第93話 聖女様は、空気に命令書を探す
「共同体が、使用者の慈悲を規範として学習する」
リリアは古い紙を読んだ。
もう一度、読んだ。
三度目は、声に出さなかった。
机の向こうで、ルーメンが待っている。
「……つまり」
「はい」
「私が慈光環に触れたせいで、みんなが私みたいになってる?」
「記録をそのまま読めば、そう見えます」
「嫌です」
「お気持ちの話ではなく」
「そうじゃなくて」
リリアは紙を置いた。
「その説明、便利すぎません?」
ルーメンの眉が少し上がった。
「便利?」
「だって、最近起きていることを全部、慈光環のせいにできるじゃないですか」
学校給食。
外出制限。
健康指導。
救済施設。
生活習慣。
本人が命じていないのに、各地で使われ始めた「最高導師の理念」。
「聖具の影響でした。仕方ありませんでした」
リリアは両手を広げた。
「はい、終了」
「……確かに」
「そんなの、監査じゃないです」
◇
資料は二百十三年前のものだった。
慈光環を使ったセレナ・アルトリウスの時代。
飢饉。
疫病。
暴動。
救済。
そして、終わらなくなった善意。
だが、問題の《第二観測記録》を書いた人物の名前はなかった。
署名欄。
削れている。
「誰が書いたか分からない?」
「今のところは」
「他の記録との照合は?」
「始めています」
「《学習する》って、魔術的に?」
「それも不明です」
「じゃあ」
リリアは紙の一文を指した。
「これは事実じゃなくて、二百十三年前の誰かの解釈かもしれない」
「はい」
「まず、そこからですね」
◇
慈光環。
地下。
封印室。
リリアは扉の前まで来た。
入らない。
扉。
開けない。
「触りませんよ」
「何も言ってません」
「ルーメン、その顔は言ってます」
「どんな顔です?」
「最高導師がまた余計なことしそうだなあ、という顔」
「よくお分かりで」
「最近、扱い雑じゃない?」
「親しくなった証拠です」
「便利な言葉!」
◇
封印室の外。
魔術師。
三人。
聖具研究者。
二人。
医師。
一人。
そして。
「なんで料理人?」
リリアが聞いた。
「比較対象です」
「何の?」
「慈光環に接触していない光秩院職員」
「料理長である必要は?」
「たまたま暇だったので」
「昼飯前ですよ!?」
料理長が腕を組んだ。
「最高導師様、十五分でお願いします」
「私が怒られてる」
◇
検査。
魔力。
精神。
記憶。
感情。
六人。
さらに。
慈光環へ直接接触したリリア。
近くにいた者。
遠方勤務。
地方職員。
比較する。
三日。
結果。
「分かりません」
研究者が言った。
「潔い」
「少なくとも、一般的な精神干渉魔術の痕跡は確認できません」
「私にも?」
「ありません」
「じゃあ、夢は?」
「疲労」
「即答」
「睡眠時間を増やしてください」
「はい」
◇
ただ。
一つ。
妙な。
結果。
あった。
慈光環。
触れていない。
地方。
職員。
最高導師。
理念。
強く。
意識。
する。
一方。
慈光環。
近く。
働く。
料理長。
「聖女様の理念?」
首。
傾げる。
「飯は温かいうちに食わせる、ですかね」
「私、そんな理念出しました?」
「知りません」
「ですよね」
◇
リリアは報告書を閉じた。
「距離じゃない」
「そのようです」
「じゃあ何?」
ルーメン。
少し。
考える。
「情報?」
◇
そこから。
調べる。
慈光環ではない。
リリアの言葉が、どう運ばれているか。
新聞。
説教。
学校教材。
地方官向け通知。
医療研修。
救済院。
広報。
そして。
民間。
出版。
◇
「何これ」
リリアは冊子を持った。
表紙。
自分。
いる。
実物。
より。
三割。
神々しい。
背後。
光。
差す。
手。
胸。
当てる。
タイトル。
『聖女リリア様の、心と身体を守る七つの教え』
「私、書いてない」
「民間出版です」
「七つも教えてない」
「売れております」
「何部?」
「十二万部」
「十二万!?」
◇
読む。
第一。
早寝早起き。
第二。
野菜を食べる。
第三。
酒を控える。
第四。
争わない。
第五。
清潔にする。
第六。
困った人を助ける。
第七。
命を大切にする。
「……」
「いかがです?」
「だいたい良いこと」
「はい」
「だから困る!」
◇
さらに。
巻末。
ある。
《聖女様は、肉食を控え、清らかな食事を推奨されています》
「してません」
「はい」
「昨日、串二本食べました」
「三本です」
「……」
「比較分を忘れております」
「そこ記録しなくていい!」
◇
発行元。
呼ぶ。
編集者。
三十四歳。
女性。
来る。
悪びれた様子。
ない。
むしろ。
緊張。
しながら。
嬉しそう。
「お会いできて光栄です!」
「ありがとうございます。あの」
「はい!」
「私、肉食べます」
「存じております」
「え?」
「先日の孤児院での串焼きも」
「なんで知ってるの!?」
「新聞に」
リリア。
ルーメン。
見る。
「載りました?」
「小さく」
「恥ずかしい!」
◇
「じゃあ、なぜ肉食を控えるって?」
「聖女様のお考えを、分かりやすく伝えるためです」
「私の考え?」
「生命を尊重されております」
「はい」
「動物も命です」
「はい」
「ですので」
「待って」
リリア。
手。
上げる。
「その間に橋が一本ありません?」
◇
編集者。
きょとん。
「生命を大切にする」
「はい」
「動物も生命」
「はい」
「だから肉食を控える」
「はい」
「最後、私じゃないですよね?」
「……」
「あなたですよね?」
◇
編集者。
黙る。
悪意。
ない。
本当に。
良いこと。
広めたい。
人。
「でも」
彼女は言った。
「間違っていますか?」
リリア。
止まる。
「肉を減らすこと自体?」
「はい」
「場合によります」
「健康にも良いです」
「場合によります」
「家畜を育てる穀物を、人へ回すこともできます」
「地域によります」
「命を奪う数も」
「それは」
リリア。
一度。
息。
吐く。
「あなたの考えとして書いてください」
◇
「私の?」
「はい」
「でも、私では読まれません」
来た。
リリア。
少し。
目。
伏せる。
「聖女様のお名前なら」
編集者。
続ける。
「読んでもらえます」
◇
また。
同じ。
井戸。
学校。
救済院。
今度。
本。
正しい。
こと。
届けたい。
でも。
自分。
名前。
弱い。
だから。
借りる。
リリア。
名前。
「売るため?」
ルーメンが聞いた。
「それもあります」
編集者は正直だった。
「本が売れなければ、次の本を作れませんから」
「なるほど」
「ただ、本当に良いことだと思って」
「分かります」
リリア。
言う。
「だから、私も困ってます」
◇
発禁。
できる。
最高導師。
権限。
ある。
虚偽。
訂正。
求める。
こと。
できる。
でも。
「回収はしません」
「よろしいのですか?」
「私が言っていない部分は、次版で訂正してください」
「はい」
「あと」
冊子。
返す。
「私の顔、光らせすぎ」
「そこは売上に」
「訂正してください」
「そこも!?」
◇
ただ。
問題。
本。
一冊。
ではない。
調べる。
出る。
出る。
『聖女様の子育て』
リリア。
子。
いない。
『最高導師に学ぶ夫婦円満』
リリア。
結婚。
してない。
『聖女式・朝の十五分健康法』
「私、朝弱いです」
「存じております」
「これ誰!?」
◇
民間。
だけ。
ではない。
地方。
説教。
司祭。
言う。
「最高導師様は、節制を尊ばれる」
学校。
教師。
言う。
「聖女様なら、お友達と喧嘩しません」
救済院。
職員。
言う。
「聖女様は我慢のできる方です」
親。
子。
言う。
「聖女様を見習いなさい」
誰も。
命令。
されていない。
誰も。
慈光環。
触れていない。
ただ。
便利。
なのだ。
「聖女様なら」
その一言が。
◇
リリアは自分の執務室で、椅子に深く座った。
「これ」
ルーメン。
「はい」
「慈光環、要ります?」
「……」
「なくても起きません?」
ルーメンは答えなかった。
代わりに、別の資料を差し出す。
二百十三年前。
セレナ。
時代。
説教集。
題。
『慈母セレナの十二訓』
本人。
書いた。
もの。
ではない。
「同じだ」
◇
さらに。
古い。
日記。
地方。
司祭。
書く。
《セレナ様は、そのようなことを仰ってはいない。》
次。
《しかし民は、“セレナ様ならそう願われる”と言う。》
次。
《やがて、本人の言葉より、皆が想像したセレナ様の方が強くなった。》
リリア。
背筋。
冷える。
◇
「慈光環が共同体へ魔術をかけた」
リリア。
言う。
「そういう意味じゃなかったのかもしれない」
「では?」
「セレナ様の慈悲が強くなった」
「はい」
「人を救った」
「はい」
「尊敬された」
「はい」
「みんなが真似した」
「……はい」
「それを見た誰かが」
古い記録。
触れる。
「《共同体が学習した》って書いた」
◇
魔法。
ではない。
もっと。
普通。
もっと。
古い。
人間。
仕組み。
尊敬。
模倣。
安心。
権威。
空気。
「聖具のせいなら」
リリア。
小さく。
笑った。
「封印すれば終わったのに」
◇
その日の午後。
リリア。
声明。
出す。
短い。
《私が言っていないことを、“聖女様ならこう言う”という形で私の意見にしないでください。》
さらに。
《皆さんが良いと思ったことは、皆さんの名前で話してください。》
最後。
少し。
迷う。
書く。
《私と違う考えでも構いません。》
◇
三日後。
新聞。
見出し。
《最高導師、多様な意見を尊重するよう国民へ要請》
「……」
リリア。
新聞。
置く。
「違う」
「何が?」
「また私の理念になってる!」
ルーメン。
笑い。
堪える。
「笑ってます?」
「いえ」
「肩!」
「失礼しました」
◇
一週間後。
地方。
新しい。
標語。
できる。
《聖女様の教え――自分の意見を持とう》
「だから!」
リリア。
机。
叩く。
「それをやめろって言ってるの!」
◇
エレノアが珍しく、声を上げて笑った。
元最高導師。
今。
助言役。
「笑い事じゃありません!」
「ごめんなさい」
「全然ごめんなさいの顔じゃない!」
「だって」
エレノア。
目尻。
拭う。
「最高導師が《私を権威にするな》と権威をもって命じているんですもの」
「前にも言われました!」
「解けました?」
「解けてません!」
「でしょうね」
◇
エレノア。
茶。
飲む。
「リリア」
「はい」
「あなた、みんなから普通の人に戻りたい?」
「……」
難しい。
質問。
「最高導師を辞めるという意味ですか?」
「違うわ」
「じゃあ?」
「失敗する人。肉を食べる人。朝寝坊する人。意見を変える人。知らないことがある人」
エレノア。
笑う。
「そういう人だと、みんなに知られる覚悟はある?」
◇
リリア。
止まる。
これまで。
隠した。
つもり。
ない。
でも。
最高導師。
なって。
式典。
立つ。
言葉。
選ぶ。
失言。
しない。
誰も。
傷つけない。
正確。
公平。
穏当。
そんな。
言葉。
ばかり。
選ぶ。
結果。
どうなる。
間違えない聖女様。
作る。
手伝っていた。
自分も。
◇
「……怖いです」
リリア。
正直。
言う。
「何が?」
「幻滅されるの」
「でしょうね」
「支持が下がるかも」
「下がるでしょうね」
「即答ですね」
「上がるかもしれないけど」
「どっちです?」
「知らないわ」
エレノア。
さらり。
言う。
「未来の支持率なんて」
◇
その週。
最高導師府。
定例会見。
記者。
百人。
リリア。
演台。
立つ。
いつも。
原稿。
ある。
今日は。
閉じる。
「最初に」
記者。
見る。
「訂正があります」
◇
「私は、肉を食べます」
ざわ。
「お酒も、たまに飲みます」
ざわざわ。
「朝、弱いです」
笑い。
「この前、左右違う靴下で執務しました」
もっと。
笑い。
「あと、以前、診療所の予算配分を間違えました」
笑い。
止まる。
◇
「私の判断で、必要な薬の追加が二日遅れました」
記者。
ペン。
走る。
「幸い、亡くなった方はいません。でも、苦しい時間を長くした人はいます」
リリア。
息。
吸う。
「私は正しくありません」
◇
静か。
「正しくありたいと思っています」
続ける。
「でも、それは違います」
◇
「私が言ったから正しい、ではありません」
「私が言っていないから間違い、でもありません」
「皆さんが考えて、決めてください」
少し。
笑う。
「できれば、私よりちゃんと」
◇
記者。
一人。
手。
上げる。
「最高導師猊下」
「はい」
「それでも、国民は判断に迷います」
「はい」
「命に関わる問題で、専門知識もない人に《自分で考えろ》というのは、責任放棄では?」
リリア。
すぐ。
答えない。
「そうですね」
◇
記者。
少し。
驚く。
「全部、自分で決めろという意味ではありません」
「では?」
「医者には、医者の仕事があります。行政には行政。教師には教師。最高導師にも仕事があります」
「はい」
「でも」
リリア。
演台。
手。
置く。
「専門家に任せることと、自分の人生まで渡すことは、同じじゃないと思います」
◇
別。
記者。
「では、最高導師猊下の役割は?」
リリア。
考える。
昔。
なら。
人々。
救う。
そう。
答えた。
今。
「……決めるための材料を、できるだけ公平に用意すること」
「それだけですか?」
「あと」
少し。
笑う。
「決めたあと、間違っていた時に戻れるようにすること」
◇
翌朝。
支持率。
調査。
出る。
九十三。
から。
「八十七」
ルーメン。
言う。
リリア。
数字。
見る。
「六ポイント下がりましたね」
「はい」
「どうします?」
「……」
リリア。
少し。
考える。
それから。
笑う。
「よかった」
◇
「よかった?」
「だって」
新聞。
畳む。
「六パーセントの人が、私を疑えるようになった」
「単純に肉食で幻滅した可能性も」
「そこは今いらない!」
◇
ただ。
同じ。
調査。
別。
項目。
ある。
《最高導師が誤る可能性を考えたことがありますか》
以前。
二十一パーセント。
今回。
六十四。
「……」
リリア。
その数字。
長く。
見る。
「これ」
「はい」
「嬉しい」
◇
その夜。
ノート。
開く。
書く。
《空気には、命令書がない。》
次。
《だから、誰が命令したかを探しても見つからない。》
次。
《私を神棚から下ろす仕事は、私にもできる。》
少し。
考え。
最後。
《ただし、“神棚から下りる聖女様”まで美談にされたら、たぶんまた最初から。》
「……ありそう」
自分。
書いて。
嫌。
なる。
◇
翌朝。
新聞。
一面。
リリア。
写真。
昨日。
会見。
見出し。
《神棚から降りた聖女――国民と共に迷う最高導師》
「…………」
ルーメン。
新聞。
そっと。
取り上げる。
「破ります?」
「駄目です」
「燃やします?」
「もっと駄目!」
「では?」
リリア。
机。
突っ伏す。
「放っておきます……」
「成長ですね」
「たぶん……」
◇
王国。
同じ。
新聞。
クラリス。
読む。
「神棚から降りた聖女」
ルシアン。
覗く。
「格好いいですね」
「そうですね」
「リリア様、成功?」
クラリス。
すぐ。
答えない。
記事。
最後。
読む。
「半分」
「残り半分は?」
「これで」
新聞。
畳む。
「《自分を疑える私は大丈夫》と思わなければ、成功です」
◇
セバス。
茶。
置く。
「厳しいですね」
「私にも同じです」
「お嬢様はご自分を疑われますか?」
「もちろん」
「ヨル様への食費については?」
クラリス。
止まる。
足元。
ヨル。
いる。
「わふ」
「……必要経費です」
「疑っておられませんね」
「ここは監査対象外です」
◇
ヨル。
腹。
出す。
ごろん。
クラリス。
見る。
「今日は寝ませんよ」
「わふ」
「昨日も寝ましたから」
「わふ」
「私は仕事が」
三分後。
◇
「お嬢様」
「……」
「比較研究ですか?」
ヨル。
腹。
クラリス。
頭。
乗る。
「静かにしてください」
「承知しました」
◇
そして。
同じ頃。
聖協国。
北部。
小さな町。
学校。
給食。
会議。
していた。
これまで。
肉。
週。
二回。
野菜。
増やす。
方針。
最高導師。
生命尊重。
理念。
理由。
だった。
しかし。
リリア。
自ら。
言った。
《私の言葉を正しさの証明にしないでください》
「では」
委員。
一人。
「元に戻しましょう」
◇
安い。
加工肉。
増える。
野菜。
減る。
予算。
浮く。
保護者。
喜ぶ。
子ども。
肉。
喜ぶ。
多数。
賛成。
決まる。
誰も。
悪くない。
◇
一か月後。
町医師。
報告。
見る。
低所得。
家庭。
子ども。
十二人。
鉄。
ビタミン。
不足。
傾向。
そのうち。
一人。
少女。
以前。
学校。
昼。
だけ。
野菜。
まとも。
食べていた。
◇
大事には。
至らない。
治せる。
食事。
戻せる。
でも。
報告書。
光秩院。
届く。
リリア。
読む。
「……」
ルーメン。
何も。
言わない。
「私の名前を」
リリア。
ゆっくり。
言う。
「外した結果?」
「それだけが原因とは言えません」
「でも」
「一因ではあります」
◇
リリア。
紙。
見る。
自分。
名前。
使う。
危険。
分かった。
外した。
正しい。
と思った。
そして。
良い。
制度。
一つ。
弱く。
なった。
「難しいなあ」
また。
同じ。
言葉。
出る。
◇
もし。
自分。
名前。
あれば。
守れた。
子。
いた。
かもしれない。
それでも。
名前。
使わせない。
方。
正しい。
のか。
それとも。
良い。
こと。
なら。
少しくらい。
使っても。
いい。
のか。
◇
リリアはノートを開いた。
ペン。
止まる。
今まで。
なら。
一行。
書く。
でも。
今日は。
書けない。
長い。
時間。
白い。
紙。
見る。
最後。
たった。
一文。
《私の名前で救えるなら、それでも使わない方がいいの?》
◇
その問いに。
答えは。
まだ。
なかった。
ただ。
慈光環。
地下。
眠る。
銀。
環。
何も。
言わない。
何も。
命じない。
それでも。
リリアの中で。
以前より。
ほんの少しだけ。
あの声に似た問いが。
自然な自分の声として。
聞こえ始めていた。
――救えるのに?




