第87話 聖女様は、断る自由のその先を見る
慈光環に触れてから、三日。
リリアは、特に変わらなかった。
朝は寝坊した。
昼は書類を一枚、スープへ落とした。
夜は靴下の左右をまた間違えた。
「同じです」
「違います」
「同じです」
「縫い目が」
「同じです」
ルーメンとの議論も変わらない。
だから、本人も安心していた。
あの時見えたものは、古い聖具に触れたせいで少し気分が悪くなっただけ。
そう思うことにした。
ただ。
前より少しだけ。
寝つきが悪かった。
目を閉じると。
時々。
知らない誰かの声がする。
――助けて。
そんな気がする。
◇
四日目の朝。
リリアの机へ、東部農村圏の児童健康報告が届いた。
「健康診査?」
「はい」
ルーメンが資料を置く。
「五歳から十二歳までの子どもを対象に、年一回実施しているものです」
「強制?」
「任意です」
「受診率は?」
「全体では七十七パーセント。ただ、東部山間地域では六十一パーセントです」
「低いですね」
「距離の問題もあります」
資料を読む。
身長。
体重。
視力。
歯。
皮膚。
栄養状態。
簡単な問診。
大きな病気を診断するものではない。
異常の兆候を早く見つけるための仕組み。
「受けない理由は?」
「面倒。遠い。必要性を感じない。医者が怖い。家族の仕事を休めない」
「宗教上の理由は?」
「少数ですが」
「断った人に不利益は?」
「ありません」
「なら」
リリアは一度頷いた。
「まず、受けやすくしましょう」
いつもの。
リリアだった。
◇
巡回診査。
学校だけでなく。
村。
週末。
市場の日。
家族が集まりやすい日に合わせる。
費用。
無料。
親が仕事で来られない場合は、本人同意と保護者の事前書面。
それでも。
強制しない。
「受けません、もあり?」
担当医。
「もちろんです」
リリア。
「説明はしてください。でも最後は本人と家族です」
「承知しました」
◇
一か月後。
受診率。
六十一。
から。
七十八。
「上がった!」
リリア。
喜ぶ。
「かなり」
「よかった」
ただ。
報告書。
一枚。
付いていた。
七歳。
少女。
ナナ。
診査未受診。
後日。
学校で黒板が見えないと訴える。
診察。
眼疾患。
進行。
早期なら簡単な治療で済んだ可能性が高い。
現在。
長期治療。
「……」
リリア。
読む。
二度。
「この子」
「はい」
「去年も受けてない?」
「はい」
「一昨年も?」
「はい」
「理由は?」
「父親が《元気だから必要ない》と」
◇
「治るんですか?」
「可能性は高いです。ただ」
「ただ?」
「視力が完全には戻らないかもしれません」
リリア。
黙る。
頭。
奥。
微かに。
声。
する。
――救えた。
ほんの。
一瞬。
リリアは目を閉じた。
「……」
「リリア様?」
「大丈夫です」
◇
その週。
現地。
行く。
ナナ。
元気。
だった。
「聖女様!」
「こんにちは」
眼帯。
片方。
でも。
笑っている。
「お医者さんね、苦い薬出す」
「それは嫌ですね」
「でもお菓子くれる」
「それはいいですね」
父。
トーマス。
四十一歳。
農家。
頭。
何度も。
下げる。
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
「俺が、診査なんかいらないって」
「……」
「この子は元気だったから」
リリア。
椅子。
座る。
「当時」
静かに聞く。
「診査を受けないことで、こうなる可能性を知ってました?」
「いや」
「説明は?」
「紙は来た」
「読みました?」
「……読んでない」
「なぜ?」
「毎年同じ紙だったから」
◇
悪人。
ではない。
娘。
大事。
働く。
普通の父親。
診査。
面倒。
遠い。
娘。
元気。
去年も。
何もなかった。
だから。
今年も。
行かない。
ただ。
それだけ。
「聖女様」
トーマス。
顔。
下げる。
「俺みたいなのは」
「はい?」
「罰した方がいいんでしょうか」
リリア。
すぐ。
「いいえ」
答える。
「絶対に」
◇
「でも」
トーマス。
ナナ。
見る。
「親が馬鹿だと、子どもが困る」
「……」
「俺の自由って」
苦く。
笑う。
「この子の目より大事だったのかな」
リリア。
答えられない。
◇
帰り。
馬車。
長い。
沈黙。
ルーメン。
先に。
言う。
「考え込んでいますね」
「はい」
「制度を変えます?」
「分かりません」
「珍しいですね」
「だって」
リリア。
窓。
見る。
「断る自由は大事です」
「はい」
「私も、そう書いた」
古いノート。
思い出す。
《断る権利は、断った後まで守られて初めて権利になる。》
「でも」
「はい」
「七歳の子は?」
ルーメン。
黙る。
「親が断ったら」
リリア。
「その子も断ったことになるんですか?」
◇
「難しいですね」
「ですよね」
「親権者が判断する制度は多くあります」
「必要だから?」
「子どもだけでは判断できない場合があります」
「でも、親も間違える」
「人ですから」
「私も間違える」
「はい」
「そこは少し否定してください」
「制度論ですので」
「冷たい」
◇
光秩院。
会議。
医師。
教育担当。
地方行政。
保護者代表。
児童支援員。
集める。
「強制健康診査?」
一人。
医師。
提案。
「私は反対です」
リリア。
即答。
「なぜ?」
「強制し始めたら、何を健康とするかまで中央が決めることになります」
「でも早期発見できます」
「分かります」
「命も救える」
「分かります」
「なら」
「全部分かります」
リリア。
少し。
声。
強くなる。
自分。
気づく。
落とす。
「……ごめんなさい」
「いえ」
◇
別の。
保護者。
「今でも十分です」
「理由は?」
「子どもを医者に診せるかどうかまで国に言われたくありません」
「はい」
「元気なら行かない。その判断も家庭です」
「そうですね」
リリア。
頷く。
だけど。
頭。
ナナ。
浮かぶ。
眼帯。
笑顔。
――救えた。
また。
微か。
胸。
苦しい。
「ただ」
リリア。
聞く。
「判断するための情報は、ちゃんと届いてましたか?」
「情報?」
「診査で何が分かるか」
「受けなかった場合、何を見逃す可能性があるか」
「……」
「去年の紙」
担当者。
持つ。
一枚。
読む。
《児童健全育成の観点から、定期健康診査の受診を推奨します。》
リリア。
顔。
しかめる。
「これ」
「何がです?」
「受けたくならないです」
◇
「《健全育成》って何です?」
「一般的な表現ですが」
「分かりません」
「では」
「もっと普通に」
リリア。
紙。
裏返す。
書く。
《元気に見えても、目・耳・歯・栄養などは本人も気づかないことがあります。年一回、無料で確認できます。》
下。
《受けないこともできます。》
そして。
止まる。
さらに。
《迷う場合は相談してください。》
「これで?」
「分かりやすい」
保護者代表。
「前よりは」
「じゃあ、まずこれ」
◇
さらに。
仕組み。
変える。
今までは。
受けたい人。
申込み。
する。
つまり。
何もしない。
イコール。
未受診。
「逆にする?」
担当官。
「はい」
「全員へ日時を割り振る?」
「はい」
「受けない場合だけ連絡?」
リリア。
止まる。
少し。
嫌な感じ。
「……それ」
「はい」
「強制に近くなりません?」
「義務ではありません」
「でも」
「行動しないと受けることになる」
「はい」
◇
リリア。
考える。
長く。
考える。
「断る方法を」
「はい」
「簡単にしてください」
「書類一枚?」
「もっと簡単に」
「口頭?」
「はい」
「理由は?」
「聞かない」
「理由を聞かなくていいんですか?」
リリア。
一瞬。
止まる。
聞きたい。
なぜ。
受けない。
説明したら。
変わるかも。
救えるかも。
でも。
ノート。
思い出す。
断る権利。
「聞きません」
答える。
「理由が必要になったら、断るのに許可が要るみたいになるから」
◇
制度。
変更。
全児童へ受診機会を用意する。
受診しない場合、口頭または簡単な書面で辞退できる。
辞退理由は不要。
辞退による不利益なし。
翌年、再度案内。
「これなら」
リリア。
「選べます」
◇
半年。
受診率。
東部。
七十八。
から。
九十一。
異常。
早期発見。
二十七件。
うち。
治療。
必要。
十一。
重大化。
防げた可能性。
高い。
四。
「四人」
リリア。
数字。
見る。
「はい」
「四人」
嬉しい。
本当に。
嬉しい。
四人。
救えた。
◇
辞退。
九パーセント。
不利益。
なし。
それも。
守れた。
「よかったですね」
ルーメン。
「はい」
リリア。
笑う。
「これなら」
◇
ところが。
一枚。
苦情。
来る。
山岳部。
家族。
《毎年辞退を伝えるのが苦痛です。》
リリア。
読む。
「苦痛?」
担当者。
「健康診査を受けない家庭として、学校で少し目立つそうです」
「誰か責めた?」
「正式にはありません」
「正式には?」
「教員から、《今年もですか》と」
「……」
リリア。
眉。
寄る。
「子ども同士でも」
「《なんで受けないの?》と」
◇
制度上。
自由。
残っている。
罰。
ない。
不利益。
ない。
でも。
受診率。
九十一。
大多数。
受ける。
受けない。
少数。
それだけで。
目立つ。
「……」
リリア。
ノート。
開く。
書く。
《選べることと、選びやすいことは違う。》
その下。
《多数派になった選択肢は、命令されなくても普通になる。》
◇
教師向け。
通知。
出す。
辞退家庭へ理由を尋ねない。
児童間で受診の有無を比較しない。
健康診査の選択は家庭ごとの判断であり、評価しない。
また。
良い制度。
作る。
◇
数か月後。
現場。
「今年も健康診査があります」
教師。
「受ける人も、受けない人もいます。どちらを選んでも、それで人の良し悪しは決まりません」
子ども。
「先生は受ける?」
「私は大人なので別の診査です」
「受けた?」
「そこ聞く?」
笑い。
少し。
空気。
軽い。
◇
リリア。
報告。
読む。
「よかった」
「改善しています」
ルーメン。
「はい」
それでも。
リリア。
九パーセント。
見る。
「……」
「気になります?」
「少し」
「受けていない人?」
「はい」
「理由は聞かない、と決めました」
「分かってます」
「では」
リリア。
黙る。
しばらく。
「……もし」
「はい」
「その九パーセントの中に」
「はい」
「またナナちゃんみたいな子がいたら」
◇
ルーメン。
答えない。
答え。
ない。
「それでも」
リリア。
自分。
言う。
「選んだ結果です」
言葉。
口。
出る。
でも。
胸。
痛い。
以前なら。
たぶん。
そこで。
止められた。
今。
もう一つ。
浮かぶ。
子ども本人は、本当に選んだの?
◇
その夜。
夢。
見る。
白い。
場所。
無数。
子ども。
立つ。
病気。
怪我。
飢え。
泣く。
その前。
扉。
開いている。
リリア。
手。
伸ばす。
「こっちへ」
一人。
来る。
二人。
来る。
十人。
来る。
でも。
数人。
来ない。
「どうして?」
答え。
ない。
「来れば助かるよ」
来ない。
「大丈夫だから」
来ない。
リリア。
一歩。
近づく。
その瞬間。
声。
する。
――救える。
――手を引けば。
リリア。
目。
覚ます。
◇
夜中。
息。
荒い。
「……」
水。
飲む。
机。
ノート。
開く。
震える。
少し。
書く。
《救えることと、連れていっていいことは違う。》
大きく。
下線。
引く。
もう一度。
《違う。》
◇
翌朝。
慈光環。
地下。
行かない。
封印。
確認。
「接触禁止?」
ルーメン。
「はい」
「理由は?」
「まだ分かりません」
「では」
「分からないからです」
リリア。
珍しく。
強い。
「分からないものに、最高導師が触り続ける方が変です」
「同意します」
「歴代記録も調べます」
「分かりました」
◇
調査。
始まる。
古い。
文書。
読めない。
文字。
多い。
翻訳。
必要。
帝国。
王国。
古代宗教。
詳しい者。
探す。
「クラリス様に?」
「まだ」
「なぜ?」
「……」
リリア。
少し。
笑う。
「自分で調べてから」
「成長ですね」
「ですよね」
◇
王国。
その頃。
クラリス。
朝食。
食べる。
ヨル。
隣。
パン。
見る。
「これは駄目です」
「わふ」
「あなたの肉はあります」
「わふ!」
セバス。
手紙。
持つ。
「お嬢様」
「はい」
「聖協国より、古代宗教文字に詳しい者を探しているとの照会が」
「リリア様から?」
「光秩院の公文書です」
「内容は?」
「古代聖具に関する調査」
クラリス。
手。
止まる。
「聖具?」
「はい」
ヨル。
肉。
食べる。
「わふ」
クラリス。
少し。
嫌な予感。
「セバス」
「はい」
「黒日宮関連の古文書と」
思い出す。
東方。
黒薔薇。
古い。
百年以上。
繰り返す。
仕組み。
「照合してください」
「承知しました」
◇
その夜。
帝国。
アレクシア。
書類。
読む。
「聖協国が古代聖具を?」
「はい」
「何に使う」
「最高導師継承儀礼だそうです」
「リリアが触った?」
「既に」
「……」
アレクシア。
眉。
寄る。
「何か起きたのか?」
「公式には、調査中と」
「公式には?」
「はい」
アレクシア。
椅子。
立つ。
「馬を」
「殿下」
「行く」
「どこへ?」
「聖協国」
「今から!?」
「友人が怪しい聖具に触ったと聞いて、座っていられるか!」
「内政会議は!」
「明日にしろ!」
「昔に戻った!」
◇
ただ。
廊下。
三歩。
アレクシア。
止まる。
「……」
「殿下?」
「待て」
「はい?」
「公式調査中なんだな」
「はい」
「リリア自身が?」
「はい」
「なら」
ものすごく。
嫌そう。
「……まず情報を集める」
官吏。
目。
見開く。
「殿下」
「何だ」
「本当に成長されましたね」
「馬を出せ!」
「戻った!」
◇
リリアは。
まだ。
止まれていた。
夢。
疑った。
聖具。
封じた。
制度。
直した。
自由。
残した。
そして。
その全部が。
また。
成功した。
だから。
誰も。
まだ。
彼女を。
危険だとは。
思わない。
本人すら。
ただ。
一つだけ。
以前と違うものがある。
誰かが。
助けを。
拒んだ時。
昔のリリアは。
こう思った。
《それも、その人の選択です。》
今のリリアは。
その後に。
もう一つ。
浮かぶ。
《でも、本当にそれでいいの?》
問い。
まだ。
問い。
だった。
命令ではない。
強制でもない。
ただ。
正しさの暴走は。
たいてい。
命令からではなく。
答えのない問いに、耐えられなくなるところから始まる。




