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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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第8話 王家の帳簿は、少しだけ軽かった

 王家の帳簿は、軽かった。


 物理的な話ではない。


 黒革の表紙。

 王家の紋章。

 金具のついた背表紙。

 運ぶには、文官が二人必要だった。


 それでも、軽かった。


 アルベルティーナ公爵家の帳簿に比べると、妙に軽い。


 数字が少ない。

 項目が薄い。

 理由が美しい。


 王宮夜会費。

 王室接遇費。

 慈善関連費。

 外交円滑化費。

 王太子殿下公務補助費。


 どれも間違ってはいない。


 だが、間違っていない言葉ほど、時々、中身を隠す。


 王宮北棟の資料室に、王家の帳簿が運び込まれた。


 王妃エレノアは、いつもより早く席についていた。


 背筋はまっすぐ。

 扇は閉じたまま。

 その横には、王家会計局の長官が立っている。


 白髪混じりの男で、表情は硬かった。


 クラリスは、その顔を見ただけで少し分かった。


 この男は、嘘をつくのが苦手な人間だ。


 そして、嘘をつくのが苦手な人間ほど、都合のいい沈黙を覚える。


「本日の確認事項は、王家側の支出記録と、公爵家立替金管理帳簿の照合です」


 クラリスはそう言って、資料を開いた。


 隣には、父であるアルベルティーナ公爵。

 後ろには、老執事セバス。

 向かいには王妃、王太子レオンハルト、聖女候補リリア。


 リリアは今日も資料を持っていた。


 以前のように、王太子の袖を握ってはいない。


 その小さな変化に、レオンハルトだけが気づいていない。


「まず、こちらをご覧ください」


 クラリスは一枚の表を机に置いた。


「王宮夜会における警備増員費。公爵家帳簿では金貨七十二枚。王家帳簿では、王室接遇費に含む、と記載されています」


 王家会計局長が、かすかに咳払いをした。


「王宮警備は王家の管轄ですので、接遇費に含める処理は不自然ではございません」


「不自然ではありません」


 クラリスは頷いた。


「ですが、どの夜会の、どの警備増員なのかが記されておりません」


「それは……王家全体の費用として」


「王家全体」


 クラリスは、その言葉を繰り返した。


「便利な箱ですね」


 資料室の空気が止まる。


 会計局長の額に、うっすら汗が浮かんだ。


 王妃エレノアが静かに言う。


「続けなさい」


「はい」


 クラリスは次の資料を出した。


「この警備増員は、王太子殿下がリリア様と庭園で過ごされたため、本来の公務動線が変更され、結果として使節団の移動経路を変える必要が生じた件です」


 リリアが目を伏せた。


 レオンハルトが不機嫌そうに口を開く。


「またその話か」


「はい」


 クラリスは即答した。


「精算されるまで、同じ話は何度でも出ます」


 会計院長が、少しだけ口元を緩めた。


 レオンハルトは黙った。


「王家帳簿では、この費用が王室接遇費に吸収されています。つまり、原因が見えません」


 クラリスは、王妃を見た。


「原因が見えなければ、再発も防げません」


 王妃は、何も言わなかった。


 その代わり、会計局長を見た。


「なぜ、このような処理に?」


 会計局長は喉を鳴らした。


「王太子殿下個人の行動として記載すると、後々、問題になる可能性がありましたので」


「問題になるから、消したのですか」


 王妃の声は、穏やかだった。


 穏やかすぎて、怖い。


「消したわけでは……」


「軽くしたのですね」


 クラリスが言った。


 会計局長が、クラリスを見る。


「軽く?」


「はい」


 クラリスは王家帳簿に手を置いた。


「王家の帳簿は嘘をついてはいません。ただ、重いものを軽い名前で包んでいます」


 王家全体。

 接遇費。

 円滑化費。

 補助費。


 どれも便利な言葉だ。


 便利な言葉は、人の名前を消す。


 誰が判断したのか。

 誰が遅れたのか。

 誰が立て替えたのか。

 誰が困ったのか。


 それらを、ふんわり包んで見えなくする。


「次に、慈善関連費です」


 クラリスは頁をめくった。


「王家帳簿では、王妃陛下主催慈善委員会への一括支出として処理されています。対して、公爵家帳簿では、孤児院、救貧院、施療院ごとの一時補填額が記録されています」


 リリアが、小さく手を挙げた。


 全員が彼女を見る。


 リリアは少し怯えながらも、言った。


「一括だと、どこに届いたか分からないのですか」


 クラリスは頷いた。


「分かりにくくなります」


「分かりにくいと……届かなかったものも、分からないままですか」


「はい」


 リリアは、資料を握りしめた。


「それは、怖いです」


 その声は小さかった。


 だが、部屋にははっきり届いた。


 王妃がリリアを見る。


 レオンハルトは、少し困った顔をした。


 彼はまだ、リリアがこういう質問をすることに慣れていない。


 可憐な聖女候補が、帳簿の質問をする。


 彼の物語には、たぶん存在しない場面だった。


「リリア様のおっしゃる通りです」


 クラリスは言った。


「届かなかったものは、一括という言葉の中で消えます」


 会計院長が、王家帳簿をめくる。


「王家会計局長。この慈善関連費の内訳は別紙で存在するか」


「存在します」


「出せるか」


 会計局長は、王妃を見た。


 王妃は言った。


「出しなさい」


「しかし、王妃陛下。未整理のものも」


「未整理のものほど、出しなさい」


 会計局長は、顔を青くした。


 クラリスは、王妃を見た。


 王妃は逃げていない。


 昨日までなら、王家の威厳を守るために止めたかもしれない。


 だが今日は違う。


 王家の威厳を守るために、開こうとしている。


 その差は大きい。


「王妃陛下」


 クラリスは静かに言った。


「確認ですが、よろしいのですね」


「ええ」


 王妃は答えた。


「王家の帳簿が軽いままでは、公爵家に重さを預け続けることになります」


 アルベルティーナ公爵が、初めてわずかに頷いた。


「そのご認識をいただけるなら、今日の確認には意味があります」


「あなたに言われると、たいへん腹立たしいですね」


「よく言われます」


 公爵の声は平坦だった。


 だが、クラリスには分かった。


 父は少しだけ、王妃を認め始めている。


 同時に、油断はしていない。


 アルベルティーナ公爵家では、相手を認めることと、帳簿を緩めることは別である。


「第三項目」


 クラリスは次の書類を出した。


「王太子殿下公務補助費」


 レオンハルトの肩が動いた。


「また私か」


「はい」


 クラリスは、まっすぐ言った。


「殿下の名がついておりますので」


 王家帳簿には、年ごとに王太子殿下公務補助費と記されている。


 金額は一定ではない。


 多い年もあれば、少ない年もある。


 だが、公爵家帳簿と照合すると、不自然な点が見えてくる。


「殿下の失言や欠席が多い年ほど、公爵家の立替額が増えています」


 クラリスは表を差し出した。


「しかし王家側の公務補助費は、逆に減っています」


 ユリウスが目を見開いた。


「なぜ逆に」


 会計局長は答えない。


 王妃が低く言った。


「説明を」


 会計局長は、苦しそうに口を開いた。


「公爵家が調整を担ってくださる年は、王家側での追加支出が減りますので」


「つまり」


 クラリスは言った。


「公爵家が後始末をすればするほど、王家帳簿上は殿下が問題を起こしていないように見える」


 沈黙。


 レオンハルトの顔から、血の気が引いた。


 今度は彼にも分かったらしい。


 自分の失敗が消えていたのではない。


 クラリスと公爵家の帳簿に移されていただけだった。


「私は……」


 レオンハルトは呟いた。


「知らなかった」


 その言葉に、リリアが少しだけ反応した。


 かつて自分が何度も使った言葉だったからだろう。


 知らなかった。


 そんなつもりではなかった。


 それは、入り口にはなる。


 けれど出口にはならない。


 クラリスは言った。


「はい。殿下は知らなかったのだと思います」


 レオンハルトが顔を上げる。


 救われたような顔だった。


 だが、次の言葉で固まった。


「ですが、知らないまま立っていた場所の下には、誰かの支払いがありました」


 部屋の空気が、深く沈む。


 公爵家の帳簿。

 王家の帳簿。

 王太子の記憶。


 三つが、初めて同じ机に並んだ。


 そこにあったのは、悪意というより、軽さだった。


 誰かが少し軽くした。


 問題にならぬように。

 若い殿下の傷にならぬように。

 王家の体面を損なわぬように。


 その結果、重さは全部、クラリスと公爵家へ移った。


 王妃エレノアは、深く息を吐いた。


「会計局長」


「はい」


「今後、王太子殿下個人の行動に起因する支出は、王家全体費用に吸収せず、項目を分けなさい」


「承知いたしました」


「慈善関連費も、支援先別の内訳を義務化します」


「はい」


「過去五年分は、会計院と共同で再整理を」


「……承知いたしました」


 王妃の声は、ひとつずつ重くなっていた。


 クラリスは、その様子を見ていた。


 これが、責任者の声なのだと思った。


 美しい言葉で覆うのではなく、重いものを重いまま持つ声。


 リリアが小さく呟いた。


「王妃様……」


 王妃は、リリアを見た。


「何です」


「重いものを、ちゃんと重いって言うのは、難しいですね」


 王妃は、少しだけ目を細めた。


「ええ」


 そして、静かに言った。


「でも、それができない者は、人の上に立ってはいけません」


 レオンハルトが、息をのんだ。


 それは息子への言葉でもあった。


 部屋の誰もが、それを理解した。


 クラリスは、資料を閉じた。


「本日の確認はここまでにいたします」


 会計院長が驚いた。


「まだ項目は残っているが」


「今日は、王家側の整理方針が出ました」


 クラリスは言った。


「これ以上続けると、怒りで帳簿を読むことになります」


 公爵が娘を見る。


「怒っているのか」


「少し」


「少しか」


「はい」


 クラリスは、静かに答えた。


「十年分ですので、少しずつ出します」


 セバスが、後ろで目を閉じた。


「お嬢様、たいへん上品な怒りでございます」


「褒めているの?」


「もちろんでございます」


 リリアがまた少し笑った。


 今度は、レオンハルトも気づいた。


 そして、複雑そうな顔をした。


 彼はまだ、笑えない。


 でもそれでよかった。


 笑う前に、見るべきものがある。


 王妃エレノアは、立ち上がった。


「クラリス」


「はい」


「王家の帳簿は、軽かったのですね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「軽く見せられていました」


「では、重くします」


 王妃の声は、静かだった。


「本来の重さに」


 アルベルティーナ公爵が立ち上がる。


「王家が重さを持つなら、公爵家は照合に協力しましょう」


「助かります」


「ただし」


 公爵は、王妃を見た。


「数字の上でだけです」


「承知しています」


 二人は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。


 敵ではない。


 味方でもない。


 だが、同じ帳簿を見ている者同士の距離になった。


 クラリスは思った。


 王宮は少しずつ変わっている。


 変わる速度は遅い。


 紙を一枚ずつめくるように遅い。


 けれど、紙はめくらなければ次へ進まない。


 その日、王家の帳簿は初めて、少しだけ重くなった。


 嘘をつかない帳簿に近づいたわけではない。


 ただ、軽くしていたものの名前が、いくつか戻った。


 王太子の失言。

 王宮の怠慢。

 慈善の不透明さ。

 公爵家の負担。


 名前が戻れば、次は責任が戻る。


 責任が戻れば、ようやく精算が始まる。


 クラリスは、王家帳簿の表紙に手を置いた。


「次回は、王妃陛下」


 王妃が顔を上げる。


「何でしょう」


「慈善委員会の再編について、確認いたします」


 王妃は、少しだけ笑った。


「私を監査するだけではなく、働かせるつもりですか」


「はい」


 クラリスは静かに微笑んだ。


「悪女ですので、責任者には最後まで働いていただきます」


 王妃エレノアは、扇を開いた。


 その目に、わずかな火があった。


「よろしい」


 彼女は言った。


「では、王妃として働きましょう」


 その言葉は、王宮のどの花よりも、少しだけ強く香った。

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