第10話 聖女様、現場へ行きましょう
現場という言葉は、王宮ではあまり好まれない。
王宮にあるのは、応接室、謁見の間、舞踏会場、礼拝堂、執務室。
どれも磨かれている。
どれも整えられている。
どれも、誰かが見せたい形に整えた場所だ。
けれど現場は違う。
床に傷がある。
窓枠に隙間風がある。
鍋の底に焦げがある。
洗い直しても落ちない染みがある。
そして、ときどき帳簿より正直だ。
「本当に、行くのか」
王宮の馬車溜まりで、レオンハルト王太子はリリアにそう言った。
その声には、心配があった。
心配は悪いものではない。
だが心配は、時々、人の足首に柔らかい鎖を巻く。
リリアは、少しだけ俯いた。
白い外套の襟元を握りしめている。
クラリスは馬車の横で、持参した書類を確認していた。
救貧院三か所。
孤児院二か所。
冬期支援物資受領記録。
王妃慈善委員会支出明細。
ローゼン商会納品書写し。
王宮を出るだけなら、花束でも持てばよい。
現場へ行くなら、記録を持つべきだ。
「殿下」
リリアは顔を上げた。
「私は、行きます」
「つらいものを見ることになる」
「はい」
「君が傷つく必要はない」
リリアは、少し黙った。
そして、小さく首を横に振った。
「傷つかない場所だけにいたから、見えなかったのだと思います」
レオンハルトは言葉に詰まった。
クラリスは、そこで初めて顔を上げる。
「リリア様」
「はい」
「出発前に確認いたします」
リリアの背筋が伸びた。
「現場確認係の役目は、慰問ではありません」
「はい」
「可哀想と思うことでもありません」
「はい」
「感謝されることを期待してはいけません」
「……はい」
「では、何をするか」
リリアは、握っていた小さな手帳を開いた。
昨日、クラリスが渡したものだ。
「見る。聞く。数える。分からないことは、分からないと書く」
「結構です」
クラリスは頷いた。
「泣くのは」
「帰ってから」
「よろしい」
そのやり取りを聞いたレオンハルトが、少し不満そうに眉を寄せた。
「クラリス。君は厳しすぎる」
「はい」
クラリスは否定しなかった。
「現場に優しい嘘を持ち込むと、次に来る人がもっと困りますので」
レオンハルトは黙った。
リリアは馬車へ乗り込む。
その手には、花束ではなく手帳がある。
そのことを、クラリスは悪くないと思った。
最初の行き先は、王都北区の救貧院だった。
石造りの古い建物で、王宮の慈善記録では「北区聖マルタ救貧院」と記載されている。
入口には、簡素な木の十字架。
壁はところどころ剥がれ、窓には厚い布が貼られていた。
冬が来る前から、すでに寒そうな建物だった。
院長のマルタ修道女は、クラリスたちを見ると深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、クラリス様。リリア様」
リリアは慌てて頭を下げ返した。
王宮で受ける礼とは違う。
ここでの礼は、生活の中から出てくる。
疲れた手。
古い袖。
乾いた指先。
それでも、礼は丁寧だった。
「本日は、冬期支援物資の受領確認に参りました」
クラリスは言った。
「記録上、こちらの救貧院には昨年、毛布四十枚、乾燥肉二十箱、薪三十束、薬草包み十袋が納入されたことになっています」
マルタ修道女の顔が、わずかに曇った。
「毛布は、二十八枚でした」
リリアの手が止まる。
クラリスは静かに続けた。
「乾燥肉は」
「十二箱」
「薪は」
「二十束」
「薬草包みは」
「五袋です」
リリアは、手帳に数字を書いた。
四十。
二十八。
二十。
十二。
三十。
二十。
十。
五。
ただの数字なのに、書くたびに胸の奥が苦しくなる。
リリアは、思わず唇を噛んだ。
クラリスは横から言った。
「リリア様」
「はい」
「数字が苦しい時ほど、桁を間違えないでください」
「……はい」
リリアはもう一度、数字を確認した。
涙はまだ落ちていない。
手帳の紙は、濡れていない。
「不足分について、問い合わせはされましたか」
クラリスが尋ねる。
マルタ修道女は、小さく頷いた。
「いたしました。けれど、王宮からは『納入済みと記録されている』との返答で」
「誰からの返答ですか」
「慈善委員会の書記官の方です。お名前は……」
修道女は古い箱から、一通の手紙を出した。
封蝋は崩れかけていたが、文字は残っている。
クラリスは受け取り、目を通す。
差出人、マルティナ・ヴェルシュ。
「記録と現場の差異が、ここにもございますね」
クラリスは言った。
リリアは、息をのんだ。
記録の中で見た名前。
王宮の資料室で聞いた名前。
それが、寒い救貧院の机の上に出てきた。
紙の中の不正が、目の前の寒さに変わる。
「院内を拝見しても?」
「もちろんです」
修道女に案内され、三人は寝室へ向かった。
薄い寝台が並んでいる。
毛布はある。
だが、数が足りない。
二人で一枚を使っている寝台があった。
端のほうでは、年老いた男が自分の毛布を半分、隣の少年へかけていた。
リリアの足が止まった。
その光景を見た瞬間、彼女の目に涙が浮かぶ。
クラリスは何も言わなかった。
止めもしない。
慰めもしない。
リリアは、ぎゅっと手帳を握った。
そして、震える声で尋ねた。
「……この部屋の寝台は、いくつですか」
マルタ修道女が答える。
「二十四です」
「毛布は」
「十七枚です」
リリアは書いた。
寝台、二十四。
毛布、十七。
その文字は少し歪んでいた。
でも、読めた。
クラリスはそれを確認し、静かに言った。
「よく書けています」
リリアは、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
次に案内されたのは、厨房だった。
大鍋が一つ。
古い棚。
少し硬そうな黒パン。
乾燥肉の箱は、壁際に二つだけ残っている。
「冬の終わりには、薄く切って粥に入れました」
修道女が言った。
「足りなかったので」
リリアが聞く。
「一箱で、何日分になりますか」
「ここでは、節約して五日ほどです」
「八箱足りなかったなら」
「四十日分ほどでしょうか」
リリアは、書いた。
乾燥肉不足八箱。
約四十日分。
書いたあと、彼女は小さく息を吸った。
「四十日……」
その数字は、金貨より重かった。
王宮では、菓子皿ひとつの飾りで消える額がある。
ここでは、乾燥肉一箱で五日分の粥が少し濃くなる。
同じ国とは思えなかった。
だが、同じ国なのだ。
「クラリス様」
リリアは言った。
「私、王宮で子どもたちに可愛いお菓子を、と言いました」
「はい」
「その時、黒パンと干し果物が減ったのですね」
「その可能性があります」
「ここに来るはずだったものも、減ったのでしょうか」
「調査しなければ断定できません」
クラリスは言った。
「ですが、疑う理由はあります」
リリアは頷いた。
そして、手帳に書いた。
疑う理由あり。
断定はしない。
クラリスは、その文字を見て少しだけ目を細めた。
悪くない。
感情で飛びつかない。
でも、見なかったことにもしない。
その中間に、記録は立つ。
救貧院の出口で、一人の少年がリリアを見上げていた。
十歳ほどだろうか。
痩せているが、目はしっかりしている。
「お姉さんは、王宮の人?」
リリアは少し迷い、頷いた。
「はい」
「じゃあ、毛布をくれるの?」
リリアの喉が詰まった。
すぐに「はい」と言いたかった。
けれど、約束できないことを言ってはいけない。
クラリスは何も助けない。
これは、リリアが答えるべき問いだった。
リリアは膝を折り、少年と目線を合わせた。
「今日、私は毛布が足りないことを記録しました」
「記録?」
「はい。数えました。足りない分を、王宮に持って帰ります」
「持って帰ったら、毛布が来る?」
リリアは一瞬、泣きそうになった。
だが、言った。
「来るように、働きます」
少年は首を傾げた。
「お姉さんが?」
「はい」
「王宮の人も働くの?」
リリアは、少しだけ笑った。
「働かないといけないみたいです」
少年は、納得したように頷いた。
「じゃあ、ちゃんと働いて」
「はい」
リリアは、深く頷いた。
その約束は、綺麗ではなかった。
感動的でもなかった。
けれど、クラリスは思った。
綺麗な言葉より、少しだけ信用できる。
馬車に戻ると、リリアは座席に腰を下ろし、手帳を開いたまま固まっていた。
クラリスは向かいに座る。
「泣いても構いません」
リリアが顔を上げる。
「え?」
「救貧院は出ました」
リリアの目から、ぽろりと涙が落ちた。
一度落ちると、止まらなかった。
それでも彼女は、声を上げて泣かなかった。
手帳を胸に抱えて、静かに泣いた。
クラリスは窓の外を見た。
泣くことは悪くない。
ただ、涙は人を救わない。
涙のあとに何をするかが、人を少しだけ救う。
「クラリス様」
リリアが、鼻をすすりながら言った。
「はい」
「私、何も分かっていませんでした」
「はい」
「でも、分かっていなかったことを、もう言い訳にはしません」
クラリスは、リリアを見た。
リリアの目は赤い。
頬も濡れている。
それでも、手帳は閉じていない。
「では、次にすることは」
クラリスが尋ねる。
リリアは手帳を見た。
「不足分の一覧を作ります」
「はい」
「納品書と、受領記録を照合します」
「はい」
「マルティナ様からの返答文書を、証拠として写しを取ります」
「結構です」
リリアは、涙を袖で拭こうとして、途中で止めた。
ハンカチを出して拭いた。
少しだけ、成長している。
馬車が王宮へ戻る頃には、夕方になっていた。
リリアは馬車の中で、不足分一覧を書き続けた。
毛布十二枚。
乾燥肉八箱。
薪十束。
薬草包み五袋。
それは、彼女にとって初めての報告書だった。
美しい祈りの言葉は一つもない。
けれど、誰かの寒さに届く可能性がある。
王宮に戻ると、レオンハルトが待っていた。
彼はリリアの泣き腫らした目を見て、すぐに駆け寄った。
「リリア、やはりつらかったのだろう。もう行かなくていい」
リリアは、首を横に振った。
「行きます」
「なぜ」
「まだ、二か所あります」
「君がそこまでする必要は」
「あります」
リリアの声は、小さかった。
けれど、以前より芯があった。
「私は、知らなかったからです」
レオンハルトは息を止めた。
「知らなかったから、見に行きます」
その言葉は、王妃の署名と同じくらい、静かに重かった。
クラリスは、資料をセバスへ渡す。
「写しを三部。王妃陛下、会計院、こちらの控えに」
「承知いたしました」
セバスは優雅に頭を下げた。
「聖女候補様の初報告書でございますな」
リリアが恥ずかしそうに俯く。
「字が、少し乱れています」
「乱れた字にも、現場の情報はございます」
セバスは真面目に言った。
クラリスは頷く。
「清書は後でできます。見た時の揺れは、後で再現できません」
リリアは、手帳を抱きしめた。
その夜、王妃エレノアの執務室に、一枚の報告書が届いた。
聖マルタ救貧院冬期支援物資確認報告。
報告者、リリア・メルクール。
補助確認、クラリス・フォン・アルベルティーナ。
王妃はそれを読み、長く黙っていた。
そして、最後の欄で手を止めた。
リリアの字で、こう書かれていた。
不足分は、ただちに補填が必要。
ただし、補填だけではなく、なぜ届かなかったのかを調べる必要がある。
子どもに「ちゃんと働いて」と言われた。
王妃は、静かに目を閉じた。
翌朝。
王妃の名で、会計院と王都警備局へ調査命令が出された。
対象は、ローゼン商会の冬期支援物資輸送記録。
そして、慈善委員会書記官マルティナ・ヴェルシュが保管していた、未提出の配送控え。
王宮の帳簿が、また一枚重くなった。
クラリスはその報告を受け取り、静かに頁をめくる。
届かなかった毛布には、行き先がある。
消えた乾燥肉にも、誰かの腹がある。
ならば次は。
消えたものが、どこへ行ったのかを見に行くだけだ。




