第13話 悪女令嬢は、王宮を退職する
王宮には、退職という言葉があまり似合わない。
王宮で人は、任じられ、召され、拝命し、下賜され、時には失脚する。
だが、退職する者は少ない。
なぜなら王宮の仕事の多くは、役職ではなく空気で発生するからだ。
気づいた者がやる。
黙っていた者に積まれる。
できる者に回される。
そして、いつの間にか当然になる。
当然にされた仕事は、辞める時に困る。
誰も、それが仕事だったと認めていないからである。
だからクラリス・フォン・アルベルティーナは、その朝、いつもより少し厚い書類の束を持って王宮北棟資料室に入った。
表紙には、こう書かれていた。
王宮関連業務引継ぎおよび婚約解消後の確認事項。
副題。
アルベルティーナ公爵家令嬢クラリスに付随していた非公式業務の終了について。
セバスが、それを銀盆に載せて運んだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「副題が少々、刺しております」
「事実です」
「では、問題ございません」
セバスは、たいへん満足そうだった。
資料室には、すでに人が集まっていた。
王妃エレノア。
王太子レオンハルト。
聖女候補リリア。
会計院長。
ユリウス監査官。
アルベルティーナ公爵。
ローゼン商会の一件は、まだ完全に終わっていない。
倉庫の保全。
売却益の確認。
慈善委員会規約の改定。
救貧院への不足分補填。
すべて進行中だ。
王宮は、まだ散らかっている。
しかし、散らかっている部屋をすべて片づけてから出ようとすると、人は一生そこを出られない。
「本日の確認事項は、婚約解消後にクラリス・フォン・アルベルティーナが担っていた王宮関連業務の終了と、各担当への引き継ぎです」
クラリスが言うと、レオンハルトがすぐに顔を上げた。
「待て」
「はい、殿下」
「王宮関連業務の終了とは、どういう意味だ」
「言葉の通りです」
クラリスは資料を開いた。
「私は、殿下の婚約者ではなくなりました。したがって、王太子妃候補として担っていた非公式調整、外交補助、慈善委員会整理、王宮内外の火消し業務を終了いたします」
「火消し業務……」
リリアが小さく呟いた。
会計院長は、なぜか深く頷いている。
おそらく、思い当たる火が多いのだろう。
「まず第一項目。外交補助」
クラリスは一枚目を差し出した。
「フローレンス王国、南部諸侯、西方水利組合、北方救貧院連絡会。それぞれの窓口、過去対応履歴、未決事項を一覧化しております」
王妃が資料を受け取った。
「これを、誰へ引き継ぐつもりですか」
「外交局第三室へ」
「王太子殿下ではなく?」
「はい」
クラリスは静かに言った。
「殿下に直接引き継ぎますと、また誰かが横で支える前提になります」
レオンハルトの顔が強張った。
王妃は、何も言わなかった。
反論できなかったのだろう。
「第二項目。慈善委員会再編」
クラリスは、次の資料をリリアへ渡した。
「現場確認係の手順書です。訪問前の確認事項、訪問時の聞き取り項目、帰還後の報告書様式。不足分があった場合の照合手順も入れてあります」
リリアは、両手で受け取った。
まるで、花束ではなく剣を渡されたような顔だった。
「私に、ですか」
「はい」
「私、まだ間違えると思います」
「間違えます」
クラリスは即答した。
リリアが少し固まる。
「ですので、確認欄を設けました。会計院または王妃陛下の確認を受けてから提出してください」
「はい」
「分からない場合は、空欄にせず『不明』と書いてください」
「はい」
「泣いた場合は」
リリアは、少しだけ口元を緩めた。
「帰ってから」
「結構です」
王妃エレノアが、静かにそのやり取りを見ていた。
その目には、以前のような警戒だけではない。
ほんの少し、疲れた母のような色もあった。
「第三項目。王太子殿下に関する公務補助」
クラリスが言うと、室内の空気が変わった。
レオンハルトは、机に置かれた書類を見た。
以前なら、それを責められていると感じただろう。
実際、少しは責められている。
だが今日の書類は、罰だけを目的にしていない。
これから同じことを起こさないための紙である。
「殿下」
クラリスは、王太子へ一枚の書類を差し出した。
「こちらは、今後、殿下の公務遅延、欠席、発言修正が発生した場合の対応記録です」
「対応記録?」
「はい。いつ、どの公務で、何が起き、誰が対応し、追加費用がいくら発生したかを記録します」
レオンハルトは、顔をしかめた。
「私を監視するのか」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「殿下を、殿下ご自身の行動と接続するのです」
レオンハルトは黙った。
その言葉の意味を、すぐには受け取れなかったのだろう。
王妃が代わりに言った。
「今までは、あなたの行動と結果の間に、クラリスや公爵家が入っていました」
「母上」
「そのせいで、あなたは自分の行動がどこに届いたのかを見なかった」
レオンハルトの視線が落ちる。
彼は、机の上の書類を見た。
書類は冷たい。
けれど冷たさは、時々、人を起こす。
「私は……君に、そこまでさせていたのか」
王太子が言った。
クラリスは少しだけ考えた。
この問いに、優しい嘘はいらない。
「はい」
レオンハルトの肩が落ちた。
「そして、殿下だけではありません」
クラリスは続けた。
「王宮全体が、それを当然としていました」
王妃の指が、わずかに動く。
会計院長が目を伏せる。
ユリウスも、何も言わない。
当然という言葉は、王宮の壁紙に似ている。
毎日見ているうちに、誰も柄を意識しなくなる。
けれど、剥がしてみれば分かる。
その裏に、どれだけの埃が溜まっていたか。
「第四項目。精算計画です」
クラリスは、最後に厚い紙を出した。
「公爵家立替分、王宮追加支出分、慈善委員会不足補填分について、支払いおよび回収計画を分けております」
レオンハルトが顔を上げる。
「私が支払うのか」
「殿下個人、王家、関係商会、慈善委員会。それぞれの責任区分に応じてです」
「私個人だけではないのか」
「殿下個人だけに負わせると、王家全体が学びません」
王妃が、静かにクラリスを見た。
その言葉を、王妃はどう受け取ったのだろう。
痛みか。
皮肉か。
あるいは、助け舟か。
クラリス自身にも、少し分からなかった。
ただ、王家が殿下を切り捨てて終わりにすることも違うと思った。
それではまた、誰かひとりに重さが移るだけだ。
「王妃陛下」
「はい」
「こちらに、王家としての受領確認をお願いいたします。精算計画に同意するものではなく、まず計画を受領したことの確認です」
「分かっています」
王妃は羽根ペンを取った。
ここ数日で、王妃はよく署名するようになった。
以前の署名は、花のようだった。
今の署名は、少しだけ石に似ている。
重く、残る。
王妃が署名を終えると、セバスが乾燥砂を振り、控えを整えた。
「受領しました」
王妃が言う。
クラリスは頷いた。
「では、これをもって、私が王宮で担っていた非公式業務を終了いたします」
その瞬間、資料室の空気が止まった。
言葉として聞くと、思ったより重かったのだろう。
レオンハルトが立ち上がりかける。
「クラリス」
「はい」
「本当に、戻らないのか」
「はい」
「王宮には、まだ君が必要だ」
クラリスは、静かに王太子を見た。
美しい顔だった。
かつて、その顔の隣に立つことが、自分の未来だと教えられた。
王太子妃教育。
礼法。
外交。
会計。
公務。
沈黙。
忍耐。
微笑み。
あらゆるものが、そこへ向かっていた。
だが、その未来はもう精算済みだ。
「殿下」
「何だ」
「必要とされることと、戻ることは別です」
レオンハルトは言葉を失った。
「私は、王宮に必要だったのかもしれません」
クラリスは言った。
「けれど王宮は、私を必要な人間として扱いませんでした」
室内が、深く静まる。
それは非難だった。
だが、叫びではない。
紙の端で指を切るような、細い痛みだった。
「謝罪する」
レオンハルトが言った。
その声は、いつもより低かった。
「君に、謝罪する」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「受領します」
レオンハルトの顔に、わずかな希望が浮かぶ。
だが、クラリスは続けた。
「謝罪の受領と、関係の復旧は別です」
希望が、静かに閉じる。
それでも、今度のレオンハルトは怒らなかった。
ただ、苦しそうに頷いた。
「そうか」
「はい」
「そうだな」
それは、彼にしては珍しく、自分の内側から出した言葉だった。
リリアが、手帳を握りしめていた。
彼女は泣いていない。
だが、目は揺れている。
「クラリス様」
「はい」
「私、続けます」
リリアは言った。
「現場確認係を。まだ、ちゃんとできないと思います。でも、続けます」
「はい」
「クラリス様がいなくなっても」
クラリスは、リリアを見た。
「私がいなくなっても続くなら、引き継ぎは成功です」
リリアの目に、涙が浮かんだ。
でも彼女は、それをこぼさなかった。
帰ってから。
それを覚えているのだろう。
「王妃陛下」
クラリスは、最後に王妃へ向き直った。
「慈善委員会再編、王家帳簿の再整理、ローゼン商会への措置。これらは今後、王妃陛下の名で進めてください」
「あなたは、見届けないのですか」
「見届ける必要はありません」
「冷たいですね」
「いいえ」
クラリスは静かに言った。
「私が見ていなければ正しく動かない仕組みは、正しくありません」
王妃は、その言葉を受け止めた。
しばらく黙り、それからゆっくり頷いた。
「分かりました」
そして、少しだけ苦笑した。
「あなたは最後まで、王宮に甘くありませんね」
「悪女ですので」
「便利な言葉ですね」
「ええ」
クラリスは、少しだけ微笑んだ。
「私もそう思い始めております」
アルベルティーナ公爵が立ち上がった。
「クラリス」
「はい、お父様」
「帰るぞ」
その言葉は短かった。
だが、クラリスの胸に、想像以上に深く落ちた。
帰る。
王宮から去るのではない。
帰る場所がある。
それを忘れていたわけではない。
ただ、長いあいだ、思い出す余裕がなかった。
「はい」
クラリスは答えた。
セバスが、資料を整える。
「お嬢様、王宮へ置いていく控えはすべて提出済みでございます」
「私物は」
「回収済みでございます」
「忘れ物は」
セバスは、わずかに目を細めた。
「十年分ほど、ございますな」
クラリスは少し黙った。
それから言った。
「それは、置いていきます」
「よろしいので?」
「はい」
王宮に置いていくものもある。
怒り。
期待。
十年分の癖。
廊下の花の匂い。
呼ばれなかった名前。
飲み込んだ言葉。
すべて持って帰るには、荷物が多すぎる。
資料室を出る時、レオンハルトがもう一度口を開いた。
「クラリス」
「はい」
「君は、私を憎んでいるか」
クラリスは振り返った。
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
憎んでいる。
そう言えば簡単だった。
憎んでいない。
そう言えば美しかった。
だが、どちらも正確ではない。
「殿下」
「何だ」
「もう、帳簿を閉じました」
レオンハルトは、しばらくその意味を考えていた。
そして、少しだけ笑った。
笑ったというより、痛みを受け入れる形に近かった。
「そうか」
「はい」
「なら、私はこれから、自分の帳簿を開く」
クラリスは、ほんの少しだけ目を見開いた。
初めて、彼は自分から帳簿という言葉を使った。
遅い。
あまりに遅い。
けれど、遅い出発が無意味とは限らない。
「それがよろしいかと」
クラリスは言った。
そして、もう振り返らなかった。
王宮の廊下を歩く。
かつては、次の公務のために歩いた廊下。
誰かの失言を収めるために急いだ廊下。
リリアの噂を聞いた廊下。
王妃の沈黙を背に受けた廊下。
今日は、帰るために歩く。
窓の外では、庭師が花を減らしていた。
少し前まで、王宮の廊下には花が多すぎた。
今日は、花瓶がいくつか空になっている。
空いた場所に、光が入っていた。
「お嬢様」
セバスが後ろから言った。
「何かしら」
「王宮の廊下が、少し広く見えます」
「花を減らしたからでしょう」
「それだけでございましょうか」
クラリスは、少し考えた。
「さて」
答えなかった。
王宮の玄関前には、公爵家の馬車が待っていた。
黒塗りの車体。
銀の紋章。
扉の前に立つ父。
アルベルティーナ公爵は、娘を見て言った。
「よく働いた」
ただ、それだけだった。
クラリスは、深く息を吸った。
王宮の空気は、香水と紙と古い石の匂いがする。
十年分の匂いだった。
「ありがとうございます」
その返事は、少しだけ揺れた。
公爵は何も言わず、娘の背に手を添えた。
それだけで十分だった。
馬車に乗る直前、クラリスは一度だけ王宮を見上げた。
高い塔。
白い壁。
磨かれた窓。
美しい場所だった。
そして、美しい場所ほど、影も濃い。
クラリスは、その影のいくつかに名前をつけた。
すべてではない。
だが、いくつかは。
それで十分だとは言わない。
けれど、今日はここまででいい。
「出して」
クラリスが言うと、馬車が動き出した。
王宮が遠ざかる。
背中に、重さはなかった。
軽くもなかった。
ただ、少しだけ静かだった。
その夜。
アルベルティーナ公爵家の自室で、クラリスは久しぶりに早く眠った。
机の上には、王宮から持ち帰った控え書類が整えられている。
隣には、白紙の帳面。
その表紙には、まだ何も書かれていない。
クラリスは眠りの底で、不思議なものを見た。
白い光。
見たことのない四角い部屋。
黒ではなく、緑の板。
制服を着た少女たち。
紙より薄い、光る小さな板。
そして、誰かの声。
――二千円くらいでしょ? 細かくない?
クラリスは夢の中で、眉をひそめた。
二千円。
知らない単位。
知らない世界。
けれど、その言い方は知っている。
誰かの損を、小さいものとして片づける声。
どの世界にもある、薄い刃のような声。
クラリスは、眠りながら思った。
記録が必要です。
翌朝、彼女はその夢を忘れなかった。
忘れないように、紙に書いた。
白い部屋。
緑の板。
光る小板。
文化祭。
二千円。
レシート。
セバスが朝の茶を運び、机の紙を見て目を細めた。
「お嬢様」
「何かしら」
「夢まで議事録になさるので?」
クラリスは羽根ペンを置いた。
「記憶は、起床後に改ざんされます」
「なるほど」
セバスは、いつものように真面目に頷いた。
「では、夢にも控えが必要でございますな」
クラリスは、書いたばかりの紙を見た。
まだ存在しないはずの、百二十円のレシート。
まだ会っていないはずの、日下部真央という名前。
そして、まだ開いていない帳簿。
王宮の帳簿は、閉じた。
けれど、世界にはまだ、未精算の余白があるらしい。




