかった。
あるのは、後片付けだった。
ライナーが短く指示を出す。
「負傷者を先に南岸へ送れ。橋中央の樽と工具を除去。工兵は桁を確認。捕虜は二列で集めろ。死者は……日が高くなる前に分ける」
死者。
その言葉だけ、耳に残った。
マルコが俺の隣に立った。
今日は干し肉を持っていない。
「使徒様、足元にお気をつけください」
「ああ」
「滑ります」
「血で?」
マルコは少し黙ってから、頷いた。
「はい」
変な確認をした。
でも、聞かないと歩けない気がした。
最初の死体は、橋の北側の土手にあった。
横向きに倒れている。
革の鎧。裂けた袖。土で汚れた髪。
顔は半分だけ見えていた。
寝ているようにも見えた。
でも、寝ている人間は、あんなふうに目を開けたまま動かない。
「……っ」
喉が詰まった。
吐くほどではない。
叫ぶほどでもない。
ただ、身体の奥が一段、冷えた。
『生命反応なし。死亡しています』
「分かる」
小さく返した。
分かる。
見れば分かる。
いや、見たくないから、分かりたくない。
マルコが俺の前に少し出た。
「使徒様、無理に近づかなくても」
「大丈夫」
大丈夫ではない。
でも、ここで戻るのも違う気がした。
死体は怖い。
気持ち悪い。
でも、これは戦場だから、たぶん、こういうものなのだろう。
そう思うしかなかった。
兵士たちは慣れていた。
いや、慣れているように見えた。
二人一組で死者を運ぶ。
味方は布をかけ、胸元の札を確認する。
敵は武器を外し、まとめて北側のくぼ地へ運ぶ。
従軍司祭が味方の亡骸の前で祈りを捧げていた。
別の司祭は、敵の死体にも短く印を切っている。
「神敵にも祈るんだな」
思わず呟いた。
マルコが少しだけ顔をしかめた。
「祈るというより、穢れを残さないためです」
「そういうものか」
「そういうものです」
マルコの声は硬かった。
でも、怒っているほどではなかった。
そういうもの。
便利な言葉だ。
俺も、さっき使った。
味方の兵士が一人、布の上に寝かされていた。
その少し先に、敵兵が転がっていた。
鎧の形と紋章が違う。
それ以外は、あまり変わらない。
顔色も、手の形も、口元についた泥も。
どちらも、ただ動かなかった。
「使徒様」
ソフィアの声がした。
振り向くと、彼女は板ばさみの書類を抱えて立っていた。
顔色は悪い。
それでも字はきれいだった。
「戦死者名簿の確認を行っています。軍師府にも控えが必要です」
「軍師府」
まだその言葉に慣れない。
「はい。味方の戦死、重傷、行方不明。敵の戦死、捕虜、逃走方向。橋の損傷。使用可能な荷車。すべて、次の行軍判断に関わります」
死体も、書類になる。
そう思った瞬間、少しだけ見やすくなった。
少しだけ。
嫌な楽になり方だった。
『直人さん、戦場処理の優先順位を整理します♪』
カイラが頭の上でくるりと回った。
『一、負傷者搬送。二、橋の破壊準備物除去。三、橋桁安全確認。四、死者の身元確認。五、捕虜集約。六、北岸の防御線再構築です♪』
「リストにすると仕事っぽいな」
『仕事です♪』
「だよな」
仕事。
そう考えると、息がしやすくなった。
エンジニア時代、障害対応のあともそうだった。
まず影響範囲。
次に暫定対応。
それから原因確認と再発防止。
死人は出ない。
血も出ない。
そこは全然違う。
でも、混乱しているものを項目に分ける感じだけは似ていた。
「ソフィア大尉」
「はい」
「名簿を三つに分けられますか。確認済み、未確認、行方不明。あと、負傷者は搬送先ごとに別で」
ソフィアの目が少し開いた。
「搬送先ごと、ですか」
「はい。後で誰がどこにいるか探すの、たぶん大変なので」
『とても大変です♪』
カイラが同意した。
「それと、橋の作業に回した人数も記録してください。死者と負傷者だけ見ると、動ける人数を間違えます」
言いながら、自分でも少し驚いた。
これ、俺が言っていいやつなのか。
ソフィアはすぐに頷いた。
「承知しました。使徒様のご指示として整理します」
「いや、そんな大げさな」
「使徒様のご指示です」
強い。
書記官みたいな顔で、信仰が強い。
ソフィアは近くの兵士を呼び、短く指示を出した。
兵士たちの動きが少し変わる。
名前を読み上げる者。
札を確認する者。
負傷者の搬送先を記す者。
捕虜の列を数える者。
混ざっていたものが、少しずつ列になっていく。
『良い整理です♪混乱損失が減ります♪』
「混乱損失って言い方、嫌だな」
『でも減ります♪』
「ならいいか」
いいのか。
たぶん、いい。
昼前には、橋の上から樽と工具が片付いた。
工兵隊長が、泥だらけの顔で報告に来る。
「橋桁、使用可能です。西側の石積みに浅い傷がありますが、荷車の通行に問題なし」
ライナーが頷いた。
「今日中に先遣二千を渡す。夕刻までに北岸土塁を築け」
「はっ」
数字が飛ぶ。
命令が飛ぶ。
人が動く。
その横で、死体も動く。
死体は自分では動かない。
誰かが運ぶ。
それが、変に目についた。
マルコが一人の味方兵のところで足を止めた。
布をかける前に、顔を見たらしい。
「ベルド」
小さな声だった。
「知り合いか」
「昨日、火の番を代わってくれました」
マルコはそれだけ言うと、胸の前で光の輪の印を切った。
顔は笑っていなかった。
でも、泣いてもいなかった。
次の瞬間には、別の兵士と一緒に亡骸を持ち上げていた。
俺は何も言えなかった。
言えないまま、手元の板に線を引いた。
確認済み。
ベルド。
第七槍兵隊。
名前を書くと、人間が一行になる。
一行になると、運べる。
そういうものなのかもしれない。
午後、北岸のくぼ地に土がかけられた。
敵兵の死体がまとめて埋められていく。
味方の亡骸は、南岸の野営地へ運ばれる。
扱いは違う。
でも、土の色は同じだった。
「使徒様」
マルコが戻ってきた。
袖に泥がついている。
手も汚れていた。
「大丈夫か」
聞いたのは俺のほうだった。
マルコは少し意外そうな顔をして、それから笑った。
「大丈夫です。食べられる時に食べるのが大事ですから」
「そこでそれに戻るのか」
マルコは腰の袋から、干し肉を出した。
持ってた。
今日は持ってないと思ったのに、持ってた。
「使徒様もどうぞ」
「今日それ食べられるかな」
言った直後、腹が鳴った。
ひどいタイミングだった。
マルコが目を丸くして、それから大きく笑った。
「食べられます!」
「決めるな」
でも、受け取った。
硬い。
塩辛い。
昨日と同じ味だった。
血の匂いがまだ鼻に残っている。
土の匂いも、煙の匂いも残っている。
それでも、干し肉の味は分かった。
食べられる。
なら、たぶん大丈夫だ。
夕方、ハルム橋の北側には新しい土塁ができていた。
低い。
粗い。
でも、こちら側のものだと分かる。
青い旗は二本に増えていた。
橋の上を、最初の荷車がごろごろと渡っていく。
その音を聞いて、兵士たちが小さく歓声を上げた。
勝った後の仕事が、勝ちを本物にしていく。
ライナーが隣に立った。
「軍師殿」
「はい」
「よく整理した。明日の行軍が楽になる」
「俺というより、ソフィア大尉と兵士たちが」
「指示したのはお前だ」
またそれだ。
でも、今日は反論する元気があまりなかった。
「……はい」
そう答えると、ライナーは短く頷いた。
カイラが頭の上で小さく跳ねる。
『直人さん、橋頭堡整理、成功です♪』
「成功、か」
『はい♪損耗後の再編と渡河継続判断、たいへん良好です♪』
「言い方が固い」
『軍師っぽくしました♪』
「そこは寄せなくていい」
笑いかけて、少しだけ息が抜けた。
北岸の土はまだ新しい。
その下に何があるかも、さっき見た。
でも、橋は残った。
荷車は渡った。
兵士たちは進む準備をしている。
それが今日の結果だった。
死体は怖い。
気持ち悪い。
でも、戦場には死体がある。
勝ったあとにも、仕事がある。
たぶん、そういうものなのだ。
俺は干し肉の残りを噛みながら、二本に増えた青い旗を見上げた。




