表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第二章 悪女令嬢は、領地を再建する
PR
17/35

第二章 悪女令嬢は、領地を再建する 第14話 辺境伯様、帳簿は読めますか

 王宮を出た翌朝、クラリスは久しぶりに公爵家の朝食を食べた。


 焼きたてのパン。

 濃い紅茶。

 季節の果物。

 よく磨かれた銀器。


 何もかも整っている。


 けれど、王宮の朝食とは違った。


 誰かの顔色を読む必要がない。

 王太子の予定変更に備える必要もない。

 王妃の沈黙を解釈する必要もない。


 パンは、ただパンだった。


 クラリスは、バターを薄く塗りながら思った。


 ただのパンを、ただのパンとして食べられる朝は、意外と貴重である。


「よく眠れたか」


 向かいの席で、アルベルティーナ公爵が言った。


「はい」


「目の下に疲れがある」


「夢を記録しておりましたので」


「夢?」


「未確認世界記録です」


 公爵は、一瞬だけ黙った。


 普通の父なら、そこで娘の疲労を心配するか、神官を呼ぶかもしれない。


 だが、アルベルティーナ公爵は娘をよく知っている。


「分類を分けたのか」


「はい」


「ならよい」


 それだけだった。


 セバスが、後方で静かに頷いている。


 公爵家では、夢であっても分類が済んでいれば、ひとまず問題はないらしい。


 朝食が終わる頃、セバスが銀盆に一通の封書を載せて運んできた。


 深緑の封蝋。

 狼の紋章。

 簡素だが、力のある筆跡。


「グランベル辺境伯家より、正式な書状でございます」


 クラリスは封蝋を見る。


「ヴィクトル・グランベル辺境伯」


「現当主だ」


 公爵が言った。


「北東の辺境を預かっている。山脈と森と古い水路の土地だ」


「王宮では、あまりお名前を聞きませんでした」


「王宮に来る暇がない男だからな」


 公爵は紅茶を置いた。


「領地を見ている」


 その一言で、クラリスは少しだけ興味を持った。


 王宮には、領地を語る貴族が多かった。


 領民を愛している。

 伝統を守っている。

 自然と共に生きている。


 言葉は立派だった。


 しかし、そういう貴族に限って、収穫量の推移も、水路の修繕履歴も、冬越しの備蓄量も知らないことがある。


 領地を語る者と、領地を見ている者は違う。


 クラリスは封書を開いた。


 中の紙は、王宮のものより厚く、少し粗い。


 香水の匂いはない。


 代わりに、乾いた土と革のような匂いがした。


 そこには、短い文章が書かれていた。


 アルベルティーナ公爵令嬢クラリス殿。


 王宮における一連の精算、耳にしている。


 貴殿の手腕を見込んで、依頼したい。


 我がグランベル領にて、ここ三年、水路修繕費が増えているにもかかわらず、下流域の水量が減っている。


 役人は天候のせいと言い、業者は老朽化と言う。


 だが、現場の水は流れていない。


 帳簿を読める者が必要だ。


 可能であれば、来訪願う。


 ヴィクトル・グランベル。


 クラリスは、二度読んだ。


 飾りの少ない文章だった。


 謝辞も長い前置きもない。

 美辞麗句もない。

 必要なことだけが書かれている。


 悪くない。


「水路修繕費が増えて、水量が減っている」


 クラリスは呟いた。


「はい」


 セバスが別紙を差し出す。


「添付資料がございます」


 そこには、グランベル領の簡易収支表が写されていた。


 水路修繕費。

 一年目、金貨八十二枚。

 二年目、金貨百四十六枚。

 三年目、金貨二百十一枚。


 増えている。


 かなり増えている。


 にもかかわらず、下流三村の収穫量は減っていた。


 麦。

 豆。

 根菜。


 数字が、少しずつ痩せている。


「天候不順の記録は?」


「添付されておりません」


 セバスが答えた。


「降水量記録は?」


「ございません」


「工事完了報告は」


「ございます」


 セバスは次の紙を出した。


 完了報告書。


 文字は整っている。


 工事区間。

 施工業者。

 使用石材。

 人足数。

 完了日。


 整いすぎている。


 クラリスは、その紙を眺めた。


「綺麗な報告書ですね」


「お嬢様がそうおっしゃる場合、あまり褒めておられませんな」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「綺麗すぎる報告書は、現場の泥を避けていることがあります」


 公爵が、わずかに口元を動かした。


「行くか」


「はい」


「早いな」


「帳簿上、水が流れておりませんので」


「帳簿上?」


「はい」


 クラリスは資料を閉じた。


「現場で水が流れていないなら、帳簿にもどこか詰まりがあります」


 公爵はしばらく娘を見ていた。


 それから、重い声で言った。


「王宮を出たばかりだ」


「はい」


「休んでもいい」


 クラリスは、少しだけ黙った。


 父の言葉は、命令ではない。


 確認だった。


 王宮では、休むという選択肢はいつも書類の欄外にあった。


 必要とされるなら働く。

 気づいたなら整える。

 壊れているなら直す。


 そうしているうちに、休むことは贅沢になった。


 だが、今は違う。


 誰かに強制されているわけではない。


 クラリスは、自分で選べる。


「休むことはできます」


「なら」


「ですが、見たいのです」


 公爵の目が、少しだけ細くなる。


「何を」


「王宮の外で、帳簿がどのように人を苦しめ、あるいは助けるのかを」


 クラリスは、ゆっくり言った。


「王宮では、精算しました。けれど、精算だけでは人は暮らせません」


 パン。

 水。

 薪。

 毛布。

 そして、畑に流れる水。


 人の暮らしは、王宮の議事録よりずっと具体的だ。


 具体的なものほど、失われた時に痛い。


「グランベル領へ参ります」


 クラリスは言った。


「ただし、王宮のように無償では動きません」


 公爵の眉が、わずかに上がった。


「報酬を取るのか」


「はい」


「よい」


 公爵は深く頷いた。


「たいへんよい」


 セバスも後ろで、なぜか目元を押さえている。


「お嬢様が、労働に対価を求めておられます」


「セバス」


「失礼いたしました。感動でございます」


 クラリスは咳払いをした。


「正式な調査依頼書、報酬、権限、閲覧可能資料の範囲、現場立ち入り許可、護衛体制を確認します」


「当然だ」


 公爵は言った。


「こちらから条件を出そう」


「はい」


「それと」


 公爵は、少しだけ声を低くした。


「辺境は王宮と違う。紙だけで片づかぬものもある」


「承知しております」


「魔物も出る」


「はい」


「杖は持っていけ」


 クラリスの手が、ほんの少し止まった。


 セバスが静かに言う。


「黒檀の儀礼杖を、お磨きしておきます」


「演舞用ではなく、実戦用を」


 公爵が言った。


「お父様」


「お前は公爵家の娘だ。王宮では紙で戦った。辺境では、紙の外から来るものもある」


 クラリスは、少しだけ息を吐いた。


「承知しました」


 貴族令嬢の杖術は、表向きには儀礼である。


 神前で魔法杖を振るう。

 王前で祝福の舞を奉じる。

 長い杖を薙刀のように扱い、円を描き、間合いを整える。


 美しい所作。


 そう説明される。


 だが、アルベルティーナ公爵家の杖術は違う。


 美しいだけのものを、わざわざ代々残したりはしない。


 礼法と武術は、根が同じだ。


 相手との距離を誤らないこと。


 踏み込みすぎず。

 引きすぎず。

 必要な時に、場を制すること。


 クラリスは幼い頃から、それを叩き込まれていた。


 王太子妃になる者は、剣を抜かずとも場を制せねばならない。


 そう言われて。


 結局、王太子妃にはならなかった。


 だが、場を制する技だけは残った。


「ヴィクトル辺境伯には、返書を」


 クラリスが言うと、セバスはすでに紙を用意していた。


「条件書式もご一緒に?」


「ええ」


 クラリスは羽根ペンを取る。


 その時、扉の外から足音が聞こえた。


 重い足音だった。


 王宮の文官の足音ではない。


 踵に土を知っている者の歩き方。


 家令が扉を開ける。


「失礼いたします。グランベル辺境伯様が、お見えでございます」


 公爵が、驚いた顔をしなかった。


 クラリスは、父を見た。


「ご存じでしたか」


「来るだろうと思っていた」


「手紙を出した翌朝に?」


「あの男は、そういう男だ」


 扉の向こうに、長身の男が立っていた。


 濃い灰色の外套。

 肩幅の広い体。

 日焼けした肌。

 飾り気のない剣帯。


 華やかさはない。


 だが、部屋に入った瞬間、空気の重心が少し下がった。


 この人は、地面を踏んでいる。


 クラリスは、そう思った。


「ヴィクトル・グランベルです」


 男は短く名乗った。


 礼は正確だったが、王宮風の余韻はない。


 必要な角度で頭を下げ、必要な分だけ待ち、すぐに顔を上げる。


 クラリスは立ち上がった。


「クラリス・フォン・アルベルティーナです」


「王宮の件、聞いている」


「どのように?」


「帳簿で王宮を黙らせた、と」


 セバスが少しだけ目を細めた。


 公爵が何も言わないので、咎めるほどではないらしい。


 ヴィクトルは続けた。


「正確ではないと思っている」


「では、どのように?」


「黙らせたのではなく、読ませたのだろう」


 クラリスは、少しだけ瞬きをした。


 悪くない。


 この男は、言葉を飾らないが、見えている。


「水路の帳簿を拝見しました」


 クラリスは言った。


「読めるか」


「読めます」


「俺は読めん」


 ヴィクトルは、あっさり言った。


 部屋の空気が少し動く。


 貴族が、自分の苦手をここまでまっすぐ言うのは珍しい。


「帳簿の数字は追える。だが、数字の嘘を見抜けん」


「現場は?」


「見る」


「水は」


「流れていない」


 ヴィクトルの答えは短い。


 しかし、そこには確かさがあった。


「役人は天候と言った。業者は老朽化と言った。村人は、去年より水が冷たくなったと言った」


「水が冷たく?」


「山側の水門が、予定より開いていない可能性がある」


 クラリスは、表情を変えずに資料へ目を落とした。


 水門。


 帳簿には、三か所の水門補修とある。


 完了済み。


 費用支払い済み。


 検査済み。


 だが、現場では水が流れていない。


「辺境伯様」


「何だ」


「帳簿は読めませんとおっしゃいましたね」


「ああ」


「では、なぜ私に依頼を?」


 ヴィクトルは、まっすぐクラリスを見た。


「水が流れていないことは、俺にも分かる」


 その目は、灰色に近い青だった。


 冷たいのではない。


 冬の川の色に似ていた。


「だが、誰が水を止めているのかは、帳簿を読める者でなければ分からん」


 クラリスは、静かに頷いた。


「承知しました」


「来てくれるか」


「条件があります」


「言え」


「調査対象となる帳簿、工事記録、業者契約書、村別収穫記録、水門管理記録をすべて開示してください」


「分かった」


「現場立ち入り権限をください」


「与える」


「村人への直接聞き取りを許可してください」


「当然だ」


「調査報酬をいただきます」


「当然だ」


 即答だった。


 クラリスは、少しだけヴィクトルを見る。


「金額を確認せずに当然と?」


「仕事に対価を払わない領地は、いずれ人がいなくなる」


 クラリスは、はじめて少しだけ沈黙した。


 その言葉は、王宮で聞きたかった。


 十年のうち、一度くらいは。


「よろしいかと」


 公爵が低く言った。


「クラリス」


「はい」


「行ってこい」


「はい」


 ヴィクトルは、クラリスへ一枚の地図を差し出した。


 グランベル領の水路図だった。


 山から川が流れ、三つの水門を通り、下流の村へ分かれている。


 紙の上の水は、綺麗に流れている。


 だが、現実では流れていない。


 クラリスは地図を受け取った。


「辺境伯様」


「何だ」


「まず、水路を見ます」


 ヴィクトルは、少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


「歓迎の宴は」


「不要です」


「そう言うと思った」


 セバスが後ろで、黒檀の杖の手入れ予定をすでに書き始めていた。


 公爵家の朝は、いつの間にか次の案件に包まれている。


 王宮の帳簿は閉じた。


 白い教室の夢は、未確認世界記録として保管した。


 そして今、机の上には辺境の水路図がある。


 世界は、クラリスを休ませる気があまりないらしい。


 だが、今回は違う。


 誰かに押しつけられた役目ではない。


 彼女自身が選んだ調査だ。


 クラリスは、水路図の端を指で押さえた。


 水は嘘をつかない。


 流れない場所には、必ず詰まりがある。


 それが泥なのか、石なのか。


 それとも、人の欲なのか。


 見に行けば分かる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ