第94話 聖女様は、自分の名前を一度だけ貸す
「戻します」
リリアは給食表を机に置いた。
向かいに座る町長が、目を丸くした。
「何を、でしょうか」
「野菜です」
「……野菜」
「はい」
町立学校三校。
児童四百八十七人。
その給食から減った、野菜。
正確には豆、葉物、根菜、それから週一回の果物。
「以前の献立に戻してください」
町長が困った顔をする。
「しかし、最高導師猊下」
「はい」
「以前の献立は、猊下の生命尊重理念を理由に導入されたものです」
「知っています」
「そして猊下ご自身が、そのような権威の使い方をやめるように、と」
「言いました」
「では……」
「だから今日は」
リリアは一度、息を吸った。
「私が言います」
◇
部屋の隅で、ルーメンが顔を上げた。
リリアは続ける。
「最高導師として、給食の栄養基準を一時的に戻すよう要請します」
「要請?」
「命令ではありません」
「しかし、最高導師から要請されれば」
「断れます」
「……実際に?」
「はい」
町長が黙った。
リリアも黙った。
二人とも分かっている。
断れる。
法律上は。
でも、最高導師本人が目の前まで来て「お願いします」と言っている。
それを普通のお願いと呼んでいいのか。
「断った場合」
リリアが先に言った。
「理由は求めません」
「はい」
「補助金にも、人事にも、今後の監査にも影響させません」
「はい」
「それを文書にします」
「そこまで?」
「そこまでです」
◇
町長は給食担当者を見る。
担当者は学校医を見る。
学校医は栄養士を見る。
最後。
栄養士。
四十代。
女性。
口を開いた。
「私は、戻した方がいいと思います」
「理由は?」
リリアが聞く。
「十二人だけではありません」
資料。
出す。
「明確な欠乏までは出ていませんが、家庭の所得が低い層ほど、給食変更後に栄養状態が悪化する傾向があります」
「どのくらい?」
「まだ三か月です。断定できません」
「それでも?」
「はい」
栄養士は言った。
「学校給食が、一日の中で一番まともな食事という子はいます」
◇
リリア。
知っている。
頭では。
でも。
言葉。
聞く。
違う。
「では」
町長。
言う。
「戻しましょう」
早い。
あまりに。
早い。
「待ってください」
「はい?」
「今、何で決めました?」
町長が固まった。
「栄養士の説明と」
「はい」
「医師の資料と」
「はい」
「最高導師猊下の要請を」
「割合で言うと?」
「割合?」
「三つのうち、どれが一番大きかったです?」
「……」
町長。
目。
逸らす。
「正直に」
「猊下です」
◇
やっぱり。
リリア。
胸。
少し。
痛い。
でも。
同時。
別の感情。
あった。
戻る。
これで。
給食。
戻る。
子ども。
食べる。
救える。
「……分かりました」
◇
帰り。
馬車。
ルーメン。
黙る。
リリア。
窓。
見る。
「何か言ってください」
「何を?」
「その沈黙、嫌です」
「成功したと思います」
「ですよね」
「栄養状態の改善という目的なら」
「ですよね」
「はい」
リリアは膝の上で指を組んだ。
「じゃあ、いいじゃないですか」
「私は何も言ってません」
「だから嫌なんです」
◇
二週間後。
給食。
戻る。
少女。
食べる。
豆。
嫌い。
人参。
普通。
ほうれん草。
かなり。
嫌い。
「残しちゃ駄目?」
「少しならいいよ」
教師。
言う。
少女。
豆。
食べる。
肉。
食べる。
パン。
食べる。
最後。
ほうれん草。
見る。
「……」
隣。
男の子。
「いらないならくれ」
「だめ」
「嫌いなんだろ」
「嫌いだけど食べる」
「なんで?」
「聖女様が食べろって」
◇
教師。
止まる。
「聖女様は、そんなこと言ってないよ」
「でも給食、聖女様が戻したんでしょ?」
「それは……」
「じゃあ食べた方がいいじゃん」
少女。
鼻。
つまむ。
食べる。
「まずい」
◇
報告。
リリア。
届く。
「……」
ルーメン。
読む。
「かわいい話では?」
「かわいいですけど」
「はい」
「これです」
「何が?」
「こうやって始まるんです」
◇
リリアは少女へ手紙を書いた。
短い。
《ほうれん草が嫌いでも大丈夫です。》
《食べられるものの中で、いろいろ食べてください。》
最後。
迷って。
《私も苦手な食べ物があります。》
そこまで書く。
ルーメン。
「何です?」
「言いません」
「国民のために」
「嫌です」
「最高導師の透明性」
「そこまで監査しなくていいです!」
◇
給食。
改善。
した。
一か月。
二か月。
数値。
戻る。
医師。
報告。
「良好です」
「十二人は?」
「全員、改善傾向」
「少女は?」
「問題ありません」
リリア。
笑う。
「よかった」
心から。
◇
その日の夕方。
別。
報告。
来る。
南部。
リオル市。
無料診療所。
予算。
不足。
閉鎖。
予定。
対象。
貧困。
労働者。
移民。
老人。
年間。
一万二千件。
診療。
「理由は?」
「市議会が、新しい中央広場の整備を優先しました」
「診療所より?」
「広場も老朽化しております」
「なるほど」
◇
資料。
読む。
広場。
必要。
避難場所。
市場。
祭り。
市民。
使う。
診療所。
必要。
病気。
怪我。
薬。
貧しい人。
使う。
予算。
両方。
できない。
「市が決めることですね」
「はい」
ルーメン。
答える。
リリア。
次。
ページ。
めくる。
無料診療所。
閉鎖。
場合。
推計。
慢性疾患。
治療。
中断。
二百八十。
から。
三百四十人。
◇
指。
止まる。
「……」
「リリア様」
「分かってます」
市。
決める。
こと。
最高導師。
介入。
しない。
それが。
地方。
自治。
◇
翌日。
リリア。
リオル市。
行かない。
代わり。
書簡。
送る。
《無料診療所の閉鎖について、再検討を要請します。》
◇
三日後。
市議会。
再審議。
診療所。
存続。
決定。
広場。
改修。
二年。
延期。
◇
早い。
また。
早い。
「……」
リリア。
決定。
見る。
「私、行ってないですよね」
「はい」
「手紙一枚ですよね」
「はい」
「こんなに?」
「はい」
◇
市議会。
議事録。
読む。
議員。
発言。
《最高導師猊下が再検討を求めている以上、閉鎖は困難である。》
別。
議員。
《猊下の意向に反してまで広場を優先する理由を、市民へ説明できない。》
別。
《生命を優先するのは当然である。》
リリア。
机。
離れる。
「当然」
◇
「広場」
リリア。
言う。
「いらなかったの?」
「必要です」
「じゃあ」
「優先順位です」
「誰が決めた?」
「市議会です」
「違う」
リリア。
議事録。
指す。
「私です」
◇
直接。
命令。
していない。
でも。
実質。
決めた。
「私」
リリア。
小さく。
言う。
「これ、便利すぎる」
◇
名前。
貸す。
救える。
給食。
戻る。
診療所。
残る。
たった。
手紙。
一枚。
軍。
いらない。
税。
上げない。
魔法。
使わない。
会議。
何十回。
しない。
人。
救える。
◇
慈光環。
必要。
ない。
自分。
名前。
もう。
聖具。
みたい。
なっている。
◇
「次から」
リリア。
言う。
「要請書に、欄を作ります」
「何の?」
「《最高導師の要請がなくても、同じ判断をしたか》」
ルーメン。
少し。
考える。
「回答者が正直に書くでしょうか」
「……」
「また難しい顔」
「じゃあ」
考える。
「要請を出す前に、現地の資料だけで再審議してもらう」
「それでも決まらなければ?」
「その時」
リリア。
止まる。
「私の意見を出す」
◇
順番。
変える。
まず。
現場。
考える。
次。
専門家。
見る。
その後。
必要。
なら。
最高導師。
意見。
言う。
「これなら」
「完璧?」
ルーメン。
聞く。
リリア。
笑う。
「その言葉、最近嫌いです」
「良い傾向です」
◇
そして。
問題。
来る。
北東部。
ベネト村。
子ども。
七十三人。
予防接種。
接種率。
四十二パーセント。
周辺。
感染症。
発生。
まだ。
村。
入っていない。
◇
以前。
リリア。
なら。
説明。
する。
拒否。
権利。
守る。
アクセス。
改善。
する。
実際。
ミレア。
そうした。
◇
今回。
時間。
ない。
隣村。
患者。
十九人。
うち。
子ども。
十一。
重症。
二。
「ワクチンは?」
「有効です」
「副反応」
「軽度が大半。重篤例は非常に稀です」
「接種できない子」
「四人」
「その子たちは?」
「周囲の接種率が上がれば、感染リスクが下がります」
◇
リリア。
資料。
見る。
頭。
中。
声。
する。
慈光環。
では。
ない。
自分。
声。
救える。
◇
「説明会を」
「明日、実施予定です」
「医師は?」
「三名」
「質問は全部受ける」
「はい」
「接種しない場合の不利益はなし」
「はい」
「拒否理由も求めない」
「はい」
以前。
同じ。
◇
三日後。
接種率。
五十八。
「……」
低い。
◇
一週間。
六十一。
隣町。
患者。
三十八。
◇
二週間。
六十三。
ベネト村。
最初。
患者。
出る。
九歳。
少年。
◇
リリア。
報告。
読む。
手。
冷たい。
「重症?」
「今のところは」
「家族は?」
「未接種です」
「学校?」
「接触者を確認中」
◇
会議。
始まる。
医師。
提案。
「学校への登校について、未接種児童は一時的に制限すべきです」
教育。
担当。
「実質的な接種強制になります」
「感染拡大すれば、接種できない児童も危険です」
「オンライン授業などありません」
「教材配布を」
「家庭環境によって学習格差が」
◇
全員。
正しい。
また。
これ。
◇
リリア。
聞く。
「未接種児童全員が感染源?」
「いいえ」
「接種済みなら感染しない?」
「いいえ」
「では」
「確率です」
医師。
言う。
「危険を下げます」
◇
「何パーセントまで上がれば?」
「八十五あれば、かなり」
「九十?」
「より安全です」
「百?」
「医学的に接種できない者がいるので不可能です」
◇
リリア。
思う。
八十五。
あと。
二十二。
パーセント。
最高導師。
自分。
行く。
説明。
する。
名前。
使う。
きっと。
上がる。
九十。
行く。
かもしれない。
子ども。
救える。
◇
「行きます」
ルーメン。
見る。
「ベネトへ?」
「はい」
◇
村。
集会所。
人。
いっぱい。
リリア。
前。
立つ。
ざわめき。
止まる。
それだけ。
もう。
圧力。
◇
「今日は」
リリア。
言う。
「接種してください、とお願いに来ました」
◇
静か。
以前。
なら。
言わなかった。
情報。
伝える。
選択。
尊重。
それで。
終わった。
今日は。
違う。
「接種には副反応があります」
「絶対に安全ではありません」
「接種しても感染することはあります」
「それでも」
一度。
止まる。
「今の状況では、私は接種した方がいいと思います」
◇
真正面。
言う。
「でも」
続ける。
「私が言ったから、ではなく」
そこ。
自分。
でも。
苦い。
「医師の説明を聞いて、決めてください」
◇
質問。
来る。
母。
「聖女様のお子さんなら、打たせますか?」
リリア。
子。
いない。
「同じ条件なら」
答える。
「私は、打たせると思います」
◇
空気。
動く。
分かる。
目。
変わる。
聖女様が言った。
◇
翌日。
接種率。
七十九。
三日後。
八十八。
◇
感染。
広がる。
それでも。
重症。
抑える。
接種。
できない。
四人。
感染。
しない。
少年。
回復。
死者。
ゼロ。
◇
村長。
泣く。
「ありがとうございました」
母親。
泣く。
「来てくださって」
医師。
「間に合いました」
◇
リリア。
嬉しい。
ものすごく。
嬉しい。
胸。
熱い。
救えた。
◇
そして。
それが。
怖い。
◇
帰り。
馬車。
リリア。
窓。
開ける。
冷たい。
風。
入る。
「ルーメン」
「はい」
「私」
「はい」
「今日」
言葉。
探す。
「名前、使いました」
「はい」
「効きました」
「はい」
「人が救われました」
「はい」
「……じゃあ」
◇
言えない。
でも。
もう。
問い。
形。
ある。
使える力を、使わない方が正しいのか。
◇
「リリア様」
ルーメン。
呼ぶ。
「はい」
「今日、村で一人、接種しなかった方がいます」
「え?」
「最終的に九人です」
「……」
「そのうち一人から、手紙を預かっています」
◇
リリア。
受け取る。
封。
普通。
紙。
開く。
女性。
三十二歳。
母。
書く。
◇
《最高導師様。》
《私は最後まで接種しませんでした。》
《あなたの説明は分かりました。医師の話も分かりました。》
《それでも怖かったからです。》
次。
《でも、あなたが村に来た日から、怖いと言えなくなりました。》
◇
リリア。
指。
止まる。
◇
《みんなが、“聖女様まで来てくださったのに”と言いました。》
《誰も私を脅してはいません。》
《誰も罰していません。》
《でも、私は三日間、村で買い物に行けませんでした。》
◇
次。
《接種した人が間違っているとは思いません。》
《私が正しいとも思いません。》
《ただ、聖女様が来る前より、断るのがずっと難しくなりました。》
◇
最後。
《それだけ知っていてほしいです。》
◇
馬車。
揺れる。
リリア。
何も。
言わない。
◇
「ルーメン」
「はい」
「この人」
「はい」
「怒ってる?」
「分かりません」
「私、謝った方が」
「それも、リリア様が決めることです」
◇
リリア。
もう一度。
読む。
怒り。
ではない。
責めても。
いない。
ただ。
記録。
している。
断りにくくなった。
◇
帰る。
夜。
ノート。
開く。
左。
ページ。
書く。
《接種率 六十三% → 八十八%》
《重症化抑制》
《死者 ゼロ》
《接種不能者への感染 ゼロ》
右。
ページ。
書く。
《「怖い」と言いにくくなった人 一人》
止まる。
違う。
消す。
書き直す。
《確認できた人 一人》
◇
他。
いる。
かもしれない。
数えられない。
◇
ノート。
閉じない。
真ん中。
大きく。
書く。
《救えた人数だけで、自分を正しいと思わない。》
以前。
自分。
書いた。
言葉。
戻る。
◇
「……危なかった」
小さく。
言う。
でも。
次。
思う。
本当に?
◇
死者。
ゼロ。
もし。
自分。
行かなかった。
死者。
出た。
かもしれない。
なら。
断りにくく。
した。
こと。
と。
命。
救った。
こと。
どう。
比べる。
◇
比べて。
いいのか。
◇
答え。
出ない。
その時。
机。
端。
手紙。
ある。
クラリス。
から。
数日前。
届いた。
まだ。
返事。
書いていない。
◇
リリア。
紙。
出す。
書き始める。
《クラリス様。》
止まる。
いつも。
なら。
相談。
する。
どう。
思いますか。
私は。
間違っていますか。
書く。
でも。
今日は。
やめる。
◇
代わり。
こう。
書く。
《最近、少し難しいことを考えています。》
《でも、もう少し自分で考えてみます。》
《答えが出たら、聞いてください。》
◇
封。
する。
その時。
リリアはまだ。
知らない。
これは。
クラリスから。
離れた。
のではない。
自分。
立つ。
ため。
必要。
距離。
だった。
◇
ただ。
同時に。
これまで。
迷う。
たび。
クラリスへ。
向いていた。
問い。
初めて。
自分。
中。
残った。
◇
そして。
その問いに。
答える。
材料。
一つ。
増える。
翌朝。
報告。
届く。
ベネト村。
近隣。
六つ。
村。
予防接種率。
急上昇。
最高。
九十五。
「私、行ってませんよね?」
「はい」
「説明会は?」
「各村で実施しました」
「なぜ?」
担当官。
少し。
嬉しそう。
答える。
「ベネト村での猊下のお言葉が広まったためです」
◇
文書。
見る。
そこ。
書いてある。
《最高導師猊下は、自らの子であれば接種させると明言された。》
◇
リリア。
顔。
上げる。
「私」
「はい」
「子どもいませんよ?」
「仮定のお話です」
「そこだけ切り取られてる!」
◇
さらに。
次。
報告。
別。
地方。
学校。
《最高導師の予防接種推奨を受け、未接種児童の行事参加について再検討》
「待って」
次。
《保護者説明会において、聖女様のご意思を尊重するよう――》
「待ってください」
次。
《接種を拒否する家庭に対し、個別説得を――》
「止めて」
◇
リリア。
立つ。
「全部、止めてください」
「しかし」
「私はそんなこと言ってない!」
声。
強く。
なる。
部屋。
静まる。
◇
リリア。
自分。
声。
聞く。
怒った。
珍しく。
◇
「推奨と」
息。
整える。
「強制は違います」
「はい」
「説得と圧力も違う」
「はい」
「私が接種すると思うことと」
文書。
持つ。
「この家庭も接種すべきだ、は違います」
◇
すぐ。
通知。
出す。
でも。
書きながら。
リリア。
分かる。
また。
同じ。
こと。
なる。
《聖女様は強制を禁じた》
それも。
新しい。
正しさ。
なる。
◇
ペン。
止まる。
「どう書けばいいの」
初めて。
弱い。
声。
出る。
ルーメン。
答えない。
◇
窓。
外。
街。
朝。
人。
歩く。
パン。
買う。
子。
学校。
行く。
馬車。
走る。
誰も。
悪くない。
みんな。
少しでも。
良く。
したい。
◇
だから。
広がる。
◇
慈光環。
地下。
眠る。
静か。
何も。
していない。
少なくとも。
今は。
◇
けれど。
最高導師リリア・セレスティア。
その名前は。
もう。
彼女の手元だけにはなかった。
善意。
期待。
不安。
責任回避。
尊敬。
救われた。
記憶。
全部。
少しずつ。
混ざって。
人から。
人へ。
渡る。
◇
命令書。
ない。
署名。
ない。
印章。
ない。
それでも。
世界。
動く。
◇
リリアはようやく。
気づき始めていた。
権力とは、命令できる力だけではない。
人が。
自分から。
「あの人なら、きっとこう望む」
と考え始めた時。
命令する必要すら。
なくなる。
◇
そして。
それは。
恐ろしい。
はず。
なのに。
同じ夜。
リリアは。
ベネト村。
報告書。
もう一度。
読む。
死者。
ゼロ。
その文字を見た時だけ。
どうしても。
胸の奥で。
小さく。
思ってしまった。
――それでも、救えた。




