第12話 商会長、その毛布はどちらのものですか
王宮御用商会という肩書きは、よく磨かれた銀食器に似ている。
遠くから見れば美しい。
王家の紋章を映し、客人の目を楽しませ、食卓に品位を添える。
けれど、銀食器は食事を作らない。
運ぶのは料理人であり、洗うのは下働きであり、落とせば割れるのは皿ではなく、誰かの信用である。
ローゼン商会長、バルド・ローゼンは、まさにその銀食器のような男だった。
立派な腹。
整えられた髭。
指には大きな宝石の指輪。
声は低く、笑う時だけ少し甘い。
王宮北棟資料室に入ってきた彼は、まず王妃エレノアへ深く一礼した。
「王妃陛下。本日はお呼びいただき、光栄に存じます」
光栄。
クラリスは、その言葉を帳簿の余白に置いた。
今日の呼び出しは、光栄ではない。
確認である。
確認を光栄と言い換える人間は、たいてい確認される側に回り慣れていない。
「ローゼン商会長」
王妃エレノアは、扇を開かなかった。
今日の王妃は、宝石より書類に近い。
「慈善委員会冬期支援物資について確認します。着席なさい」
「は」
商会長は椅子に座った。
向かいには王妃。
その横に会計院長。
クラリスは少し斜めの席。
リリアは手帳を持って、クラリスの隣に座っていた。
レオンハルト王太子も同席している。
彼はまだ少し不機嫌そうだった。
おそらく、自分の物語からどんどん舞台が離れていくことに、慣れていないのだろう。
「まず、こちらをご覧ください」
クラリスは、三枚の紙を机に並べた。
一枚目、ローゼン商会の納品書。
二枚目、聖マルタ救貧院の現場確認報告書。
三枚目、ローレン倉庫の出庫伝票。
「昨年十一月十二日、貴商会は聖マルタ救貧院へ毛布四十枚、乾燥肉二十箱、薪三十束、薬草包み十袋を納入したと報告しています」
「左様でございます」
バルドは即答した。
「王妃陛下の慈善事業でございます。弊商会としても、誠心誠意、対応いたしました」
誠心誠意。
クラリスは、その言葉も余白に置いた。
便利な言葉は、あとで重さを量る。
「しかし、現場確認では、毛布二十八枚、乾燥肉十二箱、薪二十束、薬草包み五袋しか届いておりません」
リリアが、静かに手帳を開いた。
その音は小さい。
だが、バルドの目が一瞬だけ動いた。
聖女候補が手帳を持っていることに、彼は少し驚いたようだった。
「それは、救貧院側の保管不備ではございませんか」
バルドは、すぐに答えた。
「慈善物資は、ときに現場で混乱が起こります。ありがたい品ほど、管理が難しいものでして」
リリアの手が止まる。
クラリスは、彼女を見る。
リリアは唇を結び、手帳に何かを書いた。
あとで見たら、こう書いてあった。
ありがたい品ほど、管理が難しい。
責任を現場へ移す言葉。
クラリスは、少しだけ満足した。
「救貧院側の保管不備」
王妃が静かに繰り返した。
「それを示す記録はありますか」
バルドの笑みが、ほんの少し固くなる。
「いえ、そこまでは。しかし、弊商会は納品書を提出しております」
「この受領印について確認します」
クラリスは、二つの印影を並べた。
「ローゼン商会の納品書にある受領印と、聖マルタ救貧院の正式印章の印影が一致しません。正式印章には十字架下部の欠けがありますが、貴商会の納品書には欠けがありません」
バルドは、わずかに目を細めた。
「印章は、修復されたのでは?」
「救貧院長へ確認済みです。修復歴はございません」
「では、現場の誰かが別の印を」
「その可能性もあります」
クラリスは頷いた。
「ですので、本日は断定ではなく確認です」
バルドは笑った。
「さすがは公爵令嬢。たいへん慎重でいらっしゃる」
「はい」
クラリスは静かに返した。
「慎重に詰めます」
バルドの笑みが、少しだけ消えた。
会計院長が、次の資料を出す。
「ローゼン商会王都南倉庫の記録では、三施設分の物資が十一月十二日朝に出庫されています。ところが、同日夕刻、三施設の不足分と一致する数量が、ローレン倉庫へ移送されています」
「ローレン倉庫?」
バルドは、初めて少し大きく反応した。
「存じませんな」
「商会長」
クラリスは、別紙を差し出した。
「ローレン倉庫の共同出資者、ギル・ヴァイス氏は、貴方の義弟です」
「親族が商売をしているだけです。私の商会とは別でございます」
「では、なぜローゼン商会の出庫伝票に、ローレン倉庫への移送指示が残っているのでしょう」
バルドは黙った。
その沈黙は短い。
だが、資料室にいる者には十分だった。
「余剰品でございます」
バルドは、ようやく言った。
「慈善物資には、輸送の都合上、余剰が出る場合がございます。品質保持のため、一時的に別倉庫へ移すこともあります」
「余剰品」
リリアが、小さく言った。
バルドが彼女を見る。
そこには、ほんの少し侮りがあった。
可憐な聖女候補。
涙を流し、花の中で微笑む少女。
彼にとって、リリアはそういう存在だったのだろう。
「リリア様には、少々難しいお話かもしれませんが」
バルドは優しく言った。
「商取引には、現場では分からぬ事情が多いのです」
レオンハルトが少し身を乗り出しかけた。
だが、それより早く、リリアが口を開いた。
「では、お聞きします」
声は震えていた。
でも、言葉は逃げていなかった。
「聖マルタ救貧院では、毛布が十二枚足りませんでした。乾燥肉は八箱、薪は十束、薬草包みは五袋足りませんでした」
リリアは手帳を見た。
数字を間違えないように。
「東区孤児院と王都施療院の不足分を合わせると、ローレン倉庫へ移送された数量と一致します。これは、余剰品なのですか。それとも、届かなかった品ですか」
バルドの顔から、甘い笑みが消えた。
資料室が静かになる。
クラリスは、リリアの手帳をちらりと見た。
文字は少し乱れている。
けれど、数字は合っていた。
よろしい。
「聖女候補様」
バルドは低く言った。
「数字が一致したからといって、それが同じ品とは限りません」
「はい」
リリアは頷いた。
「ですので、確認しています」
クラリスは、そこで一枚の木片を机に置いた。
焼け焦げたような跡がある。
「こちらは、ローレン倉庫で保管されていた木箱の一部です」
会計院長が説明を続ける。
「倉庫番の証言に基づき、王都警備局が保全しました。慈善委員会の焼印が削られていますが、下部に一部残存しています」
「焼印など、似たものはいくらでも」
「いいえ」
クラリスは言った。
「王妃陛下主催慈善委員会の焼印は、王家紋章の下に小さな百合が三つ並びます。こちらの削り跡に、百合の下線が残っています」
バルドの喉が動いた。
王妃エレノアは、その木片をじっと見ていた。
自分の名で集めた善意が、削られている。
その事実は、彼女の沈黙を少しだけ鋭くした。
「ローゼン商会長」
王妃は言った。
「この木箱を、ご存じですか」
「……倉庫管理の細部までは」
「では、倉庫管理者を呼びましょう」
バルドの指が、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
焦りの癖だ。
クラリスは見逃さない。
「さらに、冬越し市の販売記録を確認しました」
ユリウスが次の資料を出した。
「ローレン倉庫から出荷された毛布三十六枚は、北部貴族向け冬越し市にて販売されています。販売先は四件。うち一件が、ローゼン商会長私邸」
バルドの顔が、今度こそはっきり変わった。
「私邸?」
レオンハルトが呟く。
「商会長。貴殿の家で使われていた毛布か」
「購入した品でございます。冬越し市で正当に」
「正当に」
クラリスは、その言葉を拾った。
「では、その毛布はどちらのものですか」
バルドは答えない。
「冬越し市で購入された貴方の私物ですか。それとも、聖マルタ救貧院へ届くはずだった慈善物資ですか」
「購入した時点で、私物でございます」
バルドは少し声を荒げた。
「市に出たものを買っただけだ」
「誰が、市に出したのですか」
クラリスの声は、静かだった。
その静けさが、刃のように机を渡る。
「ローゼン商会の南倉庫から、ローレン倉庫へ移送された。ローレン倉庫から冬越し市へ出荷された。冬越し市で貴方が買った。帳簿上は別々の取引でも、道をたどれば同じ毛布です」
リリアが、ぽつりと言った。
「救貧院の男の子が、二人で一枚の毛布を使っていました」
誰も動かなかった。
「その毛布は、誰の寒さを引き受けるはずだったのでしょうか」
バルドは、リリアを見た。
先ほどまでの侮りは、もうなかった。
そこにあったのは、面倒な相手を見る目だった。
リリアは、その目から逃げなかった。
手帳を持ったまま、まっすぐ座っていた。
クラリスは思った。
花束より、ずっと良い姿勢だ。
「商会長」
王妃エレノアが言った。
「慈善委員会の焼印が削られた物資が、市場へ流れ、貴方の私邸に入っている。これを、偶然と説明しますか」
バルドは、深く息を吐いた。
そして、笑った。
今度の笑みは甘くない。
商人の顔だった。
「王妃陛下。慈善には費用がかかります」
その言葉に、会計院長の眉が動いた。
「王宮は美しいお言葉で慈善を命じられる。ですが、実際に物を集め、運び、保管し、損耗を引き受けるのは我々商人です。多少の再販売益を得ることで、次の支援も回るのです」
「つまり、救貧院に届くべき物資を売って、商会の利益にしたと認めるのですね」
クラリスが言った。
「違う。慈善を継続するための調整です」
「調整」
クラリスは、書類に一つ印をつけた。
「では、調整額を記した帳簿を提出してください」
バルドが黙る。
「慈善を継続するための再販売であれば、支援先、売却数、売却額、保管費、輸送費、残額、次回支援への充当先が記録されているはずです」
「それは……商会内部の」
「ありますか」
クラリスは重ねた。
「ないのですか」
バルドの額に汗が浮かぶ。
王妃が言った。
「ローゼン商会長。答えなさい」
「……詳細な記録は、現在確認中です」
クラリスは頷いた。
「承知しました」
そして、セバスへ視線を送る。
セバスは待っていたように、一枚の書類を差し出した。
「こちらは、会計院による暫定措置案です」
クラリスは読み上げた。
「ローゼン商会に対し、慈善委員会関連取引の一時停止。王宮御用商会資格の審査保留。該当物資の売却益全額の仮差押え。関係帳簿および倉庫記録の提出命令」
バルドが立ち上がりかけた。
「横暴ですぞ!」
「お座りなさい」
王妃の声が落ちた。
バルドは止まった。
王妃エレノアは、ゆっくり立ち上がる。
「横暴という言葉を、あなたが使うのですか」
「王妃陛下、私は長年、王宮に尽くして」
「尽くした相手の名で集めた毛布を、削って売りましたか」
バルドは口を閉じた。
「私の名を利用しましたね」
王妃の声は大きくない。
だが、その場の誰もが聞いた。
「私の慈善を、あなたの商売の飾りにした」
バルドの顔が青くなる。
クラリスは、王妃を見た。
怒っている。
だが、王妃は怒りを散らしていない。
書類へ落としている。
「会計院長」
「はい」
「暫定措置案を採用します。正式命令として整えなさい」
「承知しました」
「王都警備局へ、ローレン倉庫とローゼン商会南倉庫の保全を命じます」
「はい」
「冬越し市で該当物資を購入した者には、善意の第三者である可能性を踏まえ、回収ではなく購入経緯の確認を優先」
会計院長が、少し驚いた顔をした。
王妃は続ける。
「悪いのは、寒さを買った者ではなく、寒さを売った者です」
資料室に、静かな重みが落ちた。
リリアは手帳にその言葉を書き留めた。
悪いのは、寒さを買った者ではなく、寒さを売った者。
クラリスは、何も言わなかった。
王妃が自分の言葉で責任を持ち始めている。
なら、余計な補足は要らない。
バルド・ローゼンは椅子に沈み込んだ。
銀食器のようだった男は、今は磨き残しの曇りを見せている。
「私は……王宮のために」
「違います」
クラリスは言った。
「王宮のため、という言葉で、王宮の目を塞いだのです」
バルドはクラリスを睨む。
「悪女め」
資料室が、一瞬だけ静かになった。
レオンハルトが何か言いかける。
リリアも息をのんだ。
けれどクラリスは、少しも動揺しなかった。
「はい」
クラリスは、淡々と答えた。
「ですので、証拠は残します」
セバスが、静かに木箱を閉じた。
その音が、尋問の終わりを告げるようだった。
ローゼン商会長は、王都警備局の者に付き添われて資料室を出ていった。
廊下に残ったのは、紙の匂いと、少し焦げた木片の匂いだった。
王妃エレノアは、しばらくその場に立っていた。
「クラリス」
「はい」
「私は、私の名で集めたものが削られるのを、見ていませんでした」
「はい」
「次は、見ます」
「それでよろしいかと」
王妃は、ほんの少しだけ笑った。
「相変わらず、慰めませんね」
「慰めは専門外です」
「でしょうね」
リリアが、手帳を閉じる。
その顔は疲れていた。
だが、昨日より少し強かった。
「クラリス様」
「はい」
「怒っても、よかったのでしょうか」
「はい」
「でも、怒るだけでは駄目なのですね」
「はい」
「証拠を持って怒る」
「よくできました」
リリアは、少しだけ目を丸くした。
褒められると思っていなかったのだろう。
それから、困ったように笑った。
王宮の外では、夕方の鐘が鳴っていた。
届かなかった毛布の行方は、まだ完全には終わっていない。
けれど、道は見えた。
南倉庫。
ローレン倉庫。
冬越し市。
商会長の私邸。
そして、その道の途中には、削られた焼印があった。
削られたのは、木箱だけではない。
慈善という言葉の表面も。
王妃の名も。
救貧院の寒さも。
だが、削られても残るものはある。
欠けた印影。
歪んだ手帳の文字。
少年の一言。
ちゃんと働いて。
その言葉が、王宮の机の上まで届いた。
クラリスは、資料を揃える。
「次は」
会計院長が尋ねた。
「王太子殿下の精算ですか」
レオンハルトの肩が揺れた。
クラリスは少しだけ彼を見た。
そして言った。
「その前に、王宮を出る準備をいたします」
資料室の空気が変わった。
「クラリス」
レオンハルトが、思わず名を呼ぶ。
クラリスは振り向いた。
「はい、殿下」
「君は、本当に王宮を去るのか」
「はい」
「ここまで王宮を直しておきながら」
クラリスは、書類を胸に抱えた。
「直すべき方々が、ようやく働き始めましたので」
王妃が、静かに目を伏せる。
リリアが、手帳を握る。
会計院長が、小さく息を吐く。
王宮はまだ片づいていない。
だが、クラリスがすべて片づける必要はない。
彼女は婚約者ではない。
無償の調整役でもない。
悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切った。
ならば次は。
退職の手続きである。




