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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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16/35

幕間 悪女令嬢は、白い教室の夢を見る

 王宮を出た夜、クラリスは久しぶりに深く眠った。


 深く眠った、はずだった。


 身体は寝台に沈んでいる。

 窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。

 公爵家の屋敷は静かで、廊下を歩く使用人の足音すら遠い。


 それなのに、クラリスの意識は、見知らぬ白さの中に立っていた。


 白い部屋だった。


 壁も、天井も、光も白い。


 王宮の白とは違う。


 王宮の白は、石の白だ。

 磨かれ、飾られ、権威をまとった白。


 けれど、その部屋の白は、もっと薄い。


 乾いていて、均一で、どこか匂いがない。


 窓は大きい。

 床は木でも石でもない。

 壁の前には、緑色の大きな板がある。


 緑の板。


 黒板、という言葉が、なぜか頭に浮かんだ。


 黒くないのに、黒板。


 クラリスは、夢の中で眉をひそめた。


 不合理な名称である。


 だが、そこにいる少女たちは、誰も気にしていなかった。


 皆、同じような服を着ている。


 濃紺の上着。

 白い襟。

 短いスカート。

 胸元の細い布。


 制服。


 また、知らないはずの言葉が浮かぶ。


 クラリスは、自分の手元を見た。


 そこには羽根ペンはない。

 代わりに、細い黒い筆記具がある。


 軽い。

 インク壺もいらない。

 先端を紙に押し当てるだけで、線が出る。


 便利すぎて、少し不安になる道具だった。


 机の上には、紙の束と、光る小さな板。


 板の表面に、文字が浮かんでいる。


 日付。

 金額。

 名前。

 短い文。


 紙ではないのに、記録がある。


 帳簿ではないのに、履歴が残る。


 クラリスは、その小さな板から目を離せなかった。


 記録が手のひらに入る世界。


 だが、記録があることと、人がそれを読むことは別だ。


 夢の中で、誰かが笑った。


「まあ、二千円くらいでしょ? 細かくない?」


 声は軽かった。


 悪意があったわけではない。


 むしろ、その場を明るくしようとする声だった。


 けれどクラリスは、その軽さを知っていた。


 十年分の立替金。

 王家全体費用。

 王室接遇費。

 慈善関連費。

 余剰品。


 言葉は違う。


 単位も違う。


 けれど、構造は同じだった。


 誰かの負担を、小さいものとして片づける声。


 誰かの違和感を、場の空気で飲み込ませる声。


 誰かの記録を、「そんなこと」と笑う声。


 夢の中で、一人の少女が俯いていた。


 黒い髪を肩で切りそろえた少女。

 手には、折れかけたレシートの束。


 名前を呼ばれた気がした。


 日下部真央。


 クラリスは、その名を知らない。


 知らないはずなのに、紙に書くべき名前だと思った。


「でも、合わないんです」


 少女は小さく言った。


「文化祭の会計、二千円だけ、どうしても」


「だから、二千円でしょ?」


 別の少女が笑う。


「もういいじゃん。打ち上げの時に誰か多めに出せば」


「それ、誰が?」


「誰って……まあ、真央が一回立て替えて、あとで」


 クラリスは、夢の中で静かに息を吸った。


 立て替え。


 その言葉は、世界を越えても人の肩に乗るらしい。


 日下部真央という少女は、何も言わなかった。


 言いたいことはある。

 だが、言えば空気が悪くなる。


 その空気を、彼女はすでに読んでしまっている。


 読める人間ほど、飲み込む。


 飲み込める人間ほど、次も飲まされる。


 クラリスは、その構造を知っていた。


 知りすぎていた。


「レシートは」


 気づけば、クラリスは口を開いていた。


 夢の中なのに、声が出た。


 少女たちが振り向く。


 日下部真央も、驚いた顔でクラリスを見た。


 クラリスは、自分の姿を見下ろした。


 王宮のドレスではない。


 同じ制服を着ている。


 だが、姿が変わっても、言うことは変わらない。


「レシートは、日付順に並べてください」


 教室が静かになる。


「購入者、金額、用途。三列で十分です」


 誰かが小さく笑った。


「え、なに急に」


「二千円は、細かくありません」


 クラリスは言った。


「小さい金額として扱われた時ほど、記録が必要です」


 日下部真央の目が揺れた。


 泣きそうではない。


 少しだけ、息ができるようになった顔だった。


 クラリスは、その表情を見て思った。


 王宮にもいた。


 侍女。

 厨房係。

 救貧院の院長。

 毛布を数えたリリア。


 声が大きい者ではない。


 ただ、見ていた者たち。


 記録がなければ、いなかったことにされる者たち。


 世界が変わっても、同じ場所に同じ種類の沈黙がある。


 ならば、やることも変わらない。


 夢の中の光る板が、震えた。


 小さな音が鳴る。


 誰かの指がその上を滑り、文字が流れていく。


 スクリーンショット。


 また、知らない言葉が頭に浮かぶ。


 画面を、そのまま保存すること。


 クラリスは、少しだけ感心した。


 この世界は、証拠を残す道具に恵まれている。


 なのに、人は相変わらず、証拠を見ないふりをするらしい。


 そこまで見えたところで、白い教室が揺れた。


 緑の板が遠ざかる。


 制服の少女たちの輪郭が薄くなる。


 日下部真央が、何かを言おうとしている。


 だが、声は届かない。


 代わりに、一枚の紙だけが、クラリスの足元に落ちた。


 細長い紙。


 王宮の領収書とは違う。


 薄く、軽く、少し頼りない。


 そこには、こう印字されていた。


 ミルクティー 百二十円。


 百二十円。


 クラリスは、その数字をじっと見た。


 貨幣価値は分からない。


 だが、それが誰かの日常に属する金額であることは分かった。


 日常の金額ほど、軽く扱われる。


 けれど日常は、軽いものでできているわけではない。


 毎日の水。

 パン。

 毛布。

 菓子。

 ミルクティー。


 それらが一つずつ欠けて、人は少しずつ疲れていく。


 クラリスは、レシートを拾おうとした。


 その瞬間、目が覚めた。


 朝だった。


 窓の外には、公爵家の庭が広がっている。


 白い教室はない。


 緑の板もない。


 制服の少女も、光る小板も、百二十円のレシートもない。


 あるのは、見慣れた天蓋。

 見慣れた寝台。

 見慣れた机。


 そして、まだ何も書かれていない白紙の帳面。


 クラリスは起き上がり、すぐに机へ向かった。


 夢は、起床後に崩れる。


 崩れる前に、記録しなければならない。


 白い部屋。

 緑の板。

 制服。

 文化祭。

 日下部真央。

 二千円。

 レシート。

 ミルクティー。

 百二十円。

 光る小板。

 スクリーンショット。


 書き終えた頃、セバスが朝の茶を運んできた。


「お嬢様」


「何かしら」


「昨夜はよくお休みになられたようで」


「そのはずでした」


 セバスは机の紙を見た。


「お嬢様、夢まで議事録になさるので?」


「記憶は、起床後に改ざんされます」


「なるほど」


 セバスは真面目に頷いた。


「では、夢にも控えが必要でございますな」


「ええ」


 クラリスは、書いたばかりの紙を見下ろした。


「それに、夢とは限りません」


 セバスの眉が、わずかに動いた。


「と、申しますと」


「分かりません」


 クラリスは正直に答えた。


「ですが、分からないものを分かったことにするのは危険です」


「ごもっともでございます」


 セバスは、茶器を置いた。


 香りの良い紅茶だった。


 王宮の茶より、少し濃い。


 クラリスはカップを手に取り、ひと口飲んだ。


 温かい。


 白い教室には、この香りはなかった。


 けれど、あの場所にも何かの匂いはあったはずだ。


 紙。

 汗。

 菓子。

 雨の日の床。

 安い紅茶か、甘い飲み物。


 思い出せない。


 だからこそ、また見た時は記録する必要がある。


「お嬢様」


 セバスが言った。


「本日、アルベルティーナ公爵閣下より、午前の朝食後にお話があるとのことでございます」


「お父様が?」


「はい。辺境伯ヴィクトル・グランベル様より、書状が届いております」


 クラリスは、手を止めた。


「辺境伯様から」


「領地の水路と、冬期支援物資の件で、どうやらご相談があるようで」


 水路。

 冬期支援物資。


 王宮の帳簿を閉じたばかりだというのに、次の帳簿はもう机の端に置かれているらしい。


 クラリスは、白い教室の記録を帳面に挟んだ。


 まだ存在しないはずの世界の紙。


 その上に、現実の書状が重なる。


 世界は違っても、未精算の余白は似た顔をしている。


 クラリスは立ち上がった。


「セバス」


「はい」


「朝食の後、辺境伯様の書状を確認します」


「承知いたしました」


「それから」


 クラリスは少し考えた。


「この夢の記録は、王宮関連の控えとは別に保管してください」


「分類名はいかがいたしましょう」


 分類名。


 クラリスは、窓の外を見た。


 朝の光が、机の白紙に落ちている。


 白い教室の光と、少しだけ似ていた。


「未確認世界記録」


「かしこまりました」


 セバスは、一切笑わずに頷いた。


 それがセバスの良いところだった。


 クラリスは、もう一度だけ紙を見る。


 日下部真央。

 二千円。

 レシート。


 まだ会ったことのない少女。

 まだ行ったことのない場所。

 まだ拾っていない領収書。


 王宮の帳簿は閉じた。


 だが、帳簿を閉じたからといって、世界の精算が終わるわけではない。


 どこか遠くの白い教室で、誰かが今も、小さな金額を飲み込まされている。


 クラリスは、羽根ペンを置いた。


 そして、静かに呟いた。


「二千円は、細かくありません」


 その言葉は、朝の部屋にすっと落ちた。


 まだ誰にも届いていない。


 けれど、記録は残った。


 残った記録は、いつか道になる。

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