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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第二章 悪女令嬢は、領地を再建する
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第15話 悪女ですので、まず水路を見ます

 グランベル領へ向かう道は、王都の道より少しだけ無口だった。


 石畳は途中で途切れ、馬車の車輪は土を噛む。

 遠くには青灰色の山脈。

 道の両側には、まだ背の低い麦畑が広がっている。


 王宮の廊下には、花の匂いがあった。


 グランベル領の道には、土と乾いた草の匂いがあった。


 クラリスは馬車の窓から外を見ていた。


 紙の上では分からない色がある。


 畑の葉先の乾き。

 村人の肩の落ち方。

 水車小屋の回りの遅さ。


 それらは帳簿には書かれない。


 けれど、書かれていないものほど、原因がある。


 向かいの席には、ヴィクトル・グランベル辺境伯が座っていた。


 無口な男だった。


 王宮の貴族のように、沈黙で相手を試すのではない。

 本当に、必要な時以外は喋らない。


 隣にはセバス。


 足元には、黒い革筒に収められた黒檀の杖がある。


 クラリスはそれを見ないようにしていた。


 見ないようにしても、そこにあることは分かっている。


「この先が領都だ」


 ヴィクトルが言った。


 窓の向こうに、石壁に囲まれた町が見えてきた。


 王都ほど華やかではない。

 だが、堅い。


 門は古いが手入れされている。

 見張り台には兵がいる。

 城館は丘の上に建っていた。


 歓迎の旗が立っている。


 クラリスは、それを見て眉をひそめた。


「辺境伯様」


「何だ」


「歓迎の宴は不要とお伝えしました」


「宴ではない」


「では、あれは?」


「領主館の者が、勝手に歓迎の布を出した」


「止めなかったのですか」


「出した後だった」


 クラリスは少しだけ考えた。


「では、布はそのままで構いません。片づける手間も費用です」


 ヴィクトルが、わずかに口元を動かした。


「着いたら休むか」


「水路へ」


「すぐにか」


「はい」


「旅の疲れは」


「水路は、私の疲れを待ちません」


 ヴィクトルは、短く頷いた。


「分かった」


 領主館の前には、家令、文官、警備隊長、村の代表者らしき者たちが並んでいた。


 彼らは一斉に頭を下げる。


 歓迎の言葉。

 長い挨拶。

 領地の歴史。

 グランベル家の忠誠。

 公爵令嬢を迎える栄誉。


 そういうものが、今にも始まりそうだった。


 クラリスは馬車を降りると、最初に言った。


「水路図を」


 空気が止まった。


 家令がまばたきをする。


「は?」


「水路図です。最新版をお願いします」


「あ、あの、まずは応接間へ」


「不要です」


「お茶のご用意も」


「水路を見た後でいただきます」


 家令は、助けを求めるようにヴィクトルを見た。


 ヴィクトルは言った。


「水路図を」


「は、はい」


 家令は慌てて人を走らせた。


 セバスが後ろで静かに頷いている。


「お嬢様、たいへん良いご挨拶でございました」


「挨拶をしたつもりはありません」


「だからこそでございます」


 しばらくして、丸められた水路図が運ばれてきた。


 クラリスはそれを広げる。


 山側の貯水池。

 第一水門。

 第二水門。

 第三水門。

 そこから下流三村へ分かれる水路。


 帳簿上の修繕箇所には、赤い印がつけられている。


 第一水門、補修済み。

 第二水門、補修済み。

 第三水門、補修済み。


 補修済み。


 便利な言葉である。


「最初にどこを見る」


 ヴィクトルが尋ねた。


「第三水門です」


「上流ではなく?」


「下流で困っているなら、まず困っている場所に近いところから見ます」


 クラリスは地図を指で押さえた。


「帳簿は上から読みますが、生活は下から見ます」


 ヴィクトルは、少しだけ目を細めた。


「分かった」


 一行はすぐに馬車を乗り換えた。


 領主館の立派な馬車ではなく、泥道用の簡素な荷馬車だった。


 家令が青ざめた。


「公爵令嬢様を荷馬車に?」


 クラリスは裾を軽く持ち上げて乗り込んだ。


「水路へ行くのに、絹張りの馬車は不向きです」


「しかし」


「それとも、絹張りの馬車で水量が増えますか」


 家令は黙った。


 セバスは当然のように荷馬車へ乗る。


 黒檀の杖も一緒に積まれた。


 第三水門は、領都から半刻ほど離れた場所にあった。


 道が細くなり、畑が増える。

 水路沿いには、枯れた草が倒れていた。


 水は流れている。


 だが、細い。


 音が弱い。


 クラリスは荷馬車を降り、すぐに水路の縁へ歩いた。


 泥が靴に跳ねる。


 家令が息をのんだ。


 クラリスは気にしなかった。


 王宮の床なら、誰かが磨く。

 しかし、水路の泥は、誰かの畑につながっている。


 嫌がる理由が違う。


「水量を測った記録はありますか」


 クラリスが尋ねる。


 同行していた領地の水路係が、慌てて答えた。


「月に一度、目視で」


「目視」


 クラリスは繰り返した。


「数字ではなく?」


「例年と比べて、多い、少ない、普通、という形で」


「つまり、数字ではなく感想ですね」


 水路係の顔が赤くなる。


 ヴィクトルが低く言った。


「今後、改める」


「はい」


 クラリスは水門へ近づいた。


 第三水門は、一見すると新しかった。


 板は替えられている。

 金具も光っている。

 外から見える部分は、確かに補修済みだ。


 だが、クラリスはすぐに手を止めた。


「辺境伯様」


「何だ」


「この水門、表だけですね」


 水路係が慌てる。


「い、いえ、きちんと工事は」


「見える部分は、きちんとしています」


 クラリスは水門の横へ回り込む。


「ですが、軸の周囲に古い泥が残っています。金具の交換時に一度外したなら、この泥の付き方にはなりません」


 セバスが、すっと小さな布を差し出す。


 クラリスは手袋越しに泥をこすり、匂いを確かめた。


「乾き方が古い」


 ヴィクトルが、水門係を見る。


「説明を」


 水路係は口を開けたが、すぐには言葉が出なかった。


「業者の完了報告では、軸受け交換、金具交換、板材交換、土砂除去となっています」


 クラリスは資料を取り出した。


「実際に交換されたのは、板材と表面金具のみ。軸受けは古いまま。土砂除去も、水門周辺のみでは?」


 水路係は、額に汗を浮かべた。


「わ、私は業者から完了したと」


「現場確認は」


「しました」


「水門を動かしましたか」


「外観を」


「動かしましたか」


 水路係は黙った。


 クラリスは、視線を水門へ戻した。


「辺境伯様」


「動かせ」


 ヴィクトルが短く命じる。


 兵士二人が水門の操作棒を回そうとした。


 ぎい、と鈍い音がする。


 少し動いたが、すぐに止まった。


 もう一度回す。


 今度は、軸のあたりで嫌な音がした。


 水路係が青ざめる。


 クラリスは静かに言った。


「これでは、十分に開きません」


「下流へ水が流れないわけだ」


 ヴィクトルの声は低い。


 怒鳴らない。


 だが、そこにいる者たちの背筋が伸びる声だった。


「工事費は満額支払い済みです」


 クラリスは書類を見ながら言う。


「作業完了確認印は、水路管理役のもの。検査立会いは、領主代官補佐官ミゲル・トーリ」


 水路係が、さらに顔を青くした。


 ミゲル・トーリ。


 その名を聞いた瞬間、周囲の空気がほんの少し揺れた。


 クラリスは、それを見逃さなかった。


「ミゲル様は?」


「領都にいる」


 ヴィクトルが答えた。


「呼べますか」


「呼ぶ」


「まだ結構です」


 ヴィクトルがクラリスを見る。


「なぜ」


「先に水を見ます」


 クラリスは水路図を開いた。


「第三水門だけ見て呼ぶと、第三水門だけの言い訳が出ます。第一、第二も確認し、どこまで同じ処理がされているか見ます」


 セバスが感心したように言う。


「一か所で怒らず、三か所で包囲する。お嬢様らしゅうございます」


「怒っていません」


「はい。調査でございます」


 水路係は、もうほとんど震えていた。


 クラリスは彼を見た。


「あなたを今ここで責めるつもりはありません」


 水路係が顔を上げる。


「ただし、見たことと聞いたことを分けて話してください。業者から聞いたこと、あなたが実際に確認したこと、ミゲル様から指示されたこと」


「……はい」


「混ぜると、あなた自身の責任が増えます」


「はい」


 その言葉に、水路係は深く頭を下げた。


 次に向かった第二水門は、さらに分かりやすかった。


 石積みは新しい。

 だが、新しいのは水路の外側だけ。


 内側には古い崩れが残り、水が細い脇溝へ逃げている。


 その脇溝は、水路図にはなかった。


「これは?」


 クラリスが指差す。


 水路係は、唇を震わせた。


「古い排水路です」


「地図にはありません」


「正式な水路ではなく……以前からあるもので」


「どこへ流れますか」


 水路係は、答えなかった。


 代わりに、近くにいた年配の村人がぼそりと言った。


「北斜面の薬草畑です」


 ヴィクトルの目が鋭くなる。


「誰の畑だ」


 村人は、帽子を握った。


「トーリ代官補佐の親戚筋が、最近始めた畑で」


 水路係が目を閉じる。


 クラリスは、水路図の余白に書いた。


 未記載脇水路。

 第二水門付近。

 北斜面薬草畑へ流入。

 関係者、トーリ代官補佐親族。


「水は、嘘をつきませんね」


 クラリスは言った。


「流した先を、知っています」


 ヴィクトルは、しばらく脇水路を見ていた。


 その横顔には、静かな怒りがあった。


 領主の怒りだ。


 王宮の怒りとは違う。


 美名を傷つけられた怒りではない。

 畑の水を奪われた怒りだった。


「村の者へ聞く」


 ヴィクトルが言う。


「今すぐか」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「ただし、全員の前で聞かないでください」


「なぜ」


「水を取られていた相手が、村の中にもいる可能性があります。皆の前では、本当のことを言えない者が出ます」


「では」


「三人ずつ。村長、下流農家、井戸番。別々に」


 ヴィクトルはすぐに兵へ指示を出した。


 その速さが、クラリスには心地よかった。


 王宮では、正しい判断が出るまでに、誰かの顔色と古い慣習と余計な飾り言葉をいくつも通る。


 ここでは、必要なことが必要な速度で動く。


 もちろん、それだけ荒さもある。


 だが、荒さは整えればよい。


 動かない美しさより、動く荒さのほうが救えるものもある。


 聞き取りは、水路脇の納屋で行われた。


 最初に来たのは、下流の農家の男だった。


 手は荒れ、爪の間に土が入っている。


「去年から、水が半分くらいになりました」


 男は言った。


「雨が少ねえ年もある。でも、今年の減り方はおかしい。上のほうは青いのに、うちの畑は割れてる」


「誰かに訴えましたか」


「村長へ。村長は代官補佐へ。代官補佐は『水門修繕中だから待て』と」


「修繕後は」


「変わらねえ」


「その後は」


 男は苦い顔をした。


「何度も言うと、今年の種貸しを減らされると言われました」


 クラリスの羽根ペンが止まる。


「誰に」


「代官補佐の下役です」


 ヴィクトルの拳が、机の上で静かに握られた。


「名は」


 男は迷った。


 クラリスは言った。


「ここで話した内容は、あなた個人への報復が起きないよう、領主権限で保護対象として記録します」


 男は、クラリスを見る。


「本当に?」


「はい」


「王都の人は、そういうこと言って帰っちまう」


「私は王都の人ではありません」


 クラリスは淡々と言った。


「悪女ですので、言ったことは証拠に残します」


 男は、少しだけ笑った。


 笑ったというより、息が漏れた。


 そして、名前を言った。


 クラリスは書いた。


 下役の名。

 種貸し。

 水門苦情との関連。


 紙の上で、点が少しずつ線になっていく。


 聞き取りが終わる頃には、日が傾き始めていた。


 第一水門は、まだ確認できていない。


 だが、第二と第三だけで十分に見えてきた。


 水路修繕費は増えている。

 しかし水は下流へ行かない。

 表面だけ修繕され、内側は放置。

 水は未記載の脇水路へ流れ、代官補佐関係者の薬草畑へ向かっている。


 王宮と同じだ。


 名前が違うだけ。


 王室接遇費が水路修繕費になった。

 余剰品が古い排水路になった。

 知らなかったが、修繕中だから待て、になった。


 人が損を飲み込まされる構造は、場所を選ばない。


「クラリス」


 ヴィクトルが言った。


「何だ」


「辺境伯様。私はまだ、あなたに呼び捨てを許可しておりません」


 ヴィクトルは少し止まった。


「……クラリス嬢」


「はい」


「これは、不正か」


「疑う理由は十分にあります」


「断定は」


「第一水門、工事契約書、支払先、薬草畑の所有関係、水量記録を確認してからです」


「時間がかかるな」


「はい」


「だが、止める必要はある」


「水は待ちませんので」


 クラリスは、水路を見た。


 細く流れる水。


 本来なら、もっと太く、もっと勢いよく畑へ向かうはずの水。


 王宮では、数字の重さを見てきた。


 ここでは、水の細さを見る。


 どちらも、人の生活を削る。


「応急措置として、脇水路を一時的に閉じ、第二水門の開度を確認してください」


 クラリスが言うと、水路係が顔を上げた。


「しかし、代官補佐の許可が」


 ヴィクトルが低く言った。


「領主の許可で足りないか」


 水路係は、慌てて頭を下げた。


「足ります!」


 兵と村人が動き出す。


 石を積み、板を差し、脇水路の流れを弱める。


 しばらくすると、細かった本流に少しだけ水が戻った。


 音が変わった。


 ちょろちょろという頼りない音から、流れる音へ。


 下流の農家の男が、何も言わずにその水を見ていた。


 目だけが赤くなっている。


 クラリスは、その顔を見ないふりをした。


 泣く場所は、人によって違う。


 見るべきではない涙もある。


「悪女様」


 ふいに、近くにいた小さな子どもが言った。


 村人が慌ててその子の口を押さえようとする。


 クラリスは止めた。


「構いません」


 子どもは、泥のついた頬でクラリスを見上げた。


「水、戻る?」


「全部ではありません」


 クラリスは答えた。


「ですが、戻すために調べます」


「悪女様が?」


「はい」


「悪女様って、水も戻すの?」


 セバスが後ろで、肩を震わせた。


 クラリスは真面目に答えた。


「水は私のものではありません。戻すべき場所へ戻すだけです」


 子どもは、よく分からない顔をした。


 それでも、少し笑った。


「じゃあ、お願い」


「受領しました」


 クラリスは頷いた。


 その時だった。


 水路の向こう、森の入口のほうから、小さな鳴き声が聞こえた。


 細く、弱い。


 子犬のような声。


 続いて、低い唸り声。


 空気が変わる。


 ヴィクトルがすぐに顔を向けた。


「森狼か」


 兵士が剣に手をかける。


 セバスは、何も言わずに黒檀の杖の革筒を開けた。


 クラリスは、森の影を見た。


 水は、少しだけ戻った。


 だが、現場には紙の外から来るものもある。


 父の言葉を思い出す。


 辺境では、紙だけで片づかぬものもある。


 森の奥で、また小さな声がした。


 今度は、明らかに助けを求めている。


 クラリスは黒檀の杖を受け取った。


 手に馴染む重さ。


 懐かしい。


 そして、少しだけ厄介だ。


「辺境伯様」


「何だ」


「水路の続きは、少し後に」


 ヴィクトルは、クラリスの手元を見た。


「使えるのか」


 クラリスは森へ視線を向けた。


「杖は、飾りではありません」


 そう言って、彼女は一歩、森の影へ踏み出した。


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