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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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第7話 公爵家の帳簿は嘘をつかない

 アルベルティーナ公爵家の帳簿は、重い。


 紙の質がよいからではない。

 表紙に金具がついているからでもない。

 もちろん、装飾が豪華だからでもない。


 中に書かれている数字が、逃げないからだ。


 王宮の帳簿は、美しい言葉で飾られることがある。


 国のため。

 民のため。

 殿下のご判断。

 王家の品位。

 やむを得ぬ事情。


 そういう言葉は、帳簿の端に花のように添えられる。


 だが、公爵家の帳簿は違う。


 誰が。

 いつ。

 何のために。

 いくら使い。

 誰が承認し。

 誰が立て替えたか。


 それだけが記されている。


 愛想はない。


 けれど、嘘もない。


 王宮北棟の資料室に、その帳簿が運び込まれたのは、朝の鐘が二度鳴った頃だった。


 大きな黒革の帳簿が三冊。

 付属の支出明細が七束。

 領収書綴りが十二箱。


 そして、その後ろから一人の男が入ってきた。


 アルベルティーナ公爵。


 クラリスの父である。


 銀の混じった灰色の髪。

 鋭い目。

 黒い礼服の胸元には、公爵家の紋章。


 彼が部屋に入っただけで、室温が少し下がった。


 実際には下がっていない。


 ただ、人間にはそう感じる瞬間がある。


 特に、後ろめたい者には。


「クラリス」


 父は、娘の前で足を止めた。


「お父様」


 クラリスは立ち上がり、礼をした。


 父はその礼を見て、少し眉をひそめた。


「やつれたな」


「寝ております」


「寝ている者の顔ではない」


「では、起きております」


「そういうところだ」


 短いやりとりだった。


 だが、セバスは後ろでたいへん満足そうにしている。


 王宮の者たちは、その空気を少し意外そうに見ていた。


 氷の悪女と呼ばれるクラリスにも、父がいる。


 しかもその父は、娘を叱るように見て、同時に守るように立っている。


 レオンハルト王太子は、居心地悪そうに椅子に座っていた。


 王妃エレノアは静かに扇を持っている。

 聖女候補リリアは、資料を抱えてクラリスと公爵を見比べている。

 会計院長とユリウス監査官は、すでに帳簿へ視線を移していた。


 正しい会計官は、権力者より帳簿を見る。


 それはそれで、少し怖い。


「本日の確認事項は」


 クラリスは席に戻り、資料を開いた。


「アルベルティーナ公爵家が過去十年間、王宮関連業務において一時立替え、または事実上負担していた費用の確認です」


 レオンハルトが顔を上げた。


「公爵家が勝手に支払ったものまで、王家に請求するつもりか」


 公爵が、ゆっくり王太子を見た。


 それだけで、レオンハルトの声が少し小さくなる。


「殿下」


 公爵の声は低かった。


「勝手に支払ったものではございません」


「ならば何だ」


「王太子殿下の失敗が、国の傷にならぬよう、我が家が先に布を当てただけでございます」


 部屋が静まった。


 言葉は丁寧だった。


 だが、内容はかなり強い。


 クラリスは、父を横目で見た。


 怒っている。


 とても怒っている。


 けれど、怒鳴らない。


 アルベルティーナ公爵家の怒りは、声量ではなく書類の厚みで出る。


「第一項目」


 クラリスは帳簿を開いた。


「隣国フローレンス王女殿下歓迎晩餐会後の外交補填費。花、謝罪書簡、私的演奏会、追加警備、通訳再手配。合計、金貨百十二枚」


 ユリウスが記録する手を止めかけた。


「金貨百十二枚……」


 会計院長が帳簿を覗く。


「領収書は」


「こちらに」


 セバスが十二箱のうち一つを開け、束を取り出した。


 古い紙だが、保存状態はよい。


 日付。

 支出先。

 金額。

 受領印。


 すべて揃っている。


 会計院長は、低く唸った。


「見事だ」


 公爵は無表情のまま答えた。


「我が家では、支出を詩で残しませんので」


 リリアが、思わず小さく笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。


 レオンハルトは気づかなかった。


「それは昔のことだ」


 王太子は言った。


「私も若かった」


「若さは、請求先ではございません」


 クラリスが答える。


「若さを理由に免除するなら、当時その後始末をした私も若かったことになります」


 レオンハルトは黙った。


 十六歳の王太子は若かった。


 では、その失言を処理した十六歳のクラリスは何だったのか。


 誰も、そこを数えてこなかった。


「第二項目」


 クラリスは次の頁へ進む。


「西方諸侯献上金保留に伴う視察計画立案費、草案作成費、使者派遣費、灌漑支援先行調査費。合計、金貨二百八十七枚」


 会計院長が顔をしかめた。


「これは王家負担であるべき案件だ」


「当時、王家負担とすると殿下の失言を公式に認めることになるため、公爵家による地域協力費として処理いたしました」


 クラリスは淡々と言った。


 王妃の扇が止まる。


 それは、彼女も知っている案件だった。


 知らなかったとは言えない。


「クラリス」


 王妃が静かに口を開いた。


「その件については、王家も後日、補助を出したはずです」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「三年後に、金貨四十枚」


 沈黙。


 リリアが、目を見開いた。


「二百八十七枚使って、戻ったのが四十枚……?」


「はい」


 クラリスは言った。


「正確には、二百八十七枚と銀貨六十枚です」


 リリアは資料を見つめた。


 たぶん、少しずつ分かり始めている。


 大きな家は、大きなお金を持っている。


 だから、少しくらい負担しても平気だと思われる。


 けれど、それは違う。


 大きな家の金は、家の者だけのものではない。

 領地の水路になり、農具になり、孤児院の修繕費になり、冬の備蓄になる。


 どこかに使えば、どこかで減る。


 財布は王宮の魔法袋ではない。


「第三項目」


 クラリスは、少しだけ息を吸った。


「王太子殿下とリリア・メルクール嬢の私的庭園滞在に伴う公務変更費」


 レオンハルトが顔を赤くする。


「なぜ、それが公爵家の帳簿にある」


「殿下の欠席により、代替出席者として私が呼ばれたからです」


 クラリスは頁をめくる。


「東方使節面会、侯爵家弔問、王立施療院訪問、孤児院寄付式典。これらのうち、私が代理出席したものが七件。うち三件は、当日変更です」


「君は婚約者だったのだから当然だろう」


 レオンハルトの言葉に、公爵の目が細くなった。


 部屋の空気が、わずかに鳴った気がした。


「殿下」


 公爵は低く言った。


「当然、とは便利な言葉ですな」


 レオンハルトが口を閉じる。


「誰かの献身を、支払わずに済ませたい時によく使われる」


 その言葉は静かだった。


 静かすぎて、かえって重かった。


 クラリスは、父の横顔を見た。


 父は王太子を見ている。


 だが、その怒りの奥にあるのは、たぶん娘の十年だった。


 幼い頃から王太子妃教育を受け、できて当然と言われ、できなければ責められ、できれば可愛げがないと言われた十年。


 父は、それをすべて知っていたわけではない。


 けれど、知らなかったことも含めて、怒っている。


「私は」


 レオンハルトは、苦し紛れに言った。


「クラリスにそこまで求めた覚えはない」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「求めた覚えはないのだと思います」


「ならば」


「ですが、求めていなくても、発生した仕事はございます」


 クラリスは資料を机に置いた。


「殿下が欠席すれば、誰かが代わりに行きます。殿下が失言すれば、誰かが整えます。殿下が恋に時間を使えば、誰かが公務に時間を使います」


 リリアが、資料を抱く手に力を込めた。


 その言葉は、彼女にも刺さっている。


「求めていなかった、で消えるのは、殿下の記憶だけです」


 クラリスは言った。


「仕事は消えません」


 会計院長が、深く頷いた。


「その通りだ」


 公爵家の帳簿は、さらに開かれた。


 王宮夜会の警備増員費。

 聖女候補歓迎茶会の不足分補填。

 王太子の失言に伴う贈答品再手配。

 慈善基金不足時の一時補填。


 金額は一つひとつ、決して王国を揺るがすほどではない。


 だが、積もっていた。


 雪のように。


 静かに。

 白く。

 誰も気づかないふりをしているうちに、屋根を軋ませるほどに。


「合計は」


 会計院長が尋ねた。


 クラリスは、最後の頁を開いた。


「未精算分のみで、金貨千八百六十四枚。銀貨七十二枚」


 資料室に、音が消えた。


 リリアは息をのむ。


 ユリウスの羽根ペンが止まる。


 レオンハルトは、意味が分からないという顔をしていた。


 王妃エレノアだけが、静かに目を伏せた。


 分かっている顔だった。


 それが小さな額ではないことを。


 そして、それほど積もるまで誰も止めなかったことを。


「そんな額……」


 レオンハルトが呟いた。


「払えるわけがない」


 公爵が、ゆっくり口を開いた。


「殿下個人で払えとは申しておりません」


 レオンハルトが顔を上げる。


「では」


「王家として、まず事実を認めていただきたい」


 公爵は言った。


「支払いは、その後です」


「事実を認める……」


「はい」


 公爵の声は、淡々としていた。


「我が娘が十年間、王太子殿下の婚約者として果たしてきた業務が、ただの気まぐれや出しゃばりではなかったこと。公爵家が王家の体面を保つため、相応の負担をしてきたこと。そして、その負担を当然のものとして扱ってきたこと」


 王妃の扇が、ゆっくり閉じられた。


 公爵は、最後にこう言った。


「それを認めていただきたい」


 金より重いものが、部屋に置かれた。


 謝罪。


 いや、謝罪より前のもの。


 認識である。


 人は、自分が何を踏んで立っていたかを認めなければ、謝ることもできない。


 レオンハルトは何も言えなかった。


 王妃エレノアが、静かに立ち上がった。


「アルベルティーナ公爵」


「はい」


「王家として、正式に精査します」


「精査では足りません」


 公爵は即座に返した。


 王妃の目がわずかに動く。


「では、何を」


「まず、受領確認を」


 クラリスが書類を一枚差し出した。


 王妃は、それを見た。


 表題。


『アルベルティーナ公爵家提出資料一式 受領確認書』


 王妃は、しばらくその紙を見つめていた。


 そして、小さく息を吐いた。


「親子ですね」


「よく言われます」


 クラリスは静かに答えた。


 王妃は羽根ペンを取った。


 レオンハルトが慌てる。


「母上、署名するのですか」


「受領確認です。内容を認める署名ではありません」


「しかし」


「レオンハルト」


 王妃は息子を見た。


「書類を受け取った事実まで否定する王家に、誰が税を納めますか」


 レオンハルトは黙った。


 その言葉は、かつてクラリスが言ったものに近かった。


 契約を軽んじる者に、民は税を納める意味を失う。


 王妃は、聞いていたのだ。


 そして今、使った。


 クラリスは、少しだけ王妃を見直した。


 やはり、この人は怖い。


 学ぶ速度が速い。


 王妃は受領確認書に署名した。


 流れるような美しい字だった。


 その紙を、クラリスは受け取らない。


 セバスが受け取り、控えを王妃へ渡す。


 完全な手続き。


 隙がない。


 公爵はそれを見届けてから、ようやく椅子に腰を下ろした。


「クラリス」


「はい」


「よく残した」


 短い言葉だった。


 クラリスは、すぐに返事ができなかった。


 父に褒められることは、そう多くない。


 幼い頃は、褒められるより先に次の課題が来た。


 礼法。

 会計。

 外交。

 法令。

 領地経営。


 父は厳しかった。


 厳しすぎると思ったこともある。


 けれど、その厳しさが、今のクラリスをここに立たせている。


「ありがとうございます」


 ようやく、それだけ言った。


 公爵は、ほんの少しだけ頷いた。


 その隣で、セバスが目元を押さえている。


「セバス」


「いえ、埃が」


「この部屋は掃除済みよ」


「心の埃でございます」


「何なの、それは」


 リリアが、今度こそ小さく笑った。


 レオンハルトは笑わなかった。


 王妃も笑わなかった。


 だが、部屋の空気は少しだけ変わっていた。


 公爵家の帳簿は、王宮の床に置かれた。


 それは王家を攻撃する剣ではない。


 けれど、剣より重い。


 なぜなら数字は、感情で折れないからだ。


「本日はここまでにいたします」


 クラリスは帳簿を閉じた。


「次回は、王家側の支出記録との照合を行います」


 会計院長が頷く。


「会計院で準備しよう」


 王妃も頷いた。


「王家帳簿を出します」


 レオンハルトが驚いた。


「母上、それは」


「出します」


 王妃の声は、揺れなかった。


「王家の帳簿が、公爵家の帳簿より軽いと思われるわけにはいきません」


 公爵が、わずかに目を細めた。


 それは、敵を見る目ではなかった。


 好敵手を見る目に近い。


「期待しております」


「ご期待に沿えるように」


 二人の間に、静かな火花が散った。


 クラリスは、それを見て思った。


 この二人が最初から正面で話していれば、もう少し早く片づいたのではないか。


 だが、王宮という場所は、正面で話すまでに何年もかかる。


 その間に、花が増え、帳簿が重くなる。


 だから、開く者が必要なのだ。


 悪女と呼ばれても。


 冷たいと言われても。


 机の上に帳簿を置く者が。


 クラリスは、父の持ってきた黒革の帳簿に手を置いた。


 公爵家の帳簿は嘘をつかない。


 だが、嘘をつかない帳簿を読むには、少し勇気がいる。


 今日、王妃は署名した。


 王太子は、まだ目を逸らしている。


 リリアは、数字を見ている。


 それぞれの現在地が、紙の上に並んでいた。


 クラリスは羽根ペンを置き、静かに言った。


「では、次は王家の帳簿を拝見いたします」


 資料室の空気が、また一段重くなった。


 精算は、まだ終わらない。


 けれど、ようやく王宮そのものが、自分の数字を見る番になった。

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