第9話 王妃様、それはご存じでしたか
王妃エレノアは、美しい人だった。
立ち姿も。
微笑みも。
扇を閉じる角度も。
相手を黙らせる沈黙までも。
王宮で美しくあることは、仕事の一部だ。
国が揺れていても、王妃は揺れて見えてはならない。
王太子が未熟でも、母は取り乱してはならない。
慈善事業に不備があっても、王家の品位は保たれなければならない。
だから王妃は、長いあいだ美しかった。
美しく、静かで、少し遠い。
だが、その日の資料室にいた王妃は、いつもより少しだけ違って見えた。
扇は開いていない。
花もない。
香水も薄い。
机の上には、慈善委員会の規約、王家帳簿の写し、ローゼン商会関連資料、そして会計院の再編案が置かれている。
美しいものより先に、紙があった。
クラリスは、それを悪くないと思った。
「本日の確認事項は、王妃陛下主催慈善委員会の再編についてです」
資料室には、王妃エレノア、王太子レオンハルト、聖女候補リリア、会計院長、ユリウス監査官、アルベルティーナ公爵、そしてクラリスがいた。
老執事セバスは、いつものように後方に控えている。
ただし今日のセバスは、銀のワゴンではなく、小さな木箱を持っていた。
中身は、印章と白紙の規約用紙。
つまり、今日の目的は責めることではない。
直すことだった。
「王妃陛下」
クラリスは、王妃へ視線を向けた。
「まず確認いたします。慈善委員会第一書記マルティナ・ヴェルシュが、ローゼン商会および系列業者と利益関係にあったことについて、ご存じでしたか」
資料室の空気が、静かに張る。
レオンハルトが母を見る。
リリアも、資料を抱えたまま顔を上げた。
王妃エレノアは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、逃げるための沈黙ではない。
自分の中の言葉を、ひとつずつ確認している沈黙だった。
「知りませんでした」
王妃は言った。
レオンハルトが、わずかに安堵した顔をする。
だが、王妃は続けた。
「けれど、それを理由に責任を免れるつもりはありません」
レオンハルトの顔が止まった。
クラリスは、軽く頷いた。
「承知しました」
「母上」
王太子が口を挟む。
「ご存じなかったなら、母上に非はないのでは」
王妃は、息子を見た。
その目は優しかった。
けれど、甘くはなかった。
「レオンハルト。知らなかったことで罪は軽くなるかもしれません」
「なら」
「でも、責任は消えません」
レオンハルトは黙った。
その言葉は、ここ数日で何度も形を変えて出てきた。
リリアの善意。
王太子の失敗。
王家帳簿の軽さ。
そして今、王妃の慈善。
知らなかった。
そんなつもりではなかった。
その言葉は、入口にはなる。
だが、出口ではない。
王妃エレノアは、自分でその扉の前に立った。
「クラリス」
「はい」
「進めなさい」
「では」
クラリスは一枚の規約案を机に置いた。
「再編案、第一項目です。慈善委員会の支出は、今後、支援先ごとに記録します。一括支出は禁止。緊急支援の場合のみ仮払いを認めますが、十日以内に受領記録を提出」
会計院長が頷く。
「妥当だ」
「第二項目。業者選定は三社以上の見積もりを義務化。ただし、見積もり提出者、紹介者、委員会関係者との親族関係を記載します」
王妃が静かに言う。
「利益相反の確認ですね」
「はい」
「王宮では嫌われる言葉です」
「嫌われる言葉ほど、規約に入れるべきです」
王妃は、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「第三項目」
クラリスは続けた。
「慈善委員会の会議録を残します。出席者、発言者、決定事項、反対意見。すべて記録します」
レオンハルトが眉をひそめる。
「反対意見まで残すのか」
「はい」
「なぜ」
「後から『誰も反対しなかった』と言わせないためです」
資料室が静まった。
王妃は目を伏せた。
おそらく、思い当たる会議がいくつもあるのだろう。
王宮では、反対しないことが礼儀とされる場面がある。
だが、本当は違う。
反対できない空気があるだけだ。
そして空気で決まったことほど、あとで誰も責任を持たない。
「第四項目」
クラリスは、リリアの方を見た。
「現場確認係を置きます」
リリアが、びくりとした。
「私、ですか」
「候補の一人です」
レオンハルトがすぐに反応する。
「リリアにそんなことをさせる必要はない」
リリアは、王太子を見る。
その表情には迷いがあった。
けれど、以前のようにすぐ頷きはしなかった。
「殿下」
リリアは小さく言った。
「私は、見に行きたいです」
「だが、救貧院や孤児院は君にはつらい」
「つらいと思います」
「なら」
「でも、つらいから見ないのは、違う気がするのです」
レオンハルトが黙る。
リリアは、手元の資料をぎゅっと握った。
「私、今まで笑顔だけ見ていました。子どもたちが喜んでくれたら、それで良いのだと思っていました。でも、届かなかった毛布や、減ったパンがあったなら、それも見なければいけないと思います」
その声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
王妃エレノアが、リリアを見た。
「リリア嬢」
「はい」
「現場確認係は、慰問係ではありません」
「はい」
「感謝されるために行くのでもありません」
「はい」
「時には、あなたの過去の発言で迷惑を受けた者に、冷たい目で見られるかもしれません」
リリアの顔が少し白くなる。
それでも、彼女は頷いた。
「それでも、見たいです」
王妃は、しばらく彼女を見ていた。
そして言った。
「では、見なさい」
リリアの目が揺れる。
「ただし、泣くなら帰ってからにしなさい」
クラリスは、少しだけ王妃を見た。
その言い方は厳しい。
だが、リリアを飾り物から外す言葉でもあった。
王妃は、彼女を守られるだけの少女として扱わなかった。
それは、クラリスが思っていたよりも大きな一歩だった。
「第五項目」
クラリスは、新しい紙を出した。
「慈善委員会の責任者欄を明確化します」
王妃が視線を上げる。
「責任者は、私です」
「はい」
「書きなさい」
クラリスは羽根ペンを取る。
王妃エレノア。
王妃陛下主催慈善委員会責任者。
その文字が紙に乗った瞬間、資料室の空気が少し変わった。
肩書きは、飾りではない。
紙に書かれると、それは重さを持つ。
「確認いたします」
クラリスは言った。
「王妃陛下。今後、慈善委員会における不正、記録不備、支援未達が発覚した場合、責任者として報告を受け、再発防止策を示すことに同意されますか」
「同意します」
「知らなかった、という理由のみで、確認を拒否しないことに同意されますか」
レオンハルトが顔を強張らせる。
王妃は、まっすぐクラリスを見た。
「同意します」
「では、こちらへ署名を」
セバスが、すっと書類を差し出す。
王妃は羽根ペンを持った。
美しい指先だった。
多くの祝辞に署名してきた手。
慈善状に署名してきた手。
貴族たちへの礼状に署名してきた手。
その手が今、自分を縛るための書類に署名する。
王妃は一瞬も迷わなかった。
流れるような文字で、名を書いた。
エレノア・レギナ・アルヴァレン。
王妃の署名。
それは、今日この部屋で一番重い文字だった。
クラリスは書類を受け取り、確認する。
「受領しました」
「控えを」
「もちろんです」
セバスが控えを渡す。
王妃はそれを受け取り、机の上に置いた。
レオンハルトは、どこか呆然としていた。
「母上は……本当に、そこまでなさるのですか」
「そこまで?」
王妃は息子を見る。
「レオンハルト。これは、特別なことではありません」
「ですが」
「責任者が責任者欄に署名しただけです」
その言葉は、静かだった。
そして、とても重かった。
リリアは、その書類を見ていた。
おそらく彼女は今、初めて見ている。
高貴な人間が、自分の名前で責任を引き受ける姿を。
それは、涙より美しいものだった。
クラリスは、資料を閉じた。
「本日の確認はここまでにいたします」
会計院長が少し驚いた顔をする。
「早いな」
「再編案の骨子は決まりました。あとは会計院と王妃陛下で詰めるべき実務です」
「君は入らないのか」
王妃が尋ねた。
「私はすでに王太子殿下の婚約者ではございません」
「便利な時だけ退職者になるのですね」
「悪女ですので」
王妃は、少しだけ笑った。
その笑みには、初めてほんのわずかな親しみのようなものがあった。
敵ではない。
味方でもない。
だが、同じ書類を読み終えた者同士の距離だった。
「クラリス」
「はい」
「あなたは、私を裁きたいのですか」
資料室が静かになる。
クラリスは少し考えた。
すぐ答えることもできた。
けれど、この問いには手続きより先に、自分の言葉が必要だった。
「いいえ」
クラリスは言った。
「私は、王妃陛下に働いていただきたいのです」
王妃の目が、わずかに動く。
「ひどい悪女ですね」
「責任者を働かせるのは、悪女の務めです」
アルベルティーナ公爵が、かすかに口元を緩めた。
セバスも満足そうだった。
王妃エレノアは、扇を手に取った。
けれど、開かなかった。
「よろしい」
王妃は言った。
「では、働きましょう」
その声は、王妃らしい優雅さを持っていた。
けれど、以前より少しだけ実務の匂いがした。
悪くない。
クラリスは、そう思った。
会議が終わり、それぞれが席を立つ。
リリアは最後にクラリスの前で足を止めた。
「クラリス様」
「はい」
「現場確認係、私に務まるでしょうか」
「最初から務まる方はおりません」
「では、どうすれば」
「分からないことを、分からないまま書いてください」
「それでいいのですか」
「はい」
クラリスは言った。
「分かったふりをした記録が、一番危険です」
リリアは、少しだけ笑った。
「はい」
その笑顔は、もう守られるためだけのものではなかった。
廊下へ出ると、王宮の窓から光が差し込んでいた。
花瓶の花は少ない。
その代わり、机の上には署名済みの規約案がある。
王宮は、まだ何も片づいていない。
ローゼン商会の調査も残っている。
王太子の精算も残っている。
王家帳簿の再整理も、慈善委員会の再編も、これからだ。
けれど、今日はひとつだけ変わった。
王妃が「知らなかった」の先に進んだ。
クラリスは資料を抱え直す。
知らなかった。
その言葉は、使い方を間違えれば逃げ道になる。
けれど、正しく使えば出発点にもなる。
王妃エレノアは今日、その出発点に署名した。
ならば次は。
クラリスは、遠くに見える王太子の背中を見た。
彼だけが、まだ自分の帳簿を開いていない。
精算は、少しずつ近づいている。
書類の角が、静かに揃っていくように。




