第16話 その杖は、飾りではありません
杖には、二種類ある。
人を支える杖。
人に見せる杖。
王宮の儀礼で使われる魔法杖は、後者に近い。
金銀の装飾。
宝石の輝き。
神前で描く美しい円。
貴族令嬢が杖を持つ時、求められるのは優雅さだった。
足運びは静かに。
袖は乱さず。
視線は伏せすぎず、上げすぎず。
杖先は天へ、心は王家へ。
そう教えられる。
だが、アルベルティーナ公爵家の杖術は少し違った。
杖は、場を整えるためにある。
距離を測り、踏み込みを止め、相手の勢いを逃がし、必要ならば足元を払う。
礼法と杖術は同じ根を持つ。
相手との距離を誤らないこと。
近づきすぎてもいけない。
遠ざかりすぎてもいけない。
入るべき時に入り、退くべき時に退く。
それができない者は、舞踏会でも戦場でも足を踏む。
森の奥から、また小さな鳴き声が聞こえた。
細く、かすれた声。
子犬のようだった。
だが、その後に続いた唸り声は子犬のものではない。
低く、湿っていて、喉の奥に獣の熱を持っている。
「森狼か」
ヴィクトルが言った。
兵士たちが剣を抜く。
村人たちは水路のそばでざわめいた。
クラリスは、黒檀の杖を手にして森の入口へ向かった。
「お嬢様」
セバスが静かに言う。
「何かしら」
「お召し物の裾が、少々戦闘向きではございません」
「知っています」
「では」
「邪魔ならば、持ち上げます」
「たいへん合理的でございます」
セバスは、それ以上止めなかった。
ヴィクトルがクラリスの横へ並ぶ。
「兵を先に行かせる」
「子犬らしき声が近いです。剣を持った兵が複数で踏み込めば、獣が先に噛みます」
「分かるのか」
「分かるほどではありません」
クラリスは、森の影を見た。
「ただ、怯えたものは、音の大きい方へ逃げません」
ヴィクトルは一瞬だけ黙り、兵たちへ手で合図した。
前に出るな。
待て。
その指示は速かった。
クラリスは、杖を右手に持ち替えた。
黒檀の杖は、儀礼杖としては飾りが少ない。
先端に紫水晶が一つ。
金の飾りは細く、握りの部分は革で巻かれている。
王宮の者が見れば、少し地味だと言うかもしれない。
だが、振るにはちょうどいい。
重心が手元に近い。
打つためではない。
止めるための杖だ。
森へ一歩入ると、空気が冷えた。
水路沿いの草の匂いが遠ざかり、湿った土と古い葉の匂いが強くなる。
小さな鳴き声は、倒れた木の向こうから聞こえた。
クラリスは杖先で草を分ける。
そこにいたのは、黒い子犬だった。
泥だらけ。
痩せている。
耳だけが妙に大きい。
前足を一つ庇うようにして、倒木の根元へ身を縮めている。
その前に、灰色の獣がいた。
狼に似ている。
だが、普通の狼より肩が高い。
背中の毛が逆立ち、口元には黒い泡のような唾がついていた。
森狼。
おそらく、魔物化しかけている。
「下がれ」
ヴィクトルが低く言った。
その声はクラリスへではなく、兵へ向けたものだった。
狼は耳を動かした。
人の声に反応する。
そして、クラリスを見た。
紫の目と、濁った黄色の目が合う。
クラリスは、息を整えた。
杖を斜めに構える。
美しい演舞の始まりではない。
ただの間合いの確認だった。
狼が跳んだ。
速い。
兵士が息をのむ。
ヴィクトルが動こうとする。
だが、クラリスはすでに半歩ずれていた。
正面では受けない。
正面で受ければ、力の強い方が勝つ。
力で勝てないなら、力を正面から受けなければよい。
杖の中ほどで狼の顎先を払う。
打つというより、線をずらす。
狼の噛みつきが外れ、前足が地面を滑った。
クラリスは左足を引き、杖先を低く返す。
狼の前脚の内側を払った。
獣の体勢が崩れる。
大きな体が地面へ落ち、泥が跳ねた。
村人の誰かが、小さく声を上げた。
クラリスは追わなかった。
殺すためではない。
離すためだ。
「お見事」
セバスが後ろで呟いた。
「まだです」
クラリスは短く答えた。
狼はすぐに起き上がった。
牙を剥く。
怒っている。
だが、怒っている獣ほど動きは読みやすい。
問題は、その背後の子犬だった。
子犬は動けない。
逃げ道がない。
狼がもう一度跳べば、クラリスを避けて子犬へ行く可能性がある。
「辺境伯様」
「何だ」
「子犬を」
ヴィクトルは、ほんのわずかに驚いた顔をした。
だが、すぐに動いた。
低く身をかがめ、倒木の横へ回る。
狼がそれに反応した。
クラリスは、杖を地面へ軽く打った。
乾いた音が森に響く。
狼の視線が戻る。
「こちらです」
クラリスは言った。
「貴方の相手は、私です」
狼に言葉が通じるわけではない。
けれど、視線と間合いは通じる。
近づけば噛まれる距離。
退けば子犬に向かう距離。
ちょうどその境目に、クラリスは立った。
狼が唸る。
クラリスは杖を回した。
王宮の儀礼で見せるような大きな円ではない。
小さく、速く、手首で回す。
紫水晶が一瞬だけ光を拾う。
狼が警戒した。
獣は、見慣れない動きを嫌う。
その一瞬で、ヴィクトルが子犬へ手を伸ばした。
子犬が怯えて歯を剥く。
「噛まれます」
クラリスが言った。
「構わん」
ヴィクトルは短く答えた。
子犬は、彼の手に噛みつかなかった。
代わりに、小さく鼻を鳴らした。
ヴィクトルは外套で子犬を包み、素早く後ろへ下がる。
狼が吠えた。
クラリスへ跳ぶ。
今度は低い。
喉元ではなく、足を狙っている。
クラリスは一歩踏み込んだ。
逃げない。
逃げると、獣の勢いが伸びる。
踏み込んで、伸びる前の力を止める。
杖の柄を狼の肩口へ当て、体を回す。
力を受け流しながら、地面へ落とす。
狼の体が横へ崩れた。
クラリスは杖先を狼の喉元から少し外した位置へ置く。
急所ではない。
だが、次に動けば痛む場所。
「命を奪うほどの案件ではありません」
クラリスは言った。
狼は荒く息をした。
黄色い目が、少しずつ揺れる。
その口元の黒い泡が、土へ落ちた。
ヴィクトルが低く言う。
「瘴気か」
「おそらく」
クラリスは杖を動かさない。
「完全な魔物ではありません。森狼が瘴気に触れ、狂った状態でしょう」
「殺さないのか」
「この場で殺せば、原因が分かりません」
ヴィクトルの目が細くなる。
「原因?」
「森狼が水路近くまで来る理由です。水が変わった。餌場が荒れた。あるいは、森に何かが流れ込んだ」
クラリスは、地面の黒い泡を見た。
「水路の不正と無関係とは限りません」
ヴィクトルは、しばらくクラリスを見ていた。
それから、兵に命じた。
「網を。殺すな。魔獣医を呼べ」
「はっ」
兵たちが動く。
狼は抵抗したが、クラリスが杖で間合いを制しているため、跳びかかることはできなかった。
やがて網がかけられ、森狼は押さえ込まれた。
村人たちは遠巻きに見ている。
水路係は、口を開けたまま固まっていた。
クラリスは、ようやく杖を下ろした。
手袋に泥がついている。
裾にも泥が跳ねている。
王宮なら、侍女が青ざめるだろう。
ここでは、村の子どもが目を輝かせていた。
「悪女様、強い」
さっきの子どもだった。
クラリスは少し考えた。
「強いというより、間合いです」
「ま、あい?」
「近すぎても、遠すぎても危険ということです」
子どもは、よく分からないまま頷いた。
「悪女様、杖で狼倒した」
「倒してはいません。止めただけです」
「でも倒れた」
「結果としては」
セバスが、後ろで穏やかに微笑んでいた。
「お嬢様、子どもに事実関係を正確に訂正なさる必要は」
「あります」
「左様でございますか」
ヴィクトルが、外套に包んだ子犬を抱えて戻ってきた。
子犬は小さく震えていた。
黒い毛は泥で固まり、前足に傷がある。
だが、目だけが不思議に澄んでいた。
黒曜石のような目。
ただ黒いだけではない。
奥に、光が沈んでいる。
「足を怪我している」
ヴィクトルが言った。
「見せてください」
クラリスは杖をセバスに預け、膝をついた。
子犬は怯えたように身を縮めた。
それでも、クラリスの手から逃げなかった。
彼女は手袋を外し、子犬の前足に触れる。
熱がある。
噛み傷ではない。
何か鋭い石で切ったような傷だ。
「消毒と包帯が必要です」
「領主館へ運ぶ」
ヴィクトルが言う。
クラリスは頷いた。
その時、子犬が小さく鼻を鳴らし、クラリスの指先を舐めた。
ほんの一瞬。
だが、その舌は驚くほど温かかった。
クラリスは、少しだけ固まった。
王宮では、誰かに手を舐められることなどなかった。
当たり前である。
「懐かれたな」
ヴィクトルが言った。
「判断が早すぎます」
「少なくとも俺よりは」
クラリスは子犬を見る。
子犬は、黒曜石のような目でこちらを見ていた。
怯えもある。
警戒もある。
だが、その奥に何か別のものがある。
見られている。
ただの子犬にしては、視線が深い。
「犬ではないな」
ヴィクトルが低く言った。
村人たちがざわめく。
クラリスは子犬の耳の形、尾の長さ、毛並みを見た。
「狼の幼体でしょうか」
「狼でもない」
「では?」
ヴィクトルは少し黙った。
「分からん」
「分からないのに、犬ではないと?」
「辺境で長く生きると、犬ではないものは分かる」
あまり説明になっていない。
だが、現場の感覚としては無視しにくい言葉だった。
クラリスは子犬を見下ろした。
子犬は、くしゅん、と小さなくしゃみをした。
その瞬間、周囲の空気がふっと揺れた。
ほんのわずかに、森狼の口元に残っていた黒い泡が薄くなる。
クラリスは目を細めた。
「今」
「見たか」
ヴィクトルが言う。
「はい」
「瘴気が引いた」
セバスが静かに近づく。
「お嬢様。このお子様は、なかなか珍しい気配でございますな」
「子犬にお子様と?」
「この目で見られますと、犬扱いは少々失礼な気がいたします」
子犬は、セバスを見た。
セバスは丁寧に一礼した。
村人がさらにざわめいた。
老執事が子犬に礼をしている。
確かに、少し妙な光景だった。
「ひとまず、領主館で手当てします」
クラリスは言った。
「森狼は?」
「魔獣医へ。瘴気の原因と、森の異変を確認してください」
ヴィクトルが兵へ指示を出す。
クラリスは水路へ視線を戻した。
第二水門。
脇水路。
代官補佐の親族の薬草畑。
瘴気を帯びた森狼。
黒い子犬。
点が増えた。
まだ線にはならない。
けれど、無関係と決めるには早い。
「辺境伯様」
「何だ」
「薬草畑の周辺で、何を育てているか確認を」
「普通の薬草ではない可能性か」
「はい」
クラリスは、子犬の黒い毛を見た。
「水の流れを変えるほどの理由が、ただの利益だけとは限りません」
ヴィクトルは頷いた。
「調べる」
領主館へ戻る道、クラリスは荷馬車に座っていた。
膝の上には、外套に包まれた黒い子犬がいる。
なぜ自分の膝なのか。
クラリスにも分からない。
最初はヴィクトルが抱えていた。
だが、子犬は途中で小さく鳴き、なぜかクラリスの方へ身を乗り出した。
仕方なく受け取った。
受け取ったら、眠った。
極めて不合理である。
「お嬢様」
セバスが言った。
「何かしら」
「お名前は」
「まだ飼うと決めておりません」
「名前がないと、治療記録に困ります」
それは正しい。
治療記録。
クラリスは少し考えた。
黒い毛。
黒曜石のような目。
夜のような色。
「ヨル」
クラリスは言った。
「夜のように黒いので、ヨルで」
セバスは真顔で頷いた。
「神獣の幼体かもしれぬ存在にしては、たいへん簡潔なお名前でございます」
「呼びやすさは重要です」
「ごもっともでございます」
ヴィクトルが、前方から振り返った。
「今、神獣と言ったか」
セバスは微笑んだ。
「可能性でございます」
クラリスは、膝の上の子犬を見た。
ヨルは眠っている。
泥だらけで、傷ついていて、少し痩せている。
どこからどう見ても、今はただの小さな生き物だった。
神獣。
大げさな言葉だ。
だが、クラリスは否定しなかった。
分からないものを、分かったことにするのは危険である。
それは夢でも、帳簿でも、子犬でも同じだ。
領主館へ戻る頃、夕日は山の向こうに沈みかけていた。
水路の調査は始まったばかり。
代官補佐ミゲル・トーリへの確認も残っている。
薬草畑の調査も必要だ。
森狼の瘴気の原因も。
そして、膝の上で眠る黒い子犬の正体も。
王宮では、紙の上に隠された責任を追った。
辺境では、水と泥と獣の足跡を追うことになるらしい。
クラリスは、ヨルの頭をそっと撫でた。
毛は泥で固まっているのに、奥の方は驚くほど柔らかかった。
ヨルが眠ったまま、耳をぴくりと動かす。
クラリスは手を止めた。
なぜ撫でたのか。
自分でも少し分からない。
セバスが、何も言わずに微笑んでいる。
クラリスは、窓の外へ目を向けた。
「セバス」
「はい」
「治療記録の分類は」
「未確認生物保護記録、でいかがでしょう」
「長いわ」
「では、ヨル記録で」
「それで」
ヨルは、小さく鼻を鳴らした。
まるで、受領しました、とでも言うように。
その夜、グランベル領主館の一室に、三つの記録が新しく作られた。
水路不正調査記録。
森狼瘴気確認記録。
そして。
ヨル記録。
クラリスは羽根ペンを置き、膝の上で眠る黒い子犬を見た。
領地再建は、どうやら帳簿だけでは済まない。
だが、構わない。
杖は、飾りではない。
記録もまた、飾りではないのだから。




