第11話 届かなかった毛布の行方
物は、勝手には消えない。
毛布も。
乾燥肉も。
薪も。
薬草包みも。
帳簿の上では、消えることがある。
記載ミス。
納品済み。
確認済み。
一括処理。
王宮では、そういう言葉の中に物が消える。
けれど、本物の毛布は違う。
毛布には重さがある。
畳めば厚みが出る。
運ぶには馬車が要る。
倉庫に置けば場所を取る。
だから、届かなかった毛布には、必ず別の行き先がある。
「本日の確認事項は、ローゼン商会の冬期支援物資輸送記録です」
王宮北棟資料室。
クラリスは、机の上に三種類の書類を並べた。
一つ目は、王妃慈善委員会の支出明細。
二つ目は、ローゼン商会が提出した納品書。
三つ目は、リリアが前日に救貧院で作成した現場確認報告書。
リリアは、その三つ目の書類を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
自分の字が、王宮の机の上に置かれている。
それは、花束を飾られるより緊張することだった。
王妃エレノアは、報告書に視線を落としたまま言った。
「リリア嬢」
「はい」
「この報告書は、あなたが現場で確認したものですね」
「はい」
「不足分について、誰かに言われた数字を書いたのですか」
リリアは一瞬、言葉に詰まった。
けれど、すぐに答えた。
「いいえ。院長様のお話を聞き、寝台と毛布の数を確認し、乾燥肉の箱も見ました」
「自分の目で見たのですね」
「はい」
王妃は頷いた。
「では、この報告書は採用します」
リリアの目が揺れた。
採用。
その言葉は、不思議だった。
可愛いと言われるより、優しいと言われるより、胸の奥が熱くなった。
クラリスは、別の紙を広げた。
「ローゼン商会の記録では、昨年十一月十二日、聖マルタ救貧院へ毛布四十枚、乾燥肉二十箱、薪三十束、薬草包み十袋を納入済みとなっています」
ユリウス監査官が、横から言った。
「輸送担当は、ローゼン商会所属の馬車三台。御者は、ダリオ、ベルン、オットー」
「その三名への聞き取りは?」
「王都警備局が確認中です。ただ、三名のうちオットーは半年前に商会を辞めています」
クラリスは、顔を上げた。
「所在は」
「南区の荷運び組合に登録があります」
「では、後ほど聞き取り対象に」
「承知しました」
レオンハルト王太子は、資料を見ながら眉をひそめていた。
「商会の納品書には、受領印があるではないか」
彼はそう言って、紙を指差した。
たしかに、そこには聖マルタ救貧院の名と受領印が押されている。
王宮の書類として見れば、整っている。
整っている書類ほど、王宮では安心される。
クラリスは、静かに言った。
「殿下。この受領印は、救貧院のものではありません」
「なぜ分かる」
「こちらが、救貧院からの正式な受領書です」
クラリスはリリアの報告書に添付された写しを出した。
古い紙。
薄いインク。
少し歪んだ印影。
ローゼン商会の納品書にある印影は、妙に綺麗だった。
「本物の印章は、十字架の下部が欠けています。長年使われているためです。ですが、ローゼン商会の納品書の印影は欠けておりません」
レオンハルトは、二つの印を見比べた。
「……偽造か」
「少なくとも、疑いはあります」
クラリスは言った。
「断定は、印章そのものを確認してからです」
リリアが小さく頷いた。
疑う理由あり。
断定はしない。
昨日、自分が手帳に書いた言葉だった。
王妃エレノアは、会計院長へ視線を向けた。
「会計院で印影照合を」
「すでに手配しております」
「早いですね」
「クラリス嬢の顔を見ると、先に動く癖がつきました」
会計院長が真顔で言った。
セバスが後ろで満足そうに頷く。
「たいへん良い傾向でございます」
クラリスは何も言わなかった。
褒められているのか、仕事を増やされているのか、少し判断に迷ったからである。
「次に、倉庫記録です」
ユリウスが一冊の台帳を差し出した。
「ローゼン商会の王都南倉庫に、十一月十二日の前日、慈善委員会向け物資として毛布百二十枚、乾燥肉六十箱、薪九十束、薬草包み三十袋が入庫しています」
「三施設分ですね」
クラリスが言う。
「はい。聖マルタ救貧院、東区孤児院、王都施療院への分として記録されています」
「出庫記録は」
ユリウスは、少し表情を曇らせた。
「同日朝、三施設へ出庫済み」
「数量は」
「全量です」
「では、なぜ現場には届いていないのでしょう」
クラリスの声は穏やかだった。
穏やかな声ほど、逃げ場がない。
ユリウスは、次の紙を出した。
「問題は、同じ日の夕方です」
王妃が眉を寄せる。
「夕方?」
「はい。王都南倉庫から、別便として毛布三十六枚、乾燥肉二十四箱、薪三十束、薬草包み十五袋が出ています」
リリアが、手帳を開いた。
「聖マルタ救貧院の不足分は、毛布十二枚、乾燥肉八箱、薪十束、薬草包み五袋です」
彼女は数字を見ながら言った。
「三倍、です」
クラリスが頷く。
「三施設分の不足が、まとめて別便にされた可能性があります」
レオンハルトが、ようやく顔色を変えた。
「どこへ運ばれた」
ユリウスは、一枚の出庫伝票を机に置いた。
「王都西区、ローレン倉庫」
王妃の目が細くなる。
「ローレン?」
クラリスは、エマ・ローレンの名を思い出した。
侍女長の姪。
噂を運んだ若い侍女。
だが、ここで安易につなげてはいけない。
同じ姓は、証拠ではない。
「ローレン倉庫は、誰の所有ですか」
クラリスが尋ねる。
「表向きは、王都の倉庫業者です。ただし、登記上の共同出資者に、ローゼン商会長の義弟の名があります」
会計院長が低く言った。
「迂回倉庫か」
資料室の空気が重くなる。
王宮で消えた物資は、南倉庫から西区へ回された。
では、その先は。
「ローレン倉庫の出庫記録は」
「あります」
ユリウスは、紙をめくった。
「十一月十八日。毛布三十六枚、乾燥肉二十四箱、薬草包み十五袋。出荷先は、北部貴族向け冬越し市」
リリアが息をのんだ。
「冬越し市?」
クラリスが説明する。
「貴族や裕福な商人が、冬支度の品をまとめて購入する市です。質の良い毛布、保存食、薬草などが扱われます」
「救貧院に行くはずだったものが……売られたのですか」
「可能性があります」
リリアは手帳を握りしめた。
彼女の顔に、怒りのようなものが浮かんだ。
それは、涙よりも少し熱い表情だった。
「子どもたちは、一枚の毛布を二人で使っていました」
リリアは言った。
「その毛布が、貴族の冬支度に?」
クラリスは、リリアを見た。
「リリア様」
「はい」
「怒るのは構いません」
リリアが目を見開く。
「構わないのですか」
「はい」
クラリスは言った。
「ただし、怒るなら、売買記録を押さえてからです」
リリアは、唇を結んだ。
そして、手帳に書いた。
怒る。
売買記録を押さえてから。
セバスが、そっと目元を押さえた。
「たいへん実務的な怒りでございます」
「褒めておりますか」
「もちろんでございます」
王妃エレノアは、そのやり取りを聞きながらも笑わなかった。
彼女の視線は、出庫伝票から離れない。
「冬越し市の販売記録は取れますか」
「会計院の権限では難しい部分があります」
会計院長が答えた。
「商取引記録ですので、商業組合の協力が必要です」
王妃は扇を閉じたまま言った。
「私の名で、商業組合へ照会を出します」
会計局長が慌てた。
「王妃陛下、それは少々大ごとに」
「大ごとです」
王妃は即答した。
「王妃主催の慈善事業で購入された物資が、救貧院に届かず、市で売られた疑いがある。これを大ごとと呼ばず、何と呼ぶのですか」
会計局長は黙った。
クラリスは、王妃を見た。
王妃は、働いている。
本当に働き始めている。
それは王宮にとって、もしかすると不正より大きな変化かもしれない。
「もう一点」
ユリウスが言った。
「ローレン倉庫から冬越し市へ出された品には、慈善委員会の焼印が削られた跡があります」
レオンハルトが顔をしかめる。
「削られた?」
「毛布の木箱、乾燥肉の外箱、薬草包みの束札に、焼印を削った跡があると、倉庫番の一人が証言しています」
「その者はどこに」
「保護しています」
会計院長が答えた。
「王都警備局に身柄を預けました。本人は、商会長から『余剰品の再販売だ』と聞かされていたと」
「余剰品」
クラリスは、その言葉を繰り返した。
「余ったものなど、ありませんでした」
リリアが小さく言った。
クラリスは頷く。
「はい。現場では不足していました」
余剰品。
便利な言葉だ。
届かなかったものを、余ったことにする。
寒かった人を、存在しなかったことにする。
帳簿の上で人を消すより、悪質かもしれない。
「ローゼン商会長を呼びましょう」
王妃が言った。
その声に、資料室の全員が顔を上げた。
会計院長が確認する。
「任意聴取ではなく、王妃陛下からの召喚として?」
「はい」
「よろしいのですか。王宮御用商会への召喚は、商業界への影響が大きい」
「ならば、なおさらです」
王妃は静かに言った。
「御用商会とは、王宮の名を預かる商会です。王宮の名で慈善を汚した疑いがあるなら、王宮の名で呼びます」
クラリスは、ほんの少しだけ目を伏せた。
王妃エレノアは、美しい人だ。
だが今日の美しさは、扇や宝石ではなかった。
責任を自分の名で呼び戻す、その姿だった。
「召喚状の文案を」
王妃が言う。
セバスが、なぜかすでに白紙を差し出した。
王妃が一瞬、セバスを見る。
「用意が良いですね」
「お嬢様の周囲では、紙は多めに用意するのが安全でございます」
「学びます」
王妃は、真面目にそう言った。
クラリスは少しだけ困った。
王妃に学習されると、今後たいへん面倒なことになる気がした。
王妃が召喚状を書いている間、リリアは自分の手帳を見ていた。
毛布十二枚。
乾燥肉八箱。
薪十束。
薬草包み五袋。
昨日は、それがただの不足分だった。
今日は、その不足分に道がついた。
南倉庫。
ローレン倉庫。
冬越し市。
物には道がある。
そして、人にも道がある。
善意から始まったはずのものが、誰かの利益へ流れていく道。
その道を止めなければ、また同じことが起きる。
「クラリス様」
リリアが言った。
「はい」
「私、次の聞き取りにも同席してよろしいでしょうか」
レオンハルトが驚いた顔をする。
「リリア、商会長の聞き取りなど」
リリアは王太子を見た。
「殿下。私は、救貧院の子に『ちゃんと働いて』と言われました」
「それは子どもの言葉だ」
「はい」
リリアは頷いた。
「だから、ちゃんと聞こえました」
レオンハルトは何も言えなかった。
クラリスは、リリアを見て言った。
「同席は可能です。ただし、発言は必要な時のみ。感情で詰め寄らないこと」
「はい」
「分からない言葉が出たら、後で確認すること」
「はい」
「相手が笑っても、手帳を閉じないこと」
リリアは、真剣に頷いた。
「閉じません」
その返事に、クラリスは少しだけ満足した。
人は一日で変わらない。
けれど、一日で持ち物が変わることはある。
リリアは、花束の代わりに手帳を持った。
それだけで、昨日よりは遠くへ行ける。
夕刻。
王妃の名で、ローゼン商会長へ召喚状が出された。
慈善委員会冬期支援物資輸送記録に関する確認。
出頭日時、翌朝九時。
場所、王宮北棟資料室。
同席者、王妃エレノア、会計院長、クラリス・フォン・アルベルティーナ、リリア・メルクール。
ローゼン商会長の屋敷に召喚状が届いた時、商会長は上等な暖炉の前にいたという。
膝には、柔らかな毛布が掛けられていた。
それがどこの毛布だったのかは、まだ確認されていない。
だが、クラリスは翌朝の資料に、一行だけ追加した。
確認事項。
商会長私邸における冬期物資の使用状況。
セバスが、それを見て静かに言った。
「お嬢様、毛布一枚から屋敷まで参りましたな」
「物には道があります」
クラリスは答えた。
「では、その道を最後まで歩きましょう」
届かなかった毛布の行方は、まだ途中だった。
けれど少なくとも、もう消えてはいない。
名前を取り戻し、数字を取り戻し、道を取り戻した。
あとは、その先にいる者へ、扉を開けてもらうだけである。
開けないなら。
悪女が、帳簿で叩く。




