第85話 皇女殿下は、強い国を兵の数で数えない
帝国軍務省には、問題が起きると何でも増やす悪癖があった。
「兵站倉庫を三棟、増設します!」
「待て。今ある倉庫の稼働率は?」
調べると、七つのうち一つは四十一パーセントしか使われていなかった。
「空いているではないか」
「ですが、位置が悪く……」
「では問題は倉庫の数ではないな」
アレクシアは地図を広げた。
「第三倉庫から北部前線まで、輸送に何日かかる?」
「平均三・八日です。街道幅と、途中の橋の積載制限が原因で」
「橋か。なら倉庫を建てる前に、現地を見に行く」
「殿下が、橋を?」
「橋だろうと何だろうと、問題なら見る!」
◇
翌朝、アレクシアは北部の古い石橋を訪れた。
大型輸送車は通れず、荷物を積み替えるため、十二人が常駐している。冬には凍結し、昨年は事故も二件起きていた。
「倉庫を三つ建てる前に、こちらを直すべきでは?」
「橋を架け替えますか?」
「まだだ。まず交通量を調べる」
調査の結果、橋を通る荷車は一日平均百二十七台。そのうち軍用は二十九台で、残りは商人、農家、郵便、旅人だった。
「軍だけの問題ではないな。軍務省だけで直すのは違う」
公共事業省、商業省、農政省、地方自治局まで集めた会議は、当然のように地獄になった。
「大型輸送車に対応させろ!」
「通行料を下げろ!」
「家畜の通行帯が必要です!」
「歩行者の安全を!」
「予算を抑えてください!」
アレクシアは額を押さえた。
「戦争の方が楽だな」
「戦場なら敵が一方向ですから」
「内政は全方向から来る」
◇
結局、橋は全面架け替えではなく、補強と片側拡張に決まった。
大型輸送車は時間帯を指定し、家畜や商業輸送と分ける。積み替え場も残し、緊急時に使えるようにした。
輸送時間は三・八日から二・六日に短縮され、事故はなくなった。
「成功です」
「まだだ。冬を越していない」
冬になると、橋ではなく、その先の街道が雪で埋まった。
「除雪隊を増やします!」
「待て。今ある四隊はどこにいる?」
地図を見ると、四隊はすべて中央寄りに配置されていた。
「人口が少ない地域なので」
「だが、穀物も軍用物資も郵便も、ここを通る。人口だけで配置を決めるな」
調べると、その街道が止まれば北部三都市への食料、軍の補給、郵便、薬がすべて滞ることが分かった。
「何が止まると一番困るか。それを基準にしろ」
アレクシアは、人口だけでなく物流量、医療、軍事、代替路、停止時の影響を考慮した新しい配置を命じた。
さらに、郵便の遅延を調べると、馬不足ではなく中継所での書類処理が原因だった。
「馬を増やす前に、紙を減らせ」
「殿下が紙を減らすと言った!」
「何だ、その反応は!」
「百八十九件も書類を溜めていた方が!」
「昔の話をするな!」
◇
穀物価格の高騰も、倉庫不足ではなかった。
南部は豊作なのに、途中で三か所もの通行税がかかり、輸送費が膨らんでいたのだ。
アレクシアは領主を呼び、帳簿を確認した。
「通行税の余りは何に使っている?」
「一般財源へ……」
「酒宴か? 狩猟か? 領主館の改築か?」
沈黙が答えだった。
「軍務監査にするか?」
「下げます!」
通行税が整理されると、北部の穀物価格は下がり、商人の利益も農家の売り先も増えた。
「本当に内政が上手くなりましたね」
「元からだ!」
「昔は橋が狭ければ、橋を倍にしていました」
「倍にすれば通れる!」
「今は?」
アレクシアは少し考えた。
「……倍にする前に、なぜ詰まっているかを見る」
◇
新聞は、アレクシアを「武の皇女から、国造りの皇女へ」と称えた。
しかし、彼女は別の記事を見て顔をしかめた。
《アレクシア式兵站内政、全国展開へ》
「名前を付けるなと言っただろう!」
「国民には分かりやすく……」
「私が死んだらどうする」
官吏たちが黙る。
「私がいなくても、橋は直す。穀物は運ぶ。郵便は届く。雪はどかす。なら、私の名前はいらん」
帝国では新たに《地域機能点検会議》が設けられた。
各地域で、食料、医療、交通、通信、水、軍、商業について、何が止まると一番困るのかを住民に尋ねる制度だ。
「項目は決めない」
「なぜです?」
「項目を決めると、その項目しか聞かなくなる」
◇
数か月後、北部では冬季の物流停止が減り、穀物価格は安定した。郵便は早くなり、軍の補給も改善した。
その一方で、軍用倉庫三棟の建設は中止された。
「軍の施設を減らすのですか?」
「使わない倉庫より、橋を直した方がいい」
「橋は民間も使います」
「民が飢えた国で、軍だけ腹いっぱいにするのか?」
アレクシアは地図を指した。
「国力は兵の数だけではない。道、倉庫、畑、水路、医者、郵便、商人、職人、馬、橋。必要なものが、必要な時に、必要な場所へ届く。それができる国は、戦争でも強い」
「結局、戦争に戻るのですね」
「私だからな」
◇
その夜、アレクシアの食卓には肉料理が並んでいた。
「殿下、野菜もお召し上がりください」
「食っている」
「一枚です」
そこへリリアから手紙が届いた。
《お肉ありがとうございました。ちゃんと野菜も食べてください。》
アレクシアは、しばらく黙ってから返事を書いた。
《食っている。肉の横にある。》
◇
クラリスからも手紙が届いた。
《帝国の北部物流改善、王国でも参考にしたいとの声があります。成果だけでなく、失敗例も共有いただけると助かります。特に橋を全面架け替えしなかった判断は、良かったと思います。》
アレクシアは最後の一文を何度も読み返した。
「……分かっているではないか」
補強された古い橋を、馬車、農民、兵、郵便が次々と渡っていく。
誰も、橋の設計者を知らない。
誰も、皇女の名前を呼ばない。
ただ、必要なものが届き、人々が渡っていく。
「これでいい」
◇
三人は、それぞれ自分の名前を小さくしようとしていた。
クラリスは町より前に出ない。
アレクシアは制度より前に出ない。
リリアは人の声より前に出ない。
だが、名前が一番強くなったのはリリアだった。
彼女が名前を小さくしようとするたび、人々はこう思った。
――だからこそ、この人に任せたい。
聖協国では、最高導師選出会議の日程が決まった。
リリアの支持率は八十九パーセント。
まだ彼女は女教皇ではない。
まだ、誰かの自由を奪ってもいない。
むしろ、自由を守ろうとしている。
だからこそ。
次に彼女へ渡される力は、誰にも危険には見えなかった。




